京都観光タクシー同友会観光研修資料
【西本願寺】《浄土真宗本願寺派本願寺》075-371-5181
親鸞上人の末子覚信尼が東山大谷に上人の墓を移して六角の小堂を建て、木像を安置して、御影堂と呼んだのが、この寺の起こり。後、3代覚如上人(覚信尼の孫)の時、本願寺と称した。室町時代に8代蓮如上人が出て宗門はおおいに栄えたが、大谷本願寺は比叡山の衆徒に破壊された。その後、蓮如上人は近江・北陸に布教、山科に本願寺を再建。しかし、山科本願寺は日蓮宗徒と細川晴元の焼き打ちで炎上、大阪石山(現在の大阪城付近)に移る。11代顕如上人の時、信長と対立して石山合戦となり、石山本願寺も焼亡。天正14年(1591)秀吉の寺領寄進があって現在地に移る。末寺10,300余カ寺と1千万門信徒。
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| 本堂(阿弥陀堂) | 唐門1 | 唐門2 |
■本堂(阿弥陀堂)[重文] 1760年の再建。本尊・阿弥陀如来立像と両側に七高僧、聖徳太子・法然上人画像を安置する。
◇阿弥陀如来が立つ 貴族や豪族のための仏教が法然・親鸞など登場により、一般の民衆に広がる。そのため、たくさんの人々を収容する大きなお堂が必要となる。また、今まで座っていた大きな仏像は、小さくなって立ち、一般民衆に手を差し伸べる。本願寺のお堂の外陣は広くて、阿弥陀如来は立像である。
■御影堂(大師堂)[重文] 寛永13年(1636)の再建。内陣・外陣は711畳敷きもある。正面中央の厨子に親鸞上人坐像を安置。その像は上人の荼毘の灰を漆にまぜて塗ったものといわれている。本願寺の伽藍が本堂よりも御影堂を中心とするのは、この像を祭る廟堂から寺が起こったことによる。
◆水吹きの銀杏(逆さ銀杏) 樹齢300余年。苗木の時に逆さに植えられたから、横に広がる状態になったと伝える。天明の大火の時、高温にさらされて一気に水を噴き出し、お堂の焼失を免れたという。一般的に寺の回りに銀杏の木が多いのは、銀杏の葉は燃えにくく、耐寒耐暑性があり、防風・防火林として用いられてきたことによる。
◆天水受けの天の邪鬼 天の邪鬼は偏屈者、悪者などという意味。しかし、ここでは、天から降る『法雨』の流れ集まってくる天水受けを支えている。天の邪鬼さえ、み教えを守り伝え、支えてきた者という意味だろうか。
◆見残しの石 薩摩の門信徒が寄進した紋入りの石。戦国から明治初期にかけて、薩摩藩では真宗の念仏禁制を敷いていたため、この紋を削りとらなければならない状況にあったが、なぜか一つだけ残ってしまったという。
■書院(対面所及び白書院)[国宝] 現存する最大の書院造。桃山時代の建築で伏見城の遺構とされてきたが不明。現在は本願寺が独力で新築したとの説が有力。対面所は門主が公式に門徒に面接する所。上段・下段に分かれ、その境の欄間に、雲中飛鴻の透彫(伝・左甚五郎作)があるため、『鴻の間』とも呼ぶ。下段中央の畳の下は、敷舞台。障壁画は伝・狩野探幽、興以、海北友雪。渡辺了慶とする説もある。
■黒書院及び伝廊[国宝] 門主の私的施設として扱われている数寄屋造で、非公開。明暦3年(1656)落成。
◆北能舞台[国宝] 天正9年(1581)建立で現存最古。能舞台としては唯一の国宝。舞台の床下には、音響効果を高めるために甕が入れられ、また、まわりには大きな石がさざ波のように敷かれて音が共鳴するという。南能舞台は重文。文化財としての能舞台は本願寺の2件を含めて4件しかなく、古い能舞台は残っていない。その理由として、能舞台は本来常設ではなく、演能にあわせて設置する仮設であったためと考えられている。
