佐々木敏光「気になる俳句(「俳句雑感時々少々」改題)」

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『現代俳句抄』

佐々木敏光句集『富士・まぼろしの鷹』 発売中

佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』(月刊)

 
2014.7.23.
 目下「これからの自分のためにあれこれ句集、俳書を読み直している。」といった状況であり、「現
代俳句抄」の追加もままならないが、今日ほんの少しだが、追加しておく。

 原石鼎、前田普羅、飯田蛇笏、高野素十、野見山朱鳥、森澄雄、藤田湘子、飯島晴子、上田五千石、
その他芭蕉、虚子等などと性根を入れなおして読み進めているが、性根の方は、はたしてどうなのだろ
うか。

 次回の追加は、最近特に気になっている木下夕爾であるが、今回は、幅広くということにしておこう。

  原石鼎
七面鳥冬日の中にわらひけり       (『花影以後』)
松落葉かからぬ五百木無かりけり

  石田波郷
がうがうと欅芽ぶけり風の中       (『風切』)

  富澤赤黄男
稲光 わたしは透きとほらねばならぬ   (『蛇の笛』)
  ☆
枯原の風が電車になつてくる
一木の凄絶の木に月あがるや

  三橋鷹女
昔雪夜のランプのやうなしいさな恋    (『白骨』)

  金子兜太
わが修羅へ若き歌人が酔うてくる     (『日常』)

  飯田龍太
山住の奢りのひとつ朧夜は        (『遅速』)

  三橋敏雄
体温を保てるわれら今日の月       (『畳の上』)
満月の裏はくらやみ魂祭         (『しだらでん』)

  佐藤鬼房
ひぐらしのさざなみとなり朝の空     (『枯峠』)

  能村登四郎
削るほど紅さす板や十二月        (『天上華』)

  永田耕衣
はるかぜや玄関番の蝿一つ        (『葱室』)
源流の寂しさに在り秋の暮        (『自人』)

  真鍋呉夫
寒月下忘れた杖が歩きだす        (『月魄(つきしろ)』)

  桂信子
死ぬことの怖くて吹きぬ春の笛       (『花影』)

  中村苑子
人の世は跫音(あしおと)ばかり韮の花   (『吟遊』)

  波多野爽波
穴子裂くそれを見て立つ変な人       (『一筆以後』)

  中原道夫
竹馬や黄泉はぬかると云う晴子       (『巴芹』)

  小澤實
入る店決まらで楽し冬灯          (『瞬間』)

  櫂未知子
火事かしらあそこも地獄なのかしら     (『櫂未知子集』)

2014.7.17.
 「現代俳句抄」の追加は滞っているが、これからの自分のためにあれこれ句集、俳書を読み直してい
る。「奥の細道」もその一つ。

 最近出版された『藤田湘子の百句』『飯島晴子の百句』(ふらんす堂)も手にいれ読んでいる。
 そういえばかつての「鷹」にも晴子に魅せられて入っている人も多かった。二人とも刺激的な俳人だ。
 
 さて、『映像による現代俳句の世界』(ビクター)のビデオをいくつか見た。
 そのなかに「第十六巻 藤田湘子、上田五千石」(1990年)があった。
 湘子先生とは、ビデオであるが久しぶりでの出合いであった。
湘子は複雑な面があり簡単には言いあらわせないが、このビデオでは素直な湘子に出会えた。

 愛されずして沖遠く泳ぐなり
 音楽を降らしめよ夥しき蝶に
 枯山に鳥突きあたる夢の後

  など、自選十五句を読み上げる。また

 月明の一痕としてわが歩む

と自句を揮毫する画面もある。

自宅に近い多摩丘陵の自然のなかで、師いわく。
「若い時には、何かかっこいいことを言おうとか、高邁なことを言って人を感心させようと考えていた
が、わかげのいたりだった。」
「今は自然へ心がかよってゆく。自然とゆっくりとふれあう時間をもちたい。」
 ナレーターがまとめる。
「奔放自在な想像力の飛翔をと湘子は言う。澄んだもの、みばえのあるもの、うつくしいものを求め続
けるだけでは高い山塊を築きえないのではないか。
 ぶかっこうなもの、デモーニッシュなものへ目を向けたい。」

 久しぶりで、さわかな気持ちになり、あらためてやる気が湧いてきた。

2014.7.9.

 「現代俳句抄」は準備は常に行っているが、俳句について考えることが多く焦点が定めにくくなかな
か進まない。

 今回は季語について

 最近季語について考えることが多かった。特に「原発忌」。
 無季も許容するスタンスにたっていて、季語には自由でありたいと思っている。季語にがんじがらめ
にはなりたくない。だからといって、何も考えないわけではない。
 結社の主宰ともなれば、指導するためにも季語全般についておさえておく必要がある。指導にあたっ
て曖昧な使い方を指摘する広い知識が要求される。ところでぼくは主宰者ではない。しかし俳句作りと
してそれなりの素養も必要だ。

 さて、「原発忌」という季語であるが、すでだれか使っているのはわかっていた。そういったことに
値するほど、津波に端を発したというか、津波と一体になった原発事故は衝撃的なことであった。

 まさか、俳句をつくるためのみに道具の一つとして「原発忌」を使ってみるほど不謹慎なひとはいな
いと思うが、「原発忌」の重さをあらわす句をつくることになった。まさに「原爆忌」(この言葉の使
用に異議をとなえている人もいるのも事実であるが)と同様、重い季語なのである。


   福島原発忌(三月十一日、十四日)
 無念なりまた一つ増ゆ原爆忌       
                    佐々木敏光(『富士山麓』2014年7月号)

 よく知られたところでは、

 春の地震などと気取るな原発忌  山崎十生(「紫」・「豈」)
 
 がありすでに『原発忌』という句集におさめられている。(なお、この句は「春の地震などと気取る
な」とやや合点がいかない点がある。)

 ネットでしらべると

 原発忌即地球忌や地震の闇  大井恒行(「豈」)

 などがすぐ出てくる。また原発の二字の入った句はかぎりがない。

 季語のあつかいとして、「原発忌」か「福島原発忌」か「福島忌」か、はたして日付はと、歳時記で
のあつかいはこれからのテーマとなろう。いずれにしろ全面廃炉など再びこのような事態にならないよ
う祈念したい。
 
2014.6.30.

 本日佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』七月号を発行した。

 「現代俳句抄」追加は、しばらく行わなかった。

 句作について自分なりに反省することもあり、新しい気持ちで、考えなおす時間をもっていたのだ。
結論はそう簡単にでるものではない。これからも、考えながらすすむよりほかない。

 その一環として、原石鼎や前田普羅など大正期の俳人の句を自分なりに点検する作業があった。
 強い句をよむという思いがその背後にあった。
 一方柔らかい句づくりをもという意味で、木下夕爾などの読み直しなどもおこなっていた。
 強い句と柔らかい句を通じての見直し。

 他の俳人(飯田龍太、佐藤鬼房など多くの俳人)の句も考えなおしたが、それらはすべて自分の句づ
くりのためであった。
 したがって、「現代俳句抄」追加に焦点をあてた作業はあえておこなわなかった。

 この間、すでに引用している原石鼎の次の二句が、よく思い出された。

 頂上や殊に野菊の吹かれ居り 
 秋風や模様のちがふ皿二つ

 また、木下夕爾の句では特に次の句である。

 家々や菜の花いろの燈をともし


2014.6.15.

 「モンテーニュ」及び「詩」関係のページをほんの少しだが、更新した。 久しぶりのことだ。
 「詩」に次の二つの俳句が唐突にでてくるのも変わった趣向かもしれない。

 「車にも仰臥という死春の月」      高野ムツオ
 「骸骨のうへを粧(よそ)ひて花見かな」 上島鬼貫

詩・短歌(二十歳、三十代、六十代+七十代)

「モンテーニュ『エセー』(随想録)*東洋の知恵(智恵)」

2014.6.3.

『週刊俳句』に「平成百人一句そろい踏み  
平成百人一句……選・宗田安正
平成百人一句……選・関 悦史」
という記事がある。すでに「現代俳句抄」に掲載されている句もけっこう多いが、幅をひろげるために
もその中から、自分なりに適当に選んで追加してみたい。
 選択はあくまでぼくの好みによる。すでに「現代俳句抄」で採用している句は、宗田安正さんの「百
人一句」の方が、関 悦史さんの「百人一句」より多く、ついつい世代の差を感じてしまう。なお、「現
代俳句抄」にいれていたつもりでついついおとしていた句の追加となっている場合もある。

「平成百人一句……選・宗田安正」からの追加句

短夜を書きつづけいまどこにいる   鈴木六林男
花の闇お四国の闇我の闇       黒田杏子
たくさんの舌が馬食う村祭      西川徹郎
男を死を迎ふる仰臥青葉冷      山下知津子
男来て出口を訊けり大枯野      恩田侑布子
万両は幻影に色つけた実か      四ッ谷 龍
顔洗う手に目玉あり原爆忌      五島高資
つまみたる夏蝶トランプの厚さ    高柳克弘

「平成百人一句……選・関 悦史」からの追加句

日盛の橋に竣工年月日        波多野爽波
睡蓮やあをぞらは青生みつづけ    恩田侑布子
げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も  高山れおな
吾(あ)と無(む)         筑紫磐井
つまみたる夏蝶トランプの厚さ    高柳克弘
膨れ這い捲れ攫えり大津波      高野ムツオ
梅園を歩けば女中欲しきかな     野口る理

2014.5.31.

 本日佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』六月号を発行した。

 ところで、『「あなたが選ぶ『戦後俳句の五句』得票上位20句」俳誌「海程」より』という記事の
ページを見つけた。
「風狂夜話2」というブログである。
 無断で(といってもそのうち連絡をと思っている)、 俳句百句選に採用させていただきたい思う。
 それらのすべての句はすでに「現代俳句抄」に掲載している。
 ただし「戦後俳句」という限定と金子兜太の「海程」でのアンケートであることは意識しておきたい。

 時代は変わってゆく。ぼくが俳句をはじめてからも、とりあげられる俳句の傾向がずいぶん変わった。
生前どんなに知名度があっても、死んでしまうと例外的な俳人はともかくあっと言う間にわすれられて
ゆく。若い人には、死者の祭典じみてうつるかもしれないが、「戦後俳句」の一時期を偲ぶよすがとし
たい。といっても油断してはいけない。思いがけない強い毒の力を秘めているかもしれないのだ。

1  彎曲し火傷し爆心地のマラソン   金子兜太

2  鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ   林田紀音夫

3  戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ   原子公平
 
4  梅咲いて庭中に青鮫が来ている   金子兜太
 
5  広島や卵食ふ時口ひらく      西東三鬼
 
5  少年来る無心に充分に刺すために  阿部完市
 
5  暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり    鈴木六林男
 
8  人体冷えて東北白い花盛り     金子兜太
 
9  銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 金子兜太
 
9  怒らぬから青野でしめる友の首   島津亮
 
11 栃木にいろいろ雨のたましもいたり 阿部完市
 
11 ロシア映画みてきて冬のにんじん太し 古沢太穂
 
11 ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒 堀葦男
 
14 切株があり愚直の斧があり     佐藤鬼房
 
14 朝はじまる海へ突っ込む鷗の死   金子兜太
 
14 遺品あり岩波文庫「阿部一族」   鈴木六林男
 
17 いつせいに柱の燃ゆる都かな    三橋敏雄
 
18 蝶墜ちて大音響の結氷期      富澤赤黄男
 
19 陰に生る麦尊けれ青山河      佐藤鬼房
 
19 一月の川一月の谷の中       飯田龍太

2014.5.30.

 森のなかというか山中というか富士山麓に住んでいるせいか、最近特に原石鼎や前田普羅、そして自
然を素直にみつめている高野素十をついつい集中的に読んでしまう。再再再読というべきか。
 今日はとりあえず前田普羅の追加句を。

  前田普羅の追加句

月出でて一枚の春田輝けり       (『普羅句集』+『新訂普羅句集』)
花を見し面を闇に打たせけり
立春の暁の時計鳴りにけり
雪つけし飛騨の国見ゆ春の夕
行く春や大浪立てる山の池
大空に蜘蛛のかかれる月夜哉
雪卸し能登見ゆるまで上りけり
冬ごもる子女の一間を通りけり
奥能登や浦々かけて梅雨の滝
眠る山佐渡見ゆるまで径のあり
美しき栗鼠の歯形や一つ栗
ビロードの夜会服つけ大蛾来      (『春寒浅間山』)
吹きあがる落葉にまじり鳥渡る     (『飛騨紬』)
山吹や根雪の上の飛騨の径
弥陀ヶ原漾(ただよ)ふばかり春の雪  (『定本普羅句集』上記句集以外の句)

2014.5.29.

 波郷はぼくにとって大きい存在だ。今日は、石田波郷の追加句

描きて赤き夏の巴里をかなしめる    (『鶴の眼』)
椎若葉一重瞼を母系とし        (『風切』)
鷹現れていまぞさやけし八ケ岳
六月や風のまにまに市の音       (『病鴈』)
遙かなるものばかりなる夜寒かな  (興城陸軍病院)
秋の風萬の禱を汝一人に (一子修大に) 
雪催小家に住める友ばかり       (『雨覆』)
東京に妻をやりたる野分かな
緑陰を看護婦がゆき死神がゆく     (『惜命』)

2014.5.27.

 ここしばらくは野見山朱鳥 の追加句はこれ以上しない。

強ひていへばそは春愁のごときもの (『荊冠』)
降る雪や地上のすべてゆるされたり (『運命』)
冬の暮灯さねば世に無きごとし   (『愁絶』)
灯を消してわが病むかぎり銀河濃し 

2014.5.26.

 前回に続き野見山朱鳥 の追加句を。

二階より枯野におろす柩かな      (『曼珠沙華』)
春雪を玉と頂く高嶺かな
いのち得て光り飛びゆく落花かな
花時も天上天下唯我咳く
ふとわれの死骸に蛆のたかる見ゆ
飛び散つて蝌蚪の墨痕淋漓たり
星空へ飛びもだへゐる焚火かな
落椿天地ひつくり返りけり
大干潟立つ人間のさびしさよ
妻来ると枯野かがやく昼餉前
海女潜る上を走れる野分波       (『荊冠』)
道化師が妻にもの言ふ秋の暮      (『運命』)
死にゆくは鬼もあはれや神遊び
初みくじ神の言葉を樹に咲かせ
しづけさは明日への力蔓枯るる     (『幻日』)
みなうしろ姿ばかりの秋遍路
牡丹散る時の一片散るごとく
天の鷹雄のさびしさを高めつつ 
火の阿蘇に幻日かかる花野かな
万緑や太初(はじめ)の言葉しづかに炎え
吾に残る時幾許ぞ鳥雲に        (『愁絶』)
黴の中きらりきらりと一と日過ぐ
いつぽんのすすきに遊ぶ夕焼雲
わが影を遠き枯野に置き忘れ   

2014.5.24.

   野見山朱鳥 の追加句
林檎描く絵具惨憺盛り上り       (『曼珠沙華』)
逢ふ人のかくれ待ちゐし冬木かな
巡礼の如くに蝌蚪の列進む
春月に山羊の白妙産れけり
なほ続く病床流転天の川
白妙の初夜の襖を閉めにけり
花散りしあとに虚空や曼珠沙華
冬波の壁おしのぼる藻屑かな
火の独楽を廻して椿瀬を流れ
菜殻火やイエスの如くわれ渇す

2014.5.23.

  筑紫磐井の追加句
持ちぬしの分からぬ荷物われは持つ      (『我が時代』)
ひばり揚がり世は面白きこともなし
大虚子はいつもしづかに笑つてゐる
犬を飼ふ 飼ふたびに死ぬ 犬を飼ふ 
さういふものに私はなりたくない
美しき渾名をもらふ刺客かな

  高橋睦郎追加句
山深く人語をかたる虻ありき        (『荒童鈔』)
をちこちと名乗りそめたり桜山       (『賚(たまもの)』)
かなかなやあかとき濡れて魂は       (『遊行』)
草莽のあはれは染井吉野かな
小晦日(こつごもり)君を惜しむと夜も青き    (田中裕明訃報)

   中原道夫の追加句
飯鮹に猪口才な口ありにけり        (『蕩児』)
初夢のいくらか銀化してをりぬ
褒美の字放屁に隣るあたたかし       (『アルデンテ』)
わが机ひと日寄らねば蘖(ひこば)ゆる   (『中原道夫俳句日記』)
雪うさぎゆきのはらわた蔵したり      (『巴芹』)

2014.5.21.

 「HTML で難しい漢字を表示する」 

  今回は追加句ではない。このホームページをHTMLで書いているが、そのHTMLの話である。

 この前の阿波野青畝の追加句

 ♨(ゆじるし)のたくさんなこと山眠る

の(ゆじるし)などの難しい漢字ともいえる文字の表示について、ぼく個人用のメモとして一応ここに
簡単に書いておきたい。

 「現代俳句抄」のページをはじめたのは、1996年の8月だ。橋閒石の閒は「門の中は、日ではなく月」
である。当時そういった表示できない漢字についてはおおいに困った。当時はマックを使っていた。マッ
クはピクチャーについては使いやすかったので、絵として作字してそれを読み込み表示することにした。

 さて、今回久しぶりにはじめての漢字として、♨(ゆじるし)がでてきた。以前のように、「絵
として作字」する気にはなれない。そこであらためて調べはじめると、ユニコードを使えばできるよう
だとわかった。それも10進法で表記するようである。理屈はよくわからないが、とにかくあれこれやっ
ているうちにどうにか表示できるようになった。

 要するにユニコードを使って、漢字を表示するには、 &#にすぐ続き10進法のユニコードをつけく
わえるのである。

 漱石の

落ちさまに蝱(あぶ=虻)を伏せたる椿哉    のあぶは&#のすぐあとに34673をつける

 秋櫻子の

海蠃(ばい=貝)打や灯ともり給ふ観世音   海の後の字は &# + 34819である。

 わざわざ分かち書きで書いているのは、続けて書くとその漢字自体になってしまうからである。

 草田男の

玫瑰(ハマナス)や今も沖には未来あり    の最初の文字は、&# + 29611  

 重信、兜太の鷗は

軍艦が沈んだ海の 老いたる鷗(かもめ=鴎)   &# + 40407
朝はじまる海へ突込む鷗(かもめ)の死

 龍太の蟬は

天寿おほむね遠蟬(=蝉)の音に似たり   &# + 34796

 晴子の魚の(えい)は

わがたましひ赤鱏(えひ)となり泳ぐかな  えい  &# + 40015

 
 ついでに橋閒石の閒は  &# + 38290  である。


 ユニコード表(10進法)は次のページが便利である。

   ユニコード表(10進法)  

2014.5.20.

