中世演劇の諸相


 ここでは起源から1548年、パリ高等法院le parlement de Parisによる「聖史劇」の上演禁止令までを扱う。

前置き 

演劇史という分野の特殊性は、文献が残されていてもほとんど「演劇」そのものについては何もそれが伝えてくれないところにある。ましてや起源から中世という遠い過去については、残されている資料からして少ないわけだから、ほとんど何も分かっていないと言ったほうが正しいのかもしれない。

 さらに中世演劇史を語ることを難しくさせているのは、今日に至るまで演劇の最高傑作はすでに古代ギリシアにおいて悲劇として完成しているという見解があることだ。無条件に首肯できはしないが、たしかに鈴木忠志やハイナ・ミュラーにいたるまで、現代演劇の先端は執拗にギリシア悲劇の翻案を上演しつづけていると考えれば、この異常さには思わず驚かざるをえないであろう。

 またいっぽう、祭式をもって演劇の頂点としたマラルメ、ジュネ、あるいは多分に中世演劇の技法を駆使したブレヒト、さらにはムヌシュキンの演劇的営為にみられるように、中世演劇は現代演劇に通じているのであって、けっしておろそかにできない。

 演劇の起源はおそらく宗教的儀礼に求められるのだろうが、世界的な視野から考えると、実はすべての文化・文明が演劇という芸術を生んだわけではない。(イスラムは演劇を認めていない、とされるがイランにもペルシャにもすぐれた人形劇がある。)。たぶん、原始宗教がある種の舞踏ないし歌を生んだのだろうが、そこから「演劇」へは連続しない。すなわち、「演劇」とは「ミメーシスによって自分でない人間になって、それを誰かに見せる」ということなのであって、これは古代ギリシア演劇の形成過程にもこうした経緯が存在する。ともあれ古代ギリシアにアテネを中心とした都市国家が成立し、そこで行われたディオニソス祭で、都市をあげての悲劇上演が行われた。

 ところで、古代ギリシャから古代ローマへと流れた演劇伝統は、初期キリスト教の教父たちによって断ち切られた。(ローマによるキリスト教国教化 391年)キリスト教が演劇に弾圧を加えたのは、ローマ演劇が「異教」的要素に満ちていて、残虐な場面が多かったという、たんにそれだけの問題ではあるまい。俳優という「他人になりすます」職分が社会の原理としての自己同一性の原理と対立するものとして映ることもあったであろうし、あるいは芸能と売春との関連からも、広い意味での演劇が排斥されることになったのかもしれない。(日本芸能史を参照せよ)。「善」とともに「悪」も演じなければならないという俳優の宿命がそうさせたのだとも考えられる。カトリックは最初期にすでに俳優とその係累を教会から破門した。(これはひとたび4世紀、カルタゴ教義会で解除されるが、のちに復活する。)

 5世紀のはじめに聖アウグスチヌスがキリスト教演劇に参加しているが、それは一般的傾向ではない。

 俳優の蔑視については文化人類学の知見を借りるのが有効だろう。動物的社会と人間社会の差は「聖」なるものを分節したことだ。その分節とおそらくは同じメカニスムによって、日常の上部に「聖sacré」、下部に「卑abjection」が構造化された。聖なるものに化身する「俳優」は特殊な存在として「聖」とは反対の方向に、日常からはじき出される定めを持った。

 中世演劇は旅芸人の芸能の側面と、教会典礼から発する宗教劇の側面からとらえることができる。

 なお、ローマ帝国崩壊後、侵入民によってローマ劇場の多くは取り壊され、その石材は都市要塞の建造に転用された。

 西暦1000年を越えるころから、しだいに演劇的伝統の復活が行われてくる。

典礼劇
 典礼劇は対話形式の歌、tropusから起こったとするのが定説となっている。起源は9世紀Saint-Gall修道院の復活祭典礼だとされている。最古の典礼劇の記録は10世紀にまでさかのぼれる。テーマは「キリストの復活」であり、これはもちろん復活祭典礼で行われたものである。この時点ですでに役柄を演じる僧侶が衣装や小道具を整え、教会内陣を舞台のように利用していたと考えられる。が、舞台上で近代的な意味での「演技」をしたというよりは、内陣から西の端までをゆっくり歩いていくものだったと考えられる。そして最後にキリストの聖衣をかかえた「聖女」が内陣へ運ばれる、という段取りだった。典礼の中に挟みこまれた要素だったようだ。

