英語史の初歩その1

   英語史の初歩 その1


英語は、五世紀半ば頃にブリテン島に移住したアングロ・サクソン族の言語が発達したもので、千五百年以上の歴史を 持つ。アングロ・サクソン族とは、その民族大移動によって古代ローマ帝国滅亡のきっかけを作ったとも言われる ゲルマン民族の一派である。どの言語も長い年月がたつとかなり姿を変えるものであろうが、英語の変貌は 大変特異なものであった。ここでは文法と語彙の変化について、英語学習上役立ちそうな初歩的知識をお届けする。

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英語はドイツ語やフランス語に比べて、文法的にはより単純で語彙的にはより複雑だと言われている。 これは、外国語として学ぶ者にとっては、英語はとっつきやすいが、やがて厄介な面が見えてくる、ということにほかならない。

外国語の習得には通常、文法の理解が不可欠だから、文法が単純なのは有難い。例えば、英語には「文法的性(grammatical gender)」が無い。This is a pen.penpencil に入れ替えても、冠詞の a は変えなくてよい。これに対してドイツ語やフランス語では、「ペン」は女性名詞であるが「鉛筆」 は男性名詞だから、冠詞を「性」に合わせて変えなくてはならない。

このような「文法的性」の区別に理屈はないから、ドイツ語やフランス語では、一つ一つの名詞を習うときにその都度「性」を暗記していくしかない。 フランス語では、コーヒー、ワイン、お茶が男性名詞で、水やビールが女性名詞だと言われれば、そんな厄介な言葉にかかわりたくないと思う人もいるだろう。

しかし一方、英語の語彙の複雑さがわかってくると、戸惑うことも多くなる。類義語がやたらに多いのだ。例えば、「その言葉はあいまいだ」という意見を英語で述べよう とする時、使えそうな形容詞は、ambiguouscrypticenigmaticequivocalfuzzyimpreciseindefiniteinexplicitobscurepuzzlinguncertainunclearvague などである。これらを「あいまいさ」の質や発言の状況に 応じて使い分けられるようになるのは容易なことではない。

このような特徴は、初めから英語に備わっていたのではない。まず、文法の変化について見ておこう。  

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古英語の文法は、今日のものとは対照的に大変複雑だった。まず、古英語の名詞には次のような「文法的性」があった。

   古英語の男性名詞の例 ……… mōna (月)  bāt (小船)   fisc (魚)  hund (犬)  cyning (王)
                        fugol (鳥)  fōt (足)  mann (人, 男)  wīfmann (女)

   古英語の女性名詞の例 ……… sunne (太陽)  hand (手)  tīd (時)
                        cwēn (王妃, 女王)  talu (物語)   lufu (愛)

   古英語の中性名詞の例 ……… hūs (家, 家庭)   dēor (動物, 鹿)  wīf (女, 妻)
                         lim (手足)  scip (船)  wīte (罰)

前述のように、「文法的性」がないことは、他の多くのヨーロッパの言語に見られない英語の著しい特徴であるが、これは古英語期のあとの変化だったのである。

古英語では、名詞の複数形はほとんどの場合、語尾を変化させて作った。その変化の規則は何通りもあって、すぐに覚えられるものではない。

   古英語名詞の単数形の例 ……… 複数形
            (王) cyning ……… cyningas
        (王妃, 女王) cwēn ……… cwēne
              (船) scip ……… scipu
              (馬) hors ……… hors
            (悪魔) dēofol ……… dēoflas
            (名前) nama ……… naman
             (橋) brycg ……… brycga
           (心臓) heorte ……… heortan

今日の英語では、複数形は基本的には-s(-es)をつけるだけだから、これも英語史の中の一大変化である。

ところで、上掲の名詞はどれも主格という形である。古英語の名詞には他に、対格(直接目的語)、与格(間接目的語)、属格(所有格)があり、複雑な語尾変化で この「格」を表現する。