 前田普羅の追加句
面体をつつめど二月役者かな      (『普羅句集』)
しみじみと日を吸ふ柿の静かな
霜月や酒さめて居る蝮取り
如月の日向をありく教師かな
夜長人耶蘇をけなして帰りけり
盗人(ぬすつと)とならで過ぎけり虫の門
虫なくや我と湯を呑む影法師
羽抜鳥高き巌に上りけり
潮蒼く人流れじと泳ぎけり
鞦韆(ふらここ)にしばし遊ぶや小商人(こあきんど)
鳶烏闘ひ落ちぬ濃山吹
梅雨の海静かに岩をぬらしけり
荒梅雨や山家の煙這ひまわる      (『新訂普羅句集』)
乗鞍のかなた春星かぎりなし      (『飛騨紬』)
紺青の乗鞍の上(え)に囀れり
吹きあがる落葉にまじり鳥渡る
雪の夜や家をあふるる童声         (『定本普羅句集』)

2014.5.19.

 京極杞陽と阿波野青畝の追加句

 京極杞陽の追加句
雪嶺に立つ父の過去子の未来      (『但馬住』)
死神の如蟷螂の立上り
見送られ次第に霧にへだてられ     (『花の日』)

 阿波野青畝の追加句

大阪やけぶりの上にいわし雲     (『万両』)
狩うどの背にぐつたりと獲物栄
水澄みて金閣の金さしにけり     (『国原』)
花篝魍魎(まうりやう)肩を摩(す)りにけり
♨(ゆじるし)のたくさんなこと山眠る(『紅葉の賀』)
金髪のごとく美し木の芽伸ぶ
登山道なかなか高くなつて来ず(富士裾野)(『甲子園』)

2014.5.16.

 「現代俳句抄」追加句を。

  小澤實の追加句
本の山くずれて遠き海に鮫       (『砧』)
虫抱いて蜘蛛しづかなる夕かな     (『立像』)
寒烏老太陽を笑ふなり         (『瞬間』)
春闌けぬ貝の蔵して小さき闇
洛中に居るが肴ぞ春の暮
穴子の眼澄めるに錐を打ちにけり
初比叡一点のわれ立ちにけり
   ☆
居酒屋の昼定食や荻の風

  三村純也の追加句
朧夜の白波立つて親不知        (『蜃気楼』)
雪嶺の我もわれもと晴れ来たる     
夜桜の根の掴みゐる大地かな      (『常行』)
やけに効くバレンタインの日の辛子   (『観自在』)

  長谷川櫂の追加句
雪の港かすかにきしみゐたりけり    (『古志』)
眠る子を運びゆくなり夕牡丹
蕪村忌や炎澄みたる桜榾
禅僧とならぶ仔猫の昼寝かな      (『蓬莱』)
裸にて死の知らせ受く電話口      (『虚空』)
百代の過客の一人おでん酒
我一人幻一人冬ごもり         (『初雁』)

  渡邊白泉の追加句
ひらひらと大統領がふりきたる     (『渡邊白泉全句集』)

  三橋鷹女の追加句
ペリカンんの人のやうなる喧嘩かな   (『向日葵』)
すみれ摘むさみしき性を知られけり
蝶飛べり飛べよとおもふ掌の菫

  富澤赤黄男の追加句
切株ノ 白イ時間ガマハル 年輪    (『黙示』)

2014.5.15.

 「現代俳句抄」とともに「古典俳句抄」(江戸期)の追加句も行う。

 「古典俳句抄」の追加句

海の音一日遠き小春かな        加藤暁台

 「現代俳句抄」の追加句

夏雲は湧き諸滝は鳴りに鳴る      原田浜人

仲秋や花園のものみな高し       山口青邨

大戦起るこの日のために獄をたまわる  橋本夢道

ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒  堀葦男(『火づくり』)

わが鬱の淵の深さに菫咲く       馬場駿吉

雲雀落ち天に金粉残りけり       平井照敏  (『猫町』)

長い休暇のぼくら復活の丘をめざして  酒井弘司

ふつくらとご飯のたけて厄日かな    片山由美子 (『水精』)
カステラに沈むナイフや復活祭           (『風待月』)
思ふこと雪の速さとなりゆけり

赤とんぼ夕暮はまだ先のこと      星野高士

いつの生(よ)か鯨でありし寂しかりし 正木ゆう子  (『水晶体』)

2014.5.11.

  高橋睦郎の追加句
ふるさとは盥に沈着(しづ)く夏のもの (『稽古飮食』)
捨靴にいとどを飼ふも夢の夢      
私忌いな世界忌の大夕焼        (『別冊俳句・平成秀句選集』)
夜濯や蹼(みずかき)のこる指の股   (『賚(たまもの)』)
人憎し枕憎しや残る蠅           (『百枕』)
波枕下の地獄も夏果つや

2014.5.8.

 今日は攝津幸彦と齋藤慎爾の追加句。共に人により評価が別れる作者。ただ齋藤慎爾の句には、既成
の句の既視感が濃い部分があるゆえ分かりやすい。

  攝津幸彦の追加句
千年やそよぐ美貌の夏帽子       (『姉にアネモネ』)
花ぐもりまつかな船を焼いている    (『鳥子』)
現はれてやがては消ゆる鈴木かな    (『鳥屋』)
秋草に乳美しき伝道団
春夜汽車姉から先に浮遊せり      (『陸々集』)
文芸の美貌の風や夏館
チェルノブイリの無口の人と卵食ふ   (『鹿々集』)
生涯に使はぬ言葉茂りあふ       (『四五一句』)
詰襟の君が草矢の的となる

  齋藤慎爾の追加句
北斗星枯野に今日のバス終る       (『夏への扉』)
明らかに凧の糸のみ暮れ残る
月白き海より青きもの釣らる
鷹の羽を拾へば秋風また秋風       (『秋庭歌』)
身の内に螢棲みつく螢狩り
鶏頭を抜き身に覚えなきひかり      (『冬の智慧』)
骨として我を夕焼染めにけり       (『春の羇旅』)
真つ白な犀が来てゐる春の風邪      (「未完句集」芸林文庫版) 

2014.5.7.

 誤解無きよう。『現代俳句抄』に
   もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟性をもった精神である。
                   (モンテーニュ『エセー』III−3)
と引用しているのは、伊達や酔狂ではない。俳句の豊かな多様性を信じたい。自分の考えに反するといっ
て、排斥したりするようなことはしたくない。だが、句集や句にはそれぞれ好みはあり、また苦手な句
もあり、敬して遠ざけることはありうる。無視したり、排斥するつもりはまったくない。
 先日書いた『カルナヴァル』もそれなりに面白い句は多かった。ただ『現代俳句抄』には一句しかと
りあげるにはいたらなかった。
 同じく大沼正明句集『異執』も目下共感句がないだけで、かつての『大沼正明句集』からは、次の三
句を『現代俳句抄』に掲載している。
       無人派出所曲れば降る雪の千代田区  
       自嘲詩人みずから口を封ぜよ朝だ
       われ州に十年(ととせ)いまなおMishima 沖を漕げり
 一時語られることがあった『棺一基』(大道寺将司全句集)も目下いまいちのところで掲載句がない
だけであって、無理をしてまで掲載することもないといったのが実情である。
 あれこれ言ってもはじまらないので、「誤解無きよう」と一応書いておく。誤解する人がでてもしか
たないが。

2014.5.6.

 常に、個人句会を兼ねて、追加句を用意している。、 
 今日は、どういうわけか、石田波郷と後藤比奈夫。

  石田波郷の追加句
秬(きび)焚や青き螽(いなご)を火に見たり(『鶴の眼』)
浅間山空の左手(ゆんで)に眠りけり    (『風切』)
風雲の少しく遊ぶ冬至かな         (『雨覆』)
柿食ふや遠くかなしき母の顔        (『惜命』)
咳臥すや女の膝の聳えをり岸女いよいよ
麻薬うてば十三夜月遁走す
悴み病めど栄光の如く子等育つ
外套を脱ぐ妻罪人吾が仰ぐ
水仙花三年病めども我等若し    (妻に)   		
あかあかと雛栄ゆれども咳地獄       (『春嵐』)
冬濤(波)や時待つ群の鳶烏
乙女駆けて初電車得しを祝福す
鶏頭の澎湃(ホウハイ)として四十過ぐ
壺焼やいの一番の隈(すみ)の客  (西銀座卯浪)(『酒中花』)
万愚節半日あまし三鬼逝く

  後藤比奈夫の句
日本の仮名美しき歌留多かな       (『金泥』)
風鈴の音の中なる夕ごごろ
木下闇木下明りのも熊野道       (『花匂ひ』)
化野に普通の月の上りたる       (『花びら柚子』)
しやぼん玉吹き太陽の数殖やす     (『庭詰』)
滝の面をわが魂は駆け上る       (『めんない千鳥』)
美しき臍を持ち寄りたる祭       (『残日残照』)

2014.5.4.

 連休で、近所の田貫湖のキャンプ場は、難民キャンプに近い混みぐあい。

  異端的雰囲気のある句集『カルナヴァル』、最初はなんとなく面白く思って買ったが、読みなおし
てみると、ぼくのダダ、シュールレアリスム、サド、ロートレアモン、ヴィヨンなどの体験や現在の俳
句観にてらし、案外とれるものはすくなかった。結局次の一句。他の句集を調べてみても付け加えるも
のはなかった。

エスカルゴ三匹食べて三匹嘔く   金原まさ子 『カルナヴァル』

 なお、

弟を秋の螢と錯覚す
   だから籠に入れた。

 「弟を秋の螢と錯覚す」に「だから籠に入れた。」が付け加わると面白くはなる。が結局、「現代俳句抄」には
いれないこととする。

 寺山修司追加句
うつむきて影が髪梳く復活祭    (『花粉航海』)
たんぽぽは地の糧詩人は不遇でよし 
亡びつつ巨犬飼う邸秋桜 
テーブルの下の旅路やきりぎりす  (『わが高校時代の犯罪』)
心中を見にゆく髪に椿挿し

 岸風三楼の追加句
うつくしき炭火蕪村の忌たりけり
ジョッキ宙に合する音を一にせり

 高野ムツオの追加句
この国にあり原子炉と雛人形     (『萬の翅』)     

2014.5.3.

 今日の追加句

聞くうちに蝉は頭蓋の内に居る    篠原梵   (『皿』)
初富士の海より立てり峠越      水原秋櫻子 (『重陽』)
野の風を濤(涛)と聞く日の玉椿         (『残鐘』)
青梅雨の金色世界来て拝む            (『帰心』)
蕪村忌や画中酔歩の李太白            (『旅愁』)
凍る夜の死者を診て来し顔洗ふ    相馬遷子  (『山河』)
青空がぐんぐんと引く凧の糸     寺山修司  (「初期句篇」)
万物の一塵として年迎ふ       桂信子   (『草影』)
地震のことどこかこころに青き踏む  深見けん二 (『菫濃く』)
日盛や動物園は死を見せず      高柳克弘
虫の音や私も入れて私たち      野口る理

2014.4.29.

 佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』の五月号をアップした。

 ひとりでやっているが、さびしさを感じないわけではない。立場は違え、主宰者といわれる人も、性
格の違いであらわれは違う事になるだろうが、俳句仲間、結社仲間云々といいながら俳句作品そのもの
には孤で対することになるという意味では同じかもしれない。
 よけいな言葉になりかねないが、五月号の「後記」にぼくの好きな飯田龍太の言葉をのせている。
 ついでながらその言葉を、ここでも引用してみよう。

「後ろめたさついでに言えば、俳人という肩書がつくことも後ろめたいね。この頃はみんな図々しくなっ
てえらそうにしているけど、戦前なんかは恥しいぐらいのものだったからね。だいたい、俳句でいっぱ
し結構だなんていうのは、一世紀に一人や二人ですよ。あとはみなジャミ(釣で言う小魚のこと)。そ
いつらがつっぱって、かっこつけているのは滑稽ですよ。それに、俳句には専門的な要素なんてどこに
もありませんよ。俳人が専門家意識を持っちゃ、おしまいです。先生、先生つて黄色い声で言われるの
は、いい気分だけどね。俳人という看板を出している以上、この点はしっかりと自戒しておかなければ
ならないと思うね」  (飯田龍太 「太陽」1987年3月号)

2014.4.27.

 江戸期の俳人、加舎白雄の追加句。江戸期の俳人達の句へは、「俳句ページ」経由でいける。

  加舎白雄の追加句
はる風や吹かれそめたる水すまし
あはあはと一里は雪の峠哉
美しや春は白魚かいわり菜
たかきよりすずしき桑の戦ぎかな
罌粟の花十日たちたり散りにけり
名月や眼ふさげば海と山
たぐひなきひとり男よ冬籠

2014.4.26.

 今日の追加句は、矢島渚男 
安曇野や囀り容れて嶺の数       (『采薇』)
ひとりきてふたりで帰る曼珠沙華
田を植ゑてゐるうれしさに信濃空
大いなる声きかばやと枯野行く     (『木蘭』)
数へ日のこころのはしを人通る
ひそひそと茸の山につてゐし
太古より昼と夜あり蛍狩        (『梟』)
天の川小さくあれど志
力ある風出できたり鯉幟        (『翼の上に』)
山に石積んでかへりぬ夏休み
初霞山がものいふ国ぞよき
万緑に沈みし鷹の浮揚待つ       (『延年』)
腿太き土偶に割れ目豊の秋
はんざきの小さな眼(まなこ)その宇宙 (『百済野)
百済野に雲雀を聞きにゆきたしよ

2014.4.24.

 ぼちぼち「現代俳句抄」まとめの時期にはいっていいのかもしれない。何事もいつかは終わるのがこ
の世の定めである。といっても、まだしばらくは続けるつもりだ。またまとめがそう簡単にいくとは思っ
ていない。
 今回、中村草田男をあつかったのは、その前哨戦にあたるのかも知れない。ぼちぼちだが、水原秋櫻
子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子の四Sの俳人の追加句や、また総合的に考えての他の多くの俳人
達の追加句の案配も必要である。あせるつもりは無い。自分の勉強というか、刺激を受け、気力をたも
つための行為である。そしてそれらは、最近何度か言及した「句会に参加するようにして句集を、選集
を読み進める。そして選をするように追加句をいただく」といった豪華な句会への個人的な参加でもあ
るのである。

 その前に、最近気になった三句を追加。

蓬髪の明日にあてなき夜霧かな       高柳重信
まだよまぬ詩おほしと霜にめざめけり    田中裕明
百方に餓鬼うづくまる除夜の鐘       石田波郷

  中村草田男の追加句
土手の木の根元に遠き春の雲       (『長子』)
麦の道今も坂なす駆け下りる
冬空をいま青く塗る画家羨(とも)し
月ゆ声あり汝(な)は母が子か妻が子か  (『火の島』)
泉辺のわれ達に遠く死は在(あ)れよ
神の凧オリオン年の尾の空に       (『萬緑』)
玉菜は巨花と開きて妻は二十八
冬空に聖痕もなし唯蒼し         (『来し方行方』)
花藤や母が家(や)厠紙白し       (『銀河依然』)
いくさよあるな麦生(むぎふ)に金貨天降(あまふ)るとも
チンドン屋と半学者なる詩人すすむ    (『母郷行』)
母の日や大きな星がやや下位に
秋天一碧潜水者(ダイバー)のごと目をみひらく
教会の庭豪放の焚火せよ         (『時機』)
果しなく弟(おとと)ともぐる巨蒲団(おほぶとん)
冬涛や倦まざるものの青と白
いざ行かん身につく蟻を払ひ尽し
ほととぎす敵は必ず斬るべきもの
白馬の眼めぐる癇脈雪の富士

2014.4.22.

飴山實の句、あらためて「全句集」にあたり追加句を。といってもそれほど多くはない。

 飴山實の追加句
捨て菜畑うぐひすいろに氷けり    (『少長集』)
冬川をたぐり寄せては布放つ
金魚屋のとどまるところ濡れにけり
かなかなや母よりのぼる灸の煙
子の置きし柚子に灯のつく机かな
紅梅やをちこちに波たかぶれる    (『辛酉小雪』)
きさらぎの骨ぬくめをる風呂の中
とびついてとるあおぞらの熟れ棗
めんどりにして蟷螂をふりまはす
木から木へこどものはしる白雨かな   (『次の花』)
俎の鯉の目玉に秋高し
秋の暮キリンのあたま茜して
大雨のあと浜木綿に次の花
うぶすなは提灯だけの秋祭
骨だけの障子が川を流れだす
沖かけて白波さわぐ雛かな
奥山の風はさくらの声ならむ      (『花浴び』)
放生のきのふの亀があるきをり
虚仮の世に虚仮のかほ寄せ初句会

 山口青邨の追加句も
海の日のランカン(爛(日+干))として絵踏かな (『雑草園』)
惨として大英帝国夕焼す        (『雪国』)
紅顔の人等つどへり実朝忌       (『露団々』)
泣くときは泣くべし萩が咲けば秋 (八月十五日)(『花宰相』)
蕗の薹傾く南部富士もまた       (『粗餐』)
手裏剣のごとく蜂とぶ牡丹の前     (『日は永し』)

2014.4.21.