 10世紀後半、イギリスのWhinchesterの司教、聖Ethelwoldの手で書かれたものが残されているが、これは当時のフランスのFleury修道院の影響下にあったものであるため、同様のことがフランスでも行われていたことが推測できる。3人のMarieがキリストの墓を訪れ、天使と出会い、キリストの復活を告げられる。墓を見てみると中には誰もいない。という内容である。(空虚な墓を見せる典礼劇というのはジュネの演劇に近いので、私はこれに関心を寄せる。)また、ロマネスク教会彫刻で聖書の女性人物が男性的な顔を一様に持っているのは、この典礼劇が男性修道士によって演じられていたのを描いている、という説がある。これは興味深い見解であろう。

 こうした起源を持つ典礼劇は10世紀を通して内容をしだいに発展させてきた。とりわけ指摘すべきはカロリング・ルネサンスに起こった「俗語化」と主題の多様化(聖人伝が扱われるようになる)、典礼劇の「スペクタクル化」である。すなわち「観衆」の成立である。が、残されている資料の乏しさから、この間の発展を跡付けることはきわめて難しい。きわめて近代的な演劇に近づいたHiralius(アベラールの弟子)の『ラザロの復活』が12世紀の前半にかかれるいっぽう、修道士が兵士や女性までも演じる「劇」に対する批判も起こった。

 典礼劇に情緒的な要素がしだいに盛り込まれるようになったこともこの間の経緯として取り上げておくべきことだろう。修道士の演じる役柄も「悪役」personnages négatifsが含まれるようになった。そして、筋の多様化から並列舞台が現れる。

 並列舞台は場所と時間の不連続性を中世演劇にもたらした。その典型が「預言者の連続」という主題である。キリストの到来を告げる預言者がつぎつぎと登場するという演劇構造は、すでに典礼の一部としての劇から大きくはみだしている。演劇としての自律性を獲得しているのではないか。ある装置がたとえばエルサレムを表し、その隣の装置がまた別のところだ、という装置は不自然だと考えては早計だろう。場面はイコンを象徴的に用いることで示した。これは中世を通してずっと行われた。また、場所を文字で書いたプラカードも用いられた。
 
 こうした舞台は教会の内陣、外陣をいっぱいに使って行われていた。各場面が教会のコスモロジーと対応していたことは言うまでもない。

「愚者の祭り」La fête des Fous
 しだいにカーニヴァルに統合されていく。
 
降誕、復活の系列とは別にEpiphanie(公現祭)にかかわる「愚者の祭り」がある。これはそもそもは教会が行っていた祭りで、ロバを司教にしたりすることが典型的に示すように、社会秩序を反転させる祭りである。これも教会が司る「演劇」のひとつだったのであり、中世の末に批判がでるまでは盛んに行われていたのであった。

「痴愚は、さかさまの叡智、さかさまの真実である。それは公的な、支配的な真実の裏返しであり、その下層である。痴愚は何よりもまず、公的世界の掟や約束事を理解せず、それらを忌避するものとして立ち現れる。痴愚は、自由気ままな祝祭的叡智であって、公的世界のあらゆる規範・圧迫から解放されており、同様に公的世界の心のわずらい、生真面目さからも解放されているのである」バフチンp.228
 カーニヴァルの王=人形は殺される。

「愚者の祝祭には仮面を被り、女物の服をまとった下級聖職者たちの姿が見られた。彼らはそうした恰好のまま、聖なる場所で踊ったり、放埓な歌を唄ったり、丁半賭博に耽ったばかりか、ミサの行われている祭壇で肉を食べたりもしたのである。中には神を愚弄して、つり香炉で香炉の代わりに皮を燃やし、そのむかつくような悪臭を会堂に撒き散らす者すらいる。こうしたサトゥルヌたちの真只中で、頭に司教冠を乗せ、手に笏杖を持った司教姿の哀れな男たちが、楽し気に大声をあげる貧民たちに涜聖的な祝福を与えている。」
R.Auguet Fêtes et spectacles populaires p.28 (蔵持 訳)
16世紀に衰退。

