劇評 2000年
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| 作品名(作者) | 演出(劇団) | 会場 | 日付 |
| 「ゴドーを待ちながら」 | 佐藤 信 | 世田谷パブリックシアター | 2000.12.19 |
| 「しあわせな日々」「芝居」(ベケット) | 松本修 | シアター・トラム | 2000.12.12 |
| 「アルプスの少女ハイジ」 | 相羽源次郎(劇団東少) | 中央区立中央会館 | 2000.12.3 |
| 「メモランダム」 | (ダムタイプ) | 新国立劇場(小劇場) | 2000.11.28 |
| 「Bad Boy Nietzsche」 | Richard Foreman | パークタワーホール | 2000.11.19 |
| 「小栗判官・照手姫」 | 遠藤啄郎(横浜ボートシアター) | 横浜市教育会館 | 2000.11.16 |
| 「王女メデイア」(エウリピデス) | 宮城 聰 (ク・ナウカ) | 青山円形劇場 | 2000.11.3 |
| 「イリュージョン・コミック」(コルネイユ) | 前川れんいち (円) | シアターX | 2000.10.30 |
| 「検察官」(ゴーゴリ) | ベリャコーヴィチ (ユーゴザーパド劇場) |
天王洲アイルアートスフィア | 2000.10.13 |
| 「欲望という名の電車」(T.ウィリアムズ) | 加来英治 | サンシャイン劇場 | 2000.10.8 |
| 「ピーターパン」 | 高取英(月蝕歌劇団) | 阿佐ヶ谷ラピュタ | 2000.10.6 |
| 「マクベス」(シェイクスピア) | 鐘下辰男 | 新国立劇場 | 2000.9.19 |
| 「イグノランティス大陸」 (「病は気から」モリエール) |
山崎大輔(スーパー・エキセント リック・シアター |
なかのZERO | 2000.9.16 |
| 「新ピーターパン」 | 釜 紹人 | 新国立劇場 | 2000.8.8 |
| 「ユビュ王」(アルフレッド・ジャリ) | 佐藤 信(結城座) | The Bathhouse | 2000.6.20 |
| 「甥らは嫁かーにI love you」 | (六月劇場チーム) | 東演パラータ劇場 | 2000.6.10 |
| 「テンペスト」(シェイクスピア) | 蜷川幸雄 | 彩の国さいたま芸術劇場 | 2000.5.28 |
| 「雨の塔」(唐十郎) | (第七病棟) | 箱崎の倉庫 | 2000.5.22 |
| 「イエスマンとノーマン」(ブレヒト) | (無条件降伏委員会) | アサヒスクエア | 2000.4.16 |
| 「真田風雲録」(福田善之) | 岡部耕太(岡部企画) | アイピット・メジロ | 2000.4.10 |
| 「ロベルト・ズッコ」(B.M.コルテス) | 佐藤 信 | 世田谷パブリックシアター | 2000.3.14 |
| 「ゴドーを待ちながら」(S.ベケット) | 串田和美(Studio コクーン) | FM Tokyoホール | 2000.2.21 |
| 「ヴォィツェック」(ビュヒナー) | ジョセフ・ナジ | シアタートラム | 2000.2.13 |
| 「私は家の中で雨が来るのを待っていた」 (ラガルス)ーリーディングー |
生田萬 | シアタートラム | 2000.2.5 |
| 「肝っ玉おっ母とその子供たち」(ブレヒト) | A.マリーン (俳優座) | 俳優座劇場 | 2000.1.31 |
| 「ハムレット・マシーン」(H.ミュラー) | (アグアガラ) | 全労災ホール | 2000.1.29 |
| 「三文オペラ」(ブレヒト) | 加藤 直 | 神奈川県民ホール | 2000.1.23 |
| 「ハムレット・クローン」(川村 毅) | 川村 毅(第三エロチカ) | アサヒスクエア | 2000.1.14 |
| ☆以下はパリ滞在記をかねる | |||
| Théâtres(Olivier Py) | Michel Raskine | Théâtre de la ville(Abbesses), Paris |
2000.3.19 |
| Le mariage de Figaro (Beaumarchais) | Stéphane Aucante | Héberte, Paris | 2000.3.20 |
| La vie de Galilée (Brecht) | Jacques Lassalle | Théâtre de la colline, Paris | 2000.3.21 |
| Les Comédies (Beckett) | Jean-Yves Pénafiel | Théâtre du Lierre, Paris | 2000.3.22 |
| Un fil à patte (G.Fédeau) | A.Sach | Théâtre St-Martin,Paris | 2000.3.23 |
| Le roi cerf (Carlo Gotti) | Benno Besson | Théâtre de Chaillot, Paris | 2000.3.24 |
| Le tambour sur la digue (Théâtre du Soleil) | A. Mnouchekine | Cartouche, Paris | 2000.3.25 |
| Le monologue d'Adramélach (Novarina) | P.Salouf | Théâtre Aktéon, Paris | 2000.3.26 |
「ゴドーを待ちながら」
考えてみればこの1〜2年のあいだに『ゴドーを待ちながら』を3本見たことになる。まあ、こちらも、やってれば必ず行くという姿勢だから結果として見る機会が多くなるわけではあるが、今回の佐藤信演出はいちばん内容の濃い上演だろう。けれども、終演後のロビーでこの日、如月小春さんのあまりにも突然の訃報に接して、この上演について考えをめぐらすきっかけを奪われてしまったまま、1週間が経った今でも、どうにも切り口が見出せない。私の想念はゴドーに向おうとすると、すぐ如月さんに向ってしまう。そういう状況ではあるが、・・・
3時間10分という長い『ゴドー』だった。その長さはひたすらウラジミールとエストラゴンが、ゴドーを「待つ」空白の充溢する時間によるものだ。これほどまでに「待つ」ことそのものに賭けた演出は珍しいのではなかろうか。道化芝居の要素はかなり抑えられていた、という印象が残るが、実際にはかなり細部にまで笑いをとろうとする意図はあったようにも思う。けれども、それが印象として残らないのは、笑いの要素がこの舞台の空間に吸いこまれてしまったからであって、けっしてギャグが受けなかったという意味ではない。
額縁舞台に奥へ向って半月型の空間を作る。パリのオランジュリーにあるモネの睡蓮の展示室のようなぐあいだ。ススキ(葦か?)の叢の中央には木が一本。宇宙のようでもあるが、古代人の想像した盆型の「世界」にも似ている。これは演出の意図そのものなのだろう。ポッツォとラッキーはその世界の壁にしつらえられたドアのような空間を開け閉めして出入りするが、ゴドーが来ないことを告げに来る少年(少女という設定)は、舞台の奥の叢の地面から不意に出現する。
まずは、村外れの一本道であるはずの周縁的世界が、同時に世界の中心であるという演出は、『ゴドー』上演の解法としてどうなのだろう。ルオーの描いた「郊外のキリスト」と「ゴドー」の世界は意外と近いのであって、見捨てられたような場所にも神は偏在するとすれば、ウラジミールとエストラゴンが待っているのは「救済」ではない。この演出から受ける印象をふくらませて言えば、これは終末とともに地中から這い出して復活したものの、そこに神が不在であったという状況における「存在者」の劇なのである。彼らが生きているのは、生をひとたび忘却した者の、爾後の生なのだ。幕開きに1度だけ鳴らされる大砲のような音は、するとこの世の終わりを告げる合図だったのかもしれない。
柄本明と石橋蓮司は好演だろう。とりわけ石橋のウラジミールは、不思議に知的なこの人物の物言いを消化しきっていた。柄本エストラゴンは、もう少し惨めな感じでもいいかなと思った。片桐はいりのポッツォは、ラッキー役の村松克巳と、いわば反転の配役なのだが、村松ラッキーの、例の「考える」長せりふの見事さに賛辞は惜しまないものの、はたしてこの反転がやや片桐には重荷に感じられるところもあったので、評価は難しいところかもしれない。このポッツォがラッキーについての説明をする場面で、ウラジミールとエストラゴンが、客席の最前列に腰掛け、観客となるという演出はひとつの解釈として面白い試みではあろう。ウラジミールが小便をしにいくところには、そもそも『ゴドー』にあるメタシアターとしての要素があるのだから、その側面の補強としていいだろう。
ゴドーが来ないことを告げに来る少年を今回の演出は「少女」に変換させ、しかもその少女が第ニ幕では「妊娠」している、という演出まで見せたことは、片桐ポッツォと対称点をなすジェンダー変換を導入したことになる。サラエボでソンタグが上演した『ゴドー』以来、この作品とジェンダーは密接に結びついてしまったわけだが、それはそれとして、どうして東京で佐藤信が演出する『ゴドー』がその主題系を引き継がねばならない必然性をかかえているのか、私にはここがよくつかめていない。
ともあれ、いい上演を今年、いや今世紀最後に見せてもらえた。
20世紀の最後を飾るのはベケットである、という見地から世田谷パブリックシアターが、「ゴドー」を上演したのはあながち誤りであるとは思わない。そして「ゴドー」の関連上演としてシアター・トラムのほうでこの、「しあわせな日々」と「芝居」の2本を組み合わせたのも興味深い企画であった。「ゴドー」については稿をあらためるとして、ここでは「しあわせな日々・芝居」について取り上げる。
単刀直入に言って、今世紀をベケットの世紀だとするのは、わが国の演劇状況においては「ミーハー」である。なぜならばわが国にはいまだかつて、演劇からテクストはおろか言語行為そのものを批判ないし「脱構築」する営みは生まれたためしがなく、演劇言語が日常言語に対する「異物」として存在するヨーロッパ演劇の現在に対応する舞台は、私の知る限り存在しない。そうした演劇の「解体」と呼ぼうが「消失」と呼ぼうがかまわないが、その中核にベケットはいたのであり、ベケット以降、フランスは、伝統的な意味での劇作家を失った時代があったと言ってもいいほどなのだ。したがってベケットを上演することを決意した者(とりわけ演出家)は、「演劇」を今後いっさいやってはいけないのである。これはベケットですからこういうふうにやります、次はチェーホフですからこうします、というのでは私達、観客は不幸なのだ。
案の定、これはベケットではなかった。『しあわせな日々』は美術が良かったのだけれども、主演女優がベケットのテクストの異物性に直面することを回避してしまったのが失敗であろう。もちろんこの責任はただひとり演出家にある。女優が台詞を、破綻のない一貫した調和的世界へ向って構築しようとするのを、演出家はなぜベケットの名のもとに妨害し、女優を撹乱しえなかったのか。だいたい砂山の上の穴に埋まっている女優、なんてそもそも異常なことなのだ。その異常さが全然伝わってこないのだから面白味がない。あたかも決められたように埋まっていて、体を埋めながら素晴らしい台詞術を披露するのでは、ベケットは曲芸とかわらないではないか。アメリカ映画の吹き替えみたいな喋り方のベケットでは困るのだ。どもる、あるいは、演技せずまったくの「地」でいく、などしなくては劇にならない。これが、つまり「穴の中にはいりっこない」だろう有名女優なら話は別だ。