 すでに十分の数の虚子句は選んでいるのが、プラスして選ぶとすればということで、今迄選ばなかっ
た句、選び落していた句も視点を変えて選んでみた。

  虚子句追加
もとよりも恋は曲者懸想文            (『五百句』)
座を挙(あ)げて恋ほのめくや歌かるた
君と我うそにほればや秋の暮
提灯に落花の風の見ゆるかな
一片の落花見送る静かな        (『五百五十句』)
神はただみそなはすのみ初詣
己が羽の抜けしを咥へ羽抜鳥
襟巻に深く埋もれ帰去来(かへんなん)
うかうかと咲き出しこの帰り花
高々と枯れ了(おお)せたる芒かな
冬籠書斎の天地狭からず
寒といふ字に金石の響あり
鎌倉に実朝忌あり美しき
初夢の唯空白を存したり        (『六百句』)
後苑の菊の乱れを愛しつつ
枯菊に尚ほ或物をとどめずや
木枯に浅間の煙吹き散るか
枯菊に尚色といふもの存す
夏草に延びてからまる牛の舌
西方の浄土は銀河落るところ      (『六百五十句』)
美しきぬるき炬燵や雛の間
金堂の扉を叩く木の芽風
陽炎の中に二間の我が庵
而してよき風鈴を釣りたまへ
戸隠の山々沈み月高し
椿艶これに対して老ひとり
よくぞ来し今青嵐につつまれて
藝格といふもののあり梅椿
万緑の万物の中大佛

2014.4.18.

「句会に参加するようにして句集を、選集を読み進める。そして選をするように追加句をいただく」の
続き。

 富安風生の追加句
ハンケチ振つて別れも愉し少女等は   (『松籟』)
沼波にかくれも低き糸蜻蛉       (昭和十八年「若葉」)
しみじみと妻といふもの虫の秋     (『母子草』)
深吉野の灯とかや霧に泣きぬるる    (『喜寿以後』)
代る代る蟹来て何か言ひては去る    (『傘寿以降』)

 相馬遷子の追加句
往診の夜となり戻る野火の中      (『山國』)
山国や年逝く星の充満す
    ☆
天近き花野にまろび刻(とき)もなし

 稲畑汀子の追加句
夏潮に道ある如く出漁す

 野村泊月の追加句
雪嶺の麓に迫る若葉かな

 波多野爽波の追加句
美しやさくらんぼうも夜の雨も

2014.4.17.

 図書館に感謝。「句会に参加するようにして句集を、選集を読み進める。そして選をするように追加
句をいただく」と言っても、句集、選集等がないことには、はじまらない。どうしてもという句集等は、
「日本の古本屋」や「アマゾン」などを利用して入手するが、定年後の生活、金銭の不如意は避けられ
ない。そこで図書館。
 図書館は学生時代から大いに利用してきた。大学図書館、公立図書館。
 特に、他館からの借り出しサービスは、なくてはならないものだ。句集は県立図書館を含め各図書館
ともあまりない。残念なことだ。ただし「他館からの借り出しサービス」は便利だ。静岡県だけでなく、
他府県の図書館からもかりることができる。
 たとえば「河原枇杷男全句集」は国会図書館経由だった。閲覧は、持ち出し禁止、富士宮市立図書館
の資料閲覧室に限るということで、家での利用はかなわず、そこでメモをするより他は無かった。
 とにかく、図書館に感謝。

 さて、今日の追加句。
 夏目成美、加藤暁台、高井几菫など江戸期の俳人は、「俳句ページ」から 古典俳句抄
へということになる。(芭蕉、蕪村は独立ページ)

 夏目成美の追加句
花鳥をおもへば夢の一字かな

 加藤暁台の追加句
元旦やくらきより人あらはるる
菫つめばちひさき春のこころかな

 高井几菫の追加句
青海苔や石の窪みの忘れ汐
かなしさに魚喰ふ秋のゆふべ哉

 渡辺水巴の追加句
団栗の己が落葉に埋れけり

 尾崎放哉の追加句
つくづく淋しい我が影よ動かして見る
海が少し見える小さい窓一つもつ

 山口誓子の追加句
家の蟻吾が愛するに客は殺す     (『和服』)

 西島麦南の追加句
炎天や死ねば離るる影法師

 長谷川かな女の追加句
虫とんでそのまま消えぬ月の中

 柴田白葉女の追加句
春の星ひとつ潤めばみなうるむ
日向ぼこ人死ぬはなし片耳に

 篠原梵の追加句
やはらかき紙につつまれ枇杷のあり

 日野草城の追加句
薔薇色のあくびを一つ烏猫

 富澤赤黄男の追加句
暗がりに坐れば水の湧く思ひ

 深見けん二の追加句
足もとの蟻の話の聞えさう      (『蝶に会ふ』)

 小沢昭一の追加句
閉経の妻と散歩す鰯雲

2014.4.14.

 句会に参加するようにして句集を、選集を読み進める。そして選をするように追加句をいただく。贅
沢な句会だ。贅沢な遊びでもある。
 昨日に続く二人。

  山口青邨の追加句
子供等に夜が来れり遠蛙        (『雑草園』)
みちのくのつたなきさがの案山子かな
みちのくの伊達の郡の春田かな
夏は来ぬ人はにほへりバラとリラと   (『雪国』)
かの瀑布みどりの草の山に落つ
吊したる猪の前雪が降る        (『露団々』)
はなやかに沖を流るる落椿       (『花宰相』)
わが性の淋しき道へ落椿        (『乾燥花』)
赤とんぼ人をえらびて妻の膝      (『繚乱』)
蟷螂のなまぐさきもの食ひて老ゆ    (『寒竹風松』)

  富安風生の追加句
冬至の日しみじみ親し膝に来る     (『冬霞』)
赤富士の露の満天満地かな       (『晩涼』)
あはあはと富士容(かたち)あり炎天下 (『愛日抄』)
霧の中見えざるものの見えにけり    (『年の花』)

2014.4.13.

 気がついているが、最近の追加する句は、ぼくの老いとつながるように「老い」にかかわるものが多
い。そういった句が訴える力をもつようになったようだ。
 句作りには当然「老い」を見つめるが、ただ引きずられっぱなしではないようしたいものだ。

 昨日の深見けん二の追加句の追加とそして山口青邨の追加句と富安風生の追加句をあげる。

  深見けん二の追加句
これよりの心きめんと昼寝かな    (『父子唱和』)
鳥渡る勤め帰りの鞄抱き       (『雪の花』)
月よりの風が涼しく届きけり     (『星辰』)

  山口青邨の追加句
日輪は胡桃の花にぶらさがる     (『冬青空』)
秋風や旅人のせて石舞台       (『不老』)

  富安風生の追加句
雪解水光琳笹に奏でをり       (『十三夜』)
夕焼は膳のものもを染めにけり    (『松籟』)
かかる日のまためぐり来て野菊晴   (『村住』)
萌え出でて刃のごとき一芽あり    (『晩涼』)
乾坤に寒といふ字のひびき満つ    (『古稀春風』)
義理欠きてわが身を愛す秋深し    (『愛日抄』)
枯芝に老後のごとくさす日かな    (『喜寿以後』)
富士薊触れんとしたるのみに刺す
白といふ厚さをもつて朴開く     (『米寿前』)
命二つ互に恃み冬籠         (『齢愛し』)
母の日や母とは別に妻の愛
死を怖れざりしはむかし老の春
何か居り何か居らざり春の闇     (『走馬燈』)
何かしら遠し遠しと年暮るる
世の中がふと面白く老の春
見つめをる月より何かこぼれけり
九十五歳とは後生極楽春の風

2014.4.12.

 桜の季節。我が家は満開だが、富士山麓は標高の違いにより場所によってはまだ蕾の桜も多い。百メー
トルのぼるのに二三日かかるようだ。
 先日に続き、深見けん二の追加句を追加する。

 深見けん二の追加句
とまりたる蝶のくらりと風を受け   (『父子唱和』) 
かなかなや森は鋼のくらさ持ち    (『星辰』) 
ものの芽のほぐるる先の光をり    (『花鳥来』)
声揃へたる白鳥の同じかほ      (『余光』)
重なりて花にも色の濃きところ
まつすぐに落花一片幹つたふ
薄氷(うすらひ)の吹かれて端の重なれる
流燈に雨脚見えて来たりけり     (『日月』)
朝顔の大輪風に浮くとなく
枝移り来て色鳥の貌を見せ
片栗の花一面や揺るるなく
一蝶の現れくぐる茅の輪かな
光の矢折々飛ばし泉湧く
拭ひたる明るさとなり後の月
ざわめきの天より起る落葉かな
水離れたる白鳥のなほ低く
一花にも大空湛へ犬ふぐり
汗ふくや時には頭の天辺も
奥までも幹に日当る枯木立
青げらの楡ひとめぐり霜の朝
水底にまことくれなゐ冬紅葉
花菖蒲しづかに人を集めをり     (『蝶に会ふ』)
ふくれたるところより餅ふくれけり
わが胸を貫くほどに花吹雪

2014.4.9.

 わが家は今満開の桜にかこまれている。こじんまりとした家相応の富士桜といふ豆桜である。
 春の光を明るくやわらかくうけ、こんなときは、深見けん二の句が、素直に響いてくる。

  深見けん二の追加句
雨かしら雪かしらなど桜餅      (『花鳥来』)
囀の一羽なれどもよくひびき
風よりも荒く蝶来る牡丹かな     (『余光』)
あをによし奈良の一夜の菖蒲酒    (『日月』)
蝶に会ひ人に会ひ又蝶に会ふ     (『蝶に会ふ』)
人生の輝いてゐる夏帽子       (『菫濃く』)
仰ぎゐる頬の輝くさくらかな

2014.4.4.

 昨日に続き、追加句。

  黒田杏子の追加句
花満ちてゆく鈴の音の湧くやうに   (『月光日光』)
初夢の向うから来る我に逢ふ
 
  宇多喜代子の追加句
向い合い善人として餅を食う     (『象』)
八月の赤子はいまも宙を蹴る     (『記憶』)
寒卵年寄りはまた年をとる
庭花火生者ばかりで手を繋ぐ 

2014.4.3.

 最近、追加句に慎重になりすぎているようにも思える。
 今回、以下の句を追加句とする。

  小澤實の追加句
酒匂川吹かれてすかんぽもわれも     (『瞬間』)
鰻待つ二合半(こなから)酒となりにけり 

  小川軽舟の追加句
実のあるカツサンドなり冬の雲      (『手帖』)
雪女鉄瓶の湯の練れてきし
不惑なり蝌蚪のあげたる泥けむり
妻の臍十日見ざりき其角の忌

  岸本尚毅の追加句
初寄席に枝雀居らねど笑ふなり     (『感謝』)
ある年の子規忌の雨に虚子が立つ
秋の妻数かぎりなき人の中

  長谷川櫂の追加句
大広間好きなところで昼寝かな     (『蓬莱』)
妻入れて春の炬燵となりにけり      (『虚空』)
外套に荒ぶる魂を包みゆく 
白露やこぼれこぼれてとどまらず    (『初雁』)
激流に呑まるるごとく年は去る 

2014.3.29.

 図書館に『声に出して味あう日本の名俳句100選』(金子兜太監修、2003年、中経出版)があり
借りることにした。
 さて、ぼくのサイトの「現代俳句抄」はぼくの好みで句を選んでいる。ただ今回、完全な客観性とは
いいきれないが、こういう選択もありえたという一種の客観性をとりれるため、「現代俳句抄」にとり
あげなかった句をそのなかから引用してみることにする。100人(各1句)100句の中で、とりあ
げていなかった俳人は伊藤通明1人であった。またとりあげていなかった句は、以下の14句であった。
 
 麗かや野に死に真似の遊びして    中村苑子   『吟遊』
 春眠の身の閂を皆はずし       上野泰    『佐介』
 散る花にたちてに身より枝しづか   皆吉爽雨   『聲遠』
 一片の落花のあとの夕桜       深見けん二  『余光』
 鳥帰る空に積み上げ無縁仏      有馬朗人   『天為』
 冬鳥よ飛んで帰郷かも知れず     阿部完市   『無帽』
 水天の何れさみしき浮寝鳥      伊丹三樹彦  『身体髪膚』
 幽明の境の屋根を月照らす      福田蓼汀   『福田蓼汀全集』   
 月よりも雲にいざよふこころあり   後藤比奈夫  『金泥』
 月光しみじみとこうろぎ雌を抱くなり 荻原井泉水  『風景心経』
 藻をくぐつて月下の魚となりにけり  長谷川かな女 『雨月』
 夕月や脈うつ桃をてのひらに     伊藤通明   『白桃』 
 春の月大輪にして一重なる      長谷川櫂   『古志』
 蒲団開け貝のごとくに妻を入れ    野見山朱鳥  『曼珠沙華』

2014.3.26.(27.更新)

久しぶりに「俳句ページ」の「俳句百句選」に句を追加したい。
 「雑誌『俳句』の「平成の名句600句」より110句 敏光選 」と
 「高柳克弘「ゼロ年代の俳句100選」と高山れおな「「ゼロ年代の俳句100選」をチューンナップ
する」から (上記選の補遺でもある。) 敏光選 」
 の部分である。

 まず「雑誌『俳句』の「平成の名句600句」より110句 敏光選」の追加句

 雪たのしわれにたてがみあればなほ 桂信子  
 青空や花は咲くことのみ思ひ     同   
 牡蠣食べてわが世の残り時間かな  草間時彦  
 一瀑のしづかに懸り山始      大峯あきら
 海鼠切りもとの形に寄せてある   小原啄葉 
 人間であること久し月見草     和田悟朗 
 ひかり降るごとく雨来て山桜    茨木和生  
 にはとりの血は虎杖に飛びしまま  中原道夫
 春の海光のたまる音響く      西村我尼吾 
 ポストまで歩けば二分走れば春   鎌倉佐弓
 握りつぶすならその蝉殻を下さい  大木あまり 
 Aランチアイスコーヒー付けますか 稲畑廣太郎  
 三・一一神はゐないかとても小さい 照井翠
 双子なら同じ死顔桃の花
 残る虫暗闇を食ひちぎりゐる    佐藤鬼房
 奥歯あり喉あり冬の陸奥の闇    高野ムツオ  
 青空の暗きところが雲雀の血  
 泥かぶるたびに角組み光る蘆
 海に出てしばらく浮かぶ春の川   大屋達治
 茄子焼いて冷やしてたましいの話  池田澄子
 見えさうな金木犀の香なりけり   津川絵里子
 
  そして「高柳克弘「ゼロ年代の俳句100選」と高山れおな「「ゼロ年代の俳句100選」
をチューンナップする」から(上記選の補遺でもある。) 敏光選 」の追加句

 天空は生者に深し青鷹(もろがえり) 宇多喜代子
 みづうみのみなとのなつのみじかけれ 田中裕明
 万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり   奥坂まや
 一滴の我一瀑を落ちにけり      相子智恵 w

2014.3.23.(24.更新)

 最近面白い雑誌がでた。
 「クプラス」(「ku+1」)である。特集がふたつあり、「いい俳句」「番矢と櫂」である。世界は
いつも過渡期で、俳句の過渡期をよく写しだして居る句誌としてたのしく読める。

 その中、俳句作品で、気になった句がある。

 関悦史の句である。

 セクシーに投票箱は冷えてゐる   (「梨」 『クプラス 創刊号』)

 魅力のある句ではあるが、妙に気になる。語彙としては投票箱はあまり好きな語彙ではない。裏切り
者の分野にはいる語彙のようにも思える。その投票箱が、セクシーで冷えている。説明的な句ではなさ
そうだが、やけに気になる。ここ「気になる俳句」に掲載する理由である。なにか新しい萌芽かもしれ
ない。

2014.3.20.

 日頃の読書の中から、「現代俳句抄」追加句を。

 久保田万太郎の追加句
うまれたるばかりの蝶のもつれけり (『流寓抄』)

 中尾寿美子の追加句
白髪は風棲みやすし初御空     (『草の花』)

 摂津幸彦の追加句
八月の山河の奥に保健室      (『鳥屋』)

 柿本多映の追加句
さくらさくら白き闇吐くさくら   (『花石』)
霜月はこつんと骨の音がする

 池田澄子の追加句
太陽は古くて立派鳥の声      (『ゆく船』)

 大木あまりの追加句 
春愁をなだめてこんなところまで  (『星涼』)

 奥坂まやの追加句
大年や海原は空開けて待つ     (『縄文』)

2014.3.16.

 春、春、寒かったり暖かだったり複雑な春。俳句個人誌『富士山麓』四月号の準備、ボチボチ。

 「現代俳句抄」追加句。

   野口る理の追加句
わたくしの瞳になりたがつてゐる葡萄 (『しやりり』)
夏帽や砂といふ砂風に自由

 佐藤文香の追加句
足長蜂足曲げて飛ぶ宝石屋       (『海藻標本』)

 池田澄子の追加句
大寒の困ったことに良い月夜      (『たましいの話』)

  飴山實の追加句
白山の初空にしてまさをなり          (『次の花』)
墓ありて人のぼりゆく花の山       (『花浴び』)
山ふたつむかうから熊の肉とどく
刈らんとて芒にふかく沈みたる

  上島鬼貫の追加句
白妙のどこが空やら雪の空
青雲や鷹の羽せせる峯の松
河豚食うてその後雪の降りにけり 

2014.3.12.