山口昌男「道化と詩的言語」
「道化の饗宴」又はカーニヴァルに示された、無秩序への中世西欧の許容度の高さは、今日の我々を覆っている一元的時間の支配から顧みるならば驚くべきことであるように思われる。この秩序の覆滅の正当化は、文化についての深い省察に導かれていた。それは、秩序というものは相対的なものであるということを想い起こさせる、制度的工夫であるようにも我々には思われる。秩序が自らの存続の根拠を確かならしめようとするならば、秩序の範疇に容認し得ない行為及び意識に対して、期限を限って表現の機会を与える必要があること、又このように、秩序にとって異質な要素に排け口を与えることによって秩序そのものを浄化することができることを西欧の中世的世界が知っていたかの如くである。」
『道化的世界』p.19
クザーヌスの『知恵ある愚者』(16世紀)

道化の問題
『道化 つまずきの現象学』 C.V.バルレーヴェン 法政大学出版局 1986
 片岡啓治 訳

 道化をテーマに演劇史を考察するのは面白いだろう。「道化のいる演劇史」という論集にするのもいいだろう。

 渡辺守章の『舞台芸術論』によると,道化という言葉は、創成期の歌舞伎の役にあった『道化方』に発する。いっぽう英語のfool,フランス語のfou,ドイツ語のNarrがこれにあたる。ラテン系では「ふいご」を意味するラテン語のfollisの縁語「風」のbuffa, 英語のbuffon,フランス語のbuuffonが生まれ、これが「宮廷道化」を意味した。
W.M.ザッカーによる「クラウン」の語源は、「のろまclod」「不器用clums」「棒club」「かたまりcluster」。

ベンヤミン「クラウン=政治的暴砕力をはらんだ社会階層」
「空想とユートピアをもはや無媒介に統合できなくなった文化が、クラウンを必要とする」

トリック・スター
アメリカインディアンの道化である「トリック・スター」「コシャーレ」。「コシャーレ」は人間と神々の仲介者。「トリック・スター」型の道化は儀式を茶番に変えてしまう。「トリック・スター」をあえてフランス語訳するとdécepteurとなる。トリック・スターが「神のもっとも巧妙な変装」であることを明らかにしたのは、1930年代のオランダの人類学者たちであった。彼らはインドネシアの未開宗教の構造論的分析を通して、それを発見したのだった。

ヘルメス
ヘルメスは境界を越えていく。古代ローマではヘルメス=メルクリウスは「2匹の蛇が巻きつく、神の使者の杖」を持つ。サチュルヌ祭との関係。ギリシャのドーリア時代に「デイケリスタイ」というクラウンの像がある。これはアリストパネスと関連し、無言道化だった。ギリシャ神話をパロディー化した。男根と仮面。

古代ローマ
紀元前3世紀に南イタリアのフリヤク喜劇。「アテラーナ笑劇」(ギョロ目で法螺吹きのBucco, 白髪のPappus,長鼻でぶきっちょの「マックス」、陽気で快活なDossenus。古代ローマの「のろま」のストゥピドウス。また、小人の活躍。ローマの大衆演劇では、後に白塗りクラウン(伊達者で社会の規範を示す)と馬鹿役アウグスト(19世紀ベルリン)に二分化していく過程の萌芽がある。すばしっこいアルレッキーノと、デブでぶきっちょなブリゲッラ。

系譜。喜劇の2元的対立。アテラーナ笑劇とアリストパネス。素人芝居コメディア・エルディタと職業俳優によるコメディア・デラルテ(16世紀末に発祥)。

世界的展望
ギリシャのクラウン、バリ島のクラウン、中国のクラウン、セバスティアン・ブラントの「阿呆船」1494年。イタリア喜劇のフロータン、アルルカン、スカラムッシュ(俳優名、モリエールが師と仰いだ。)クリスパン、アンリ・ボナール。ユビュ(コメディア・デラルテのカピターノに似ている、という指摘あり)、ベケット(サーカスそのもの)。「アルルカンは本来、太陽光線を分光器に当てたようなまだらの服(ボロの継ぎ接ぎ。下層性。 引用者)を纏い、黒い野獣を思わせる仮面を被っていた。つまり、彼は真昼間の世界では錯乱を装い、黒い仮面を通して闇の世界から出現する何者かであったのだ。」山口昌男『道化の宇宙』p.10-11

コメディア・デラルテの道化群像
 パンタローネ(ヴェニス商人の戯画。頭が固い年寄りでいつもだまされる)、アルレッキーノ(大食で好色漢の動物的エネルギー。この前身がザーネ)、ドットーレ、コロンビーヌ(アルレッキーノの女性版)に見られる「クラウン」の系譜。ペドロリーノ(パンタローネの下男でこれが後年「ピエロ」につながっていく)、ジル、ピエロ(16世紀後半)へと展開する夢想的、メランコリックな系譜(ドゥビューロー)。