◆大書院庭園(虎渓の庭)[特名・史] 伏見城内の庭を移したと伝える。池泉式枯山水庭園。中国・廬山の虎渓の景色を写したもの。三尊石の巨石で枯滝をつくり、流れでる渓流が中央で白砂の池となり、鶴島・亀島を浮かべ、切石と自然石で3個の石橋をかけ、その間には多数の蘇鉄が植えられている。
■飛雲閣[国宝] 聚楽第の遺構を移したものと伝えるが不明。初層は入母屋造、中層は寄棟造、上層は宝形造。滴翠園(滄浪池)と呼ばれる庭園に臨む。大空に浮かぶ雲が、今にも千切れようとして、静かに飛んでいく姿に似ているという。金閣・銀閣とともに天下の三閣の一つ。
■唐門(日暮門)[国宝] 伏見城の遺構と伝え、大徳寺・豊国神社の唐門とともに桃山建築を代表する秀作。対面所及び白書院の正門。扉の唐獅子、正面妻の麒麟、両袖壁の故事人物図(※中国の許由と巣父の故事にちなんだ絵画)などの丸彫や籠彫の彫刻。眺めていると日が暮れるのを忘れるぐらい華麗であるところから、日暮門ともいわれている。ちなみに、キリンビールの麒麟は、この唐門の麒麟がモデル?
※許由と巣父 許由は清廉潔白な人で、人徳も高く、人々から尊敬されていた。このことを伝え聞いた中国の名帝・堯は天子の座を許由に譲ろうとした。これを知った許由は「世俗事の汚れた話を聞いてしまった」として、穎川の滝で耳を洗い隠世したという。また、許由が耳を洗っているのを、牛を曳いてきた巣父が見て、「こんな汚れた水は、牛にも飲ませられない」と引き返したという、隠士の典型的な話。
◇東・西本願寺を眺める 東西本願寺の外見を比較すると、書院・殿舎を含めて全山の配置は左右が逆。また、御影堂は西では単層、東は重層。柱は西では角柱、東は丸柱など。
◇本願寺分裂11代顕如上人没後、いったんは長男・教如上人が門主を継いだが、秀吉によって隠居を強いられ、3男・准如上人が12代門主となり、教如上人は隠退。その後、慶長7年(1602)、家康は隠居した教如上人に寺地を与え大谷派本願寺を興させ、本願寺は分裂する。
◇宗門の紋 「下り藤」は先々代の故大谷光瑞門主が1903年に宗門の紋としたことに始まる。
■親鸞上人の聖地(西本願寺)
【日野誕生院】親鸞誕生の地で、親鸞は藤原一門の日野家の日野有範を父に母は吉光女の間に生まれる。日野法界寺(日野薬師)の東隣。
【青蓮院】親鸞上人が出家得度した寺。境内には、親鸞上人の9歳の時の銅像と、上人の歌と伝える「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に風の吹かぬものかは」の碑がある。
【植髪堂】親鸞上人が青蓮院で得度した時に、剃り落とされた髪を植え付けたといわれている像を安置する。
【六角堂】親鸞上人29歳の時、百日の念願を込めて籠もる。95日目に夢告げを得て、他力本願の念仏の道に入ったという。
【荼毘所】親鸞上人火葬の地。史上に「東山の西の麓、鳥辺野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」とあり、西本願寺では本廟境内地の北東にあたる。
【元大谷】本願寺発祥の地。これより北の大谷の地に納められていた上人の墓を、末娘・覚信尼が墓を移して廟堂を建て、本願寺の基礎となす。青蓮院の南側、知恩院の境内・崇泰院の裏庭。
【大谷本廟】徳川家康の時代に、知恩院が拡張され、その地域にあった元大谷の祖廟を移転する。東山五条。
参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著及び西本願寺公式サイトより
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