  子規追加句
余命いくばくかある夜短し  
蜩や神鳴晴れて又夕日    
寒月や枯木の上の一つ星  
芭蕉忌や我俳諧の奈良茶飯

  富澤赤黄男追加句
貝殻の青き肌(はだえ)に雨くるよ   (『魚の骨』)
ペリカンは秋晴れよりもうつくしい
春宵のきんいろの鳥瞳(め)に棲める  (『天の狼』)
ガラス窓壊れてしまふよい天気


2014.3.10.

 注の増補のため外山の句をあらためてとりあげる。他には「現代俳句抄」追加句が四句。

  外山恒一
こんな国もう滅ぼそう原発で      (2014年「角川『俳句』三月号」)

 (注:「角川『俳句』三月号」の特別企画「東日本大震災から三年」の関悦史さんの「引き裂かれな
がら愉しく飛ぶ」という文の中の引用で初めて知った句。「たまたま五七五の形をとっているものの、
俳句としてかかれたのではない」句である。この句を選んだ関さんの思いは雑誌を直接読んでいただき
たい。ぼくがあえてこの句を選んだのは、あくまで逆説としてである。関さんの表現を使えば「シュー
ルな」逆説としてである。政府や東電は原発に頼ろうとしているが、またもや「想定外」で終わること
はないのか。後ろの山への避難をためらって多くの生徒を津波で死なしめた小学校のテレビドキュメン
タリーが先ほど終わったところだ。)

   阿部青鞋
人間の皮膚より寒いものはなし

  渡邉白泉
わが頬の枯野を剃つてをりにけり

  飯島晴子
藤若葉死人の帰る部屋を掃く        (『寒晴』)

  池田澄子
初恋のあとの永生き春満月

2014.3.7.

 富士山麓も大雪にみまわれた。
 自然の中に住んでいるという実感が更に強まる。

 小林秀雄のCDを久しぶりで聽いている。江戸弁の調子の良いはなしかたで落語家を思わせる。きいて
いて楽しい。

 さて、その中で、あらためて、「大事なのは、自然を見るというより、寧ろ自然に見られる事だ」と
いうことをきいた。

 「俳句と自然」というテーマが自然にうかんでくる。小林にとって、画家は「見る」という行為を通
じて、自然という「存在」と、主客をこえた「親近性」を獲得するものである。俳句もまたそういった
親近性を感じつつ詠むという一面を持つ。こころしたいことである。

 また、最近心理学のアドラーを読むことが多いが、アドラーが意外に東洋思想に近い面があることを
痛感する。自然という意味では、次のアドラーの世界のひろがり(アドラーは共同体という語を使うが)
についての紹介の文も喚起的なものである。
 「アドラーは自ら述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や
人類を包括したすべてあり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生
物までも含まれる、としています。」
 動植物や無生物にいたるまで、主客をこえた「親近性」を獲得をめざす面を俳句はもっているはずで
ある。こころしたいことである。

 自然と共鳴する感性といっていいのかもしれない。俳句の一要素に自然の無言の響きを聴くことがあ
りえる。

 さて、このテーマに関わる句はすでに引用した句の中に多くあるので今回はあらためては引用はしな
い。

 以下、上のテーマとは関係なく最近メモした句をいくつか追加句としてあげておこう。

   正岡子規の追加句
 短夜や眠たき雲の飛んでゆく      (『寒山落木』)
 啼きながら蟻に蟻にひかるる秋の蝉
 無爲にして海鼠一萬八千歳 

   村上鬼城の追加句
 冬山の日当たるところ人家かな

   松瀬青々の追加句
 舷(ふなべり)や手に春潮を弄(もてあそ)ぶ
 あはれなりさかれば鳥も夫婦かな
 身をよせて朧を君と思ふなり
 アッパッパ思ひ邪なき娘かな
 話しかけるやうに女が火を焚きて
 妻にせし女世にあり年の暮
 
   渡辺水巴の追加句
 日輪を送りて月の牡丹かな    (「ホトトギス雑詠選集」)

   深見けん二の追加句
 来し方はもとより行方陽炎へる  

   坪内稔典の追加句
 ころがして二百十日の赤ん坊   (『月光の音』)

   的野雄(新規)
 一富士を拝すその他はてきとうに
 
   寺島ただし(新規) 
 かたはらを蟻通りゆく蟻地獄   (『なにげなく』)

   照井翠の追加句
 虹の骨泥の中より拾ひけり    (『龍宮』)

   辻桃子の追加句
 白い裸赤い裸と春の湯に 

   神野紗希の追加句                     
 細胞の全部が私さくら咲く                    
 
2014.2.27.

 明日「佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』」三月号発行する。
 大雪で閉じ込められたり、二月が二十八日までしかなかったり、ややきついが発行準備はやっている。


 どういうわけか田中裕明の追加句

 暗幕の向うあかるし鳥の声     『先生からの手紙』  
 団栗やなりたきものに象使ひ
 恋をはるもうからつぽの種袋
 さびしいぞ八十八夜の踏切は    『夜の客人』
 横に寝て大地に遠し年の暮

 そして波多野爽波

 墓参ほめられし句を口ずさみ    『一筆』
 ついてくるひとはと見れば吾亦紅
 すつぽりと鏡中にあり青芒
 元気な人ここでも元気墓洗う
 永き日の祇園抜けみち知り尽くす  「『一筆』以後」

 最後に子規追加句

 初雪やかくれおほせぬ馬の糞(ふん)
 梅雨晴やところどころに蟻の道 
 海原(うなばら)や何の苦もなく上る月 
 魂祭ふわふわと来る秋の蝶     
 小烏の鳶なぶり居る小春哉     
 元日と知らぬ鼾(いびき)の高さかな
 涅槃会や蚯蚓ちぎれし鍬の先
 恐ろしき女も出たる花見哉
 甲斐の雲駿河の雲や不二詣       
 大粒になつてはれけり五月雨
 金時も熊も来てのむ清水哉
 五月雨やけふも上野を見てくらす
 手の内に蛍つめたき光かな
 蝿憎し打つ気になればよりつかず
 一人旅一人つくづく夜寒哉
 秋風の一日何を釣る人ぞ
 冬籠日記に夢を書きつける
 鞭あげて入日招くや猿まはし    
 夕雲雀もつと揚つて消えて見よ
 隧道にうしろから吹く風すずし
 みちのくへ涼みに行くや下駄はいて
 夕立にうたるる鯉のかしらかな
 田から田へうれしさうなる水の音
 
2014.2.21.

 富士山麓、大雪に一時とじこめられることになり、俳句だけには集中できなかった。
 自動車道はすでに通行可能になっている。俳句道再開といきたいものだ。初めての大雪だけで即、
大雪の句というのはむつかしい。すでに「現代俳句抄」に掲載しているが、細谷源二の

地の涯に倖せありと来しが雪      (『砂金帯』)

など厳しい雪国に生きた、そして生きている先達たちの句もあまたあり、山梨県などにくらべるとまだ
まだ甘い状況にあった今回の当地(富士山麓、富士宮)の大雪であった。 
 
 気になっている対談がある。
 「俳句 2014年1月号」の小澤實と中澤新一による「なぜ今、俳句か」である。
 啓発される発言が多い内容豊かな対談である。
 後追いをするエピゴーネンになってもしかたないので、刺激になる箇所をとりあげて自らに聞かせゆっ
くりと熟成させたいと思っている。

 「前衛詩っぽい俳句ってあるけど、あれ、あまり成功してないんじゃないですか(笑)。むしろ、僕
なんかは芭蕉のほうが前衛的に感じることもあります。」 (中沢)

 「日本人の感性というのはひとつ、普遍のものがあって、そこには断層、地層がないんだという感覚
で(今までの歳時記が)作られているけど、実際にはものすごい断層線があるんじゃないかと思ってい
る。」 (中沢)

 「別に自然は襲いかかっているんじゃないんですよ。単に自分の素顔を現したというだけのことです。
だけど、自然が姿を現すと、人間の作った土台は流されてしまう。その自然を僕らはずっと忘れていた
じゃないですか。口では自然、しぜんとものすごく言うんですがね。」 (中沢)

 「(中沢さんの本を愛読してきて)俳句という詩が世界を認識する方法として最前線のものだとうよ
うなものを感じてきたんです。」 (小澤)
 
 「俳句は必ず季語を立てないといけない。これはすごく重要なことです。(中略)動植物の目になっ
て世界を認識するということをルールにしているわけです。」 (中沢)

 「世界は人間のためだけにあるのではないということを歳時記は示している。」 (小澤)

 「体力があるうちはまだ見えないことがいっぱいあるんですよ。」 (中沢)

 「「月並を破る」ということは、記号化したものの定型を破っていかないといけない。」 (中沢)

 「今の冒険家たちは、すでに探検は終わったいる時代に、なおも新しい冒険が可能かかということに
挑戦している。ぼくはそれにすごく共感を感じます。」 (中沢)

 「僕たちの時代錯誤的挑戦」 (中見出し)

 「世の中で後ろめたいものは、だいたい本質があるんです。そこへ立脚しているものは、容易に死な
ないんですよ。世間から糾弾されてもめげない。俳句はいつも離脱とか斜めから見たりとか、そういう
ものが本質にある芸術ですね。」 (中沢)

 「そういう意味で現代人は芸術に対してハンディを負っていますが、ハンディを負いながらやるとい
うのが、僕らの宿命じゃないですか。でも、ハンディを負いつつ新しい道を開拓していくことは可能だ
と思います。」 (中沢)
 「やりがいがありますね。」 (小澤)

     ☆

 なお、この対談の中で引用されている次の句を「現代俳句抄」の追加句とする。

  林翔の追加句

鷹が眼を見張る山河の透き徹る

 なおこの機会に、次の句も追加する。

一花だに散らざる今の時止まれ    (『平成秀句選集』)
光年の中の瞬の身初日燃ゆ
耳鳴りは宇宙の音か月冴ゆる
この若き心を映せ冬鏡

     ☆

 なお、単純で大胆な句をも作っていきたいと思うぼくに、あたりまえといえばあたりまえの
次の文章が心に残ったむね付け加えておく。

 大切なのは、普通の言葉で、非凡なことを言うことだ。
               「ショウペンハウエル『読書について』」

2014.2.10.

 思いもかけなかった本にであった。
 『正岡子規 運命を明るいものに変えてしまった男』(新講社)で、多湖輝の著書である。
 多湖輝といえば、かつては千葉大学の心理学の先生で、心理学の啓蒙書で次々にヒットを
だした人である。過去の人と思っていたが、2009年発行のこの本は、結構面白い。俳句
の本というより生き方の本であり、とにかく子規を徹底的に「運命を明るいものに変えてし
まった男」の角度からとりあげ、実際子規はそういう人でもあった。
 「人は逆境にあってもささいなことに楽しさや喜びを見いだせる。生きるということは本
来、苦しみを耐えることではなくて楽しさを見出すことではないのか。辛い運命を明るいも
のに変えることではないか。そのことを私に力強く教えてくれたのが、三十五歳で亡くなっ
た俳人であり歌人の正岡子規だった。」ではじまる本である。
 もう一度言う、これは俳句の本ではない。
 子規といえば、禅の本などでもよく引用される『病床六尺』の「余は今迄禅宗の所謂悟り
といふ事を誤解していた。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居た
のは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであつた。」がある
が、その文に響きあう子規の世界がかかれている。
 俳句の本ではないと言ったが、序章「好奇心を失わない明るい人生でありたい」からはじ
まるこの本は、ある意味では俳句のそこぬけに明るい面を明るくあらわしている本ともいえ
る。

 さて、子規の追加句を準備しているが、なにしろ作った句が多い。「芭蕉雑談」で「芭蕉の
俳句は過半悪句駄句」といった子規の句も同じようなことが言えなくもない。焦らずに追加句
を増やしていきたい。

  子規追加句
雲助の睾丸黒き榾火かな          
足の立つうれしさに萩の芽を検(けん)す 
君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く       (送秋山真之米国行)
柿喰ひの俳句好みしと伝ふべし
萩咲いて家賃五円の家に住む           (我境涯は)
フランスの一輪ざしや冬の薔薇
痩骨ヲサスル朝寒夜寒カナ          
病床の我に露ちる思ひあり          
夕立や沖は入日の真帆片帆
見てをれば夕立わたる湖水かな
盆過の村静かなり猿廻し 
禅寺の門を出づれば星月夜 
いそがしく時計の動く師走哉 
寒けれど不二見て居るや坂の上                 
初暦五月の中に死ぬ日あり 
死はいやぞ其きさらぎの二日灸
春の野に女見返る女かな
初夢の思ひしことを見ざりけり
天地を我が生み顔の海鼠かな

2014.1.30.

 「現代俳句抄」の選句は、句集、選集レベルで行うのが基本であるが、また雑誌掲載の
句でも、しばらく寝かしておいて、満を期して扱うのがこれまた基本であるが、今回は出
たばかりの雑誌掲載の句をあつかうという点では、例外的である。

 「新しい句」との出会いを常に求めている。なかなか出会わない。意匠的には新しそう
だが、意味やイメージが伝わらない場合が多い。伝わる人には伝わるのであろうが、少な
くとも、ぼくには伝わらない。ぼくには何か勘違いをしているように思えたりする。俳句
という短さゆえの不都合かもしれない。

 『俳句 2014年2月号』の関悦史「平穏」。ひさしぶりの出会いの感覚が生まれた。
とりあえず、雑誌の営業妨害にならぬように三句。

 冬空に首浮きゐるを秘密とす

 長州から冷たい黒いミルク来る

 「進化」いま汚染水垂れあたたかし

2014.1.29.

子規の世界は自在の世界。追加句はひろげればきりがない。その時の気分にあったものをぼちぼち追加
してゆく。

  正岡子規追加句
ふみこんで帰る道なし萩の原     (『寒山落木』)
小春日や浅間の煙ゆれ上る
我庭や上野の花の花吹雪
涼しさや羽生(はねは)えさうな腋(わき)の下
羽黒山蛍一つの闇夜かな
秋の暮女をみれば猶(なほ)淋し
月の出や皆首立てて小田の雁
蕣(あさがほ)や君いかめしき文学士   (漱石来る)
三尺の庭に上野の落葉かな        (根岸草庵)
日のあたる石にさはればつめたさよ
生きて帰れ露の命と言ひながら      (従軍の人を送る)
徴発の馬つづきけり年の市
凩や海は虚空にひろがりて
故郷はいとこの多し梅の花
涼しさや石灯籠の穴も海
炎天や蟻這ひ上る人の足
雲のそく障子の穴や冬こもり
のどかさや千住曲れば野が見ゆる
目さませば我裾に春の月出たり
元日や朝からものの不平なる     (『俳句稿』 「未定稿」も含む)
虚子を待つ松蕈(まつたけ)鮓や酒二合
栗飯や病人ながら大食ひ       
ツクツクボーシツクツクボーシばかりなり
   ☆
ねころんで書よむ人や春の草  
うれしさにはつ夢いふてしまひけり
フランスの一輪ざしや冬の薔薇
夏草やベースボールの人遠し
句を閲すラムプの下や柿二つ
秋の蝿追へばまた来る叩けば死ぬ


2014.1.28.

 「俳句百句選」のページに以下の項目を追加。

 『与謝蕪村この一句 現役俳人が選んだ上位句集』(柳川彰治編著 青弓社 )
   から上位二十位まで (著作権などもあり二十位以下は各自その本を直接手にとってみて下さい)

1. 菜の花や月は東に日は西に
2. さみだれや大河を前に家二軒
3. 春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉
4. 月天心貧しき町を通りけり
5. 牡丹散(ちり)て打かさなりぬ二三片
6. 涼しさや鐘をはなるるかねの声
7. 夏河を越すうれしさよ手に草履
8. 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉 
9. 朝がほや一輪深き淵のいろ
10.愁ひつつ岡にのぼれば花いばら
11.ゆく春やおもたき琵琶の抱心
12.葱(ねぶか)買(かう)て枯木の中を帰りけり
12.斧入て香におどろくや冬こだち
14.几巾(いかのぼり)きのふの空のありどころ
15.しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり 
16.身にしむや亡妻(なきつま)の櫛を閨(ねや)に踏
17.春雨や小磯の小貝ぬるるほど
17.遅き日のつもりて遠きむかしかな
19.御手討の夫婦(めをと)なりしを更衣
20.二村に質屋一軒冬こだち
20.はるさめや暮なんとしてけふも有
20.春風や堤長うして家遠し
20.四五人に月落ちかかるおどり哉
20.楠の根を静にぬらす時雨哉
20.去年より又さびしいぞ秋の暮

2014.1.25.

