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| 1945年4月。米軍は沖縄本島に上陸した。それから8月の終わりまで 壮絶な地上戦が繰り広げられた。沖縄戦は太平洋戦争における最後 の日米決戦でした。 アメリカ軍はこの作戦を「アイスバーグ作戦」と名付け、南北わずか 140kmの細長い小島を戦闘部隊と補給部隊合わせて45万余の大軍 で包囲。これを迎え撃つ日本の沖縄守備隊(第32軍)は約10万。当然 まともに正面から対峙したのでは一週間ともたない戦力差でした。 このような小さな島で五ヶ月にもわたる悲惨な戦闘が行われたのは 日本軍が本土決戦を一日でも遅らせる持久戦を実行したからです。 そのため犠牲者の数は軍属の数より一般住民のほうが多く、その数 は十万とも十五万人ともいわれ、ここに沖縄戦の特異性と悲惨さがあ るのです。 いまだに多くの沖縄戦の痕跡を残しながらも、延々と続く鉄条網の フエンスに囲まれた米軍基地。過去の壮絶で悲惨な沖縄戦を見つめ なおす中で、日本〜世界の未来を考えていくことも必要ではないでし ょうか。 青い海と空、そしてリゾート、憧れの沖縄のもう一つ別の一面も見え てくるはずです。さあ、鎮魂と祈りのステージへ・・・・・。 |
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沖縄戦でアメリカ軍に軍や住民が追い詰められた沖縄戦最後の地「摩文仁の丘」一帯は、悲惨な戦争を後世に伝え、二度と繰り返すことがないように平和記念公園とっています。太平洋を見渡す絶景の地に、沢山の慰霊塔が点在する。沖縄県平和祈念資料館 平和祈念堂 ★TAXI 那覇市内から約3.300円(約45分)。 |
県立第一高女と沖縄師範学校女子部の生徒と職 員210名で結成された「ひめゆり部隊」の御霊を祀る。第三外科壕の入り口に建つ。ひめゆりの塔から国道331を渡り、100mいくと第一外科壕があり、近くに第二外科壕、本部壕が原状のままある。そして、ひめゆり部隊の最後の地はここから真っ直ぐ南にある「荒崎海岸」と言われている。隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」にも是非とも立ち寄って頂きたい。ここで第三外科の女学生32人、職員4人、従軍看護婦7人が最期を遂げた。 ひめゆり平和資料館 ★TAXI 那覇市内から約3,000円(約40分)。 |
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| 当時、南部戦線の最前線であった国吉台地に建つ。県立第二高女の学徒隊は八重瀬岳の山部隊野戦病院に67名が配属され、6月上旬に解散命令が出たが、行き場のない白梅学徒隊は病院が移動した国吉について来ざるを得ず、国吉壕で悲惨な最後を遂げた(国吉壕での死者:34名)。白梅の塔には85柱が祀られています。ここは映画で有名になった「ひめゆりの塔」とは対照的に訪れる人も少なく、ひっそりとしている。毎週、白梅同窓会の方々が清掃と献花をしていて、いつ来てもきれいにされています。 ★TAXI 那覇市内から約2,800円(約32分)。 |
沖縄の南部を中心に各都道府県の慰霊塔が建っています。私たちは訪れた観光客の皆さんをよくそれぞれの慰霊塔にご案内します。ところがよくよく見てみると沖縄県の慰霊塔がないのです。これだけの犠牲者をだしたにもかかわらずです。そして、公的な慰霊塔の役割を担っているのがこの「魂魄の塔」なのです。米須海岸の近くに建ち、素朴な琉球石灰岩に「魂魄」(たましい)とのみ刻まれている。敗戦の翌年2月、米軍に動員された旧真和志村民はこの一帯にあつた散乱する死体を片付け、その盛り土の上に「魂魄の塔」を建立しました。沖縄で最初の「慰霊塔」で沖縄最大の45.00柱を納めた鎮魂の塔です。 6月23日、慰霊の日。魂魄の塔では公式な慰霊祭は一切ありません。しかし、実に多くの県民が老いも若きもここに参拝します。 ★TAXI 那覇市内から約3,100円(約41分)。 |
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| 糸数グスクの入り口の丁度反対側。民家の石垣沿いに小さな自然洞窟の入り口がある。そこから北に100mに洞窟のもう一つの入り口がある。サトウキビ畑と民家の地下で一つに繋がっています。中には石垣がつまれ、様々な通路が迷路のようにある。なかに入ると足元に軍靴、鉄かぶと、なべ、砲弾の破片のどが散乱している。 1944年夏、米軍の南部海岸上陸に備え、精鋭・美田連隊が布陣し、糸数壕に地下要塞を築いた。しかし、予想に反し米軍は中部海岸に上陸したので美田連隊も中部戦線へ移動していきました。その後、この壕に付近の住民が避難して来たが、軍の命令でこの壕から追い出された。その後、南風原の陸軍病院が負傷兵であふれたので、その分院となり、洞窟内に三段ベットが作られ、負傷兵であふれた。5月20日頃、米軍の南下により、野戦病院は喜屋武半島に移動。負傷兵は自決を命じられ、置き去りにされてしまった。 (注)「ガマ」とは沖縄の言葉で自然洞窟のこと。 玉城村役場 ★TAXI 那覇市内から約2,900円(約27分)。 |