 中世西ヨーロッパの道化。Histrione, Mime, Jester, Narr, Zani, Jongleur, Skomozokhi
イギリスの「パンチ」は撲り役。フランスで人気となった「ピエロ」(白面ピエロ)は撲られ役。

近代=反道化
 デカルト的合理主義が狂人に非寛容の立場を打ちだした。「宇宙(コスモス)が、規範(ノモス)と肉体(フィジス)に分裂し、 前者が後者を圧するに至った世界で、後者に加担する道化的思考は、人間進歩の不倶戴天の敵として、反進歩、反知性、犯人間性、反秩序といったあらゆる負のレッテルを貼られて退場する外はない」(山口昌男『道化的世界』p.275) かくして道化の肉体劇であったイタリア劇がせりふ劇としてのフランス喜劇に変貌し、モリエールも正確にこの軌道をたどることになる。
フーコーの『狂気の歴史』

近代に入っての変容。フィガロとパパゲーノ。しだいに悪魔性を失って行く。ワトーの描く「飼いならされたクラウン」。これは同時代の美的な感情の表出として見なければならない。


キリスト=道化
fou=悪魔。キリスト教への反逆者であったから。しかし、一方、キリストをfouの形象で描くこともある。

宮廷道化
王の道化。南米にもアフリカにもいた。「王の反省の鏡となって講評を加える」というのが仕事。ヒエラルキーに支えられた王には、卑猥さや座興で泥を塗られる欲求があった。メランコリーの回避および、メランコリーは王にのみ許されるという制度の保証。レペニース著『メランコリーと社会』。市民社会の到来によってメランコリーはダンディーと遊民の手に渡った。

シェークスピアの道化
リア王の道化と、テンペストのカリバンは道化の2面性を描いている。「真実」が道化の側に分有されるという問題。(バロック的道化)

ロマン派型の道化
ロマン派型の道化は、笑われるものとして人間を傷つけられた役者が権力に反抗するという物語を描く。ユゴー『王は楽しむ』からそのオペラ化『リゴレット』。レオンカヴァロ『道化師』。

その後、演劇における道化の伝統は断絶する。それを回復させたのがストレーレルである。

「ピエロという言葉は19世紀の中ごろから道化の蔑称と愛称の入り混じった形で使われてきました。19世紀のロマン派の芸術家は、コンメーディア・デラルテから出て来たピエロを特にブルジョワ社会から、その無気力、知性の欠如、人間の意識の深淵をのぞかせる人物の典型として描き出しました」山口昌男『道化の宇宙』p.162

1920年代サーカス
 パリの「メドラノ・サーカス」。フラテリーニ兄弟。コクトー=ピカソー=サティー『パラード』『メルキュール』の重要性。道化としてのダダイズム。
 サーカス。19世紀中ごろ。イギリスからパリに中心が移る。オリンピック座。メドラノ座。シルク・ディヴェール座。プライス兄弟の芸。失敗する芸。舞台装飾家ジャン・ユゴー。
20世紀の道化
 ジョイスの造形した道化。ルオー。ピカソ。シェーンベルグ。ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」。ヘンリー・ミラー。カフカ。ドストエフスキー。フォークナー。ロルカ。アポリネール、ソール・ベロー、ヘンリー・ミラー。バローズ、ナボコフ、メルヴィル、
ゴダールにおける「異化」と「道化」。『中国女』とブレヒト。

 
 『舞台芸術論』放送大学 渡辺守章 も参照のこと。


『アダムの劇』le Jeu d'Adam
 これは12世紀後半に書かれた教会演劇の傑作であり、G.Cohenはこれを「準典礼劇」drame semi-liturgieと呼んでいる。これは教会の中ではなく教会前の広場で上演されたものであるとされてきたが、近年の研究、たとえばW.Noomenらはそれに異を唱えている。全面的にフランス語で書かれたはじめての作品であると言える。コーラスはラテン語で歌うが、登場人物はフランス語のみを話す。上演指示も詳細に付けられている点が貴重である。テクストに忠実であること、適切なしぐさをともなうこと、などが書かれている。