 芭蕉名言

 〇 名人はあやふき所に遊ぶ。               『俳諧問答』

 〇 古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ     『韻塞』

 〇 物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし。 『三冊子』

 これらはぼくが気をつけている芭蕉の言葉である。

 自分自身の展開点にあたって芭蕉の言葉を引用することが、不思議に多い。
 芭蕉の言葉を利用し、ある場合は都合のいいようにして使っているかもしれない。
 蛇足だが、誤解から新しいものがでてくることもありうるのは、文学の歴史が証明している。

 たとえば、ぼくの初めての句集の『富士・まぼろしの鷹』の「あとがき」には次のように、芭蕉の
言を引用している。

    なお、四季の他「名所(富士)」を設けたのは、芭蕉の発言「発句も四季のみならず、恋・
   旅・名所・離別等、無季の句ありたきもの」(『去来抄』)を意識したものである。無季とはい
   え「名所・富士」は季語に相当するものであると思いたい。
      (中略)
    ここでは「俳諧自由」ということにとどめておく。

 また、句集刊行後に継続の作業として、「佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』(月刊・web 版)」
を発行し、今に至っているが、その「まえがき」にあたるものに、

     芭蕉の「つひに無能無才にしてこの一筋につながる」の「この一筋」は畏れ多いが、馬
    齢を重ね最後に残されたものとして俳句が「この一筋」ともいえる大きな存在になっている。
     現在結社や団体に属していないこともあり、芭蕉の最晩年の句の「この道やゆく人なしに
    秋の暮」の思いがせまってくるが、とにかく「この道」をゆくしかない。
     芭蕉の「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」を思う。
     「流行」における「新」はともかく「不易流行」における「新」の難きを思う。
     勿論、俳句は「俳」の世界でもある。「俳」の心、「滑稽、おどけ」の心、つまり「遊び
    の心」も大切にしたいと思っている。

と、僭越ながら芭蕉を意識しながら書いている。

 これからは解説をくわえることもありうるが、今回は以下とりあえず箇条書きに書いておきたい。
展開は、これからの課題である。

 資料としては、山下一海著『芭蕉百名言』、復本一郎著『新・俳人名言集』、石寒太著『芭蕉のこ
とばに学ぶ俳句のつくり方』、『総合俳句事典』の「芭蕉遺語集」などを中心としている。
 「去来抄」「三冊子」など直接読んでいるが、去来の意見もまじっていて、きちんと読み取るのは
なかなかむつかし。手持ちの『校本芭蕉全集第七巻俳論集』、『校本芭蕉全集第九巻芭蕉遺語集』も
読み切る自信がない。おのずから先に挙げた四冊を中心とした類書が中心になる。


 (一) 句作に際して自分に対して常に心しておきたい芭蕉の言

 〇 名人はあやふき所に遊ぶ。              『俳諧問答』

 〇 古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ    『韻塞』

 〇 物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし。『三冊子』
  
 〇 予が方寸(理屈)の上に分別なし。     「其角「雑談集」」

   汝等が弁皆理屈なり。           「其角「雑談集」」

 〇 言ひおほせて何かある。          『去来抄』
 
 〇 不易流行                 (『去来抄』などより)

   師の風雅に、万代不易あり、一時の変化あり。この二つに究(きはま)り、その本一つなり。
                                  『去来抄』

   不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず。 『去来抄』

 〇 俳諧自由              (『去来抄』より)

   俳諧自由の上に、ただ尋常の気色(けしき)を作せんは、手柄なかるべし。 『去来抄』
   
 〇 松の事は松に習へ。             『三冊子』

 〇 乾坤の変は風雅の種なり。          『三冊子』

 〇 造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ
   事なし。                  『笈の小文』

 〇 ついに無能無芸にして、ただ此の一筋に繋がる。『笈の小文』

 〇 心に風雅有るもの、一度口にいでずと云ふ事なし。   『去来抄』
 
 〇 心の作はよし。詞の作は好むべからず。    『三冊子』

 〇 格に入りて格を出ざる時は狭くまた、格に入らざる時は邪路にはしる。格に入り、格を出ては
   じめて、自在を得べし。           『俳諧一葉集』

   格を定め、理を求める人は俳諧中位に置き、格をはなれ理を忘るる人は、此の道の仙人なり。
                          『許野消息』

 〇 高く心を悟りて、俗に帰るべし。         『三冊子』

 〇 事は鄙俗(ひぞく)の上に及ぶとも、懷かしくいひとるべし。   『去来抄』

 〇 新しみは俳諧の花なり。             『三冊子』

 〇 きのふの我に飽くべし。             『俳諧無門関』
 
   昨日の我に飽きける人こそ、上手にはなれり。   『篇突』

 〇 俳諧は気に乗せてすべし。            『三冊子』
 
 〇 句調はずんば舌頭に千転せよ。          『去来抄』

 〇 発句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別等無季の句ありたきものなり。『去来抄』

 〇 虚(想像)に居て実(真実)を行ふべし。実に居て、虚にあそぶ事はかたし(難しい)。
                           『本朝文選』

 〇 俳諧といふは別(格別)の事なし。上手に迂詐(うそ)をつく事なり。  『俳諧十論』

 〇 俳諧は三尺の童にさせよ             『三冊子』

 〇 一句は手強く、俳意たしかに作すべし.      『去来抄』

 〇 発句は取り合はせ物と知るべし。         『篇突』

 〇 発句は、ただ金を打ち延べたる様に作すべし。   『旅寝論』

 〇 平生即ち辞世なり。               『芭蕉翁行状記』

 〇 我骨髄より油を出(いだ)す。          『俳諧問答』
 
 〇 俳諧は無分別なるに高みあり。          『俳諧問答』
 
 〇 点者をすべきよりは乞食をせよ。         『石舎利集』

 〇 風雅もよしや是(これ)までにして、口をとじむとすれば、風情(ふぜい)胸中をさそひて、物の
   ちらめくや、風雅の魔心(ましん)なるべし。    『栖去之弁』
 
 〇 もの知りにならんより、心の俳諧肝要也。     『古池』

 〇 かるきといふは、趣向のかるきことをいふにあらず。腸の厚きところより出でて、一句の上に
   自然あることをいふなり。            『俳諧問答』

 〇 俳諧の益は俗語を正す也。            『三冊子』

 〇 俳諧は教へてならざる処有り、能(よく)通るに有り。『三冊子』



 (ニ) その他重要な芭蕉の言

 〇 多年俳諧好きたる人より、外の芸に達したる人、はやく俳諧に入る。『三冊子』『宇多法師』

 〇 予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかいて用ゐるところなし。 『許六離別詞』

 〇 心の味をいひ取らんと、数日腸をしぼる。      『三冊子』

 〇 切字に用ふる時は、四十八字皆切字なり。用ひざる時は、一字も切字なし。『去来抄』
 
 〇 絶景にむかう時は、うばはれて叶はず。       『三冊子』
 
 〇 東海道の一筋もしらぬ人、風雅におぼつかなし。   『三冊子』
 
 〇 今の俳諧は、日頃に工夫を経て、席に臨んで気先を以て吐くべし。心頭に落とすべからず。
                            『去来抄』

 〇 こもかぶるべき心がけにて御座候。         「猿雖宛書簡」

 〇 句は天下の人にかなへる事は安し。ひとりふたりにかなゆる事かたし。  『三冊子』

 〇 俳諧いまだ俵口をとかず。          『三冊子』     

 〇 俳諧に古人なし。只後世の人を恐る。     「不玉宛去来論書」


 (三) 注がないとわかりにくい芭蕉の言(そのうちあらためて取り扱いたい)

 〇 門人この道にあやしき所を得たるものにいひて遣はす句なり。   『三冊子』
 
 〇 一句のぬしとは成がたし。          『俳諧耳底記』

 〇 西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道
   する物は一(いつ)なり。          『笈の小文』

 〇 時々気を転じ、日々に情(じやう)を改む   『笈の小文』 

 〇 見しはききしに増りて、あわれに心すむばかり。
                         「木啄も庵は破らず夏木立」の前書

 〇 侘びしきを面白がるはやさしき道に入りたるかひ(甲斐)なりけらし。 『別座鋪』『髄門記』
        
 
 〇 無常迅速のことはり、 いさゝかもわするべ きにあらず。
                         『幻住庵記』 (米沢家蔵) 
  
 〇 なら茶三石喰ふて後はじめて俳諧の意味をしるべし。   『俳諧十論』
   (注)「なら茶」奈良茶飯、「なら茶三石喰ふ」清貧にどっぷりつかること。

 〇 春雨の柳は全躰連歌也。田にし取る鳥は全く俳諧也。 『三冊子』

2014.1.21.

 高野ムツオの『萬の翅』は「震災句集」をこえた東北に腰をすえた拡がりを持つ力強い句集になって
いる。「車にも仰臥という死春の月」などすでに引用した句は「現代俳句抄」を見ていただきたい。

  高野ムツオ追加句
あらたまの玉の中なる戦火かな      (『萬の翅』)
光れるはたましいのみぞ黴の家
冬の暮一物質として坐る
億万の風が生みたる秋の風
まっすぐに行けば海底蝉時雨
陸前の海を展きて御慶とす (平成十七年)
光源として子の眼夏の雨
陽炎より手が出て握り飯掴む
みちのくの今年の桜すべて供花
凍星や孤立無援にして無数

2014.1.10.

 以前、「百年後もういないけど木の芽和え」(児玉硝子の句)を「現代俳句抄」に掲載した。どの雑
誌で見つけたか、ハッキリとした記憶はない。
 今回、児玉硝子『青葉同心』にあるとわかった。ついでに次の句を加えたい。

  恋愛は体に悪い春の風

2014.1.9.

 最近の「こども俳句」のことを何となく思っていたところ「毎日俳句大賞こどもの部最優秀賞」とい
う字が目に入った。「現代俳句抄」に子供俳句のスペースももうけているので久しぶりにのせてみる。
芭蕉も「俳諧は三尺の童(わらべ)にさせよ」ともいっている。

 山口夢築(ゆづき、10歳)君、第17回毎日俳句大賞こどもの部で最優秀賞の句
   
  南からつばめが運ぶ空の色

2014.1.6.

 俳句の巨人というか、俳句の功罪を背負いつつ堂々と生きた俳人、虚子。引きずられることはないが、
読み返せば俳句的日常につながる豊かな世界が開ける。読み返すことにする。

  高濱虚子の追加句
後家がうつ艶な砧に惚れて過ぐ        (『五百句』)
秋風や最善の力唯尽す
今朝も亦焚火に耶蘇の話かな
老衲(らうなふ)炬燵に在り禽獣裏山に
両の掌にすくひてこぼす蝌蚪の水
芭蕉忌や遠く宗祇に遡る           (『五百五十句』)
我思ふままに孑孑(ぼうふら)うき沈み
羽子板を口にあてつつ人を呼ぶ
マスクして我を見る目の遠くより
閻王の眉は発止と逆立てり          (『六百句』)
壱岐低く対馬は高し夏の海
水打てば夏蝶そこに生れけり
目にて書く大いなる文字秋の空
大木の見上ぐるたびに落葉かな
小春ともいひ又春の如しとも
たんぽぽの黄が目に残り障子に黄
釣堀に一日を暮らす君子かな 
何事も人に従ひ老涼し
スリツパを超えかねてゐる仔猫かな
生きてゐるしるしに新茶おくるとか
牛の子の大きな顔や草の花
天高し雲行く方に我も行く
其辺を一と廻りして唯寒し          (『小諸百句』)
有るものを摘み来よ乙女若菜の日        (『六百五十句』)
日凍てて空にかかるといふのみぞ
わが終り銀河の中に身を投げん        
春惜む命惜むに異らず
冬ざれや石に腰かけ我孤独
傲岸に人見るままに老いの春         (『七百五十句』)
落椿美し平家物語
これよりは恋や事業や水温む         (『贈答句集』)

2014.1.2.

 気になる俳人たちの句集、選集など日常的に読みなおしを行っているが、今日はそれらの中から「現
代俳句抄」に付け加えたたらいいものをあげておく。
 

  追加句

  波多野爽波
羅のひとのなかなか頑なに          (『骰子』)
この人の才能は未知おでん酒
腹具合怪しけれども舟遊び           (『一筆』)
次なる子はやも宿して障子貼る
手が冷た頬に当てれば頬冷
裂かれたる穴子のみんな目が澄んで
金策に夫婦頭を寄せすいっちょん
金亀子とび続けをりいま何時 

  矢島渚男
黒塗りの昭和史があり鉦叩       (『翼の上に』)

  田中裕明
人間の大きな頭木の実降る       (『先生から手紙』)
おほぜいできてしづかなり土用波    (『夜の客人』)
爽やかに俳句の神に愛されて 
詩の神のやはらかき指秋の水

  高野ムツオ
万の翅見えて来るなり虫の闇      (『萬の翅』』) 

2013.12.30.

 書き留めた句のなかから、人生肯定的な句を二句。プラス一句。

死ぬ暇もなうてと笑ひ薬喰  茨木和生    (『薬喰』)
人生の輝いてゐる夏帽子    深見けん二  (『菫濃く』)
日の沈む前のくらやみ真葛原

2013.12.29.

  「毎日新聞 2013年12月23日「今年の秀句」」+「『2014角川俳句年鑑』」より
  あれこれ書き出すときりがない。勝手に自制して。

上野出て午後は枯野を走る汽車  今瀬剛一
雲の峰玉の夕日をかたはらに   岸本尚毅
似たやうな姿の蟻が蟻襲ふ
日盛や動物園は死を見せず    高柳克弘
見る夢もなくて久しや籠枕    後藤比奈夫
朝顔や仕事はかどる古机     大峯あきら
縁側にころがる柿と曾祖母と   坪内捻典
艦といふ大きな棺(ひつぎ)沖縄忌 文挟夫佐恵 (『白駒』)
人の世へ君は尾鰭をひるがえし  柿本多映  (『仮生』)

2013.12.27.

 辻征夫『俳諧辻詩集』を読み直す。だが、初回はあまりきちんと読んでいなかったことを確認するこ
ととなった。手持ちの『貨物船句集』がどこにいったかわからないので、はたして当面この句集にはいっ
ていたか確認は出来ないが、とりあえず『俳諧辻詩集』から追加句を選んで見よう。

  辻征夫追加句
行春やみんな知らないひとばかり    (『俳諧辻詩集』)
遠火事や少年の日の向こう傷

2013.12.26.

 高野ムツオ句集『萬の翅』購入しようと思っているが、年金生活、潤沢には使えない。そのうちどこ
かの図書館で見つけることにする。
 『2014角川俳句年鑑』にあった次の句を追加句とする。

   高野ムツオ追加句
 死者二万餅は焼かれて膨れ出す   (『2014角川俳句年鑑』)

2013.12.25.

 今日、年末へ向け来年度の「富士山麓 一月号」の編集準備を開始。書きためた句の推敲と選句が中
心である。
 さて、折に触れメモった句を、掲載しておく。

 「現代俳句抄」追加句

  高濱虚子
大寒や見舞に行けば死んでゐる

  堀井春一郎
晩夏光教師瞼に孤島もつ

  柿本多映
わが母をいぢめて兄は戦争へ

  寺山修司
二階ひびきやすし桃咲く誕生日

  渡辺誠一郎
啓蟄の日本行方不明かな

  富澤赤黄男
美しきネオンの中に失職せり
屋根屋根はをとことをみなと棲む三日月

  野見山朱鳥
落椿天地ひつくり返りけり

  橋かん石
火の迫るとき枯草の閑かさよ

  高屋窓秋
雪月花美神の罪は深かりき

  辻征夫
床屋出てさてこれからの師走かな

  原裕
子の母のわが妻のこゑ野に遊ぶ

  加藤楸邨
カフカ去れ一茶は来れおでん酒

  原石鼎  
梟淋し人の如くに瞑(つぶ)る時

  久保田万太郎
いへばただそれだけのこと柳散る

  京極杞陽
よきことの一つ日脚の伸びしこと

  折笠美秋
棺のうち吹雪いているのかもしれず   (『虎嘯記』)
   ☆
俳句思う以外は死者かわれすでに

 楠本憲吉(1922-88)
梅雨の航喪失の二字現れては消ゆ    (『孤客』)

  永井荷風
稲妻や世をすねて住む竹の奥

  星野石雀
鶏頭に風吹く母のみそかごと
 
2013.12.19.

 常に基礎作業へ。
 今回は
 飯田蛇笏の句を追加。
秋の星遠くしづみぬ桑畑                  (『山廬集』)
出水川とどろく雲の絶間かな  
帯の上の乳(ち)にこだはりて扇さす  (『霊芝』)
大揚羽ゆらりと岨(そば)の花に酔ふ
乳(ち)を垂(た)りて母牛のあゆむ冬日かな
なまなまと白紙の遺髪秋の風      (『雪峡』)
月光とともにただよふ午夜の雪
雪山のそびえ幽(く)らみて夜の天
たまきはるいのちをうたにふゆごもり
春燈やはなのごとくに嬰(こ)のなみだ
凪ぎわたる地はうす眼して冬に入る   (『家郷の霧』)
おく霜を照る日しづかに忘れけり
空林の霜に人生褸の如し
こころざし今日(こんにち)にあり落花ふむ
暁の虫文業ともに寂かなり
金輪際牛の笑はぬ冬日かな
朝日より夕日親しく秋の蝉       (『椿花集』)
冬山へ枯木を折りて音を聞く
夜の蝶人ををかさず水に落つ

2013.12.17.
 常に原点へ、基礎作業へ。句集を読みなおし、追加句をあげてゆく。ぼくにとって重要な俳人は結構
多いがその中で、飯田蛇笏、飯田龍太を今は準備している。
 今回は、飯田龍太。次回は蛇笏。

  飯田龍太の追加句
秋嶽ののび極まりてとどまれり     (『百戸の谿』)
ひややかに夜は地をおくり鰯雲
青竹が熟柿のどれにでも届く
水上の一児ふくいくたる暮色      (『麓の人』)
ねむるまで冬滝響く水の上
一月の瀧いんいんと白馬飼うふ
落葉踏む足音いづくにもあらず(母死去)(『忘音』)
寒の汽車すばやくとほる雑木山
雲のぼる六月宙の深山蝉        (『春の道』)
少年の毛穴十方寒の闇         (『山の木』)
紫蘇もんでゐる老人の地獄耳
たのしさとさびしさ隣る瀧の音
春の夜の藁屋ふたつが国境ひ      (『涼夜』)
何見るとなく見て遠き夏景色      (『今昔』)
朱欒(ざぼん)叩けば春潮の音すなり  (『山の影』)
鶏鳴のちりりと遠き大暑かな
深空より別の風来る更衣        (『遅速』以後)
遠くまで海揺れてゐる大暑かな

2013.12.15.

