Ask John
ANIMEはほんとうにアートなのですか
Should Anime be Considered Fine Art?
2004年11月16日

質問:

先日のぶんを読みましたが、AINMEは芸術であると抗弁されていました。ある特定の分野のものを芸術にあらずと決め付けるような偏狭な定義には私も賛同しないのですが、それでもANIMEのほとんどはつまりは商品でしかないとも思うのです。ほとんどのANIMEがMANGAを原作にしているのは、MANGAのストーリーに魅力があるからというよりはMANGAそのものが日本では広く受け入れられた文化であるからだと思います。『遊戯王』しかり、『犬夜叉』しかり。

となると、かなりのANIME作品はアニメーションとしてはたいしたものではないということです。TVをつけても同じようなものがあいもかわらず登場することには少々飽きてきています。けばけばしい色とやたら陰が描き込まれたセル画、ぎくしゃくした作画、それになんといっても酷いのは動きのなさ、実際には人物はほとんど動いていないのに透過光を輝かせながら背景画をひっぱることでそれっぽくみせようとしたりする技法の乱用ぶりです。実に多くのANIME、とりわけ最近のものはほとんどあらゆる点で新境地を切り開くと言えるようなものはみあたらないように思えます。『ポケモン』『ドラゴンボール』『遊戯王』それに『トランスフォーマー』の新作はアニメーションとしてはどれほどたいしたものなのでしょうか。ジャパニーズ・アニメーションの世界において新しいものが生まれてくるような独創性や余裕などもうほとんどないように思えます。

つまり、すでに商業ベースなしでは成立しえなくなっている中、ANIMEという表現分野をアートと呼ぶことは正しいのかということです。
回答:

私のマニアックなANIME狂いぶりは自他共に認めるところですが、その一方でANIMEは商業的なものでもあるということを忘れているわけではないということはここで改めて述べておきたいと思います。


真に芸術作品と呼べるようなANIMEはたくさんあります。それは商業目的ではなく純粋に個人の思いから企画され制作された作品のことです。例えば、新海誠の『ほしのこえ』は自己資本による作品でしたし、ロマのフ比嘉の『ウルダ』、山村浩二の『頭山』も含め、これらは創作者個人の意欲より作られたジャパニーズ・アニメーションの良い例です。


『イノセンス』『天使のたまご』『ねこじる草』は商業作品ですが、利益をたくさん得るという目的で作られたANIMEとはおそらく呼べないと思います。スタジオ・ジブリの作品は、思うに高度に作家性の強い本格派の堂々としたフィルムであるとひろく考えられていますが、商業的にも成功を収めてきています。でもそれは作品のもつ才気の輝きによってです。ジブリの商業的成功といってもそれは、大ヒットするように作品が作られていたからというわけではありません。


ざっと眺めたところ、ANIMEファンとりわけここ米国のファンたちはANIMEのことをアートとするよりはただの商品であると見下す傾向にあるようです。ANIMEシリーズのかなりは実は日本の子ども向けの宣伝用番組であるとするのが多数派のようですが、私はというと、ANIMEを商業芸術とすることに反対ではありませんが、日本製アニメーションに含まれる芸術的価値を否定しようとやっきになる人々のことは理解できません。


シェイクスピアの戯曲やヴァン・ゴッホの絵画でさえ売るために創られたものです。創作者は食い扶持を稼がなくてはいけないのですし、米国映画アカデミー協会は映画における芸術的貢献ぶりを認識しているということで高名なところですが、映画というものはもともと映画館での興行やビデオ・DVDを世界中に販売することで利益を得るべく作られるものです。


極論ですが、落書きや自然発生的なダンス、商業目的ではなく作曲され実際に興行に出されることも利益を得ることもなかったような音楽こそが真にアートであると定義できなくもありません。しかし実際には商業目的で作られ市場に出された散文や映画や劇や音楽のことを大衆芸術と呼ぶことに私たちはなんのためらいもありません。なのに、日本製アニメーションのときのみそういう考え方をしようとしないというのは私には妙なことに思えます。