いっぽう、ウィリー役の品川徹さんはすばらしかった。異常なものの出現を見事に造形していた。
「芝居」は「しあわせな日々」の第1幕と第2幕の間にはさまれて上演された。男1人、女2人が甕の中から顔だけ出して、照明が当たると断片的に喋り出す、という作品だ。これは、物理的に「しあわせな日々」の装置を取り払えないから、舞台の前面に甕が並ぶことになったのが、そもそも失敗。甕にはほとんど照明が当たらないわけだから、要するに舞台の前面で3人が正面を向いたまま喋っている、というだけになってしまった。これは空舞台という空間のなかで起こるからはじめて劇として成立する根拠があるものだ。その空間を作れなければ意味がない。
「メモランダム」 ダムタイプ (新国立劇場小劇場)
過去の話はやめよう。私がさしあたり関心を抱くのは「現在」のダムタイプがいかなる舞台を私たちの前に提出してくれるのか、そしてそこにはどんな舞台芸術の今後が内包されているのかである。未来への扉からさしこむ光に照らされてこそ、過去も見えてくるというものだ。しかし、今回の『メモランダム』からは未来も過去もいっこうに見えてくる気配がなかった。
座席も振動する重低音の響くなか、舞台奥のスクリーンにはめくるめくスピードで次々に脈絡のない画像が映し出される。その前を疾走する身体は、この無作為な映像の洪水から逃れようとする魚のようであった。あるいはまた、はっきりとは判読できないメモを書きつづける男の筆先が小型カメラで撮影されてスクリーンに映される。と、今度は唐突に何頭もの熊の気ぐるみが舞台を闊歩する。さらにはくずかごいっぱいに捨てられた紙くずをひっくり返し、女性が髪を(連獅子のように)前後にふりながら円周に広げていく。荷造りする男が熊に殴られるにいたる場面が、時間をずらしながら4分割されたスクリーンに映される。そしてハワイアン・ダンスでもやっているかのような数人がゆっくりと腰を振って舞台を横切っていく。こうした場面が、こともなげに次々と連続していく舞台だった、と言うしかない。おそらくは出演者自身の幼年期の記憶やら、夢やらを視覚化したような構成になっているのだろう。それならば、ひとつひとつのシークエンスをまとめる力をどこに求めたらいいのだろうか。
たしかに全体は「記憶」、というより「記憶の断片」の集積、まさしく「メモランダム」である。そして、それはこの舞台について浅田彰氏が朝日新聞(12月6日夕刊)に書くよう「情報の過剰による記憶喪失」という現代の症候を表してもいるだろう。だが、私達の周囲がそうであるとして、またこの舞台もそうであるのだとしたら、ダムタイプの舞台は日常から地続きの平板な地平が茫漠とひろがるだけの陳腐なものに回収されてしまうのであはなかろうか。浅田氏は、演技者の「身体」を音響や映像への「抵抗体」として捉え、その身体の位相において舞台上に出現するものを「記憶喪失を超える出来事」であると述べている。
しかし、私の目にはダムタイプの身体性は「メモランダム」状況に対して埋没しているようにしか見えなかった。ともかく、記憶喪失という「地」の上に描かれる「図」としての身体とは、すなわち身体を物語化することにほかならないのであって、それでは「メモランダム」は自己撞着を起こしてしまうであろう。舞台上に次々と仕組まれる非日常的な映像が、何やらその矛盾を隠蔽する騙し絵のように見えて仕方がないのである。舞台に開示されるべきは、メモランダムと化した身体そのものであるべきではないのだろうか。「記憶」とは物語としてしか存在し得ないものなのだし、たとえ記憶喪失であってもそれは、記憶喪失という物語からもまた、まぬかれえないのだから。
Bad Boy Nietzsche Richard Foreman (Ontological-Hysteric Theater)
『悦ばしき知恵』に輝かしいアフォリズムを書き綴り、近代の思想を構成する堅固な鎧にニーチェが刻んだエクリチュールは、ニーチェ自らの精神に亀裂を生じさせる見えない釘でもあった。その亀裂から噴き出す妄想を通して、ニーチェをその欲望の徴のもとに再構成する試みが舞台という表象の磁場において行なわれるのであってみれば、これはつまらなかろうはずがない。アメリカの前衛的な演劇に、さして詳しいわけではないが、リチャード・フォワマンの『バッド・ボーイ・ニーチェ』は、先春のパリで演出はフォワマン自身のものではないヴァージョンながら見逃した経緯もあって、この秋楽しみにしていた舞台のひとつだった。
舞台と客席との間にはロープのようなものが張り巡らされていて、しかもマイクロホンのような長い竿が天井から左右に2本、下がっている。舞台上にはさまざまな物体や背景が雑然と並べられていて、ここに詳しく記述する余裕はないが、ともかく記号の過剰さに彩られた舞台であることは一目瞭然である。頭に包帯を巻きつけたようなニーチェが、わが国の長野県知事のようにくねくねと、(しなやかではないが、)しゃべり、そこへ強面の男と、子供と、性的挑発力の強い女が現れてしだいにニーチェを、性的妄想と鞭打たれる欲望へと駆り立てていく。全体にはそういう構図に収まるものの、ここには首尾一貫した物語性は希薄で、継起的に展開するエピソードが、機械音や女性の喘ぎ声で「切断」されながら接続する展開になっている。
なるほどパンフレットに鴻英良氏がフォワマンの言として書くように、登場人物はニーチェとパウル・レーが荷車をひき、荷車の上ではルー・サロメが2人を牛馬に見たてて鞭を手にする写真を源泉としているのはうなずけるし、ニーチェへの虐待がそのまま「宝石(ジュエルズ)」=「ユダヤ人(ジューズ)」の入ったパンを焼く、というホロコーストへの参照系であることも正しい解釈なのであろうと思われる。しかしながら、こうした言説を、舞台を見た印象の傍らに置いてみると、さまざまな疑問が生じてくる。
まず、考えておきたいことは「欲望」と「表象」の関係である。フォアマン=ニーチェのテクストはあえて情緒を剥いだ、無機質な肌ざわりで発声されることで、テクストの深層に広がる無意識の領域を開示させようとしている。だが、セノグラフィーは、いたるところに見られる性器的表象から、女性の身体のポルノグラフィックな提示まで、ことごとく明示的であって、均衡がとれていない。欲望と表象はおそらくは鶏と卵の関係にあるのだけれど、フォワマンが私たちに見せてくれるのは、ひたすら欲望が表象を生産するプロセスに支配された世界である。それは、ニーチェの無意識から発した妄想を、舞台表象のレベルに導入する以上は避けられない「反転」ではあろう。だが、反転するだけならば、この作品の題材はニーチェである必然性を失ってしまうとも言えはしないだろうか。そこにニーチェが出てきてはいけないなどと言うのではない。ただ、このニーチェは作者フォワマンの個人的な思想形成史から舞台に召喚されたにすぎないのであり、その意味ではやはりパンフレットに原稿を寄せる内野儀氏が日本の現代演劇を「私演劇」とひと括りにしたのを逆手に取れば、フォワマンの「私演劇」なのであって、さしずめそれにとどまるものとすれば、おおかたの観客とは無縁の思想的パフォーマンスだと言うほかない。ニーチェという人格を解体すればするほど、私たちの眼前には作者フォワマンの欲望がその隙間に忍び込み、ついにはカタストロフィックな顛末は、裏返せばフォワマンの欲望に塗り固められた世界の横溢でしかなくなるのである。
こういう演劇はつまらない。
初演以来、18年ぶりだそうだ。それはちょうど私が大学生だったころで、夢の遊眠社が爆発的なブームになっていた頃だった。演劇を通して思考することにしだいに惹かれるようになっていた私は、遊眠社の芝居に決定的な違和感を覚え、時代の観客としては身をひくようになっていた。その折、横浜ボートシアターの「小栗判官・照手姫」は、たしかその年の演劇評論家たちの推奨を満場一致で得た、アンチ遊眠社の筆頭に掲げられる演劇として私の前に現れた。しかし、私がその評判を聞いて以降、横浜ボートシアターの活動はどちらかといえば、目立たないものになっていった。聞けば、劇場としていた船が沈んでしまったのだという。
ところで、横浜に船劇場を復活させる運動が活動を開始し、各団体の支持もしだいに高まりを見せはじめた。運動に尽力されている方々のご苦労には敬意を表してやまないし、一日も早い悲願達成の日を私も、陰ながら心待ちにしている。しかし、問題は船劇場が完成した暁に、そこを拠点に活動を続けることになる「横浜ボートシアター」の演劇が、20年あまりを経た今日の演劇のなかで、いかなる変質にさらされているか、あるいは今日の演劇は横浜ボートシアターを再発見することができるか、だ。いずれにせよ、横浜ボートシアターの「小栗」が見たかった、という積年の思いから、会場に向った。
横浜市教育会館のホールは、一言で言えば「学校の講堂」である。それは、なぜ学校の講堂がああいう形式の空間であり続けているかを論じることを措くとすれば、やむをえない。しかし、これは断じて宣するが、横浜ボートシアターの演劇は、視線を上向けて見る芝居ではない。客席の後ろ半分はひな壇にしてあっても、すでにそこから舞台ははるかに遠い。残念である。講堂式舞台を捨てて、平土間芝居にする手もあったろう。(今回の公演が全国巡業するのであってみれば、物理的に難しいのだろうし、それが船劇場建設への布石にもなろうから、これまた致し方ないのかもしれないが、、)。
「小栗判官・照手姫」の話を、簡単に記しておこう。
二条大納言兼家がようやく授かった長子、小栗判官は美貌の青年に育ったが、どういう姫君にも、これと思う女性を見つけることができずにいた。そこへ美女の姿に化身した大蛇が現れ、判官と夜な夜なの契りを交わす仲となる。が、大蛇と情を交わす判官を見かねた大納言は判官を東国に追放する。所はいっぽう武蔵・相模の郡代、横山の娘に照手という教養も美貌もそなえた姫がいた。この照手を見初めた判官は商人の手引きで照手に求婚をし、姫もそれに応える。が、姫の父親の承諾を得ずに判官は姫のもとに押し入るように婚姻を交わしてしまう。
これを許すことができない横山は、小栗の命をとって家の体面を守ろうと、小栗を家へ招く。照手の制止も聞かず横山の饗応に赴いた小栗は、人食い馬をあてがわれるが、神通力でこの馬を御してしまう。驚いた横山は小栗にひれ伏すやに思われたが、さにあらず、毒酒で小栗とその十人の従者を皆殺しにし、照手をも相模川に沈めようとする。
だが、あまりに不憫と、照手はひそかに船に乗せられたまま流されて、流れ着いた先から人買いの手で売られつづけて美濃国の遊女宿に身を落とす。が、照手は客をとることを拒み、念仏を唱えながら過酷な仕事に耐えている。
ところで、冥界に下った判官は閻魔のはからいによって、餓鬼の姿で娑婆に戻されることになる。そして、僧の手に委ねられた、かつての面影すらない判官は「いざり車」に乗せられて熊野の湯へと、人々の手で引かれていく。
美濃国まで引かれてきた餓鬼は照手の目にとまり、これが判官と知る由もないが、慈悲の心厚い照手姫は主人から暇をもらい、自ら狂女を装って許された日数まで餓鬼の車をひき、自分の名を記した紙を餓鬼の胸もとに入れて、引き返す。そして、餓鬼は人々の手で熊野にたどりつくのであった。
熊野の湯に入るうちに判官はかつての姿に蘇り、書置きをたよりに美濃国の遊女宿で照手と再会。かつての栄華をとりもどし、人食い馬は馬頭観音に封じ込め、黄金の如来像を建立した。