 文明、消費社会の表面的な明るさにかかわらず、暗い時代だ。東日本大地震のあと南海大地震が語ら
れようとしている。とにかく地殻変動は続く。太陽系の消滅。大彗星の地球への衝突。そのための地球
脱出。億年単位では十分考えられることどもである。大地震などの地殻大変動とともに大陸移動などつ
いつい考えてしまう。。孫はいい。そのまた孫ぐらいはどうにか生き延びられるであろう。だが、万年、
億年となると答えられない。ノストラダムスの終末予言、聖書のハルマゲドンなどは根拠のなさなどで
児戯にひとしい。しかし、科学的装いをまとった宇宙にかかわる遠い将来の終末論の否定は難しい。そ
の時現今の人はだれも生きてはいないのだ。何が起こったかはだれもわからないのだ。
 昔から文学ではいろいろの終末論があったが、終末論的俳句における今年の極めつけは、『2014
角川俳句年鑑』の「今年の秀句 ベスト30」の三人の選者のうち二人が選んだ句

    絶滅のこと伝はらず人類忌  正木ゆう子

であろう。
 この句、初出の前書には「能村登四郎に『老残のこと伝はらず業平忌』あれば」とある。「水の地球
すこしはなれて春の月」「春の月水の音してあがりけり」などの宇宙的な佳句をつくった俳人がその延
長で数多くの俳句の一つとして作ったのかもしれない。もちろん「進化してさびしき体泳ぐなり」のな
どもあり、人間存在の淋しさ、悲しみは十分体感、考察できている俳人であるのはいうまでもなく、た
んなるはしゃぎであるはずはない。
 だが、すくなくとも深く思いつめてつくったようには響いてこない。一見句作の苦労のあともなく余
裕さえ感じさせる。俳諧的諧謔のよく効いた句ともいえる。しかし、考えれば実に実に重い、重い句だ。

 おおげさに言えば、芭蕉の「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」の宇宙版ともいえる。
 いづれにしろ、人類だけでなく、世界が、太陽系が死んでゆくのだ。

 高柳重信は俳句の未来について憂える発言をしていたが、その俳句が人類の未来の絶滅を云々してい
るのである。

 絶滅をどんなに崇高に、どんなに熱をこめて吟じても、終末表現を競う世界での優勝者がだれであっ
ても、終末がきたときには、そんなことは吹っ飛ぶのである。

 今生きることを大事にしたい。優劣、比較競争の遊びは遊びである限りいいが、とにかく自分の生を
「苦楽を含め」、精一杯楽しむことだ。句を作るものは句をつくる。「おのれの畑を耕せ」今を生きる
ことだ。自然破壊、原発などで滅亡を早めることはさけるように努力しつつ。

 最後に、すでに「現代俳句抄」に掲載している次の句を静かな希望をこめた宇宙的な句と解釈して引
用しておく。 

    冬銀河かくもしづかに子の宿る  仙田洋子

 (追加:国家間の緊張、民族、宗教にまつわる暴力の応酬、人口問題、食料、エネルギーなどについ
ては大きな不安要素であるが、宇宙的文脈上ふれなかった。また、同じく先行作品の存在云々という極
めて俳壇的なことについてもふれなかった。)

2013.12.13.

  「やや」若い人の句を。「もっと」若い人の句もそれなりに気を配っているが、ここで取り上げる
ことは極めて少ない。句を読んでもなかなか句をしぼりきれないのである。「抄」になかなかならない。
許されよ。
 俳句についていうと、伝統俳句、前衛俳句を含め、やはり芭蕉以来現在までの俳人や、作品などを吟
味しつつ進むのが性にあっている。刺激を受ける材料にはしたいが、今さら若者に影響を受けて云々と
かいうこともないだろう。「この今」この今の自分から出発するほかない。

  櫂未知子追加句
専攻は悪所文学卒業す         (『貴族』)
致死量の言葉いただく良夜かな     (『蒙古斑』)
ストーブを蹴飛ばさぬやう愛し合ふ

  石田郷子追加句 
さへづりのだんだん吾を容れにけり   (『木の名前』)
うごかざる一点がわれ青嵐

2013.12.12.

 『2014角川俳句年鑑』入手。とりあえず特に気になった句をあげておきたい。
今まですでに「気になる俳句」などのサイトで触れている句は省略する。この年鑑を神格化しないためでもある。

揺れるとは生きていること寒の地震  高野ムツオ
揺れてこそこの世の大地去年今年
青胡桃一期が夢であるものか     宇多喜代子
万緑といふつばさ延べ富士の山    鷹羽狩行
去年今年今も未完の沖があり     角川春樹
こまごまと大河の如く蟻の列     深見けん二
うららかや崖をこぼるる崖自身    澤好摩
鯨ゐてこその海なれ夏遍路
山川草木悉皆瓦礫仏の座       齋藤慎爾
クリスマスローズそんなにうつむくな 後藤比奈夫
寒昴たれも誰かのただひとり     照井翠 
深海の巨大な烏賊と安眠す      金子兜太 

2013.12.7.

 こういう俳句もあっていいと思う。

  星野椿
小鳥来て幸福少し置いてゆく   (『俳句界 2013年11月』「自選30句」)
   
  中川宋淵
花の世の花のやうなる人ばかり  (『命篇』)

2013.12.4.
 
 日常メモっている句の中から「現代俳句抄」追加句として

 齋藤慎爾
梟や記紀の山々とはの闇        (『春の羇旅』)
両岸に両手かけたり日向ぼこ      (『現代俳句一〇〇人二〇句』)

  大木あまり
牡蠣鍋や狂はぬほどに暮しをり     (『雲の塔』) 

  橋本榮治
大航海時代終りし鯨かな        (『現代俳句一〇〇人二〇句』)

  筑紫磐井
人妻の美しいのは貌ばかり       (『花鳥諷詠』)

  五島高資 
口開けて叫ばずシャワー浴びており   (『雷光』)

2013.12.3.

 青空を見上げる日々

 桂信子の追加句
青空や花は咲くことのみ思ひ    (『花影』)

2013.12.1.

  飯島晴子の追加句
春の蔵からすのはんこ押してゐる   (『春の蔵』)
簟(たかむしろ)眼に力這入りけり  (『八頭』)
いつも二階に肌ぬぎの祖母ゐるからは
でで虫の繰り出す肉に後れをとる
むつつりと春田の畦に倒(こ)けにけり
夏蜜柑ところどころに置きて鬱
瓢箪の足らぬくびれを云々す     (『寒晴』)
土筆折る音たまりける体かな
白緑の蛇身にて尚惑ふなり
けむり茸ぱたぱたと踏みいざ後生
今度こそ筒鳥を聞きとめし貌(かほ) (『儚々』)
昼顔のあれは途方に暮るる色
をんならの足許冬の蟻地獄
大雪にぽつかりと吾れ八十歳     (『平日』)
海女潜くまへの生身が生火欲る
そのうちに隠れ住みたき鴛鴦の沼
蛍袋のなかの明るさほどの智慧
なぜかしら好きになれない金魚かな

2013.11.29.

  宇多喜代子の追加句
心臓のにぎやかな日の牡丹雪     (『象』)
大きな木大きな木蔭夏休み
天空は生者に深し青鷹(もろがへり)
熊の出た話わるいけど愉快

  攝津幸彦の追加句

三島忌の帽子の中のうどんかな     (『鳥屋』)
手を入れて思へば淋し昼の夢      (『鸚母集』)
野を帰る父のひとりは化粧して
饅頭に陸の淋しさありにけり
祈りとは膝美しく折る晩夏       (『陸々集』)
永遠にさそはれてゐる外厠
比類なく優しく生きて春の地震(なゐ) (『鹿々集』)
チンドン屋しづかに狂ふ大夏野     (『四五一句』)

2013.11.26.

   波多野爽波の追加句
下るにはまだ早ければ秋の山    (『鋪道の花』)
大空は微笑みてあり草矢放つ
白粉花吾子は淋しい子かも知れず  (『湯呑』)
玄関のただ開いてゐる茂かな    (『骰子』)
星月夜愛されずして犬飼はれ
五山の火燃ゆるグランドピアノかな (『一筆』)
老人よどこも網戸にしてひとり

2013.11.24.

   佐藤鬼房の追加句
毛皮はぐ日中桜満開に        (『名もなき日夜』)
壮麗の残党であれ遠山火       (『半跏坐』)
老衰で死ぬ刺青の牡丹かな      (『霜の聲』)

2013.11.20.

 メモった句の中から

酸素の火見つめ寒夜の鉄仮面      西東三鬼
てふてふや遊びをせむとて吾が生れぬ  大石悦子   (『群萌』)
等分のキヤベツに今日と明日が出来   いのうえかつこ(『貝の砂』)
心眼に見ゆ洋上の雪の富士 (二見浦) 島村正    (『富士』)
残雪を弾き出でたる熊笹ぞ       小澤實
        
2013.11.20.

  伊丹三樹彦の追加句
古仏より噴き出す千手 遠くでテロ  (『樹冠』)
くらやみに なおも花散る 平家琵琶 (『夢見沙羅』)
沙羅の花 濁世の側に身は処して
   ☆
鳥葬図見た夜の床の 腓返り

2013.11.17.

 あれこれ読みながら、時に応じメモをとる。自分にとって良い句は良いという。その積み重ねがぼく
の俳句修行かもしれない。

 メモった句の中から。

みちのくの海がゆさぶる初景色    佐藤鬼房 (『半跏坐』)
鎌倉の谷戸の冬日を恋ひ歩く     星野立子 (『句日記II』)
山水のゆたかにそそぐ雪の池     飯田蛇笏 (『心像』)
ラヂオよく聞こえ北佐久秋の晴    高濱虚子 (『小諸百句』)
昼酒もこの世のならひ初諸子     森澄雄  (『鯉素』)
読初の聖書の荒野より戻る      鷹羽狩行 (『十七恩』)
森いつも何かこぼしてゐる五月    岩岡中正

2013.11.16.

 俳句雑誌や俳句、名句の紹介本、自選句集等を含め、いろいろ、あれこれと読んでいる。一人で俳句
をやり続けるための、孤立しないための、独善的にならないための、補助的、補完的な作業である。そ
のなかかで印象的な句でメモったものの中から、今回次の三句。すでにいつか句集で読んでいる句もあ
る。(出典は、そのうち調べようと思っている。)

蟻のため簡なる地獄備はれり  相生垣瓜人
宗教史星のキリスト花の釈迦  京極杞陽
杖ついて畳を歩く西行忌    遠藤梧逸
 
 ついでに大峯あきらの句、これは句集で確かめた。

一瀑のしづかに懸かり山始   (『牡丹』)

2013.11.11.

この前から攝津幸彦を再読している。ちなみに彼の全句集は持っている。

 「現代俳句抄」に入れたい句がでてきたら追加句として採用したいと思っているが、最近「著作権」
にかかわるメール等に遭遇し、それなりに思うところと、思ってもしかたのないことがあるというやや
微妙な立場いることをあらためて感じている。

 そのことは、一九九六年八月に「現代俳句抄」をはじめた時から感じていて、目次ページに「『現代
俳句抄』(個人用メモとして俳句抄出。)」と「個人的メモとして」と書いているのはそのことにかか
わる。
 そもそも、「現代俳句抄」のページをはじめた一九九六年八月、そのときすでにページの最後に

  「俳句は作者に連絡なしで引用しています。俳句作品紹介のためで、営利には関
   わりませんので、その点よろしくお願いします。(自分の勉強のために始めた
   ノート代わりのパソコンのテキストがこのページの出発点です。著作権のこと
   もありますので、読者も鑑賞など個人的な目的に限っての利用をお願いします。)」

と書いている。これが正確な意味で免罪符になるかどうかは別にして、いずれにしろそのことを意識し
てのことである。

 引用、掲載する場合は、「引用句を選ぶことはすでに一種の批評である」といったことを意識して、
もっともらしい余計な理屈でかなしばりにしないようにする。また、かならずにしも客観的(文学に純
正な客観性はありえない)に優秀句を引用するというより引用者の好みの傾向をしらせるものであると
いうことをも十分意識している。句集などを何度も読み、しぼりにしぼって行っている。また、句集を
送っていただいても必ずしも掲載しない場合も多々あり、ご迷惑をおかけすることになったりする。

 さて、新たな掲載句はつぎのようになった。

  攝津幸彦追加句
現はれてやがては消ゆる鈴木かな     (『鳥屋』)
古池をしばし掻きまぜ帰る神父
少年の脇腹淋しさるすべり
木枯しに思はず上がる花火かな
殺めては拭きとる京の秋の暮
夏鹿を撫でて神童不明なり       (『鸚母集』)
山桜見事な脇のさびしさよ       (『鹿々集』)
橋上のひとりにひとつ前頭葉      (『四五一句』)
糸電話古人の秋につながりぬ

2013.11.1.

「百句選」に「芭蕉句」を追加。

『松尾芭蕉のこの一句 現役俳人の投票による上位157作品』(柳川彰治編著 平凡社 2009)
  から上位三十位まで(著作権の関係もあり、あとは各自その本を直接手にとって下さい)

     芭蕉 
1  荒海や佐渡によこたふ天の河
2  閑(しづ)かさや岩にしみ入る蝉の声
3  夏草や兵どもが夢の跡
4  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
5  五月雨をあつめて早し最上川
6  海暮れて鴨の声ほのかに白し
7  この道や行く人なしに秋の暮
8  石山の石より白し秋の風
9  五月雨の降り残してや光堂
10 秋深き隣は何をする人ぞ
11 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉
12 象潟や雨に西施が合歓(ねぶ)の花
13 古池や蛙飛びこむ水の音
14 行く春を近江の人と惜しみける
15 さまざまの事思ひ出す桜かな
16 菊の香や奈良には古き仏達
17 この秋は何で年寄る雲に鳥
18 行く春や鳥啼き魚の目は泪 
19 野ざらしを心に風のしむ身哉
20 あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風
20 山路来てなにやらゆかし菫草
22 旅人と我が名よばれん初しぐれ
23 雲の峰幾つ崩れて月の山
24 田一枚植ゑて立ち去る柳かな
25 一家に遊女も寝たり萩と月
26 蛸壺やはかなき夢を夏の月 
27 暑き日を海に入れたり最上川
28 蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
29 明けぼのやしら魚しろきこと一寸
30 若葉して御目の雫ぬぐはばや

2013.10.31.

 「俳句的一行詩」について。

幾時代かがありまして冬は疾風吹きました (中原中也「サーカス」)

 『命の一句』(徳間書房)の著者石寒太さんはこの詩の一節を引用し「(中也がこの)詩句を、色紙
に書いたものが遺されている。なるほど、少し長いが、俳句に入れよう。」と書いている。
 中也の詩の一節を引用するとなると、自分では

風が立ち、浪が騒ぎ、/無限の前に腕を振る。(「盲目の秋」)

を選びたくなるが、詩の一節を俳句的一行詩として掲載するために自分で探し出すときりがない。当面
ぼく以外の人が「俳句的一行」と指摘したものに出会った時、適時掲載を判断して「現代俳句抄」に掲
載してみたい。

 今まで「現代俳句抄」に取り上げているのは、

 俳句的一行(山本健吉 百句選)
櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる      梶井基次郎
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた    安西冬衛
渡し場に/しやがむ女の/淋しさ       西脇順三郎

の三つである。

 さて同じ『命の一句』から、俳句二句を「現代俳句抄」に掲載しておきたい。

青空は神の手のひら揚雲雀        黛まどか
旅人よゆくて野ざらし知るやいさ     太宰治

2013.10.30.

 作家の川上弘美の句集『機嫌のいい犬』をあらためて読む。面白い句もおおく、結構な数の句を選ぶ
ことになると思っていたが、終わってみると結果は、

はつきりしない人ね茄子投げるわよ

と、増え過ぎるかもしれないこと考え過ぎてしまったのか、一句となった。

夜店にて彗星の尾を見つけたり
サイダーの泡より淡き疲れかな
恋愛の如く吾が子と抱きあふ
はるうれい乳房はすこしお湯に浮く
目覚むれば人の家なりチューリップ

 などの面白い句も次々に出てきて、選び出せばきりがない。だが、たしか面白いし、手慣れた句も多
く、こんな句あるよとあれこれの句を話題にできるが、いざ引用をと思うと、書き出す段になると、な
んとなく書き出す気力がなえるというか、何か背中をおすものがかけているように思えてくる。俳句も
結局は好みの問題になる。どんどん引用句としてあげていく人もあるであろう。ぼくには面白いが、そ
の場ではおもしろいが、掲載のためにかきとめるには何かが欠けているように思えてくる。

 同じようなことを、かつて加藤静夫さんの『中肉中背』をとりあげようとした時にも感じた。結社
「鷹」の幹部同人であり、角川俳句賞をも受けた加藤さんの句集だが、選びだすときりがないほど面白
い句がある。だが、書き出してみると結局、これもふえ過ぎを考えるあまり

中肉にして中背の暑さかな

の一句となり、ほかにある沢山のおもしろい句の数々、たとえば

 探梅行商店街にとどこほる
 ねこじやらしほんとにぼけてしまひけり
 菊人形菊人形を裁きをる
 秋深し土掘れば穴できあがる
 螢狩喧嘩別れとなりにけり

などは、季語と遊んでいる技巧的な句は、引用するときりがないだけに、いざ引用しようとすると、引
用する力がなえて、別の言い方をすると、目の前ですぐ蒸発してしまうのであった。
 面白いが、つかまえようとするとすぐ蒸発する。仲間うちでは面白い。そういったことは談林にはじ
まる俳句の一つの宿命でもあるが、そういう意味ではきわめて俳諧性の高い作品群である。

 結局「現代俳句抄」には、とりあえず

 川上弘美
はつきりしない人ね茄子投げるわよ   (『機嫌のいい犬』)
はるうれい乳房はすこしお湯に浮く
サイダーの泡より淡き疲れかな
くちづけの前どんぐりを拾ひましよ

 加藤静夫
中肉にして中背の暑さかな       (『中肉中背』)
ねこじやらしほんとにぼけてしまひけり
菊人形菊人形を裁きをる
探梅行商店街にとどこほる
  
と最初の一句に三句を加えて四句ずつ掲載することになった。

 唐突だが、坪内稔典さんの多くの句にも同じように感ずることがある。坪内稔典さんの一部の句はそ
うではないが、言ってしまえば芭蕉の「文台引き下ろせば即反故(ほご)也」に通ずる、その場で輝く
ある意味では極めて俳諧性の高い句かもしれない。

2013.10.27.