沖縄県立師範学校や旧制県立中学のの男子生徒等によって編成された「鉄血勤皇隊」の犠牲者を祀った慰霊塔です。ひめゆり学徒もそうであったように13〜19歳の学生が何の法的根拠もなく動員されました。1945年3月31日に編成されたが、学徒を動員する法律は6月23日にしか発布されていません。隊員は伝令、通信、そして切り込みや急造爆弾を背負った自爆攻撃に動員され、1,780名中、890名が戦死。伝令も一つの伝令に三人が動員され、一人がやっとたどり着くと言う過酷な任務でした。 摩文仁の丘の断崖の真下にあり、打ち返す波の音は当時の学徒達の魂の叫びに聞こえる。 ★各学校の動員数と戦死者数 ★TAXI 那覇市内から約3,300円(約45分)。 |
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| 南風原十字路から大里村向けに約1キロほど行くと左側に黄金森と呼ばれる小高い丘がある。ここに陸軍病院の本部壕があった。第三十二軍の野戦病院は米軍の沖縄上陸が近づく3月初旬、ここから北東3キロにある与那原からこの地に移ってきた。最初は6棟の三角病棟でしたが空爆が激しくなると丘陵の中腹に横穴や竪穴を掘り、縦横に通路で結び、4,000人が収容できたといいます。 ひめゆり部隊の200余名は米軍の艦砲射撃が始まった3月24日に従軍命令がくだり、卒業式も待たず入隊。南風原陸軍病院壕でローソクの明かりの中、あわただしい卒業式を行ったと言います。 5月26日、首里の軍司令部の撤退にともない、野戦病院も喜屋武半島の伊原野に移動する。ここでも、歩けない負傷兵は自決の軍命で3,000名が捨て置かれた。ひめゆりの学徒部隊も伊原野へと移動していった。 南風原町役場 ★TAXI 那覇市内から約1,700円(約20分)。 |
那覇市から豊見城村に入ってすぐ、豊見城城址公園のむかいの細い路地を登って行くと那覇市内と南部が一望できる高台に出る。ここが旧海軍司令部壕です。約450mの手掘りの地下要塞です。現在、約275mが公開され、当時のまま司令官室、作戦室、発電室などが残されている。 正式には旧日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部壕である。入り口を入ると地下にまっすぐにトンネルのような階段があり、足元から冷たい風が吹き上げてくる。靴音がやけにひびく。ここで太田実司令官以下約4,000人の将兵が1945年6月13日までに壮絶な死を遂げたと言います。1944年8月に着工して12月に完成した。 ここに来ると何時も慰霊塔の下にある記念碑の前に立ち止まります。それは太田司令官が自決の前に大本営に送った電文が刻んであります。内容はぜひ当地で。32軍の司令部幕僚と違い、彼にはなぜか暗い沖縄戦の実相のなかで、人間に対するひとすじの光明を感じます。米軍上陸が必至になると付近の住民避難に軍用車両を提供したり、軍属以外の民間人を家族の元に帰し、決戦は軍人だけで臨んだと言います。 旧海軍司令部壕公園 ★TAXI 那覇市内から約1、100円(15〜20分)。 |
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| 東西に全長500m。東側をガラビガマ、西側をヌヌマチガマという。 案内は東側のガラビ壕から入るが、沖縄戦当時の壕入り口は西側のヌヌマチ壕であった。
この壕は、約1000名の負傷兵を収容する野戦病院で看護要員として県立第二高女の5人の「白梅学徒」が本院から派遣されていた。
この野戦病院の本院は東風平村富盛の八重瀬岳にあったが戦線の悪化により本院だけでは収容できなくなり、分院として1945年4月下旬にガラビ壕に設置された。さらに5月下旬には東風平村東風平に分院が設置されている。
壕は、上下二重構造になっており上側は砲兵陣地が築かれていた。下側の壕の入り口には銃座や
風葬墓なども残り、「風葬骨」なども見ることが出来る。「風葬骨」は白く、土色をした沖縄戦の犠牲者の
遺骨とは区別出来る。壕内では土を少し掘ると、骨のかけらや歯などを見つける事が出来る。具志頭村新城。 ★TAXI 那覇市内から約2,700円(約30分)。 |
首里城公園内にあり、園比屋武御嶽と城西小学校の間の斜面に入り口があり(現在は埋もれている)、周辺のトーチカ跡や通信室跡が当時の様子を物語る。第32軍司令部壕は地下約30メートルを南北に貫く約390メートルの坑道を中心に蟻の巣のように坑道をひろげ、総延長は千数百メートルに及ぶという。 戦前の沖縄には国宝の認定を受けた文化財が24もあり、京都、奈良についで文化財の多い県でした。そして、多くの文化財は首里城下に集中していたため、すべての国宝が焼失、それ以外の文化財も戦火によって、そのほとんどが失われました。 ★TAXI 空港から約2,000円(約25分) |
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