 内容は「悪魔によるアダムとイヴの誘惑」「カインのアベル殺害」「メシアの到来を告げる預言者たちの行列」の3部からなる。これらは一種の心理劇と言ってもよいほどの内容をそなえており、悪魔の世界と神の世界の中間に位置する「人間」が苦悶するという、驚くべき世界観を示してもいる。当時にあっては革新的な内容であったろうが、演劇が教会から離れていく道のひとつがここに示されたと言えよう。ここでは「神」も役柄のひとつとして登場するのである。

中世の吟遊詩人jongleur
 民衆にとっての文学がこの時代、吟遊詩人の口承によるものであったことは言うまでもないが、その口承芸のなかに「演劇」的な要素は含まれていなかったのだろうか。当時の口承は「語り手」がすべてのせりふを朗誦し、「演じ手」がジェスチャーを合わせて付けるというスタイルmimedialogueだったらしい。その意味では「演劇」というジャンルは成立していないに等しい。中世の演劇(?)が古代の演劇伝統から切り離されたものであることを明かす姿である。典礼劇のなかに見られる対話も、したがってどこまで忠実に俳優によってせりふとして扱われたのか、分からない。

  14世紀になると吟遊詩人はしだいに消滅していく。戦乱が激しくなったために、貴族の庇護を受けるようになったため、旅回りの形態がなくなったのだろうかとも思う。「俳優」はしだいに、聖史劇を上演するconfréries d'amateursに役割を譲るようになる。

 13世紀の都市の興隆は市民のための広場演劇le thé
âtre de la grande-placeを生み出した。吟遊詩人の芸の集大成と思われるものに、12世紀末から13世紀初等に上演されたCourtois d'Arrasがある。ルカ伝第15章の「放蕩息子」を題材としているが、居酒屋を舞台にした世俗的な教訓劇になっている。また、やはりアラスで上演されたJeu de Saint Nicolas(作Jean Bodel)は俗語によるはじめての「奇跡劇」miracleとして注目される。ここでも宗教的題材は枠組みに過ぎなくなり、戦闘や風俗の描写に中心がある。十字軍遠征でイスラム軍に壊滅させられるキリスト教軍の犠牲を美しく描く。聖ニコラの奇蹟で異教徒が改宗、異教徒の王の宝物が居酒屋に持ちこまれる。なお、2編ともアラスにかかわるのは資料的な偶然ではあるが、この時代のアラスが北方との織物貿易で栄えていたことを考えれば、この時代の中世都市内でjongleurが活躍していたことは推測できる。

 やはりアラスの詩人(アンジュー伯の宮廷詩人)アダン・ド・ラ・アルAdam de la Halleの2つの作品『葉陰の劇』 Jeu de la feuillée とJeu de Robin et de Marionは特筆すべきである。Feuilléeは居酒屋での風刺に富んだ会話から、仙女の世界へ移り、再び居酒屋へ。居酒屋ではその間に居眠りをしていた僧侶が聖遺物を取られるというオチ。後者は音楽劇の先駆として評価されている。居酒屋は賭博場でもあり、賭博はキリスト教会からは名目上、禁止されていた。賭博の祝祭性はロジェ・カイオワも指摘している。(偶然の支配)

 居酒屋taverneの頻出に驚くが、悪徳として描かれているのか?それから、「金」が重要なテーマである。

 Rutebeuf作Miracle de Théophileはファウスト伝説の原型。現世的な成功を得るために悪魔と契約を結んだテオフィルが、7年ののち後悔し聖母に祈ると、聖母がそれを許すという話。13世紀の聖母崇拝を反映している。

  13世紀演劇のセノグラフィーは前世紀の教会内での典礼劇に比べると貧弱であったと思われる。吟遊詩人によって演じられただろうことからもそれは推測できる。おおむね2つないし3つの「家」のような簡素な装置をつくり、そこをちょっとした小道具で場所を特定させていた程度のものではないかと思われる。場面転換はないから家は並列式に観衆と対面していた。

14世紀演劇
 ペストと百年戦争に覆われたこの世紀、宮廷の関心はバレーと騎馬試合、饗宴に向けられ、「演劇」jeu par personnagesへの関心は低かった。社会的混乱からかキリストの受難に関心が向けられ、これが演劇にも反映して「受難劇」の上演が行われるようになったのがこの時代である。こうした受難劇は修道士を中心とした上演団体Confréries de la Passionによって行われた。この時代の演劇を便宜的に笑劇farceや阿呆劇sottieのような短い形式のものと、教訓劇moralitéや聖史劇mystèreなどの長い形式のものとに分けるのが便利であろう。