横浜ボートシアターはこの日本中世の仏教説話を、いっぽうではガムラン風の音楽に合わせたバリ演劇風に、またいっぽうでは狂言風あるいは歌舞伎風のテクストを借りて独特なスタイルにまとめていく。宇宙的な響きのする音楽は文句なしに素晴らしいし、冒頭に行なわれる合唱風の朗詠も効果的である。しかし、どうしたものか、俳優の動きが拙い。仮面劇としての身体全体にわたる様式性が消えてしまって、顔は確かに仮面だが、首から下があきらかにミュージカルのようなダンスの名残を彷彿とする動きにしかなっていないアンバランスをぬぐえていない。これは無視できない瑕となってしまっている。
加えて、狂言を土台にしたような喜劇的な場面が、作品全体にうまくとけこんでいない。しかも、最終場面をあんなに空疎な「おめでた囃子」にしてしまっていいのだろうか。これが、本当に18年前の代表作なのだろうか、私としてはにわかには信じられない。この間、私達はコンテンポラリー・ダンスの身体を見ることを通して、「型」をなぞる言葉や身体が、もはや舞台の表象として機能しなくなってしまったことを認識してしまったのだ。その目を通して見えてくる横浜ボートシアターは、様式の罠にはまってしまったように思えた。
力強い造形力を感じさせる場面もしかしながら随所にあった。人食い馬を小栗が御すところは見事であるし、後半になって、餓鬼が出てくれば、なにしろその姿は見る者すべてに憐れみを起こさせる形象であるし、照手姫がその餓鬼を乗せた車をひく場面には感動を与えられもする。しかし、これではなにやら大衆演劇と同じ位相のお涙頂戴劇でしかないし、それではこの演劇作業の値打ちもないだろう。
雑誌「テオロス」第10号に掲載。
「イリュージョン・コミック」 コルネイユ 演出 前川れんいち 演劇集団 円
ベルナール・ドルトという演劇「知」の求心点にしてコルネイユの専門家であった人物を持ったわけでもなく、またストレーレルが夢のように美しい『イリュージョン・コミック』を上演したわけでもない、ここは日本だ。ジェラール・フィリップのファンはいても、『ル・シッド』をやりたい俳優も演出家もいないだろう。コルネイユの研究をやりなさい、やりなさい、何しろ誰も専門家がいないから、と私の大学時代の指導教授は口癖のように言っていたが、それでもだれもコルネイユの研究には着手しなかったものだ。コルネイユは宮廷御用達の古典主義論者の気に入らないような破格な作品ばかり作っては槍玉に挙げられる「はみ出し」者、悲劇詩人としては後進の天才ラシーヌに追い落とされ、喜劇作家としてはモリエールにお株を奪われた「老大家」に過ぎない。いかにフランス古典劇の創始者だとされても、個人の情念を犠牲にして国家に命を捧げる、という数々のコルネイユ悲劇の主題は時代錯誤だ。だが、人間理性による世界のロゴスに支えられた西洋近代がその外部に排除したバロック原理との相対性の視野から把握されるこの「近代の黄昏」が映し出す風景のなか、バロックと古典主義の相反する振幅に両足をかけつつ、その両極を見事に自身の作劇術のなかにまとめてしまったコルネイユの存在はやはり巨大だ。『イリュージョン・コミック』(『舞台は夢』とも『幻想の演劇』とも訳されるが同一の作。)は初期バロック時代のコルネイユが書き、またそうであるがゆえに後年の古典主義を軸にした文学史がものの見事なまでに無視した傑作である。ここにはバロック的な仮象の遊戯、悲劇、喜劇、ロマネスク悲劇が全部あると言っていい。
こういうものは滅多に日本の舞台にかからないから、勉強という意味もあって見ておこうと思った。「円」ならば(なにしろ真面目だから)座興に堕することもあるまいし、かつて渡辺守章演出のバロック的ラシーヌを上演した知見も、このコルネイユ極めつけのバロック的イリュージョン劇に活かされているとするならば、存外楽しめるものにもなろう。ともかく、これを日本の舞台にかけた見識は評価する。
あらすじは身も蓋もない。家出した息子の消息を尋ねて旅に出た父親が、洞窟の中に暮らす魔術師から、息子の生涯を幻影として見せてもらうという骨格。その額縁にはめられた劇中劇のなかで、息子は大法螺ふきの伊達男に仕える身となっている。ところが、詐欺師さながらの巧言を駆使して、主人が思いを寄せる資産家の娘を横取りして恋仲になったのだが、やはり彼女に結婚を迫る貴族の男を殺してしまったがために死刑を待つ身となる。しかし、彼女の侍女の策略によって脱獄し、駆け落ちをする。時を経て息子は階級を駆け上り、栄華の絶頂。だが、大公妃との不倫に走ったところを妻にも見つかり、窮地に陥る。それを何とか言いくるめたと思った矢先、妃ともども大公の衛兵に殺される。それを見ていた妻は後を追って死のうとするが、衛兵に連れられて大公の妾にされるのであった。
幸福を求めたがゆえに悲惨な最期を遂げた息子の姿を見せられた父親は、絶望のあまり死のうとする。しかし、魔術師はその父親の前に最後の幻影を見せる。と、それは芝居を終えた役者達の楽屋である。その中には幻影の中の人物がみんないる。実は息子は役者になっていたのであって、魔術師が見せた幻影はすべてその役者によって演じられた芝居、というわけだ。
あらためて分析するまでもないが、観客ー演劇ー父親と魔術師ー幻影(楽屋)−幻影(劇中劇)という5つの、劇場のメタファーとしての入れ子構造が認められるばかりか、劇中劇の内容も、随所に息子の演技的恋愛を物陰から見る第三者、というモチーフを反復する、これは周到に仕組まれた全音階におよぶバロック的仮象の体系世界にほかならない。劇中劇の内容ははっきり言って、どうでもいいような話だ。だから、演出の成否はひとえにこの構造をどう提示するかにかかっている。
前川演出には鮮やかな面と、まったく凡庸な面が両方ある。素晴らしかったのは父親と魔術師の位相。思いきり暗いトーンでまとめたが、明るい祝祭にする手もあるだろうと思えるだけにこれは面白かった。幕切れの幻影(楽屋)も俳優をTシャツ姿の「地」で登場させたのは成功だろう。しかし、この点だけが面白い、というのは2時間半の上演のうち、最初の10分と最後の5分だけが面白いということなのであってみれば、観客としては不満も大きい。問題は2時間を越える劇中劇のほうだ。これはもうそもそも陳腐なものでしかないロマネスク悲劇だ。これを「円」の中堅俳優が新劇優等生にありがちな、妙にニュートラルな、味気ない身体をさらして演じるのだから苦しい。これは、俳優が下手だと言いたいのではない。新劇という機制がとどのつまり、近代リアリズム劇を演じること以外には無効な演技体系であるという、今更言うまでもない事実を、またしても確認させられるだけの凡庸な演劇をしか、今日の新劇もまた提出することができないのかと思わされるのだ。せめて、劇中劇を劇中劇として定位させるセノグラフィーが必要だろう。安手のカーテンを舞台にたくさん吊るして「田舎芝居」風にしようとした意図は薄々感じられはしたが、いずれにせよ舞台が「劇中劇」で覆われてしまってその「外部」を提示できていないのは、結果としてますます俳優の演技が「学芸会」に重ねられて見えてしまって困る。カーテンの使用は美学的にも失敗だったと思わざるをえまい。ブレヒト幕とは言わないが、黒子を使っての屏風の組み立て装置という手もあっただろう。
劇中劇の演技は、幻影として父親の目に見える「リアルなもの」としての演劇、という、これはジュネの『女中たち』にも匹敵する位相の演劇を要求しているわけであるから、ジュネが言ったような「誇張された悲劇調」が唯一の正解ではないとしても、ともかく「嘘っぽさ」のほうを向いた演出をしなければなるまい。でなければ、いったいこの陳腐な2時間のロマネスク悲劇を、どういうレベルで今日、演劇として提出できるというのだろう。そこに疑問の残る舞台であった。
内容に触れる前に、公演会場となった「天王洲アイル・アートスフィア」について一言、申し述べておきたい。
座席もゆったりしているし、階上の席でもたしかに舞台が遠く感じられることはなく、台詞もストレートに届く。舞台の開口部は無機的な四角だが、これは公演によっては工夫できることだろうからいいとしよう。しかしどう見ても、横長の舞台開口部と、2階3階にひろがる馬蹄形の座席配置が調和していない。これでは両サイドからの舞台の見え方がゆがんでしまって見づらかろうと思うのだ。ヨーロッパの桟敷席を意識した、と資料は語るが、馬蹄形配置はヨーロッパの伝統的劇場が「縦長」の舞台開口部を持っているからこそ有りうる形式なので、そのあたり専門家のご意見もうかがいたいところではあるが、私には真意をはかりかねる。それから、もうひとつ問題は、夕方のラッシュにもまれてながらモノレールに乗って劇場へ向う観客の意識に照らして、この劇場までの空間がどうにも周辺から隔絶していて不快に感じられること。駅の改札を抜けてエスカレーターで降りていくと、異様に凝った中央ホールに出る。ならばそのホールの圧倒的な量感に身を置いてから劇場へ、というのが良かろうはずなのに、そのホールをかすめるように歩いて劇場の入口になる、という間の悪さ。
なんだか、地方都市の「グランド・ホテル」みたいなコンセプトで、芝居の匂いがしない。
さて、劇場のために『検察官』のほうはそうとう評価が引き算されてしまったのだけれど、それでもじゅうぶんに面白かった。(役人支配をおちょくる芝居なんだから、別の場所で見たかったけれど・・・)素朴な拝外思想には陥るまいと思ってはいるが、こういうものを見せられてしまうと、日本には現代演劇はやはり存在しないのだな、とつくづく思ってしまう。それは、俳優の技術が低いとか、演出家に思想がないとか、そういうレベルのことである以上に、演劇とは何か、という認識のレベルが異なっているのだ。
ロシア演劇に限ってみても、いっぽうにスタニスラーフスキーの生命的リアリズムがあって、そのいっぽうにメイエルホリドの構成的非リアリズムがあって、しかもその両者が(一般に理解されているよう)対立するものではなく、同質の情熱として響きあっているという文化的蓄積から出てくるものは、パワーがあって役作りがうまければ良い役者だ、なんてレベルで悩んでいるわが国の俳優とは中身が違うのだ。
演出のベリャコーヴィチがメイエルホリドの系譜に属する演出家であることは明らかであるが、それは演劇を、日常的に生きている私達が往々にして失いがちな、「話す身体」としての「リズム」を回復する装置として捉えるという意味である。(落語や漫才がかつて持っていた力にもそれは通じるだろう。)ロシア語が分かろうと分かるまいと、(『検察官』の翻訳には目を通しておくべきだが、)それは副次的な要素なのであって、要はそのリズムを提出できれば、演劇として成功なのだ。舞台の全員が、ひとりの台詞のリズムに合わせて左右にゆれながら表情的な身体を出しているし、女優はひとりひとりが定型的な身体所作を維持しながらリズミカルに語る。そして、事実上の主役である「検察官に間違われた男」はアンサンブルの中心として、彼だけが白塗りピエロのような出で立ちで、ややアクロバット的な身のこなしを見せる。(酒に酔ったときの仕草は見事なものだ)。この中心を占めるピエロから周辺人物までの身体モードが作る「グラデーション」の構成はさすがと言うほかない。朝日新聞の劇評で田野倉稔氏が、コメディア・デラルテの再来だ、と殊のほかこのピエロを誉めて喜んでいらっしゃるのも分かるけれども、田野倉氏ならばさもあらんという評価なのであって、むしろ感嘆すべきなのは、このピエロをただひとり異物として突出させる、「地」のレベルのリズムのほうであるように私には感じられた。