例えば「王を見た」と言うとき、「王を(対格)」は、主格と同形の cyning である。しかし、「女王を見た」や「月を見た」になると、 「女王」や「月」はそれぞれ主格とは別の形の対格になるのだが、その変化は等しくない。

     主格「は」 ……… 対格「を」
    (王) cyning ……… cyning
    (女王) cwēn ……… cwēne
     (月) mōna ……… mōnan

与格(間接目的語)の変化も複雑である。

     主格「は」 ……… 与格「に」
     (馬) hors ……… horse
     (鳥) fugol ……… fugle
   (息子) sunu ……… suna

今日の英語では、名詞の主格と目的語は常に同形であるから、これも文法上の大変化である。

属格(所有格)の作り方も大変面倒だった。今日のように語尾に'sを付けるだけというわけにはいかない。語尾の変化は、単数で-es-e-an-a など、複数で-a-ena-ra-as-e というように多彩である。

古英語では形容詞も、修飾する名詞の性、数、格に応じて活用させる。例えば、「小さい魚が(主格)」と言う場合、魚(男性名詞)が単数なら、形容詞は smal、複数なら smale である。「小さい橋が(主格)」と言う場合、橋(女性名詞)が単数なら、形容詞は smalu、複数なら smala である。さらに「小さい魚を(対格)」になると、形容詞は smalne (単数)、smale (複数) に、「小さい橋の(属格)」なら、形容詞は smalre (単数)、smalra (複数) である。

この他、動詞、数詞、代名詞などについても、恐ろしく複雑だった古英語期の文法規則が今日では驚くほど単純化されている。

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複雑な文法が次第に単純化するのは、多くの言語に見られることだという。しかしイギリス史においては、この動きを著しく促進させ、上に 見たような大変化をもたらすことになる決定的な事件があった。それはデイン人やノルマン人による侵略や支配である。

デイン人は北欧原住のゲルマン民族の一派だが、8世紀末ごろからヨーロッパ各地に進出し始め、9世紀前半からイギリスも彼らの襲撃の対象となった。 イギリスはデイン人によって荒らしまわられたあげく、アルフレッド大王(在位871〜901)の時代には、イングランドの二分の一にも及ぶ地域がデイン人 支配地域とされ、1016年には全イングランドがデイン人クヌートの支配下に入った。

長年にわたる苛烈な戦闘や、戦乱による荒廃など悲惨な状況が続いた一方で、多くのデイン人が平和的にイギリス社会に同化していった事実もあった。 デイン人支配地域は、「デイン人の法律の施行地域」ということから Danelaw と呼ばれたが、このデインローで、両民族は日常的な交流や結婚を通して 徐々に融合していったのである。

このような地域では、英語はデイン語(古ノルド語)と絶え間なく接触することになり、これが英語に大きな変化をもたらすことになった。 デイン語と英語は、ゲルマン祖語という共通の言語から分離発達したもので、 両者の相違は主として語尾変化の部分だった。つまりこの共存地域では、相手の発音に慣れれば語の本体は何とか理解できるのに、 文法的関係を表す語尾変化が異なるため、 相互理解が円滑に進まないという状況だったらしい。

やがてこのようなデインローから、単語の語尾を思い切り単純化したり、時には無くしてしまったりするという変化が 英語に起こり始めた。それは、古英語の規範を大胆に壊すという意味で、broken Englishへの変化だったのである。

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broken English への変化」を大きく促進させる出来事が続いて起こる。ノルマン人による征服と支配である。

ノルマン人とは、もともとは8世紀末ごろからヨーロッパ各地に進出していった北欧原住のゲルマン民族の一派で、 デイン人と同様にヴァイキングとして知られている。(彼らをヴァイキングと呼ぶようになったのは近代になってからである。)