都市とカーニバル
 farceやsottieはカーニバルと密接な関連を持っている。冬が閉じ、新しい季節である春が開始されるまでの「さかさまの世界」であるカーニバルは当時の都市の祭典であった。灰の水曜日に先立つ2日間、第1日目は太った「カーニバル」の勝利。第2日目にやせた「四旬節」の逆転劇。この祭典が14世紀から15世紀にかけてしだいにスペクタクル化していく過程が確認されている。演技者と観客に分化してくるのだ。これは都市の拡大にともなう必然的なことなのか、それとも都市というものが見る人と見られる人の分化を要請するシステムを持っているのか。都市と視線の問題を中世都市におけるスペクタクルを通して研究したら面白いであろう。

 南米のカーニヴァルはイベリア半島文化が導入されたものである。

カーニヴァルと民衆文化
 民衆にとっては肉食という蕩尽の場。期間もところによって差はあるが、西ヨーロッパでは一般に「復活祭の49日前にあたる5旬節主日、その翌日のlundi gras, 続くmardi grasの三日間」とされる。

 カーニヴァルの特徴として蔵持不三也が挙げるのは1.冬から春への節目の祝祭である。2.通りと広場を結ぶ空間性のうちに行われること。3.仮装者として登場するのは祖霊もしくは季節的異人(まれびと)であり、守護聖人ではない。これはカーニヴァルが「神の不在の祝祭」であることを示している。そしてこれらが、仮装、痛飲飽食(蕩尽=反蓄積)、マヌカン処刑という3要素に支えられていることが必要だろう。

共同体の再統合儀礼。
 秩序に混乱が導入される部分が喜劇の源泉であり、その張本人が追放される部分が悲劇の源泉であろう。カーニヴァルが出現する文化の条件としてバフチンが挙げるのは「市」と「道化」である。

  ブリューゲルの「カルナヴァルと四旬節の戦い」の背景に「ウルソンとヴァランタンの仮装劇」が描きこまれている。(蔵持不三也『祝祭の構図』ありな書房1984)
 同書によれば、ブリューゲルのこの作品にはクリスマスから公現主日、マルディ・グラ、灰の水曜日、四旬節、枝の主日、復活祭へと経過する暦が円環を描くようにらせん状に描かれているという。以下、演劇に関連する要素を列挙していく。

1.「ウルソンとヴァランタンの仮装劇」は当時の仮装劇の代表的な演目のひとつ。「森に捨てられたコンスタンティノープル皇帝の双子の王子。ウルソンは熊に育てられて森の動物たちの長となる。ヴァランタンは伯父のペピン王の養子となり、一人前の騎士になって森のウルソンを征伐して家来にする。ところが二人が兄弟であることが分かり、ふたりはともに力を合わせて、巨人に囚われた母を救出する。」動物仮装、蛮人仮装という要素は祝祭演劇の常套テーマ。しかし「ウルソンとヴァランタンの仮装劇」では、通常と異なり、蛮人が共同体から追放されない。「冬=ウルソンが春=騎士に屈服して母=太陽=神を救出するという神話的構造を踏襲している。」
 また、女が木戸銭を徴収している様子が描かれている。なお、余談だが聖ヴァランタンの祝日2月14日は「鳥が番う日」という伝承がある。これがもとで今日のヴァレンタインデーが成立した。

2.旅篭の看板の「青い船」は「阿呆船」である。

3.テントの周辺にも仮装演劇集団がいる。主題は「モプススとニサの結婚」である。羊飼いのモプススが恋敵のダモンを打ち負かしてニサを手中にする」という内容。これがこの絵ではバフチンの言うグロテスク・リアリズムで表現されている。

4.ブリューゲルの絵には書かれていないが、民間習俗「シャリヴァリ」は村の異分子に制裁を加えるもの。カーニヴァル期間中に行われていた。再婚、姦通、コキュ、をつるしあげるが、金品を提供して許されるという構図になる。