前半の1時間は小気味良いテンポで、全体の話の4分の3くらいまでを一挙に進めてしまう。後半のもう1時間でどうするのかと思っていたら、ピエロが市長の娘をくどく場面でヤマを作り、さらに下層市民が市長の横暴を「偽検察官」に訴える場面をたっぷりとやった。ここで、小柄で太った俳優が見せた、天にも届けといわんばかりの「ロシア民衆の魂」をこめた哀訴の場面は、ロシア・リアリズムの真骨頂。何を言っているのか皆目分からないが、その衝迫力で感動的であった。
難を言えば、定型的身体所作がちょっと「くどく」なるきらいがあるということ。それから、照明が疑問。スポットライトなんか、使わなくていいのではないかと思った。
欲望という名の電車 加来英治演出 栗原小巻主演 サンシャイン劇場
私は別に「新劇」を十把ひとからげに目の敵にしているわけではないから、関心を惹起されれば新劇であろうとなかろうと見に行く。今回は主演が栗原小巻であったことが第一の理由。テネシー・ウィリアムスの『欲望という名の電車』をやるというのが第2の理由、というわけで久しぶりに「新劇」を見に行った。それにしても休日のマチネでもあって観客の年代層が高いことには改めて驚かされる。おじいちゃんおばあちゃんには、サンシャイン劇場の2階席に上がる階段はさぞかしきつかろう。『欲望』のブランチ役といえば、かつての杉村春子の名演技が新劇史上に燦然と輝く大役であることは言うまでもない。文学座の看板女優にしてなしえたことが、俳優座のヒロインにはやはり無理かもしれないとは思いつつも、しかし、杉村ブランチがどうしても漂わせてしまう「料亭のおかみさん」風のキャラクターよりは、栗原ブランチこそ、上流家庭に育ちつつも財産を失って娼婦に転落した女の虚飾と精神の崩壊を演じるには、ふさわしかろうと期待したのであった。
しかし、期待はあっさりと裏切られた。第一に栗原小巻にして杉村ブランチの物まねのような台詞回しをするとは情けない。それほどまでの影響力なのか、それとも演出家が杉村ブランチのまま思考停止してしまっているのかは定かではないが、いずれにせよがっかりさせられたのは本当だ。第二に、当代きっての実力を持つ栗原小巻が、地声と裏声を巧みに使い分ける技術の持ち主であることを認めつつも、この女優には裏声での台詞がコミカルなトーンを帯びることがあるのだ。もちろんそれが活かされる舞台も多いのだが、『欲望』ではそれは致命的な瑕になってしまうのだ。この作品はどこから捉えようと破滅劇だ。底無しに深刻な人格崩壊のプロセスなのだ。劇中の相手を笑わせる台詞はあっても、観客が台詞で笑ってしまっては台無しであるはずだ。とりわけブランチが正気を失って医者に連れ出される最終場には、いっさいのコミカルな要素は介入させるべきではない。しかし、事実、観客は栗原ブランチの狂気を笑うのだ。喜劇の効果が出てしまうのだ。これをチェックできない演出家はどこかおかしい。
畢竟、演出不在である。演出家はただ稽古に立ち会って、俳優達の動きの段取りを交通整理しただけなのではあるまいか。まさか、「名作」と「名優」が揃えば、ほっといたって切符は売れるし、観客には「涙」と「笑い」を提供すればそれで万々歳というわけではあるまい。演出家の責任でないならば、それは商業演劇的なプロヂュース・システムの責任だ。『欲望という名の電車』に乗っているのは誰のほうなのか? 私は別段、あらゆる演出家が古典作品に対してヨーロッパの先鋭的な演出家のような作業をすべきだと言っているのではない。新劇型のリアリズムがひとつの様式として成立するならば、それが成立するための前提的なリアリズムの作業をやってくれと言っているだけだ。
そもそも『欲望』をリアリズム劇として読む軸はふたつある。ひとつはブランチが財産を売り払ってなお一文無しになって路頭に迷うほどの階級没落がなぜ起こったのかという問題だ。ブランチが邸宅を失ったのは彼女の経営感覚が劣っていたからではない。彼女はアメリカ南部の地主階級を襲った工業資本主義の歴史の波にさらわれたのである。彼女にとってニューオーリアンズの妹ステラとその夫で工場労働者のスタンリーの家に身を寄せることは、娼婦になること以上に自分を捨てることなのだ。ブランチにとってこの世で最も憎悪すべきは労働者なのだ。でなければ物語は逆の筋道をたどることになっただろう。それほどまでに捨てられないアイデンティティを捨てた果てにやって来た「下層」社会なのである。ステラの家は「裸電球」がぶら下がっているのだ。けれども、今回の演出ではステラの家が整いすぎている。夫婦ふたりならこれで十分だろうと思わせる空間にしてしまったことが失敗だろう。そういう社会の構図がぜんぜん見えてこない演出である。そして、妹のステラには、かつての高貴さをどこか残した階級の刻印がなくてはならない。ただひたすら声高にがなりたてるステラであってはならないのだ。ならばなぜ、ステラは階級の壁を越えられたのか。それはスタンリーが野卑だがたくましい「強いアメリカ」を具現しているからなのだ。今回のスタンリー役は、どうにもやさしい好青年に見えてしょうがない。上手な俳優だがキャスティングのミスである。
また、『欲望』はブランチという女性の虚飾がはがされていくドラマでもある。その意味では、いわばブランチは演技する「女優」そのもののメタファーなのだ。おそらく新劇界においてブランチ役が特権的な役柄となったのは、そういう軸からの読みがわが国におけるこの作品の読みの主流だったからだろう。演技することを奪われた女優はもはや人格を保てない、という「聖なる怪物」の神話である。けれどもこれを軸にするならば、ブランチの精神疾患はきちんとした病の症候を演じてくれなければならない。栗原小巻の演技はここではその明晰さを最後まで逸脱することがなかった。(裏声はここでだけ使えば良かったのだ。)
それから、余談ではあるが本質的な事柄。私の見た公演には視覚障害者の団体がいらした。こういう人々が劇場で演劇に接することは素晴らしい。そして、なによりも、そういう機会として選ばれた公演であることは関係者一同、誇るべきである。しかし、ならばこそ、声の劇(話劇)としての水準を高めることが求められるのではないか。この点でも、演出が情けない
アングラ少女歌劇、人呼んで「暗黒の宝塚」とはよくぞ言ったものだ。状況劇場や寺山修司周辺の人脈を濃厚ににおわせる高取英が率いる「月蝕歌劇団」は、聖セーラー服少女を歴史=物語の生贄に捧げる、というナルシスティックな男性原理による儀礼的演劇を上演する、きわめて異色の集団だ。おそらくこの演劇に接近してくる「物言わぬオタクたち」の感性では「演劇」が理解できないし、かといって一般的に言う演劇ファンには「儀礼」が理解できない。であるから、オタクを異星人だと思っている筆者にはこの演劇は感性の了解閾を越えたものに見えるのだが、それでもかろうじて、とてつもなく長い2時間に感じられた舞台を退屈寸前の関心で見られたのは、やはり作品が「ピーターパン」だったからだろう。そして、台本の面白さだ。
(観客に、今日の演劇を支えている観客層である若い女性の姿が極端に少ないのは異例とも言えることで、これはこのタカラヅカが「暗黒」であることの証左であろうし、ファン倶楽部があったり写真展を開催したり、舞台写真やビデオの販売に力を入れるのも、これは「タカラヅカ」として当然のことと、私は納得した。それから、同歌劇団のHPで高取氏が書いている日記に、唐十郎が見に来てくれて「観客を裏切ることもしたらどうか」と提案したという話を興味深く思ったが、それも納得した。)
さて「高取版ピーターパン」は一筋縄ではいくまいとは覚悟していたが、期待を超えるねじれ方でストーリーは面白い。以下に紹介するが、その前にお断りをしておきたい。これはあくまでも話の筋立てが面白いのであって、実際の舞台を見て感じる印象とは別物である。美少女たちの台詞は声も通らないし、演劇としての演技の水準にあるのはひとりだけだ。背筋も凍るような穴が(1秒間あっただけで致命的だ。)あいてしまうこともあるし、台本の随所にある「笑わせどころ」のうち、決まったところは皆無である。(主役の美少女が傍白で「うわっ、すごいわ、私、平田オリザさんのところ行かなくて良かった!」なんて言うのは、笑えたが、気づくと笑ったのは私だけだった!)そもそも、テクストの位相と俳優の少女達の演技の位相が違いすぎるのだ。(西堂行人氏はかつて月蝕歌劇団を評して「技巧を超えた生身の人間存在のただならぬ直接性」などという意味の文を書いているが、それは狭い空間でのイリュージョンに幻惑されて発したにすぎない評言だろう。身体化されていない未成熟なものが発する不定形な何かに触れただけで、それを「人間存在」と言うのは言い過ぎだ。)
幕開きがバリ原作の「ピーターパン」の最後の場面。すでに母親になったウェンディーが娘を寝かしつけているとピーターが現れる。もう大人になったウェンディーはピーターと一緒にネバーランドに行けないので、ピーターが娘をつれて行くという後日譚。そこへセーラー服の美少女が現れて「・・・というのが、原作です」と宣すると、一転して舞台にはミイラのように顔を包帯で巻いたセーラー服軍団がろうそくを手に登場して、異教的ダンスに入る。(よく訓練されているが、ほかのダンス文法の痕跡がない身体の集団であることは分かる。)ダンスに続いて舞台は蝉の鳴く夏休み。主役美少女、大阪出身の文学少女(O嬢と団鬼六に凝っている)、やや普通の子のセーラー服3人組が、ある男の子と出会う。彼が実はピーターパン。物語の中のピーターとして彼は少女たちをネバーランドに連れて行く。
ネバーランドでは人魚が次々と捕獲され、少年達が海賊フックの手下にされている。少年の放った矢に主役美少女が倒されたのを、インディアンの娘タイガー・リリー(「インディアン、嘘つかない。いや、それはまずい。ネイティブ、嘘つかない」っていうのも私だけ笑った。)が、呪術師のところへ連れて行く。
その呪術師こそ、サンクト・ペテルブルグのロマノフ王朝に出現した怪僧ラスプーチン。彼は王子アレクセイの白血病を治して宮廷を牛耳っている。ラスプーチンは少女の息を吹き返させるが、少女達とピーターは革命社会党の活動家と協力して宮廷にまぎれこむ。それもこれもすべてはラスプーチンの目論見だったのだ。未来を透視するラスプーチンはロシア革命からソビエト成立、ボルシェヴィキ独裁からスターリン体制の悲劇とソビエト崩壊までを予言し、「未来からやって来た」少女たちにその歴史の証言をさせる。(このへん、コギャルにゃ真似出来ないだろうな。)ゆえに王朝の滅亡を救う手はただひとつ。ピーターパンとともにネバーランドへ赴き、人魚を食して不滅の生を得てその支配者となることだけなのである。すでに海賊フックは丸め込んでいる。
ここからラスプーチンとピーターとの死闘が始まる。セーラー服の1人が寝返ったり、妖精ティンカーベルが王宮にスパイとして入ったり、ついにネバーランドでの決戦へと突入する。ロマノフ側は人魚を食べている(手術台みたいなものの上に載せて食す、という猟奇的場面もある)から死なないし、犠牲となった妖精も少女の歌声で命をよみがえらせるから、泥沼のような闘いである。人質に取ったアレクセイに影武者がいたりするのだ。ここへ突然、文学少女が「一族の危機」を救うために携帯電話で大阪から呼び寄せた家族と、やくざのツネさんが登場してメチャメチャな話になるのだが、ともかくラスプーチンの命を奪ったピーターは、そのとき、盲目になっている。
累々たる屍のなか、廃墟となったネバーランドに少女と立ち尽くすピーターパン。
(もう、このヴィジョンは100人で満員の小劇場の空間では、どうにもならない!)
話は終わらない。ピーターと少女の別れだ。少女はここで、不死の生を獲得して再びピーターと会うために、それまで拒否してきた人魚の肉を食べるのだ!