マイルス・デイビスの歌を芸術性という点でブリトニー・スピアーズのものと同列に置くのは冒涜なのかもしれませんが、それでも両者は売るために作られたものです。『イノセンス』は『ポケットモンスター』よりもずっと芸術的かもしれないけれど、両者ともまた売るために作られたANIMEです。


肝心なのは商業主義か芸術主義かということではなく、その品質にあります。ここまでで挙げた四つの例はいずれも商業用の大衆向け芸術ですが、その芸術的価値においては差があります。特定の分野において作品の優劣があるからといって、それが自動的にその分野は芸術ではないと判定できることにはなりません。日本製アニメーションのある作品ひとつが優れた芸術と呼べるものであるのならば、ANIMEすべてが芸術ではないと呼ぶこともまたできないはずなのですが。


その明瞭な例として『おジャ魔女どれみ』が挙げられます。この番組が来年にはフォーキッズ・エンターテイメント社によって配給されるという発表をめぐってネット論議が起きています。フォーキッズ社は米国配給にあたってこのシリーズの芸術的・文化的な部分を根こそぎ取り除いてしまうのではないかと恐れる声もあれば、『どれみ』はもともと小学生の女の子向けに作られた番組であるし、つまりはもともと芸術的な要素などないはずだと返す声もありました。


正直がっかりしました。このふたつの見解はいずれも極端にすぎるということにほとんど誰も気がついていないようなのです。私も『どれみ』好きですし、この番組が基本的に日本の小学生女子向けであることに異議はないのですが、だからといって『どれみ』の作り手たちに芸術的な目論みがあったことは、この番組のもつ暖かさや情緒性、笑い、それに洗練された絵柄からも否定はできないはずです。その独特の様式的タッチからも、これが文学性をもつ商業芸術であることが分かるはずです。商業作品であると同時に、アートでもあるということです。


ANIME、とりわけ現代のANIMEの品質や多様さについては意見の分かれるところですが、今後も十分に多様な作品がANIMEからは期待できるとは思うものの、ここ数年で質それに独自性において下り坂であるという声ももっともだとも思っています。


つまるところANIMEもまた市場動向をうかがわざるを得ない商業的なものであり、日本の消費者からの需要や資本参加する企業の商業戦略、それに日本という国の景気の良し悪しに左右されるのです。


ANIMEに芸術的なるものを期待する視聴者は、注意さえ払えばどんな作品にでもそれはみつけられるものだと私は考えています。ANIMEというものをジャンルや作画の質によって並び方が決まる商品カタログ的なものとしたり、各作品をなになにものという風にお手軽に区分けしたりする (魔女っ子もの、巨大ロボットもの、美少女ハーレムもの、等)と、いずれの作品もそれ独自の芸術的な要素があるということを見落としてしまいます。


繰り返しますが、芸術性とはいっても実際には作品によって差があることは否定できないと思っています。でも、『ポケットモンスター』や『遊戯王』のような玩具の宣伝用番組とされるものでさえ、その作品独自の芸術的側面や創造性が衣裳や物語やドラマ性にうかがえるものです。


ファンのひとりひとりにANIMEを見下すのを止めよと訴えるつもりはなくて、ただ、ANIMEを愛するファンたるものはANIMEにもっと肯定的であるべきであり、ANIMEについて自己卑下するのではなくその内容や未来について前向きであるというのが私の考えです。


ANIMEのことを芸術のひとつとまでは考えないというのはそのひとの勝手ではあるのでしょうが、芸術などではないと決め付けるのはジャパニーズ・アニメーションにたいして不公平ですし、それは自己欺瞞というものです。



訳註 『おジャ魔女どれみ』は米国に持ち込んでもいけると思うのですが参照。実はあのディズニーも『セラムン』それに問題の『どれみ』を研究していることは、この番組(ANIMEのつもりらしい)からもうかがえる

Archive