回答:
私自身の考えはひとつ。翻訳は、原語で楽しむひとたちと同じように外国人でも堪能できるようなものが望ましいということです。これはとりわけ日本語についていえることですが、原文に厳密な翻訳ではひどくぎこちないうえに不明瞭なものになり、つまり使いものにならないのです。
『となりのトトロ』は厳密に訳すとMy Neighbor Totoro ではなくNeighborhood
of Totoro とか Totoro's Neighborhood になるのですが(訳註 それだと『トトロのとなり』という訳になってしまうのですがジョン様)、これだと翻訳に解説もいれなくてはいけなくなります。
翻訳にあたってはこれが日本文化に基づくものであるということにも気を配ってほしいと思っています。日本映画を観ていると、台詞はもともと日本語で話されているということを忘れた翻訳とでくわすことがあります。具体的に言うと、日本映画の英語字幕で米国人にしか分からないような台詞やジョークが使われることがあるのです。実際の台詞ではそういうものはいっさいないというのに、です(訳註1)。
アメリカン・ジョークや台詞をいれればとっつきが良くなるという声もあることは知っていますが、こういうものはあるべき翻訳とは呼べません。これはむしろオリジナルとは無関係の別物というべき代物だと思います。
字幕というものは本質的には翻訳とはいえないものです。仮に字幕台本がそれ単体で台詞台本と呼べるところにまで達したとしても、それはかえって観客には不親切なものとして本来の目的に反する結果になります。
翻訳は作り手の思いを観客に伝え届けるのがその役目であり、良い翻訳というものは翻訳の存在を意識させないものだと思います。オリジナルの台詞を尊重し、それをどう取るかについては観客・視聴者にゆだねるようなものを良い翻訳と呼ぶというのが私の考えです。
アメリカン・ジョークその他をいれればとっつきは良くなるとは思います。しかし、その作品が本来もつ要素それに作り手の意図は損なわれてしまうことは避けられません。
私自身はというと、ジャパニーズ・ジョークはそのまま字幕にしてもらって、後で調べてみて日本文化について理解を深めるといった手続きを取るほうが好みです。外国映画なのに笑いをアメリカンのものに置き換えることで、その作品の背景をなす日本文化や社会について考えをめぐらすことなく済ませてしまうというのは私には合いません。
優れた翻訳というものは視聴者がその作品に没頭できるようにするべく独自の判断や手管を駆使し文化的差異を埋めるよう努力したもののことだとは思うのですが、原語の台詞に手を加えたり補足的な台詞をいれたりするのは無責任かつ不適切な行為であると私個人は考えています。それは元の脚本のできを歪めてしまいます。私にとって大事なのはおそらくその部分なのですから(訳註2)。
物語それに台詞を組み立てていくのは脚本の元の作り手であって、翻訳はそのメッセージを伝えるのが役目です。翻訳にあたってそれを別のものに取り替えてしまうのは好ましくないと考えています。
訳註1 ジョン様はジブリ美術館を訪れた際に短編映画『メイとこねこバス』を子ども達にまじって観賞し、字幕なしでも台詞が100%理解できたとご満悦だった
訳註2 これも極論に聞こえるが、理解はできる。「原型をとどめないほどにずたずたにされたものが’80年代には平然と放映・発売されていたそうですが」からも察しがつくように、'80年代まで米国では和製アニメーションは再編集それに台詞改変は当たり前で、それを知らずに視聴していた子ども達は成長後にファンサブを通じてそれが偽物であったことを知って驚き、オリジナル原理主義者になっていく。そして、'72年生まれのジョン様はまさにこの世代の典型にあたる。
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