そして、舞台は老婆となった少女の回顧。すでに仲間の少女も死んでしまっている時代なのだが、少女の顔はまだ若いままだ。その老婆の幻想(と解釈したい)のなかに
ふたたびピーターが現れる・・・。(ここだけ、フライング装置を使う。)
私の思うに 「マクベス」は悲劇である。しかし、実も蓋もない言い方をすれば、「マクベス」にかぎらず、シェイクスピアのどの作品をとっても、その中には喜劇と喜劇が同時にある。シェイクスピアの想像力はどこか1点で「悲劇」を「喜劇」として、あるいは「喜劇」を「悲劇」として透視する視点を作品のなかにしのびこませる巧みさに本領があると私は考えている。その意味では鈴木忠志の「リア王」のような解体と再構成も、その劇の成立点をけっして外してはいない。そして「マクベス」においては、悲劇を喜劇として反転させる要素は、もちろん「3人の魔女」の目を通して見える、この世の殺戮と権力闘争の、笑うべき愚かさだ。
この鐘下演出を見た感想を言えば、シェイクスピアには「陽性」と「陰性」があって、この演出は「陰性」のほうに属する、とでもなろうか。鐘下演出は「魔女」を「赤い女」と短矩の男のコンビに変換したが、高みから人間の欲望をたぶらかして不気味に笑っていればいい魔物を、最期のマクベスの戦いの場でその運命の成就を助けるがごとく、その傍らに登場させ、鎧を着せてやったり、恋人のように寄り添わせたりするのはいかがなものか。これによってこの「マクベス」は喜劇への反転の契機を奪われて、単なる予言をなぞる意志の集積でしかなくなってしまった。
ところでこの「マクベス」はシェイクスピア原作とはされているが、鐘下みずからの脚色によって相当な筋の改変が行なわれている。福田恒存の翻訳も、台詞の一部分に用いられているに過ぎず、河合祥一郎氏が朝日新聞(9.20)紙上で指摘するよう、「鐘下の構成作品である旨を明記すべき」である。が、そうは言いつつも、河合氏は鐘下の解釈に一定の評価を与えている。しかし、私は同氏のように「鐘下の新解釈」を評価する気にはなれない。
<スコットランドの内乱への重心の移動>
とにかく終始、マクベスをとりまくスコットランド軍が荒々しくて、神経がぎしぎししているのだった。それもそのはず、スコットランド軍は誰が敵に寝返るが疑心暗鬼、戦々恐々たる状況であることを、鐘下は原作に付け加えたのであった。原作では、たしかにそうなのかもしれないが、表面化していない。マクベスが盟友のバンクォーを殺害するところは、完全にその内紛を利用して、という解釈になっている。こういうレベルで辻褄あわせをしてしまうと、マクベスから内面の焦燥が奪われてしまって劇全体が、要するに単なる「お話」のレベルに落ちてしまうのだ。私が思うに、マクベスは「時間」との闘いを引き受けた男なのだ。
<マクベスの王殺しの理由>
マクベスは忠臣で、その妻が夫をけしかけて王を殺した、という単純化が行なわれていた演出である。けれども見ていてやはりどうもそこに説得力がない。マクベスがなぜ、妻の馬鹿な考えを拒めないのかちっとも分からない。
<魔女の報復という物語>
鐘下は、魔女の仲間の小人がかつてマクベス夫人から栗の実を分けてもらえなかったことが、マクベス夫妻に対する魔女の仕業の根拠である、というまことに大胆な別の物語を作品に接続した。これはまったくナンセンスである。魔女の位相とマクベスの位相を同列に置いてしまいたいのだろうけれど、この「読み」が何に基づくのか鐘下に明らかにしてもらいたい。
<全体の循環構造化>
これは面白かった。バンクォーの息子が森の中でやはり魔女とすれちがう、という解釈はいい。しかし、悲劇というものは「反復」を拒否する時間の形式の謂いなのだ。それをどう考えているのか。
<マクベス夫人の赤ん坊殺し>
敵方に寝返ったマクダフの妻と子が人質にされるのは原作にあるが、その子(赤ん坊)をマクベス夫人が殺すという突飛な思いつきはどういう意図があるのか。マクベス夫人のかつて死んだ子に対する思いがそうさせるという解釈をとりたいのだろうが、それではマクベス夫人の狂気に「マクベス」のすべてを吸収させようというのだろうか。
結局、鐘下がやったことは、「マクベス」を、反転されたヒューマニズムを利用しながら心理主義にたち、物語を説明可能なレベルに平板化することでしかない。私が「陰性」だというのはそれだ。
<舞台装置の素晴らしさ>
しかし、演劇はやっかいなのだ。この演出は装置がすばらしいのだ。(美術 島次郎)。全体は黒を基調にまとめ、舞台は前面を半円にせり出させる。舞台全体は、銀色の鉄骨で(パリのデファンスのグランドアルシュみたいに)囲われている。中央に大きなテーブルのような仮設台を置いて、(舞台内の舞台としても、またクロスをかけてテーブルにも使われる)その背後から一本の通路が舞台奥の、非常に丈の高い扉に向って伸びている。両サイドに「かがり火」がひとつずつ。袖には椅子が並べられている。舞台奥には奈落が口を開けていて、端役人物はそこから出入りする。(主役クラスはもちろん奥の扉からだ)。いっぽう、せり出した半円舞台部分の中央には奈落へ通じる丸い孔が開けられていて、死体はそこへほうりこまれ、亡霊もそこから出てくる。また、マクベス夫人が狂乱するとそこに水が張られて、それを夫人はじっと覗きこんで動かない。そして、死んだ赤ん坊を抱いたまま水に入るのだ。そして、最終場ではその水は血の色に染まる。
しかし、蛇足ながら、そうしたセノグラフィーがまったく象徴はおろか、意味を担った記号としてすら機能していない。
この装置のままで、別の芝居が見たい。
イグノランティス大陸 (モリエール「病は気から」) 劇団スーパー・エキセントリック・シアター
87年に同劇団の若手公演(Off SET と称するらしい)で初演され、それが昨年再演され、さらに追加公演というなかなか寿命の長い演目である。昨年、見に行かなかったのは、うかつにもこれがモリエールの「病は気から」であることに気づかなかったからだ。スーパー・エキセントリック・シアター(SET)とモリエール。その組み合わせに興味をそそられて、出かけた。
「イグノランティス」なる語は原作で医者の「無知」をからかう言葉として出てくる。それを「大陸」と読み替えて「メディカル・ミステリー・ツアー」などと副題をはめるのは、内容がまったくモリエールそのものであるだけに蛇足だけれど、どこかSETらしくしておかなけばという意図ならそれもよしとしておこう。
で、これはもちろんSETがやるわけだから、新劇ふう教養主義でもないし、現代フランスの演出家たちの読解主義でもない。モリエールをSETの座右の銘「ミュージカル・アクション・コメディー」に仕立てあげる趣向である。しかし、「病は気から」はもともと「音楽・舞踏劇」なのだから、歌って踊れてギャグが決められ、しかも諷刺とナンセンスにみちたSETのような劇団には向いている、どころか、それが本来のスタイルなのだ。
ただし、このモリエールはヴェルサイユ宮廷風ではなく、いくぶんレトロなヨーロッパのキャバレー、あるいはミュージックホールの舞台を見ているような、良い意味での俗っぽさがあって、そういうものとして見るならば、一定レベルのエンターテイメントには仕上がっていた。その点、問題があるとすれば、ヨーロッパ近代の「劇場」の舞台にはかからないような、こうした演出が、わが国では堂々とプロセニアム公共劇場の舞台にかかり、観客は、飲み食うわけでもなく、純粋にそれを「見る」ために存在する、という表象関係のほうであるにちがいない。
出色だったのは医者の親子。ウルトラマンの主題歌のような歌にのって登場し、過剰な幼児性と記憶力の魔という変質的な役作りでこの作品の最大の見せ場を盛り上げた。(無能な2代目医者への諷刺が利いている)。難を言えば、この親子が退場したあとに休憩を入れて、客を冷ましたほうがいいだろう。この直後に出てくる薬剤師の「浣腸の場面」が、どうしてもパワーダウンして退屈に思えてしかたない。この作品は「医者の親子」の場面と、末尾に主人が「死んだふり」をして後妻のたくらみと娘の誠実さに目覚める場面のふたつのヤマ場を持っているのだが、休憩なしに流してしまうと、どうしても後半が「下り坂」に置かれてしまう。このふたつの場面だけを取り上げれば、喜劇としての演出は見事なものだっただけに、惜しまれるし、モリエールの「大団円」へと向う劇構造が台無しになってしまう。が、もっともSETは最初から「劇」を上演しているのではない、と開き直るのだろうから、私もSETは「演劇」ではないという前提に立って評価しているのである。それは理解していただきたい。
とかく常軌を逸した人物群のなかで、中庸な判断力の座をしめる女中役は、後半で医者に変装して主人を丸め込む場面がちょっと物足りないが、女中役としては安定した演技で好感が持てた。登場人物は一応、正統的な17世紀装束(医者の倅をのぞく)を着けるのだが、こういう「ショー」としての額縁もはまった、おちょくり芝居とも見える演技のなかでは、すごく面白く見えることを発見したのは収穫である。
それにしても、劇中に挿入される歌とダンスの俗っぽさは、たまらなく良い。モリエールも、ミュージカルも、タンゴも、なにもかもが、みんな異化されて見えてくるような嘘っぽさを通して、SETが追求する「笑い」とは、喜劇が本来持っていた古典的なものなのではあるまいか。テレビにもない、「お笑い」タレントの芸にもない、あくまでも観客に健康的な活力を与えようとする「笑い」がここにはあるような気がした。
それだけにまだまだ公演を重ねて、演出を磨いてほしい舞台である。あえて言えば、台詞劇のリズムを、ほんの少し早くしてほしい。そして、俳優にコメディア・デラルテ的なアクロバットの身体があれば、とてつもなく面白いものになるだろうけれど、そこまで望むのは無理か。
笹本玲奈を主演に迎え、劇場も新国立劇場に移して3年目となる『新ピーターパン』は、初代ピーターパンだった榊原郁恵の初演から数えれば20年目のロングランとなった。私事で恐縮ながら、娘が5歳になったので、そろそろ内容についていけるかな、と思って今回、娘を連れて私も初めて見に行ったのだった。
20年続くには理由がある。これは、やはりとても良いミュージカルなのだ。というか、ミュージカルというのは基本的には子供も愉しめるレベルのものなら成功するのだなと感じたしだいである。これは別に「ミュージカル」自体を貶めているわけではない。ブロードウェイの高水準のミュージカルの、ただひたすら観客を見ることの快楽にひたすしかない達成の価値はそれとして認めざるをえないし、それが悪いというのでもない。ただ、ミュージカルは一般的にそうした原理で創造されている以上、観客の意識を著しく退行させるというだけだ。そして「ミュージカル」のある社会には、劇場に意識の退行を求めさせる社会の力がはたらいているということだ。そして、日本におけるミュージカルが、ブロードウェイ演出をそっくりそのまま持ちこんでも、結局は「レヴュー」の域を越えないのは、おそらくは、わが国では劇場をとりまく「外側」の社会が、かの地のミュージカルの水準にまで退行しているからなのだ。つまり、劇場と社会の関係性の水位がはじめから異なるのだ。
さて、この『新ピーターパン』で驚くべきなのは、新国立劇場(オペラ劇場)の舞台機構の活かし方だろう。あまり熱心なオペラ・ファンではない私は、この劇場自体も今回、実際に目にするのも初めてだったのだが、噂に聞くとおり、この舞台は、舞台の下(奈落)に、さらには奥に、つごう3つの「舞台」をまるまる内蔵する空間なのであり、それらはすべて「丸ごと」、つまり「板付き」の状態で下から、奥からスライドさせて前面舞台へとセッティングできるのである。第1幕の幕切れは、ウェンディらのいるダーリング家にやってきたピーターパンが、彼女と弟たちをともなって「ネヴァーランド」へと飛び立つ場面で終わるが、かの「フライング」(飛翔)で吊るされた彼らの背景で、舞台セットが奥へと後退していくと満天の星が背景を覆う仕掛けは、あたかもピーターパンが夜空の高みに舞いあがった、という距離感を観客に体感させる見事なものであった。また、第2幕では奈落からセットが丸ごと上がってくるところを見せ、観客を圧倒させる。そして圧巻は第3幕の冒頭。スモークを焚いた舞台奥から、海賊船が丸ごと、舳先を手前に向けてスライドしてくるのだ。
(かのスペクタキュラスな蜷川幸雄『テンペスト』でも、船は舳先だけの作りだった。)笹本玲奈については、その運動能力の高さは歴代のピーターパン役女優の中でも群を抜いているのではなかろうか。実際、サーカスの空中ブランコと同じようなフライングを次々とやってみせられると、かの歌舞伎「宙乗り」の大家の業も色あせてしまう。(まあ、歌舞伎で、地上20メートルで吊ったまま振り子運動させろとは言わないが)。台詞や演技力については、これからの人だからまだまだ伸ばしてほしい。
しかし、劇場の音響効果については批判されるべき点がひとつあるし、この意見はぜひ現場にも届けたい。私は比較的「高いところ」(あ、値段じゃなくて、空間的なことね)の正面で見たのだけれど、マイクを通した台詞はそのほとんどがこもってしまい、何を言っているんだか分からない。これは、そもそもオペラ劇場なのだから音響も、舞台上から肉声で響くように設計されているにちがいない。(オーケストラの音響は素晴らしかった!)解決策としては、台詞をゆっくり言うことが挙げられるが、それはしてほしくない。この演出におけるテンポは、これでいい。だから、ぜひ、マイクのエコーを極力下げるような工夫をしてほしいのだ。あるいは、スピーカーの位置を変えることも可能だろう。
