Ask John
日本製の恋愛ゲーが米国では売られないのはなぜ
Why Aren't Japanese Dating Sim Games Popular in America?
2004年6月11日



質問:

18禁であるなしにかかわらず恋愛ゲーが日本のおたくの間では非常に人気があると耳にしました。各登場人物の振る舞いが変化していくところや人間関係の描写に感じる不思議なリアリズムに惹かれ、ただのゲームという以上のものに感じ出すようです。RPGゲームに夢中になるのと似ているようですが、ここ米国ではというと18禁美少女ゲーを除けば恋愛ゲーは売られていないか人気がないようです。日本の恋愛ゲーはどうして米国ではうけないのでしょうか。



回答:

私も確信は持てないのですが、どうして日本では恋愛シミュレーションものが人気があるのかというと、それは日本文化ならではの特性ゆえではないかと考えています。


ここ米国では日常生活をそのまま仮想体験するようなゲームはあまり人気がなくて、それは主に米国人の人生観とか心理メカニズムといったものが日本とは正反対だからのようです。アニメーションはまず子どものものだとする考えが根強い米国とは違って、日本では現実世界、現実の人間たちからは切り離された空想・妄想というものにはもっと寛容で(訳註1)、対象年齢についても非常におおらかです(訳註2)。米国ではコミックは子どものものとされるものの、日本では小説や映画とともに大人の鑑賞にも耐えうる文芸のひとつとみなされています。


それに、米国ではひとは独立心をもったおとなになることをまず尊びますが、日本ではひとはまず周りの一員であるということを自覚することがよいこととされるため、なかなか自分の思うところを声にしては述べにくいところがあります。それから米国では他人とどう関係を作り上げ意思疎通を図るのかが学校教育の思想の根底にあるのですが、日本のがちがちの教育システムではまず知識ありきで、他人とのコミュニケーションや自発的協力関係を作っていくといったことにはあまり主眼は置かれないのです。


日本文化のこうした面が、人付き合いがあまり得意ではない人間それに現実世界をモチーフにした仮想現実ものへのタブーがあまりない社会を生んだと考えられます。登場人物がゆるやかに成長していくその物語性が売りのRPGもの、それに日常シミュレーションものが日本で受けるのも、仮想世界の人間関係に没入したがる日本人の心象に合うからではないかと思われます(訳註3)


一部の日本人にとって恋愛ゲーは現実世界でのそういう行為の代償物として機能しています。恋愛ゲーは現実の人間関係に伴うトラブルやわずらわしさとは無縁のピュアといえばピュアな世界であり、日本のゲーマー達にとってはこの上なくはらはらどきどきさせてくれる仮想日常空間なのです。小説も日常ゲー同じくひとを仮想世界に惹きこむものの、プレイヤーの意向次第で物語の展開や登場人物の振る舞いが変わっていくということはありません。


米国ではといえば日本のもののようにまったりとした居心地の良い恋愛シミュレーションというものはもう想像外なのです。米国人にとって恋愛ゲーなどというものは社会不適応者のための慰め物としかとられません。さらに、動きがダイナミックなビデオゲームに慣れた米国人には、止め絵が基本で物語ペースもゆっくりな日常シミュレーションはおそらく非常にだるいものに映ります。ここのゲーマー達にはまだるっこしいうえに地味に過ぎるのです。


日本の恋愛ゲーが米国でも成功を収めるには、この国の市場に出回る大量のゲーム群を相手にそれなりの売上げ成績を示すだけでなく、そういうゲームは社会不適応者へのうぬぼれ鏡などでは決してないこと、生きた人間でないものを相手に人間関係シミュレーションというものを楽しむのは決して不健全なことではないことをどこまで分からせられるかにかかってくると考えます。











訳註1: なにげなく書かれているが、ここには東西の人間観・倫理観の違いが背景にある。例えば幼児ポルノ問題。日本では実行に移すことが罪に問われるが、欧米ではそういう思いを抱くことそのものが罪とされる。キリスト教的倫理観では、行為だけでなく個々の人の心の中までが<神>による善悪判定の対象にされるのである。


訳註2: さらにキリスト教的倫理観の根幹には人間性悪説がある。人はほおっておくと無秩序に堕落するものであり、神の導きによって秩序あるものをめざすべき罪深き存在なのである、と。とりわけ子どもはその傾向が強いのだから、神に代わっておとなが堕落から守り躾ねばならないとされる。北米での映画やTV番組の年齢格付けの厳しさも、その思想的根源はここにある。


訳註3:  むしろ、自我形成のプロセスが日本は欧米のものと逆だからではないか。日本では子どもはどうやってものの善悪を学ぶのかというと、何かをした場合それが周りの人間にはどう受け止められるのかをおとなが子どもに諭すという形をとることが非常に多い。例えば電車のなかではしゃぎまわる子どもに親は、そういうことをすると他の乗客は騒がしく思うとは思わないか、と諭す。自分以外の人間への視点移動・感情移入を促されながら、日本での子どもはすべきこと、すべきでないことを学習する。
 
あたり前のことのように思えるだろうが、実はこれは欧米では異質な教育観で、欧米では子どもを叱る場合、なぜその行為がいけないことなのかを子どもに諭すことはない。いけないことはいけないことなのであり、罪深き子どもの分際で秩序を学んだおとなに問い返す権利などない、というわけだ。裏返せば、日本の子どもは周りから自分がどう思われているのかを常に意識しながら振舞うように教育されるということである。

間合いを計る、とでもいうべき心理的駆け引きが日本では人間関係に伴う。そういうものに敏感である人間たちの暮らす土地で、恋愛という甘露にして高度な対人心理ゲームが主題のビデオゲームが生み出され人気を博するのは訳者にはごく自然なことのように思える。




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