911年、ロロに率いられた一団はフランス北西部を侵略し、西フランク国王と和議を結びノルマンディ公国を建てた。定住の地を確保するや、かれらは驚異的な 順応性を発揮して急速にフランス化した。土地割譲の条件であったキリスト教への改宗を手始めに、未練なく母語を捨て、またたくまにフランス語を話すようになり、 フランス文化を消化吸収した。フランス法を取り入れて強固な封建体制を作り、石造りの壮麗な建築も作り始めたのである。生来の戦闘性に加えて、騎馬戦の技術を 導入し、大規模な弓兵団を擁したノルマンの軍隊は、当時のヨーロッパで最強とされるほどになった。

ところで、彼らのフランス語は、ノルマン的な方言であったことからノルマン・フランス語ともよばれている。 彼らはフランス国王と封建的主従関係で結ばれる「フランス人」でありつつ、国王ともほかのフランス貴族とも張り合うノルマン人であった。その冒険心や領土的野心が 失われることはなく、ノルマンディー建国後も盛んにヨーロッパ各地への植民活動を続けたのである。

イギリスでは1035年、デイン人の国王クヌートが死ぬとしばらくして、アングロ・サクソン系の王統が復活した。1042年に即位した国王エドワード (カトリックの信仰が篤かったことからthe Confessorという通称を持つが、これは懺悔王、告解王、証聖王などと訳される)は、父親はアルフレッド大王にもつながる れっきとした土着系の国王であったが、生母はノルマンディ公リチャードの妹であった。父親がデイン人に追われてノルマンディ公を頼って亡命したため、 エドワードはノルマンディ公の宮廷で成人した。アングロ・サクソン系の王統を継ぐためにイギリスに迎えられた時、エドワードはノルマン人の友人や家来を引き連れて 行き、即位後にこれらのノルマン人を寵愛したため、イギリス人貴族たちの反ノルマン意識を高めることになった。結局、為政者としての資質や能力に欠けていた この国王は、次第にその実権を失なっていくことになった。

このような状況でエドワードが跡継ぎのないままに死ぬと、有力な貴族の中から国王が選ばれたが、これに対して、海峡の向こうで見守っていたノルマンディ公 ウィリアム(リチャードの孫)が異議を唱えた。彼は、生前のエドワードから約束を得ていたとか、自分はエドワードの「筋違い従兄弟」であるとかいう根拠をたてに、 王位継承権を主張したのである。

この時、イギリスの貴族たちが彼我の力を冷静に見比べて、ウィリアムに臣従する道を選んでいたら、イギリスの歴史も英語の歴史も激変することはなかったという見方も あるだろう。しかし表面上屈服すればイギリス人貴族の地位は保たれたはずだ、と考えるのは甘いような気もする。ウィリアムは、ノルマン人貴族たちを説得して英仏海峡を 渡らせるために、具体的な成功報酬があることを示したという。貴族たちは封建的義務に基づいてのみ戦ったのではなく、新たな恩賞を得ようという欲望にも突き動かされ て戦った。また、多くの傭兵たちも、戦利品や土地を夢見た命知らずの冒険家たちだったという。彼らが手にしようとしていたものは、当然イギリス人貴族の手から 奪い取らなければならなかったのである。

策略家のウィリアムは軍備を整える一方で、ローマに対して周到に人選した使者を送り、法王の支持をとりつけていた。かの島国に正当な統治者をもたらすという任務は、 教皇からも承認されたわけで、ウィリアムの軍隊の戦意はいやがうえにも高揚した。意気盛んなウィリアムの最新軍事力に対して、イギリス人貴族たちは正面から遅れた 武力で戦う道を選んで、結局見事に粉砕されてしまった。