「ピーターパン」はイギリスの作家ジェイムズ‐マシュー・バリ(James Matthew Barrie 1860-1937)の想像力の産物である。いろいろ論じるべき点も多いし、ミュージカルもかなり原作に忠実なので、これについては稿をあらたにしたい。
(「ピーターパン」を読む)演出についてひとつだけ。演出家の意図は定かではないが、今回「父親」役と「フック船長」の二役に抜擢されたRolly(ローリー)は、とりわけ海賊役においてその個性を見事に発揮したと思うが、問題はこの「二役」が実は、船長と父親との分身関係を示唆するものなのではないか、という思考の契機となったことは感謝したい。
上野に近い谷中で廃業した銭湯「柏湯」が銭湯の外観を残したままギャラリーとして使われ
ている。それを今回、人形劇のための劇場に利用しようというのが、まずは企画の主眼であ
る。アルフレッド・ジャリの『ユビュ王』は、言うまでもなくアヴァンギャルド演劇の先駆的作品。
既存の社会の愚劣さに「くそったれ!」と罵詈雑言を浴びせるメチャクチャ芝居だ。その挑発
が生命であり、魅力である。しかし、初演から100年を経過した今日、場所も東京の片隅でこの挑発がいったいどのよう
に発動されるのか。演じる側にも見る側にも困惑は隠せない。舞台は中央に食卓を模した大きなテーブルを、客席ひな段が三方から囲む。テーブルの周囲
にも椅子があって、そこも客席になる。人形劇はそのテーブルの上で行なわれる。黒い衣装の
操り手が台詞を発しながら足元で人形を動かすという形式であったが、人形に比べて操り手の
存在感がありすぎるし、テーブルまわりの観客の頭にさえぎられ、かつ反対側の観客の顔が、
さらし首のように並んでいる手前の空間での人形劇では、劇のなかに視線が集中していかない。
やはり人形劇というものは、人形だけが現前する空間を作らなければいけないのではないか、と
思った次第だ。結城座の人形造形、操作、さらには操り手の台詞の言いまわし、すべてが高い
水準にあるだけに、少々残念であった。作品そのものは、たいした筋立てがあるわけではない。マクベスのパロディーとしての、王の暗殺
とその復讐劇だと言うほかない。だから人形劇の形で1時間50分の上演は、少々「もたない」。
そこを計算して、なかほどに義太夫が10分程度はいってアクセントをつけるわけだが、この趣向と
効果に素晴らしいものがあっただけに、本体部分がかえってうすっぺらに見えてくるうらみが残る。なお、テクストの固有名詞(地名)をすべて、谷中周辺の地理に置きかえることによって生じる
おかしみは効果的であったと思う。
甥らは嫁かーに I love you 六月劇場チーム Lost Kids 東演パラータ劇場
何とも内容がつかみにくいタイトルにしたものだが、これは古典落語「文七元結」を舞台化したものだ。「文七元結」は三遊亭円朝の作。腕はいいのに博打に入れこんだ父親の左官、長兵衛を案じて自ら遊郭に身を売ろうとした娘のおひさ。遊郭の女将のはからいで貸してもらった大金を手にした長兵衛は、その帰り道、大川へ身を投げようとした手代の文七に出会う。聞けば店の金をスリに取られたのだと言う文七に、長兵衛はその大金を投げつけるようにして取らせる。ところが、スラれたと思っていた金は、文七が先方に置き忘れたものだった。文七の主人は、見ず知らずの人に大金を恵む長兵衛の心意気に打たれ、遊郭からおひさを身請けして、金を長兵衛に返し、文七とおひさを縁組させる、という話。
舞台装置はそう凝ったものではないが、スタジオ劇場ではこのくらいの簡略さがかえって見やすかろう。もっと茶化した内容かと思っていたら、これがどうして、なかなかの正攻法で落語を舞台化しようとしたものだった。といっても、草履を履くのが当たり前の商人が下駄を履いていたり、身をもち崩した職人の哀切さと滑稽さがその一点に描き尽くされているはずの、妻の一張羅の着物を無理やり羽織った長兵衛のいでたちは、ずいぶん整いすぎていたり、と誰か噺家のきちんとしたアドバイスがあれば無用の誤解もせずにすんだところも多々あった。なかでも、文七は「手代」なはずなのにどう見ても「丁稚」と誤解したらしい演出は、この噺の核心にかかわることなので、残念でならない。
しかし、落語を舞台化するという手はたしかにある。その着眼点は評価していいのではないだろうか。題材も選ばなければならないが、落語からは上質な喜劇が抽出できるだろう。類型化された人物像や道化(与太郎)はコンメーディア・デラルテを彷彿させるし、時代は江戸だが「民」対「官」の社会構造は、現代の劇としてスライドさせて遜色ない。また、古今の名人噺家が残した録音からは、近代リアリズムとは別の地平に成立している「台詞の文体」が浮き彫りにされてくる。じっさい、若い俳優も、そうした録音を参考にすることで、日本語をどのように舞台の言語にしていけばよいのか、おのずと解答のひとつを手に入れるだろう。一人で演じる対話劇という独特な手法を持つ落語の文体=声はすでに異化を含んでいるわけで、それを土台にする演劇は、おそらく役柄と俳優の間に距離をもたらすにちがいない。
問題は話の結末をどうするかということ。今回の「文七元結」のような人情話では、どうしてもかつての松竹新喜劇、というか家庭劇さながらの、めでたしめでたし、という幕切れになってしまう。落語そのままの「オチ」を採用するわけにもいかないだろうから、ここを演出としてどう処理するかが、今後の課題であろう。
「テンペスト」 シェイクスピア 演出 蜷川幸雄 彩の国さいたま芸術劇場
初演は87年だというから、いわゆるバブル景気の最終局面に符合する。その初演を見ていないので、今回の上演がそれをどこまで忠実に再演したものかは不明なのだが、基本的に初演から手が加わっていないとするならば、この13年間に蜷川幸雄という演出家はずいぶん変ってきたのだなという印象をまず受けた。視覚的なスペクタクル性を追求していた時代から、人物間に張り巡らされる糸を綿密に表出しようという方向にある現在へと、それはほとんど同じ演出家のものとは思えないほどの変貌である。が、この変化は私達の社会の空気の差に起因するものなのかもしれない。蜷川幸雄は敏感にその空気を舞台に溶かし込んでいるだけなのだとしたら蜷川自身はいささかも変っていないとも言えるだろう。
蜷川の「テンペスト」は良きにつけ悪しきにつけ「話題作」であった。なによりも「テンペスト」を佐渡島の能舞台で行なわれる「村芝居」として翻案するという趣向が斬新だ。もちろん能からも多くの要素を借りてきて演じられる。批評はこの大胆な着想を礼賛したが、半面、否定的な言辞も少なくはなかった。演出の奇抜さが前面に出すぎてしまって、テクストとしてのシェイクスピアが陰にかくれてしまった点はたしかにあっただろう。だが、そうした賛否両論の嵐を乗り越えた今日、われわれがこの舞台をどう見るかが問題だ。
開演前からすでにこの村芝居の準備が舞台では行なわれている。裏方は総出で入念に装置をチェックしているし、俳優もスタッフと話しこんだり準備体操をしている。能の囃し方や端役の出演者は開演前に客席から舞台にあがってきて、スタッフとあいさつしている。ほどなく中央で鬼太鼓と獅子舞が披露されて、祭りの雰囲気は盛り上がる。そして開演間際に舞台スタッフが円陣を組んで掛け声をかけると、すさまじい雷鳴と共に天井から船の舳先が降りてきて一挙に嵐の場面へなだれこむのである。この鮮やかな導入は見ごたえじゅうぶんだ。
しかし、その場面がすんで老プロスペロー(平幹ニ朗)とその娘ミランダ(寺島しのぶ)の場面になると、このふたりの演技の質があまりにも紋切り型に終始するのに、正直言って興をそがれる。ふたりとも妙に棒立ちで、怒り・喜び・恐怖など基本的感情を単純な動作に還元するばかりなのだ。これが本当に、昨年来、チェーホフを濃密な舞台に結晶させている演出家のものなのかと疑いを拭い去ることができない。能舞台を前にして「ナポリだ、ミラノだ」と叫ぶのは、ミランダの場違いなまでに白いドレス姿ともども、どこか空々しい。この印象は幕切れまで続いた。
能舞台は基本的にはプロスペローの幻術の空間として設定されている。空気の精エアリエルはじめ、妖精たちは能舞台の橋掛かりから、能を模したいでたちで登場する。この演出はけっして悪いものではないと思った。けれども、休憩後の冒頭20分あまりにわたって能舞台で繰り広げられる能仕舞風の「妖精の踊り」は、冴えたものではないし、ナポリ大公の一行がプロスペローの幻術にかかって岩屋に連れてこられる場面など、俳優の動作にはいささかの様式性も儀礼性もなく、あれでは何やら鈴木忠志の物まねにすぎない。
キャリヴァンをはじめとした道化のグループは、幕間狂言のつもりなら「狂言」の文法を用いて演じさせるべきであろう。とにかくこの一群はどうにもくだらないおふざけばかり、素人歌舞伎のようなしぐさで行なっている。「テンペスト」におけるこの道化の存在は、作品のリズムにスピード感を与えるものと筆者は理解している。筋書きが単純なだけに大事な存在だ。それが、今回の演出では、作品の進行を止めてしまっているのは、どうにも納得がいかない。
舞台の全体は能舞台を中心とした、木々に囲まれた空間である。その両袖には折り畳み椅子がならべられており、プロスペローもミランダも、出番のないときはそこに座って休んでいる。作品全体を「村芝居」と見たてたわけだから、こういう演出もありえないわけではない。しかし、その楽屋でも客席でもない木陰、とはいったいいかなる空間なのだろう。演技の空間と演劇表象の空間はセノグラフィーのレベルでも重層化されていなければいけないはずで
ある。にもかかわらずこの空間は演技空間の、あくまでも内部でしかない。したがって「村芝居」と「テンペスト」とがいっこうにどういう関係になっているのか定かではないのである。プロスペロー=演出家=村芝居=能=シェイクスピアという構造によってささえられるべき演出であるのに、その構造化がまったく破綻してしまっているのだ。なにもかもが単なる「劇中劇」でしかなく、しかも演出家は「劇中劇」の外側の劇を提示しようとしていない。これでは蜷川演出は、ただ斬新な見立てを行なったというだけのものであろう。
箱崎TCAT横の路地を入った一角にある、かつてガラス倉庫だったという昭和20年代に意匠をこらして建てられた倉庫。首都高速箱崎インターの味気ない高速道路に上空を覆われた暗い地帯に、天井の低いワンルーム・マンションが建ち並び圧迫感に包まれたあたりである。人形町から水天宮へかけての「下町」も、どこかコンクリート漬けで、作為が見え透いた地帯である。そういう「負」を背負った街並であるからこそ、唐十郎の想像力は飛翔するのだろう。既存の「劇場」を遠ざかった第七病棟が今回、唐十郎のテクストを得て「演劇」を創出させようと選んだ舞台はそういうところであった。それは現代の「河原」だ。周縁と呼ぼうとかまわない。唐の天幕芝居が執着する「神社」の境内の暗がりに匹敵する闇を、この空間は持っている。
「スーパー水天宮」のパート店員サチコ(緑魔子)と、おなじみ「ジョンシルヴァー」以来の系譜に連なる与太者ヒーロー、竿竹売りのアマヤ(石橋蓮司)との、純愛と別れの物語である、とこの芝居を要約することはたやすい。そして、この愛情は畢竟、サチコとアマヤのかかえる「妄想」に近いふたつの「物語」の交錯する瞬間をつむぎだすにすぎない。しかし、臆面もない言い方だが、恋愛というものは内面の「物語」の中にしか存在しないものなのだ。もっと言うなら、恋愛は「ことば」の中に、シニフィアンの中にしかない。ロラン・バルトの『恋愛のディスクール』、あるいはカフカが恋人ミレナに送った書簡にあるよう、「私はこの手紙の中にしか存在しない」のである。 そして、日常的な表層に抑圧された物語的深層が、あたかも自明のこととして解放されているかのようなテクスト。それが唐十郎のエクリチュールである。夢と現実が等位に連結し、また切断される世界である。サチコは「少女の塔」の窓辺にたたずみ、水没する街を眼下に見やりながら、「おにいさん」の到来を待つ、という物語をかかえて生きる、内気で不器用な店員である。彼女はアパートからその想いを伝書鳩に託して放ったのであった。けれども、宛名のない手紙=物語を携えた鳩はふたたびアパートに戻ってくる。そのとき、アパートの部屋の住人となっていたのがアマヤであった。彼は手紙の差出人を尋ねてスーパーへやってくる。そしてアマヤはサチコの物語を引き受けるように、その返信を書く。が、それをふたたび鳩に託したのでは埒があかない。舞台下手に作られた塔の窓にサチコをたたずませ、自ら鳩となって返信を運ぶ、演戯を行なうのである。アマヤにとって、サチコはかつて交通事故で失った「妹」(血はつながっていないらしいが)の代理でしかない。ふたりの愛が、鏡の中の映像を通して形成されていくのも、きわめて象徴的な構図である。
で、これが主筋なのであるが、わき筋は、竿竹屋の弟分が「鳩退治」の消毒屋で、兄貴の竿竹を消毒屋に売ってしまうところから主筋と絡み合ってくる。アマヤは「鳩」を守ろうと、消毒屋から竿竹を取り戻しに行くのが、人が唐を「天才」と呼ぶのはこういうロジックを詩的言語として完成させてしまうところにあろう。ー高田の馬場のホリベというじいさんが、バス停で鳩に餌付けをしている。なぜそんな迷惑なことをと問えば、「こっちが鳩の領分なら、あっちが人間の領分だ」と。そこで、じいさんのあとを追って行くと、アパートの一室で鳩をたくさん飼って暮らしている。人間と鳩との世に線引きできるこれは何者?と、感心したわけだが、その部屋の奥には竹久夢二の絵がかかっている。その絵の女の眼ざしこそ、人間と鳩との線引きができるのだ!