 和田悟朗 の追加句(三句)
膨張を思いとどまる茄子かな         (『即興の山』)
わが庭をしばらく旅す人麻呂忌
二階には二階の畳夏休み           (『風車』)

2013.10.26.

ここのところひさしぶりで四冊の本を読み直している。若い俳人のアンソロジーである。

『俳コレ』 (邑書林)
『新撰21』 (邑書林)
『超新撰21』 (邑書林)
『戦後生まれの俳人たち』(宇多喜代子著、毎日新聞社)

 ページを決めず、あけたページから次々に読んでいく。それなりに刺激を受けようと思ってのことだ
が、(自分を棚においていうと)期待していたほどは刺激は受けなかった。もちろん刺激は皆無ではな
かったが。

今回は、上田信治さんの句

うつくしさ上より下へ秋の雨       (『超新撰21』)

の「単純さ」があらためて目新しかった。

上田さんの句では、

上のとんぼ下のとんぼと入れかはる    (『超新撰21』)

をすでに「現代俳句抄」におさめている。

他には、次ぎの句である。(「現代俳句抄」では、個人としてまとめて収録する場合もある)

『俳コレ』より
しづかなるひとのうばへる歌留多かな    野口る理 
たんぽぽに小さき虻ゐる頑張らう      南十二国
夜歩きのために夜ある新樹かな       林雅樹
最上川雛の後ろを流れけり         太田うさぎ
あともどり出来ぬ林檎を剥いてをり     山田露結
炎天に妻も銅像岐阜羽島          岡野泰輔
生まれさうなお腹に止まる春の蝿      山下つばさ      
ものの芽にはじまる山の光かな       小林千史
蓋開けて旧き我あり春の風         依光陽子

  『新撰21』より
先生の背後にきのこぐも綺麗        谷雄介
風死せり海の向かうに未知の海       高柳克弘
眦(まなじり)はふかき裂目(クレヴァス)薄暑光 冨田拓也
雲の峰落馬の騎手の立ちあがる       北大路翼
セックスも俳句も惰性発泡酒
基地背負う牛の背朝日煙り行く       豊里友行
夕立にあひて分水嶺を越ゆ         五十嵐義知
蝋製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ   関悦史
地下道を蒲団引きずる男かな

『戦後生まれの俳人たち』より

死も選べるだがトランプを切る裸      田島健一
燕来る天はしがらみなき大河        山田径子
春光に嘘ひとつなき馬ぞ立つ        横澤放川
どれほどの鬱ならやまひ花茗荷       細谷喨々
影の数人より多し敗戦忌          渡辺誠一郎
しまひには破れかぶれの揚花火       黛まどか
風船の行く手だんだん廃墟になる      今井聖
虚子の忌の風を大きく受けにけり      矢野玲奈
部屋いつぱい広げし海図小鳥来る      佐藤郁良
野遊びのつづきのやうに結婚す       山口優夢

2013.10.25.

 大峯あきら 追加句
まだ名無き赤子にのぼる山の月     (『吉野』)
ことごとく今年の星となりにけり    (『牡丹』)
まだ若きこの惑星に南瓜咲く      (『群生海』)
大瑠璃は杉のいちばん先が好き
白山を大廻りして小鳥来る
とめどなき落葉の中にローマあり
星空となりて止みたる落葉かな
迷ひたる如くに花の中にをり 

2013.10.23.

 和田悟朗 の再追加

 和田悟朗 
文芸の不幸にS 氏神無月  (攝津幸彦氏逝去)(『坐忘』) 
病院前どつと病人降りて春
冬山を登りて冬の街を見き          (『人間律』)
焼いもは固体 元気は気体かな
人間であることひさし月見草
春いちばん大道芸人失敗す          (『風車』)
これだけの菊を咲かせて怠け者
鯉幟天上の水ゆたかなり
歓声は沖より来たり風車
西方に大国興り枯野かな
   ☆
ローマ軍近付くごとし星月夜

2013.10.17.(10.20)

 この前から、和田悟朗の句についてふれることが多い。しばらくは続くかもしれない。
 さて、和田悟朗の句にふれたついでに、和田悟朗著『俳人想望』(沖積舎、1989年))の「昭
和俳句十句撰」をあつかいたい。

 つぎつぎと消えてゆく俳句を愛おしみ、「夥しい昭和俳句の数の中で、消えるために書かれた俳句も
沢山あったはずだ」と消えていく残念さを語りながら、時代とともに消える「残らないものを愛する心」
について語りながら十句を選んでいる。

 夏草に気罐車の車輪来て止る      山口誓子
 水枕ガバリと寒い海がある       西東三鬼
 かぎりなく樹は倒るれど日はひとつ   渡辺白泉
 椿散るああなまぬるき昼の火事     富澤赤黄男
 遺品あり岩波文庫「阿部一族」     鈴木六林男
 軍鼓鳴り               高柳重信
 荒涼と
 秋の
 痣となる
 新しき蛾を溺れしむ水の愛       永田耕衣
 白い人影はるばる田をゆく消えぬために 金子兜太
 音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢       赤尾兜子
 鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ     林田紀音夫

 実際、そのうち消えてゆくのが、俳句の基本的な運命であるが、これらの十句はどうだろうか。

 余談ながら、「現代俳句抄」には、十句の内九句がおさめてある。おさめてないのは、

  かぎりなく樹は倒るれど日はひとつ   渡辺白泉

である。早速おさめることにしよう。もうすでに忘れられている句かもしれないが。

 ついでながら、同じ和田悟朗著『俳人想望』の「現代俳句の珠玉」十句もついでに見てみよう。前の
「昭和俳句十句撰」と重複しないように十句を選んでいる。

 頭の中で白い夏野となつてゐる      高屋窓秋
 爛々と虎の眼に降る落葉         富澤赤黄男
 暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり       鈴木六林男
 夏蜜柑いづこも遠く思はるる       永田耕衣 
 杭のごとく               高柳重信
 墓
 たちならび
 打ちこまれ
 硝子器の白魚水は過ぎゆけり       赤尾兜子
 昭和衰へ馬の音する夕かな        三橋敏雄
 菜食の父に聞えて霧走る         佐藤鬼房
 枯葎昏れて繃帯巻き直す         橋石 
 凧(いかのぼり)なにもて死なむあがるべし中村苑子
   
 「現代俳句抄」には、十句の内六句がおさめてある。おさめて
ないのは、

 杭のごとく               高柳重信
 墓
 たちならび
 打ちこまれ
 硝子器の白魚水は過ぎゆけり       赤尾兜子
 菜食の父に聞えて霧走る         佐藤鬼房
 枯葎昏れて繃帯巻き直す         橋 

の四句である。
 その中で

  枯葎昏れて繃帯巻き直す         橋石 

は、「現代俳句抄」におさめたい。他の三句は今回は様子をみておくことにする。
もちろん、高柳重信、赤尾兜子、佐藤鬼房の他の句は「現代俳句抄」におさめてある。

 さらに続いて、同著の「昭和女流十句撰」もあつかっておこう。

 白露や死んでゆく日も帯締めて       三橋鷹女
 一切があるなり霧に距てられ        津田清子
 赤い地図なお鮮血の絹を裂く        八木三日女
 牡丹散るはるかより闇来つつあり      鷲谷七菜子
 日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ      寺田京子 
 流木を渉るものみな燭を持ち        中村苑子
 女身仏に春剥落のつづきをり        細見綾子
 雷火立ち閾しきゐ(しきゐ)をわたる鉋屑  桂信子
 うたたねの泪大事に茄子の花        飯島晴子
 冬最上あらあらしくも岐れずに       澁谷道

 「現代俳句抄」には、十句の内五句がおさめてある。おさめてないのは、

 一切があるなり霧に距てられ        津田清子
 牡丹散るはるかより闇来つつあり      鷲谷七菜子
 流木を渉るものみな燭を持ち        中村苑子
 雷火立ち閾しきゐ(しきゐ)をわたる鉋屑  桂信子
 冬最上あらあらしくも岐れずに       澁谷道

の五句である。

 一切があるなり霧に距てられ        津田清子
 牡丹散るはるかより闇来つつあり      鷲谷七菜子

の二句を「現代俳句抄」に加えたい。中村苑子、桂信子ともに「現代俳句抄」には他の句が
おさめられているので、その箇所を見ていただきたい。澁谷道については考えておきたい。

追記(10.20)
  「現代俳句抄」に澁谷道の項目を作り、
    冬最上あらあらしくも岐れずに
 を付け加える。同時に以下のように他の五句も新しく掲載する。

 澁谷道
炎昼の馬に向いて梳る             (『嬰』) 
寒卵振ればちからのあるゆらぎ
冬最上あらあらしくも岐れずに     (『桜騒』)
山ゆるみ川あそぶなり郡上節           (『紫薇』)
折鶴をひらけばいちまいの朧      (『蕣帖』)
虫の闇大黒柱孤独なり         (『澁谷道俳句集成』)

2013.10.6.

 他人の選を見てはっとする。
 (このサイトの「俳句百句選」の心もそこにある。)
 岸本尚毅著『高濱虚子の百句』(ふらんす堂)をひとつの選としてみてみる。
その選を通じて「現代俳句抄」に未収録の句で、はっとした句を「現代俳句抄」
に追加する。これもぼくなりの他人の選を通じての俳句修行である。
(ある程度虚子の句を収録してきたせいか、今回は「はっと」度はちいさかった。)

 高濱虚子追加句
駒の鼻ふくれて動く泉かな          (『五百句』)
話しつつ行き過ぎ戻る梅の門         (『六百句』)
冬籠われを動かすものあれば         (『六百五十句』)
梅雨眠し安らかな死を思ひつつ
牡丹の一弁落ちぬ俳諧史 (松本たかし死す) (『七百五十句』) 

            ☆

 最近気になっている和田悟朗追加句も追加する。

句集とは俳句の墓場春の暮          (『坐忘』)
永劫の途中に生きて花を見る         (『人間律』)
全身を液体として泳ぐなり          (『風車』)
人間を休む一日朴落葉
眼球も地球も濡(ぬ)れて花の暮
百歳はしだいに遠し蝉(せみ)止(や)まず
虫めがねもて見る虫のすね毛かな

2013.9.8.
 石田波郷の追加句。

 石田波郷は、芭蕉、虚子とともめずらしくぼくが全集を持っている俳人である。
藤田湘子は兄弟子の石田波郷についで水原秋櫻子主宰の「馬酔木」の編集長になったが、別な複雑な事
情がからんで、水原秋櫻子の勘気をうけ、「鷹」として独立せざるをえなった事情など、関心をもつひ
とはどんどん少なくなっていくと思う。この時は波郷はすでに独立していて、「鷹」で湘子は波郷を兄
貴のように語る事があった。(結社にはしばしば「勘気」という妖怪がうごめいている。湘子もその妖
怪から自由ではなかった。)
 病床俳句はともかく、波郷の青春俳句といえる俳句群は、時をこえあいかわらず瑞々しい。

   石田波郷追加句
われら一夜大いに飲めば寒明けぬ    (『鶴の眼』)
木葉木菟(このはづく)悟堂先生眠りけり (『風切』)
鷹現れていまぞさやけし八ケ岳
夏河を電車はためき越ゆるなり     (『雨覆』)
勿忘草わかものの墓標ばかり 
遠く病めば銀河は長し清瀬村      (『惜命』)
朱欒割くや歓喜の如き色と香と     (『春嵐』)
病むかぎりわが識りてをる枯野道
雑炊や頬かがやきて病家族
七月や妻の背を越す吾子二人
梅雨夕焼負けパチンコの手を垂れて
三鬼あやふし流れ若布の漂ふ間も    (『酒中花』)
万緑や山下るごと階下り     
   ☆
秋の夜の洋酒壜ども声あげよ             (石田修大『波郷の肖像』より)      


2013.9.8.

 また、金子兜太の追加句となってしまった。
 金子の句を読むと、自由になれる。あいかわらず、分かりにくい句が多いが。

河の歯ゆく朝から晩まで河の歯ゆく    (『狡童』)
桐の花河口に眠りまた目覚めて      (『詩經國風』)
この入江にひとり棲む鳶ひとり舞う
つばな抱く娘(こ)に朗朗と馬がくる
熊ん蜂空気につまずき一回転       (『両神』)

2013.9.5.

 水原秋櫻子の追加句。 秋櫻子はわが師藤田湘子の先生である。湘子は独立せざるをえな
い状況になり「鷹」をもって独立する。二十年近く「鷹」にいたぼくは大した理由ではないが「鷹」を
やめた。次回は湘子の兄弟子格の石田波郷となる予定。

春愁のかぎりを躑躅燃えにけり     (『葛飾』)
焼岳のこよひも燃ゆる新樹かな
海?(ばい=貝)打や灯ともり給ふ観世音
をとめ立てり跳躍台にライト照り    (『新樹』) 
垣の薔薇白きがちりて径(みち)白し
夜焚火に金色の崖峙(そばだ)てり   (『秋苑』)
山焼けば鬼形(きぎょう)の雲の天に在り
初あらし鷹を入江に吹き落す      (『古鏡』)
白樺の高きが囲む霧の月        (『残鐘』)
啄木鳥に泉の水輪(みのわ)絶ゆるなし (『玄魚』)
月幾世照らせし鴟尾(しび)に今日の月 (『緑雲』)
化粧塩打つたる鰭や鮎見事       (『うたげ』)
いわし雲いづこの森も祭にて

2013.8.26.

 金子兜太の追加句。
 天衣無縫の句の連続。ついていけない句も多いが、決まるとその句は強力だ。

  金子兜太追加句 
薔薇よりも淋しき色にマツ千の焔     (『少年』)
魚雷の丸胴蜥蜴這い回りて去りぬ
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
縄とびの純潔の額を組織すべし
まら振り洗う裸海上労働済む
ガスタンクが夜の目標メーデー来る
白梅や老子無心の旅に住む        (『生長』)
  トラック島にて (二句)     
ふる里はあまりに遠しマンゴー剥く
スコールに濡れたるままの夕餉かな 
冬森を管楽器ゆく蕩児にごと       (『金子兜太句集』)
手術後の医師白鳥となる夜の丘
石柱さびし女の首にこおろぎ住み     (『蜿蜿』)
海流ついに見えねど海流とくらす		
霧に白鳥白鳥に霧と言うべきか      (『旅次抄録』)
大頭の黒蟻西行の野糞
山国や空にただよう花火殻        (『遊牧集』)
遊牧のごとし十二輌編成列車
樹といれば少女ざわざわと繁茂せり    (『暗緑地誌』)	
ぎらぎらの朝日子照らす自然(しぜん)かな (『狡童』) 
師走かな屋根の修理でおつこちたる    (『詩經國風』)
牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ       (『皆之』)
おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民 (『東国抄』)
狼生く無時間を生きて咆吼
秋高し仏頂面も俳諧なり         (『日常』)
荒星に和む眼(まなこ)の友ら老ゆ   
いのちと言えば若き雌鹿のふぐり楽し
頂上はさびしからずや岩ひばり
子馬が街を走つていたよ夜明けのこと
ふつくらと泳ぐジユゴンや春曙
 
2013.8.21.

 飯田龍太の追加句を。
 甲斐の飯田家は静岡県に近い。富士山麓、朝霧高原の一角、ぼくは山梨県境に近いところを終の住処
とした。
 蛇笏、龍太に関しては思いが強い。蛇笏の雄勁、龍太の柔らかな俳句力、読み返すたび思いが広がる。

 飯田龍太の追加句
空若く燃え春月を迎へけり       (『百戸の谿』)
月の坂こころ遊ばせゐたるなり
炎天の巌の裸子やはらかし
秋冷の黒牛に幹直立す         (『童眸』)
秋の船風吹く港出てゆけり       (『麓の人』)
梅を干す真昼小さな母の音
山々のはればれねむる深雪かな     (『忘音』)
信濃から人来てあそぶ秋の浜      (『春の道』)
山の雨たつぷりかかる蝸牛       (『山の木』)
冬深し手に乗る禽の夢を見て
木犀の香に昇天の鷹ひとつ       (『涼夜』)
去るものは去りまた充ちて秋の空    (『今昔』)
鎌倉をぬけて海ある初秋かな      (『山の影』)
詩はつねに充ちくるものぞ百千鳥
八方に音捨ててゐる冬の瀧
雪月花わけても花のえにしこそ   (悼 山本健吉先生)(『遅速』)
仕事よりいのちおもへと春の山
眠り覚めたる悪相の山ひとつ 
春の富士沸々と鬱麓より
枯蟷螂に朗々の眼あり

2013.8.18.

 森澄雄の句、読みなおすたび、何か教えられるところがある。そういった俳人は他にも多いが。

  森澄雄追加句
かんがへのまとまらぬゆゑ雪を待つ   (『雪櫟』)
雪国に齢ふるぶ気も狂はずに      (『花眼』)
三月や生毛生えたる甲斐の山      (『浮』)
飛彈の夜を大きくしたる牛蛙      (『鯉素』)
そのままに雲を見てをり昼寝覚     (『餘日』)
われもまた露けきもののひとつにて   (『天日』)
水澄むや天地(あまつち)にわれひとり立つ (『虚心』)
おのれまたおのれに問うて春の闇    (『深泉』)
凩や胸に手を置く一日かな       (『蒼茫』)   
行く年や妻亡き月日重ねたる  

2013.8.17.