5.仮装=互換性である。システムとして構築された痴愚の「さかさまのヒエラルキー」

6.道化は黄・緑・赤の服を着ている。しかしながらブリューゲルの作品では道化はすでに祝祭から去って行くものの姿で描かれている。

7.壷投げあそび、独楽回しといった遊戯。

ゲーテの『イタリア紀行』にあるカーニヴァルの描写は貴重。

山口昌男は『道化的世界』で、近代に入ってカーニヴァル的表現が「革命的エネルギー」に転化した、と述べている。68年問題、およびジュネ演劇との関連で興味深い。

カーニヴァル関連参考文献
『中世の笑いー謝肉祭劇十三番』法政大学出版局 1983
『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』バフチーン
                         せりか書房 1973
『肉体―伝統的社会における慣習と知恵』フランソワーズ・ルークス
                         マルジュ社 1983
『道化と笏杖』ウィルフォード 晶文社 1983
『ヨーロッパの庶民生活と伝承』ヴァラニャック 白水社 1980
☆『道化』  晶文社 1981
『死の舞踏』木間瀬精三  中公新書 1974
『祭りと叛乱』 ベルセ  新評論  1980
『愚者の饗宴』コックス  新教出版社  1971
『舞台上の権力』バランディエ 平凡社  1982
  
 
Farces et Sotties
 双方を合わせて今日に250編あまりが伝えられているが、人物に具体性があるのがfarceであり、sottieのほうは単なるSotが登場するのみである。最古のfarceとしては十三世紀のLe jeu du garçon et de l'aveugleが挙げられる。冒頭にモノローグを持つ。

 farceには日常生活を誇張して描くものが多い。farceの語源はfars「詰め物」(>farci)あるいはfard「化粧」、いずれにしても「見掛けでいつわる」という意味がある。日常的な価値の反転がある。いくつか代表作を挙げれば、『洗濯桶』Cuvier.気の弱い亭主が女房から、するべき家事の一覧表を書かされる。が、女房が洗濯桶に落ちたのを好機とばかりその一覧表を破棄させて亭主の面目を回復するという話。これなどのように「悪妻物語」は一群の作品群を構成していて面白い。『鶏小屋』Poulailler à six personnagesは粉屋の女房に言い寄った二人の貴族が女の策略でさんざんなめに遭わされる話。『挽肉パイと果物パイ』Le Pâte et la tarteは二人の浮浪者が菓子屋から菓子をかすめ取ろうとする。最初のひとりはまんまと成功するが二人目は失敗する。これがくやしくてもうひとりにも同じ目に遭わせるという話。「食」「性」「金」の奪取をテーマとしている。

 いっぽうsottieに登場する「阿呆」sotは社会から排除された存在であり、古代のサチュルヌ祭や前世紀の「愚者」の系統にある。角の生えた帽子をかぶり、黄色と緑のだんだら模様の衣装をつける。アクロバット的な要素も含んでいたらしい。現実と直接的なかかわりを持たないがゆえにかえって阿呆劇が政治風刺を含むこともあった。

 farce, sottieの上演は樽を置いた上に架け渡された仮設の足場舞台echafaudで行われるのが常であった。したがって装置は最小限であった。俳優の技量に多くがかかっていたと思われる。が、見物に入場料を取っていたわけではないから、俳優たちもカーニバルに結成されたアマチュアの要素が強いことは指摘しておくべきである。

 愚者の祭り→阿呆劇→カーニヴァル という流れ。

愚行結社
 都市中流以上の若者がAbbaye de la jeunesseを結成したのが母体となっている。リーダーを選び、彼がカーニヴァルの王となる慣例もあった。カーニヴァル以外でも彼らは「祝祭演劇」の組織者となりシャリヴァリ街頭劇を行った。彼らがfarce,sottieを支えていたことは疑いない。

 万人が阿呆である、という「思想」。黒死病との関連。

中世フランスのsociété joyeuse
「ご機嫌仲間」と阿呆祭。ディジョンの「ディジョン歩兵隊」「いかれ母さん」。こうした団体は権力を笑い者にすることで、一種の検閲機関としての今日のジャーナリズムの役割を果たしていたのではないか。絶対主義国家からは弾圧されている。


『ピエール・パトラン先生』Maître Pierre Pathelin
  15世紀後半の作品であるが、この作品は他の笑劇の三倍の長さを持つ点でも、また質的にも中世喜劇の代表作と呼んでさしつかえないだろう。

 弁護士パトランは羅紗商人ギヨームから羅紗を買ったが、代金を家に取りに来させた際に仮病を使い、さらに羅紗を買った覚えもないと商人を騙す。やはり変だと再び商人がパトランの家に行くと、今度はパトランはもう死にそうだ、とうわ言を言って煙に巻く。いぽう羅紗商人の羊飼いアニュレは商人の羊を殺して食べてしまうが、羊は病気で死んだとうそをつく。訴えられた羊飼いが弁護を頼んだのがパトラン先生。元気なのがバレては、と顔を隠したがとうとう発覚。逆上したギヨームはラシャの話と羊の話を混乱させて判事を怒らせる。パトランから「何を聞かれてもメーメーと答えろ」と言われた羊飼いも全然らちがあかないので、判事は羊飼いを釈放。羅紗の件も商人はパトランにうまくまるめこまれてしまう。うまくいった、とパトランは羊飼いに謝礼を要求するが、今度は羊飼いがメーメーとばかり言って逃げてしまう。