この「図像」が、「少女の塔」でたたずむ店員の「物語」へとつながっていくわけである。
最後にふたりは、消毒屋に殺された伝書鳩の骸に手を添えて、将来を誓う。だが、それでも、自分は妹の姿を店員に求めているだけだ、と、ひとり去って行く。
石橋連司と緑魔子は、唐の文体を血肉化して濃密な舞台を作ったと思う。大人のための、教養主義でも娯楽主義でもない、感性も知性もぶつけて悔いのない、そして、せつない「詩」に達した演劇であった。私の見たもののなかでは、本年、これまでのベスト。
「イエスマンとノーマン」(無条件降伏委員会) アサヒスクエア
ブレヒト初期教育劇のひとつであるこの作品は、能の「谷行」からブレヒトが着想をえたものです。話の筋は単純です。「ある村の先生が山をこえて大きな町に研究のために行くことになった。その教え子のひとり、少年には病の母がいて、彼は先生の旅にはついていけないだろうと誰もが思った。しかし、少年は母親の薬を求めて同行すると主張した。さて、険しい山道で少年は力尽きて動けなくなる。途中で進めなくなった者は置き去りにされ、谷底に捨てられるという掟にしたがい、少年は、はい私を谷に捨ててください、と言わねばならない。」
これが「イエスマン」。昔の翻訳では「然りと言う者」となっています。ブレヒトはこの教育劇を上演したのち、個人は全体の目的達成のために犠牲になるべきか、という討論を子供を前に開きました。すると、子供たちは、「作品の少年は、はい、と言うべきでない」と結論を出したのです。そこで、ブレヒトは「ノーマン」を書いたのです。「ノーマン」(「否と言う者」)では、少年は「掟は状況によって変わるもの。私を連れて引きかえしてくれ」と言います。個人の尊重のためには全体の目的は犠牲になる、という逆転図式です。
さて、無条件降伏委員会は、「イエス」のヴァージョンと「ノー」のヴァージョンを連続して上演します。この劇団は俳優ひとりひとりが独自の身体技法を持っています。少年の仲間達は学生服の応援団風のスタイルにしてあります。「はい、と言うことの意味が問題だ」という、女性3人による朗誦をプロローグにする演出は期待が高まりました。本筋に入るとテンポ良く進んで行き「イエス」のヴァージョンから連続して「ノー」のヴァージョンに入りますが、途中からちょっと雲行きが怪しくなります。病気の母親の場面で、上から下りてくる「仏壇」。応援団風の男達は東京農大の「大根踊り」をはじめます。最後に、舞台上に大根が散乱します。「ノーマン」が終わると、ボロを纏った男が舞台袖から現れて、森進一の演歌が流れ、マクドナルドの幟を畳に敷いた座敷が下手から運ばれてきます。その座敷はちゃぶ台が載せられていて、そこには桶にそうめんが入っています。その男と、それからふんどし姿の「母親」(男優)、やはりボロを着た「少年」の3人が、ひたすらそうめんを、食べます。延々、食べます。そのうちにふたたび、そうめんを食べながら「ブレヒト」が始まります。前と同じようなヴァージョンです。座敷が片付けられて、山道の場面に入っても、少年はまだそうめんを食べています。その間、芝居が中断された形になります。で、結局これは「イエス」のヴァージョンに落ち着きます。で、最後はぜか、みんなでパーカッションに合わせて踊っておしまいでした。
演出家はいったい何を考えているのか。そもそも彼らのやったこと演劇なのか。きわめて水準の低い意識の産物であった。
「真田風雲録」は傑作であるにもかかわらず、俳優座の初演(1962年)以来ほとんど上演されてこなかった。この作品が持つ演劇史的位置付けについては、たとえば渡辺守章氏の『虚構の身体』、あるいは佐伯隆幸氏の『現代演劇の起源』が説くところであるから参照されたい。日本の「戦後」を関が原の戦いの「戦後」に重ねあわせ、大阪夏の陣・冬の陣における真田幸村ひきいる浮浪人十勇士の戦いを、安保闘争の文脈で語りつつ、そこにいいかげんで、軽薄な彼らの醒めた熱い姿を描き出した秀作だ。
それがどういうわけか、この作品が、意外と「いまどきの子」にうってつけなのではないか、と 思うのは、昨年パフォーミング・アート・センターの卒業公演で取り上げられたのを、この作品をやるからという理由で見に行ったときからのことだ。安保闘争時代に学生の議論を彩ったさまざまなタームが、現代の若い人達に通じるはずがない。しかし、その、意味の抜け落ちた言葉が語られ、「熱い戦い」を支える身体なども持ち合わせない俳優が、けっこうかっこよく唄ったり、踊ったりするのを見ていると、この地点に、かえってブレヒト的な「異化」すら垣間見えてくるという経験をしたのだった。いわば、裏の裏の論理だ。
岡部演出は、真田の戦いをひたすら熱く描き出した。ここには、醒めた意識も空しさもない。俳優は「熱演」 を、ただひたすらす
るだけだった。これでは作品の本質が失われてしまう。
これは現代フランスの劇作家ベルナール‐マリ・コルテス(1948−1989)の本格的な作品上演としては日本で初めてのものである。『ロベルト・ズッコ』はコルテスの晩年の作品で、実在の殺人犯の名前だ。実在する犯罪者を主人公(ヒーロー)にしたことで、フランスでは上演禁止にされていたという経緯もある。初演はベルリンのシャウビューネでペーター・シュタインが演出している。
正直に言って、『ロベルト・ズッコ』はコルテスの作品のなかでは、もっともコルテスらしくない、ということは逆に、「普通の芝居」らしい作品だ。それまでのコルテス作品に特徴的だった、執拗なまでに紆余曲折したロジックを駆使したモノローグは、ここにはすっかり影をひそめている。『黒人と犬の戦い』における植民地、『西埠頭』における港の倉庫のような、コルテスが好んで取り上げてきた社会の周縁の光景はここには見られない。
父親を殺した罪で刑務所にいるズッコは脱獄して母親のもとへ戻り、母をも殺す。逃走中、警官を殺し、公園で上流マダムを人質にとり、その子を殺す。そして、逮捕されるが、ふたたび脱獄に成功。刑務所の屋根から飛び降りて(おそらく)最期を迎える、というのが主筋である。
この一連の無差別殺人は、ある意味では「無動機的」で、社会的なテーマが背景にあるとは感じられない。ズッコはひたすらアフリカを夢見、自らの頭の中にこびりついた思考の崩壊の予兆に焦燥を覚えながら何物にも行く手を遮られることなくさまよっていく。その「運動線」が生命線となる演劇のように思われる。コルテスもこの点では実在のズッコがそう診断されたよう、ズッコを「パラノイア」として描いているようだ。ズッコは発作的な殺人に駆り立てられるが、普段は知的でむしろ穏かな人物だ。
しかし、ひとりのパラノイアの話というだけでは仕方がない。
この主筋にふたりの女性がからんでくる。ひとりは逃走中にズッコと知り合った少女。少女は両親や兄姉に過保護に育てられた身の上だが、ズッコと関係を持って以来、ズッコの後を追うように娼婦になっていく。もうひとりは人質になったマダム。彼女も息子を殺されながらズッコとともに逃走することを選ぶのである。ズッコは美男子で女性から愛される人物なのだ。女性から守られる存在だと考えていいだろう。
さらにここにはユングを典拠にした「太陽神話」がからんでくる。その太陽は「ペニス」を持ち、ズッコの殺人と逃走は、すべてその太陽へ向っての上昇運動だとも解釈できる。
単純な作品なのだが、演劇としてこれをどう理解するかということになると難しい。多くの短い場面が並列的に展開するばかりで、つかみどころがない。演出家はこれをどう考えたか。
端的に言えば、演出家はこれを「マンガ」あるいは「劇画」だと考えたのである。ズッコはマンガの主人公のようにナンセンスな感覚に貫かれて思考と歴史の消去された時間を生きている、と。たしかに、この意図は舞台に生かされていたと思う。舞台を見たときにはさほど感じなかったのだが、後日NHKが舞台を放映したさいに、「顔」をアップに映すテレビで見ると、俳優たちの演技の質が、まさにマンガの感覚にはまっていると感じ入ったのだった。
しかし、それはそれとしてもやはりこれは正解ではあるまい。繰り返すが『ロベルト・ズッコ』はペニスを有する太陽へ向う、いわばイカロスの墜落神話と、他者とのあらゆる関係を否定する衝動の接合点に成立する劇なのである。その接合点には、おそらく「内部」から確実に侵蝕されつつあるズッコの精神がある。
『ゴドーを待ちながら』 串田和美演出 Studio コクーン
*これに関する劇評はCahiers de Theoros第6号に掲載しましたので、そちらをご覧ください。
なお「テオロス」に関するお問い合わせは テオロスフォーラム 03-3706-3101まで。
旧ユーゴスラビア生まれで、現在はフランス、オルレアン振付センター(この訳し方、なんとか変えたら?)のディレクターをつとめるジョセフ・ナジは、ピナ・バウシュやフィリップ・ジャンティとならんで、いわば「演劇的なダンス」の系譜に属する芸術家である。演劇的、といっても台詞があるわけではない。ダンスのなかに「物語」を持ちこむのだと、さしあたり了解すればよいであろう。その射程は、いくぶんカントールの後継のようでもあれば、あきらかに後期ベケットの地平に立って演劇を考えているようでもある。
けれどもやはり、ナジの世界はバウシュやジャンティと相貌を異にする独自のものである。『ヴォイツェック』を見る限りかぎりでは、ナジが舞台の上に動かそうとしているのは「人間」でもなければ「人形」でもない、言うなれば「非‐生を生きる屍」だろう。
狭い空間には過剰なまでに「物」がある。物のはざまに「人」がいる。ある「人」はしばらく奇妙なかっこうのまま静止し続けるから、 これは「人』なのか「物』なのか区別がつかない状況を出現させようとしているのだ、 とは理解できる。これはそのままなナジのダンスの身体性を表してもいよう。しかし、物と区別がつかないといっても、無機的な機械のような身体を想像してもらっては困る。ナジはたとえば「砂』や「水」、はては「内臓」までを舞台に持ち込んで、この「物の過剰」が「触覚」 「生理感覚」の束であることを強調するのである。