1066年ウィリアムは国王になり、数年後にノルマン人による征服(the Norman Conquest)が完成する。すなわち、イギリス人の旧支配層は、国王も有力な 貴族たちもほとんど全てが戦死、処刑、追放の憂き目に会い、国の中枢部分はウイリアムを頂点とするノルマン人に掌握されてしまった。主要な教会や修道院においても、 支配者の大部分がノルマン人になった。「牛や豚にいたるまで、記録し損ねたものはない」とされるほど厳密な土地調査が実施され、すべての土地が王室所有となった。 ウィリアムはエドワード証聖王の二倍になる直轄領を得、残りが司教、大修道院長、直臣たちに与えられた。直臣というのは、土地所有の見返りに国王に対して奉仕の 義務を負う封建的貴族のことであるが、その大部分がノルマン人貴族だったことはいうまでもない。大陸からはさらに、役人や商人、職人として一旗上げたいノルマン人も 大挙してやって来たのである。

ノルマン人の支配体制が確立すると、宮廷や法廷の言語はフランス語やラテン語になり、英語は公用語の地位を追われてしまった。そのため、イギリス人の中で上流階級へ 食い込もうとする者は、フランス語を必死になって学び身に付ける必要があった。そうなると親も学校もまともに英語を教えなくなるから、子供たちの英語はどんどん いい加減なものになっていく。古くからの文法に基づいた、きちんとした標準的英語を守ろうとする者がいなくなったため、英語は自然の流れに沿ってさらに崩れていく ことになった。

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征服から100年余りたった時に、ある法律家は次のように述べている。

“ Now that the English and Normans have been dwelling together, marrying and giving in marriage, the two nations have become so mixed that it is scarcely possible to-day, speaking of free men, to tell who is English, who of Norman race.”(「イギリス人とノルマン人は一緒に住み続けてきて、両者の間の結婚も行われてきた。両民族がすっかり融合した今にあっては、自由民に限ってのことではあるが、誰がイギリス人で誰がノルマン人かを区別することは難しい。」)

この島国においてヴァイキングは、征服した土地の民族と同化することに再度成功したのである。

さてここで言われている自由民の多くは英語とフランス語のバイリンガルであった。英語は公用語の地位から追われたため、標準的英語は保たれなかったが、 滅亡したわけでは勿論ない。また、教育のない下層大衆の言語としてだけ生き続けていたわけでもない。英語は、教育のある、したがってフランス語も習得している 多くのイギリス人にとっても母語であり続けたし、ノルマン人の第三世代、第四世代にとっても第二の「母国」の言語だった。

イギリスはノルマン征服以来、断続的にではあるがフランスと戦争をしてきたため、反フランス的感情がすこしづつ醸成されていったが、1204年にフランスに 持っていた広大な領土が奪われると、フランスに対する敵対意識がさらに強化された。いぜんとして公用語はフランス語とラテン語であったが、上流階級の中にも英語を 母語と考える人々が増え、英語の使用に拍車がかかり、英語は徐々に全国民の日常語としての地位を確立していった。

1339年に百年戦争が始まるとフランス語は敵視されるようになり、1362年には議会の開会が初めて英語で宣言され、これ以後英語は議会や法廷でも使用される 公用語になった。15世紀の前半には、ロンドンを中心とする地域で使われる英語を基本にして標準語が形成され、国内に普及していった。

1100年から1500年くらいの英語を中英語と呼ぶが、最初に見たような文法上の大変化の主要な部分はこの時期に起こった。あれほど複雑だった語尾変化が驚くほど 単純化され、「文法的性」も無くなったのである。英語の文法について、不規則動詞がわずらわしいとか、一部の名詞の複数形はややこしいなどの不満を覚える人が多い。 しかし古英語文法の複雑さに比べれば、そのような「不便さ」は、英語が、血みどろの戦争と敗北と忍従と和解と融合の歴史の中で獲得した、「大いなる単純さ」の中の 些細な例外だということがわかるのである。

歴史の偶然と必然によって英語の文法は、ほかのヨーロッパの言語に見られない単純さを持つようになり、これは少なくとも、英語を学ぼうとする外国人にとって歓迎 すべき変化であった。それでは、語彙の面での変化はどうであろうか。

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