教訓劇
  教訓劇というジャンルははっきり特定できるものではないのだが、いわば世俗化した聖史劇であるともいえよう。抽象的な観念をアレゴリーによって表しているのが特徴である。長大な作品も多いが、具体的な作品は省略する。基本的には「善」と「悪徳」の戦いのすえに「善」が勝利するさまを描いている。

聖史劇 mystère
 Mystèreの語源はle mystèreではなく、la fonction, le métierを意味するministeriumから由来する。「受難」を具体化する、という意味からこの名が付けられるようになった。
キリストの事跡を新約聖書に基づくばかりか、さらには旧約からも外伝からもエピソードが採用されてしだいに大作となっていった。

14世紀後半から受難劇の上演が活発化し、1402年にはパリで受難復活劇団が聖史劇の製作上演権を与えられ、トリニテ教会に常設劇場を持つにいたっている。百年戦争終結から16世紀なかごろまでの100年間は、およそ空前の「演劇時代」だった。

 聖史劇は一般に長大なもので、笑劇が数百行であるに対して、3万行(長いもので6万行)にものぼる。時代とともにしだいに長くなる傾向がある。上演は数日、長いのは1週間をかけて行われた。日曜にだけ行って6,7か月かけたものもある。
 
 15世紀に印刷術が発明されると聖史劇も印刷されるようになった。

 民衆演劇としての聖史劇。住民参加の一大スペクタクルであった。観客80000人と伝える記録がある。富裕層が主役クラスを演じたらしい。衣装も富の反映であり、上演の前日にはパレード。

 修道士たちのconfrérieが行った上演はそれほど派手なものではなかったようだ。
 この聖史劇の上演において、はじめて観客が入場料を払うという形態が発生した。それにともない、閉鎖空間での(壁の中)上演が行われはじめる。

 拷問の場面などがしだいに長くなっていった。笑いの要素もあった。

 1452年Arnoul GrébanのMystère de la Passion 35 000行 400人
 1486年Jean MichelがGréban作品に加筆
1530年Mystère des Actes des Apôtres 60 000行 上演35日
 1547年 Passion de Valencienne 25日

 1548年、パリ高等法院が受難劇上演禁止令を発令。宗教戦争が決定的に受難劇を絶やした。プロテスタンティスムがそうさせたのかもしれない。聖書を通しての信仰、が聖史劇を必要としなくなった。

 山口昌男は中世末期に秩序が弾力を失ったために、道化的時間・空間を敵視し、絶滅しようとする、と述べている。山口昌男『道化的世界』p.20


聖史劇のセノグラフィー
 聖史劇は「テクストの演劇」ではない。あらすじを説明するrécitantを俳優自身がやっていたようである。

 いわゆる並置上演法が12世紀以来、用いられている。これは屋形mansionあるいはlieuと呼ばれる装置を市の広場place du marchéに作られた舞台に並べるもので、大規模なものでは70もの屋形が並べられるにいたった。上手が「地獄」(魚の口から入る)で下手が「天国」。キリストの昇天などには「宙吊り」しかけもあるし、拷問場面ではさまざまなイリュージョンが駆使された。広場をかこむ家の窓も装置として使われた。今日でもイタリアにはこうした祭典が残っている。(Joute du Sarrazin, place arezzo)

 悪魔とアクロバット。
 近年、Ray-Flaudらの研究者が、並置上演舞台は円周状に並べられたのではないか、という説を提出した。実際は並置されたり、円周にされたりいずれの場合もあったであろう。

 同時並行式の上演も行われたであろう点、聖史劇は一挙に現代演劇に結びつく。アルトー的「残酷演劇」だったと言っても過言ではない。

 聖史劇の世界はホイジンガーが描く「中世の秋」そのもの。また、グリューネヴァルトらの「祭壇画」の世界ときわめて近い。

 なお、聖史劇は阿呆劇、教訓劇と組み合わされたものと思われる。
 tréteaux, chars roulants, を使用。

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