Ask John
ANIMEについて生真面目すぎはしませんか
Should American Fans Take Anime Seriously?
2004年11月12日

質問:

多くの人々(そのほとんどが熱狂的なANIME好き)が『Wolf's Rain』を始めとする新作をやたらこき下ろすのには少々閉口しています。まあ待ってよと言いたい。物語的に説明不足だったりもっと話が広げられるのにと思うようなところがあるのは否定しないけれど、狼たちが自分たちの楽園を目指していくというその主題はそういった欠点を補うに充分なほど魅力的なものに私には思えました。しかし不可解なのは、この国においてはどうしてみんなここまでANIMEについてはこだわるのかということです。私にとってANIMEは面倒な現実からの逃避をさせてくれる一時の娯楽という以上のものではないというのに。

『Wolf's Rain』のような半年で完結するシリーズの場合、細かい筋にいちいちはらはらすることは私にはなくて、まずはソファーにどかっと座って楽しむのですが、これが長期シリーズ化するものの全体像がはっきりしてこないような出来の場合だと、さっさと視聴はやめて忘れてしまいます。実際に私は『Wolf's Rain』をごく気楽に楽しんだひとりなのですが、というのも26話で終わるような短いシリーズはもともと楽しめればそれでよいものとして作られているのであるし、それほど生真面目に観るものではないと考えるからです。娯楽なり一時の現実逃避として作られたような作品にまであれこれ言うような一部の人々の振る舞いは理解できません。
回答:

今回の質問には二通りの答え方をしたいと思います。というのは、この問いにはふたつの質問が含まれているからです。『Wolf's Rain』という作品について、それからANIMEを論ずるという行為についての二点について。


最初に『Wolf's Rain』についてですが、全30話というシリーズを短いと呼ぶことに私は反対の立場です。TV向けのANIMEシリーズをトータルで眺めた場合、短いシリーズというのは全13話かそれ未満のもののことだと考えています。ビデオによる番外編を含めて15話という場合もそうです。26話となれは週放映での半年ぶんに当たります。


『Wolf's Rain』は日本で放映されたのは全部で26話でしたが、さらに4話ぶんがビデオ発売で追加されています。これは通常の全26話の枠では完結させられなかったからだそうです。それに、『Wolf's Rain』よりも少ない話数でずっと複雑な物語を展開してみせたTVシリーズは山ほど思い浮かびます。


『Wolf's Rain』は私も観たことがあるのですが(訳註1)、予定の全26話で完結しなかった分を追加分の4話で補わざるをえなかったような作品を誉めそやす気にはなれません(もっとも、制作陣をとやかく責める気にもなれません。いろいろ外部事情によって計画がずれることはありうることですし)。


それに、『Wolf's Rain』全体に漂うひたすら思わせぶりな雰囲気のために、この番組を嫌い、辛目の点をつける人のことを性格が悪く意固地であるとはねつけてしまいがちです。しかしながら、思わせぶりな雰囲気でありながら内実はなにもないというのは、つまりは煙や鏡の同類であるということです。


『Wolf's Rain』は美術的には高く評価される出来ですし、制作側もそれを期待して作っていたと思われますが、肝心の中身はというと、各登場人物は成長も変化もしないうえに、話の進みが停滞気味で、不信からくる物語の緊張感がうまく持続してこなかったり、それに物語上の飛躍や穴がめだったりと、とても賞賛するに値する作品とは思えませんでした。非常にめだつ絵柄や美術と悪くない音楽にまどわされるひとも多いようですが、この番組は実際には見た目に反して中身のない代物だと思います(訳註2)


ANIMEを使い捨てのきく娯楽としてではなく映像芸術のひとつとして分析する場合、一時の現実逃避のための娯楽であり芸術でも文化でもなく文学的でもないとANIMEをみなすという行為は、ほかのひとは知りませんが私にとっては耐えられないことです。その一方で、視聴者にはそのひとなりに作品を鑑賞すべきであると考えていることも合わせて述べておきます。


ANIMEというものは個人で楽しむ趣味であり、個々の作品をどう受け止めるのかはその人の決めることであって、これが絶対正解であると誰かに押し付けることも押し付けられることもないものです。日本でANIME制作に関わる人々はみな自らの作品に努力と才能を惜しまないアーティスト達であると信じていますし、そういう情熱には敬意をはらうべきだとも考えています。


すべての作品が芸術であったり文学的と呼べるレベルにあるというわけではないのは本当ですが、それでもANIMEというものは手作業で作られるアートであることに変わりはありません(コンピュータで色を塗ったり動画作業を肩代わりさせることはできても、描くこと自体はできないのですし)。


それに、ここ米国におけるANIMEファンたちはANIMEのことを長年にわたって現代の文学的アートであると考えてきました。まだインターネットもなにもなかった’87年に発刊された全米規模の同人誌「ザ・ローズ」や、日本の月刊「アニメージュ」に倣って作られた同人誌「アニマグ」の頃からそうです。


思うにここ数年、ANIMEがそれなりに市民権を獲得していくにつれて、現代のポップ・カルチャー芸術である日本製アニメーションのことをファンたちは以前より軽んじるようになってきているようです。大衆向けに作品を編集したり変えてしまったりする大手や、芸術性や文化的価値よりも流行りであるかないかに重きを置くような業者のせいで、ANIMEは中身のあるポップ・カルチャー芸術ではなく使い捨て可能のただの商品とみなしてしまうような風潮を生みつつあると言えます。


『エヴァンゲリオン』における哲学的・象徴的な思考、『今そこにいる僕』の政治テーマ、『パーフェクト・ブルー』の社会風刺、『最終兵器彼女』の聡明な文学性、『イノセンス』の映像的衝撃。いずれも日本製アニメーションをアートと呼ぶには十分過ぎるほどです。


すべての作品が優れた芸術品であるというわけではないことは疑い得ないものの、多くの人にとって個々の作品のいろいろな要素を脱構築し評していくという行為は、その作品をより深く理解していくための良き手段でもあります。


ANIMEはB級文化だとも、逆に、真面目に論じられるべきアートであるともひとに押し付けるつもりはありません。しかし、私自身はというとジャパニーズ・アニメーションのことを芸術のひとつであり、学問的に吟味するに値するものであると考えていますし、真のANIMEファンたちはそれこそ’70年代の後半よりANIMEのことをそうとらえてきたのです(訳註3)



訳註1 米国でも今年2004年4月より10月にかけてケーブルのカートゥーン・ネットワーク局で夜11時半枠にて放映。もっとも、ジョン様は吹き替え版はまず観ないことで有名

訳註2 「過大評価されているAnimeといえば」の末尾でも『Wolf's Rain』については懐疑的

訳註3 北米で最初に和製アニメーションのファン組織がロサンゼルスで結成されたのは'77年の5月。偶然ではあるがちょうど映画『スター・ウォーズ』の封切りと時期的には重なる。'60年代に『Astro Boy』(鉄腕アトム)や『Speed Racer』(マッハGoGoGo)を観て育った世代がこの頃には成人していたこと等が背景にあるようで、事実、翌'78年3月には手塚治虫が招かれた

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