『ヴォイツェック』はビュヒナーの、断片だけが残された作品(あるいはそれ以前)のテクスト群であるから、ここに物語の起承転結は厳密な意味では存在しない。ナジがこの舞台を、非時間的な夢の連鎖のように表現するのはけっして根拠がないわけではない。けれども、その「時間」の欠落が、やはり、これを演劇として見る者にはつらい要素となることも否定できない。
ナジの舞台は、スチール写真のように各瞬間を静止映像でとらえれば、その瞬間ごとに、異様な何かが今まさに起こっていると説得させるにじゅうぶんなものだ。だが、俳優(ダンサー)はどうしても動かざるをえない。映像と舞台の与える印象にこれだけの開きが生じてしまうのも、珍しいことだ。
ジャン‐リュック・ラガルス『私は家の中で雨が来るのを待っていた』
生田 萬 演出 リーディング
シアタートラム前置きから説き起こせば、私はリーディング公演はもっと活発に行なわれるべきだと考えている。とりわけ公共劇場はリーディングを継続的に行なうことを、活動の柱のひとつにしてほしいと思う。その意味で世田谷パブリックシアターのリーディングは歓迎すべき試みである。その効果はおおむね以下の4点に集約できる。
まず、リーディングは若手の俳優技術の修練の場になることを挙げていいだろう。プロの俳優にかぎらず、ある程度の訓練を積めば、たとえば私のような、俳優の心得が皆無の者にも、たとえばシェイクスピアやチェーホフができるかもしれないというのは、素晴らしいことだと思う。また、プロの俳優でも、みんなが本公演で主役を演じるチャンスに恵まれるわけではない。リーデングで主役をつとめることが、それ以外の役を舞台でつとめるときの糧になることは疑うべくもない。
また、リーディングを、本公演に先立つ中間発表会のように位置付けることも可能であろう。そこでの観客の反応を本公演に向けて活かせれば、自然と本公演の水準も高いものになるのではなかろうか。演出の修正もリーディングでの観客の反応を反映させる形で行なわれてよいだろう。観客の側からみても、リーディングと本公演との差こそが、じつは演劇を演劇として成立させる要素なのだと考えることは、きわめて演劇文化の成熟のために益するところが大きかろう。
さらには、作品自体の条件あるいは演じる側の条件によって上演不可能な作品を、手軽に演じ、紹介するためにリーディングが寄与することは大きいだろう。たとえばフランスの公共劇場には数多くの未発表作品が送られてくるというが、劇場スタッフ(ドゥラマトゥルグ)はそれらのなかから何本かを定期的にリーディング公演の台本に採用するという。
そして、リーディングはとりわけ90年代フランスの演劇作品の思考を反映する。演劇の根拠を若い作家達は、「戯曲」にでも俳優の「身体」にでもなく、テクスト自体の「肉声化」に求める傾向があるからだ。言葉と身体が「声」に還元される位相に、彼らの多くは演劇の未来を切り開こうとしている。
* * *
ジャン‐リュック・ラガルス(1957-1995)もその傾向を代表するひとりである。。『私は家の中で・・・』も、そういう「声」のための作品である。したがってそのテクストは一般的な意味での「戯曲」として解釈されてはならず、登場人物も通常の意味での人称主体とは合致しない。テクスト上の人称と身体的存在としての人物とは、差異を生産しあう関係にある。主人公は人間主体の「外」にある「言語」それ自身なのだ。ラガルスの作品は日本では1999年に、こまばアゴラ劇場で『われらヒーロー』が上演されている
今回のリーディングには、演劇をめぐるこうした思考を跡づける営為はまったくなかったと言っていいだろう。演出家はテクストを強引なまでに「戯曲」と「身体」に引き戻してしまっていた。その結果、いささか感情過多の、家族をめぐる内面ドラマを観客は見せられるはめになってしまったのは、残念なかぎりであった。
もっとも、演出家ばかりを責めるわけにもかない。演出家の仕事が始まる手前には翻訳者の仕事があることを忘れてはいけない。しかし、私は今回のラガルスのテクストの翻訳の巧拙をとやかく言うつもりはない。日本語として流麗な訳であったと思う。ただ、問題は、ラガルスの演劇言語の持つ、セリー音楽のようなモザイク上の変換、差異と反復の言語構造を、あたかもデュラスのテクストのごとき感覚で日本語化してしまったことは、戦略上の失敗なのではないかと思うのである。翻訳者は既存の日本語財産に寄生するしかない。ラガルスのようなテクストに対して、どのような日本語の演劇文体が創出されなければならないのかは、今後の課題だというほかない。
俳優座創立55周年記念公演ということで、ロシアから若手のマーリンを演出に迎えてのブレヒト、しかも『肝っ玉おっ母とその子供たち』です。千田是也の演出以来、俳優座にとってもこの作品は財産目録のようなもの。ブレヒトがベルリナー・アンサンブルで演出した際の記録である「モデルブック」は翻訳公刊されていますし(『ブレヒト演劇入門』白水社)、俳優座にもこれまでの公演の演出記録がもちろん蓄積されています。そういう重みを舞台に生かすにも、あるいははねのけるにも、海外から演出家を招聘するのは良いことだと思います。
いわゆるブレヒトの正統派(悪口を言えば教条的な)の見地からすれば、『肝っ玉』では、「おっ母」を戦争の犠牲者として描いてはならない、ということになります。彼女が次々と3人の子供を亡くしてしまうのは、戦争が悪いからなのではなく、戦争に加担して暮らすその生き方自体のなかに宿る「盲目さ」を観客に悟らしめなければならないわけです。「同化」を排し「異化」を導入するということです。
しかし、ロラン・バルトに名言があるのですが「ブレヒトは意に反して、望むことなく『傑作』を書いてしまった」のです。「おっ母」の末娘、口のきけないカトリンが、敵の襲来を町に知らせるために身をなげうって鐘をつき、銃弾に倒れます。その骸を抱く「おっ母」の姿は純粋なヒューマニズムに対する共感を呼び起こさずにはおきません。にもかかわらず、「おっ母」は間違っている、と観客に言わせなければならないのです。
マリーンの演出は「異化」の側への契機をかなり含んでいたように思います。たとえば「おっ母」がコックからの誘いを断って、今までの生活を続けると決意する場面。そこで演出は、長男が殺される場面、また次男の遺体が運ばれて行く場面をモンタージュのように舞台に再現させたのです。それはあたかも「おっ母」の無意識から彼女を襲う悪夢のようで、「おっ母」はそれを見て取り乱します。その場面の「ソング」では、背景にカラフルな安っぽい豆電球が光る鉄条網が上から降りてきます。また、全編の幕切れは、(やはりここにこそ演出のスタンスが集約されるわけですが)、「おっ母」が一人ひく幌馬車(じつは「ジープ」なのですが)は重くて動かないのです。中央に呆然と立ち尽くす彼女の絶望の顔に当たるスポットライトが絞られていって舞台が閉じられます。これは、原作ですと「おおい、待てえ」というふうに「おっ母」は再び戦争を追いかけるのですが、それよりは彼女に対して否定的な側面を強調したふうに思えました。
けれどもむしろマリーンが力をそそいだのは、このドイツ三十年戦争の話を「現代」にオーバーラップさせることでしょう。「おっ母」の幌馬車の積荷に、劇のなかばから「スロットマシーン」が備え付けられるのを引き金に、次いで「幌馬車」は「ジープ」に代わり、衣装も現代風に替わっていきます。町を急襲する部隊は「パラシュート部隊」ですし、幕切れには戦闘機の暴音が鳴り響きます。なかなか趣向としては面白かったのですが、現代の「物」を持ちこめば芝居の全体がアクチュアリティーを獲得できるかと考えると、そういう単純な具合にはいかないのではないか、と疑問も残りました。「現代性」の獲得とは、なによりも歴史の読解作業が必要なはずです。たんなる「移行」とはレベルが違うのです。それに、どうしてもこういう演出をしてしまうと、笑いをとってしまうのです。次ぎは何が出てくるかな、と関心がそちらに奪われてしまうのです。喜劇作品ならばいいのでしょうが、この作品では効果が薄れるでしょう。せっかく持っている演出の批評性が空回りしてしまうのは残念です。(余談ながら、商才にたけた「おっ母」が、いくら軍の払い下げを手に入れたとしても、物資の積載能力に乏しいジープなどで商品を売り歩くだろうか、と私は思います。)
舞台装置については、下手に大きな木が1本、根の所がマウンドになった形で据えられるのですが、はたして必要だったかどうか。俳優座劇場以外でも行なわれる公演なので、一概には言えませんが、マウンドはどうやら滑りやすいらしく、俳優は客席に滑り落ちないように必死だったのが伝わってきました。工夫の余地があったと思います。
主演の栗原小巻さんについては、なにしろ俳優座の「肝っ玉女優」先輩がたとも、またベルリナー・アンサンブルの伝説的な、かのヘレーネ・ワイゲルとも、全然タイプがちがう役者さんなので、どういうことなるのか興味津々だったのですが、うかつでした。そうか、これでよかったのか、と思いました。考えてみれば「おっ母」はいろいろな男に言い寄られるわけですし、3人の子供もみな、父親がちがうわけです。あらゆる局面において、「おっ母」の「取引」は、いくぶんか「色じかけ」なのでありまして、それあってこそ「牧師」も彼女にダラダラと付き随ってくるのです。これは作品のひとつの「解」を提出することに成功したと思います。
冒頭にも書きましたが、「モデルブック」があるというのは、俳優のこまかいしぐさに至るまで、つまり「参照コード」があることを観客も理解するわけです。それを読んでから劇場に赴いた私は、たいへん面白い体験をしました。ある俳優は「モデルブック」どおりの見事な芸を披露していましたし、また、ある俳優はときおり、そこからの「引用」をしました。俳優の演技をコードとして解読できるという体験だったのです。これもまた、舞台に「異化」的なまなざしを投げかけるひとつの補助線になると思ったしだいです。