 宇井十間『千年紀』(2010年)よりの句を収録。
 森澄雄の追加句の準備にと「森澄雄の生涯と仕事」という特集掲載の『「俳句」2010年9月号』を
読んだが、同じ号にのっていた宇井十間(とげん)の紹介記事に思いがけずに心ひかれた。宇井十間の
名についてはどこかでふれた記憶はあったが、肝心な句の記憶はない。
 宇井十間の最近の様子はよくわからないが、俳人や句集のすべてを知るわけにはいかない

  宇井十間 『千年紀』      
ひぐらしや遠い世界に泉湧く
落葉やみしばらくそらにさざなみある
黄落のなか中世の塔の街
そらのはて遠くしずかに瀑布ある

2013.8.6.

 8月6日、広島原爆忌。
 3・11被災者である照井翠の句を「現代俳句抄」に抄出する。
 『龍宮』は目下話題の句集である。照井は最近NHKの俳句講座にもゲストとして出演している。
 二句目には高校教師の照井がいる、

双子なら同じ死顔桃の花       (『龍宮』)
卒業す泉下にはいと返事して
新盆の目礼のみとなりにけり
面つけて亡き人かへる薪能
喪へばうしなふほどに降る雪よ

2013.8.2.

今日は、西東三鬼の追加句。

 さて『この俳句がスゴい!』(小林恭二、角川)は初心者にお薦めの本であるが、あつかっている俳
人は、以下の十人である。

 高濱虚子 種田山頭火 尾崎放哉 久保田万太郎  西東三鬼 
 加藤楸邨 石田波郷 森澄雄 金子兜太 飯田龍太

 これはこれで一つの見識をしめしている。しばらくは、この十人を中心に、スゴい俳人の追加句をお
こなおうかと思う。それぞれ句集が手に入れやすい俳人である。といっても、言うまでもなく、スゴい
俳人はこの十人に限るわけではない。

    西東三鬼の追加句
咳(しはぶ)きて神父女人のごと優し (『旗』)
黒蝶のめぐる銅像夕せまり
厖大なる王氏の昼寝端午の日
熱ひそかなり空中に蠅つるむ
空港なりライタア処女の手にともる
まくなぎの阿鼻叫喚をふりかぶる   (『三鬼百句』)
夜が来る数かぎりなき葱坊主     (『夜の桃』)
クリスマス馬小屋ありて馬が住む   (『今日』)
蓮池にて骨のごときを掴み出す 
体内に機銃弾あり卒業す
かじかみて貧しき人の義歯作る
西日中肩で押す貨車動き出す
雪嶺やマラソン選手一人走る
生創(なまきず)に蠅を集めて馬帰る
蝮の子頭くだかれ尾で怒(いか)る   (『変身』)
死火山麓泉の声の子守唄
ネロの業火石焼芋の竃に燃ゆ
蠅生れ天使の翼ひろげたり
巨大な棺五月のプール乾燥し
寝がへれば骨の音する夜寒かな     (『拾遺』)

2013.7.30.

 本日発行の「佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』(八月号)」の後記を収録する。

       ☆
 
    俳句上達のコツ、そんなものはない。

   「詩」がうまれるとき、詩には方法はない。
   悪戦苦闘しているときに自分の我が崩れる。
   「我」が崩れたときに詩が生まれる。
   「我」がもっと大きなものに破られる、その瞬間に詩が生まれる。

                   (「俳句界 News」の「書斎訪問(大峯あきら代表 インタビュー)」より)


 最近最も興味深かった「俳句界 News」の「書斎訪問(大峯あきら代表 インタビュー)」の中の言
葉である。youtubeの映像で、大峯あきらさんがインタビューを受け語っているのである。薦めたい。
 大峯さんには会ったことはないが、気になる俳人の一人で、一年前には「シリーズ自句自解 ベスト
100 大峯あきら」(ふらんす堂)を購入している。

 また、すでに大峯あきらさんの句は「現代俳句抄」で「虫の夜の星空に浮く地球かな」等々を採用し
ている。

 画面をみるときさくな感じの人で、親しみ深くみることができた。
 色々考えさせるすぐれたインタビュー映像である。
 
 また、河野裕子の短歌「美しく齢とりたいと言う人をアホかと思ひ寝るまへも思ふ」に突然触れたり
しておもしろい。

 引用すればきりがない。
 なにより、youtubeの映像を実際見ていただくのが最良だ。

 インタビューの前編、後編それぞれは、

 「大峯あきら 前編」 

 「大峯あきら 後編」 

 「俳句界 News」といった全般的なページは、次のページから

 「俳句界 News」 

 なお、このインタビューはつぎのような発言で終わる。

   わたしたちの人生はみな想定外
   想定外のものによって生かされている  

   わたしたちは無限の中にいる
 

2013.7.17.

 『みんな俳句がすきだった』(内藤好之・東京堂出版)から、追加句とする。
「現代俳句抄」ではすでに採用している作者はそれぞれのところへ、新しい作者は「俳句豊饒」に掲載
する。なお、『みんな俳句がすきだった』の全体像を知るためには、実際にその本を手にとっていただ
きたい。

 我為の五月晴とぞなりにける   徳川慶喜(虚子添削)
 山いくつ越えて行らむ春の雲   島崎藤村
 ほつれ毛に遊ぶ風あり青すだれ  竹久夢二
 月一つ落葉の村に残りけり    若山牧水
 筑波までつづく青田の広さかな  平塚らいてふ
 香たいてひとり籠るや合歓の雨  谷崎潤一郎
   わが幻想の都市は空にあり
 虹立つや人馬にぎはふ空の上   荻原朔太郎
 金沢のしぐれを思ふ火桶かな   室生犀星
 この先を考へてゐる豆のつる   吉川英治
 死ぬまでの目安立ちたる去年今年 徳川夢声
 蚊帳といふ世界にはこぶ歌書俳書 三好達治
 惜しみても惜しみても散る桜かな 竹原はん
 渦置いて沈む鯰や大月夜     棟方志功
 コロラチュラ囀るごとき春の声  佐治敬三
 なめくじも夕映てをり葱の先   飴山實
 お遍路が一列に行く虹の中    渥美清
 人を待つパラソル回ったりする  岸田今日子.
 
 『女性俳人この一句』(柳川彰治・青弓社)のかなりの句は、すでに採用している。
若干追加句をこの本からとも考えたが、今回はあえてという気にならなかった。
アンケートによる順位が売りの本なので、順位をストレートに採用することはためらわれる。
ただ、続きは、本を買うか、図書館で借りて読むということで、上位十位のみ書いておく。
すでにぼくのサイトで引用している句ばかりで、俳句への誘い水といっていい。

1.花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ      杉田久女
2.外(と)にも出よ触るるばかりに春の月  中村汀女
3.ゆるやかに着てひとと逢う蛍の夜     桂信子
4.短夜や乳ぜり泣く児(こ)を須可捨焉乎(すてつちまをか) 竹下しづの女
5.谺して山ほととぎすほしいまま      杉田久女
6.白露や死んでゆく日も帯締めて      三橋鷹女
7.まだもののかたちに雪の積もりおり    片山由美子
8.じゃんけんで負けて蛍に生まれたの    池田澄子
9.あはれ子の夜寒の床の引けば寄る     中村汀女
10.雪はげし抱かれて息のつまりしこと   橋本多佳子.

なお、この本では、4の「乳ぜり」を「ちちぜり」と読ませているが、ぼくは
「ちぜり」の方が緊迫感があるように思える。

2013.7.11.

芥川追加句。出典整理する必要あり。

  芥川龍之介追加句
炎天にあがりて消えぬ箕のほこり    (『澄江堂句集』)
白南風(しらばえ)の夕浪高うなりにけり
傾城の蹠(あなうら)白き絵踏かな   (『芥川龍之介句集(餓鬼全句)』)
炎天や切れても動く蜥蜴の尾 
川狩や陶淵明も尻からげ
新しき畳の匂ふ夜長かな
かひもなき眠り薬や夜半の冬

2013.7.7.

 なんとなく追加句。
 商業俳句雑誌などを含め句は色々読んではいるが、現在無理をしてまでは追加句をしようとは思って
いない。
 自然に追加句にしていいなと思った句をメモして、追加句となる。
 たとえば、京極杞陽なども読み直したが今回は追加句はなかった。

  加藤楸邨 追加句
梟の憤(いか)りし貌(かほ)ぞ観られゐる (『寒雷』)
死にたしと言ひたりし手が葱刻む    (『野哭』)
夕焼の雲より駱駝あふれ来つ      (『沙漠の鶴』)
雲の峰夢にもわきてかぎりなし
冬嶺(ふゆね)に縋りあきらめざる径(みち)曲り曲る(『山脈』)
花火師の旅してゐたり曼珠沙華     (『吹越』)
蟻逢ひて暗し暗しと言ひゐたり     (『怒濤』)

  後藤比奈夫追加句
首長ききりんの上の春の空       (『初心』)
遠足といふ一塊の砂埃         (『花びら柚子』)
   ☆
蛇踏んで見せつまらなき男かな

  上野泰追加句
一本の足となりつつ海女沈む      (『春潮』)
  ☆
傷もまたかく育ちつつ大夏木
鳥獣の我ら侍りし涅槃かな
春燈や長女の部屋は消えずをる

  大峯あきら追加句
帰り来て吉野の雷に坐りをり      (『紺碧の鐘』)
難所とはいつも白波夏衣        (『月讀』)
初空といふ大いなるものの下      (『宇宙塵』)
化けさうな一軒家あり螢狩       (『群生海』)

  三橋敏雄追加句
秋色や母のみならず前を解く      (『眞神』) 
またの夜を東京赤く赤くなる      (『鷓鴣』)
死に消えてひろごる君や夏の空     (『畳の上』)


2013.7.2.

 他選 『富士・まぼろしの鷹』の句について。 


蕪村を読み直していたら

  蝮(うはばみ)の鼾(いびき)も合歓(ねむ)の葉陰哉   (『蕪村句集』)

があるのに気づいた。

 「他選 『富士・まぼろしの鷹』の句」では、ぼくの句について、

   なお次の句は、金子兜太の句と類似していると指摘する人もいないとは限らないと
  ある時ハットした。
   とりあえず参考句としておく。
   森の中に住む自分なりに作った句であり、紹介したい句としてとりあげられた方に
  はお礼を申しあげたい。

    冬眠の蛇の鼓動の響く夜か

    冬眠の蝮のほかは寝息なし (金子兜太)

 と、書いたが

  蝮(うはばみ)の鼾(いびき)も合歓(ねむ)の葉陰哉   (『蕪村句集』)

 や

 桂信子の

  草の根の蛇の眠りにとどきけり

 
などを思えば、無理に参考句にまわすこともないのかなと思い、一応句をのせることにした。
ただ、註としてこの文章は残すこととする。

     ☆

 すでに用意をしていた漱石の句を追加する。
 あらためて、漱石句が「蕪村」の影響をうけているのがよくわかった。
今回の追加は漱石に敬意を表してのことで、流れでついつい追加したような句もあると思える。

寝てくらす人もありけり夢の世に       (『漱石俳句集』)
骸骨やこれも美人のなれの果
何事ぞ手向けし花に狂ふ蝶
何となう死にに来た世の惜しまるる
菜の花の中に小川のうねりかな
草山の重なり合へる小春哉
名月や故郷遠き影法師
なき母の湯婆(たんぼ)やさめて十二年
雪の日や火燵をすべる土佐日記
凩に早鐘つくや増上寺
絶頂に敵の城あり玉霰(あられ)
大手より源氏寄せたり青嵐
我に許せ元日なれば朝寝坊
絶壁に木枯あたるひびきかな
新道は一本道の寒さかな
やかましき姑(しゆうと)健なり年の暮
紅梅に艶なる女主人かな
秋風の一人をふくや海の上
暑き日の海に落込む暑かな
更衣(ころもがへ)同心衆の十手かな
  『沙翁物語』序文(二句)
罪もうれし二人にかかる朧月
白菊にしばし逡巡(ため)らふ鋏かな
二人して片足づつの清水かな
骨の上に春滴るや粥の味
逝く人に留まる人に来る雁
君が琴塵を払へば鳴る秋か
ただ一羽来る夜ありけり月の雁

2013.6.23.
 五島高資さんのサイトの「現代俳句集成」にぼくの『富士・まぼろしの鷹』(邑書林)が紹介されて
いる。ありがたいことである。

  スサノヲもゼウスも集へ富士火口    『富士・まぼろしの鷹』邑書林
  冬の日や呼吸してゐる富士の影         同
  大学の闇の深さよ青葉木菟           同
  草の実をつけ教壇にどもりをり         同
  広島のまつかな釣瓶落しかな          同
  遅参せり金木犀の香る中            同
  俳句史の死屍累累と晩夏かな          同

2013.6.22.
 一応、蕪村追加句は、今回はこれで終えたい。明日からは、「俳句個人誌『富士山麓』」七月号
発行の準備がはじまる。
 ただ、色々蕪村全句集等を見ていて、かつてはよく取り上げられていた句
 椿落て昨日の雨をこぼしけり
が、比較的最近発行の本にはのっていない。どうも『蕪村遺稿』には入っていないようだ。
 ただ、
 椿折(をり)てきのふの雨をこぼしけり  (「落日菴句集」)
という形では最近の版本にも残っている。
 といっても、以前の句、捨てがたい句でなんとか残しておきたい。註付きで残すこととする。
 また、蕪村読み直しの中で、一茶の句で、蕪村が読んでいてもおかしくはない句に出会ったのも面白
かった。

 短夜の鹿の(かほ)出す垣ね哉   一茶

  蕪村追加句
 春
かげろふや簣(あじか)に土をめづる人    (『蕪村句集』)
不二颪(おろし)十三州のやなぎかな     (『蕪村遺稿』)
池と川とひとつになりぬ春の雨                 
鴬の啼やあちらむきこちら向         
春の夜や狐の誘ふ上童(うへわらは)
遅き日や谺聞(きこゆ)京の隅
およぐ時よるべ啼き様の蛙かな         (「新五子稿」)
 夏
裸身(はだかみ)に神うつりませ夏神楽     (『蕪村句集』)
灌仏やもとより腹はかりのやど          (「新花摘」)
蝸牛(ででむし)のかくれ顔なる葉うら哉    (「夜半叟句集」)
 秋
広道へ出て日の高き花野哉           (「落日菴句集」)
 冬
麦蒔や百まで生る(かほ)ばかり(『蕪村句集』)
手取にやせんとのり出すくじら舟        (『蕪村遺稿』)
松島で死ぬ人もあり冬籠            (「夜半叟句集」)

2013.6.14.

 蕪村句追加。これもいれようかとあれこれ追加していけばきりがない。今回はこれで終え
たい。一昨日、昨日と句集と遺稿の勘違いがあった。とりあえず、最終的には、「蕪村ページ」が正し
いが、他のミスがあるかもしれない。おわびしておく。

「句集」春
うぐひすのそさうがましき初音かな
梅咲ぬどれがむめやらうめじやら
春雨やもの書ぬ身のあはれなる
畑打や木の間の寺の鐘供養
むくと起て雉追ふ犬や宝でら
のうれんに東風(こち)吹いせの出店哉
居(すわ)りたる舟を上がればすみれ哉
やぶいりのまたいで過ぬ巾(いか)の糸  
傾城は後の世かけて花見かな

「句集」夏
絹着せぬ家中(かちゆう)ゆゆしき更衣   (『蕪村句集』)
短夜や枕にちかき銀屏風
みじか夜や小見世(こみせ)明たる町はづれ
山に添ふて小舟漕ゆく若ば哉
採蓴(さいじゅん)を諷(うた)ふ彦根のそうふ(※(「にんべん+倉」、夫)哉
おろし置笈に地震(なへふる)なつ野哉
行行(ゆきゆき)てここに行行夏野かな
鯰得て帰る田植の男かな
蝮(うはばみ)の鼾も合歓の葉陰哉

「句集」秋
初秋や余所(よそ)の灯見ゆる宵のほど
相阿弥の宵寝起すや大文字
日は斜関屋の鎗にとんぼかな
「遺稿」秋
一人来て一人を訪ふや秋のくれ

「句集」冬
みのむしの得たりかしこし初時雨      (『蕪村句集』)
愚に耐(たへ)よと窓を暗(くらう)す雪の竹



2013.6.12.(13. 修正)

 蕪村の追加句。「蕪村」のページは「俳句ページ」からひらく。
 けっこう勉強になった。蕪村を読んでいると自由になれる。本歌取りをふくめ、平凡におちいるのを
いとわず自由自在である。
 角川ソフィア文庫の蕪村句集の帯にある
  「変幻自在な句、実作のヒントになる!」
は、うそではなさそうだ。

七くさやはかまの紐の片結       春(句集)
ゆく春や白き花見ゆ垣のひま      春(句集)
花を踏し草履も見えて朝寝哉      春(句集)
草霞み水に声なき日ぐれ哉           春(句集)
さびしさに花さきぬめり山ざくら    春(遺稿)
ふためいて金の間を出る燕かな     春(遺稿)
菜の花や和泉河内へ小商(こあきなひ) 春(落日庵)
藤の茶屋あやしき夫婦(めをと)休けり 春(落日庵)
我帰る路いく筋ぞ春の艸        春(自画賛)
我影をうしろへ春の行衛(ゆくへ)かな 春(自画賛)
春の暮家路に遠き人ばかり       春(耳たむし)

蚊屋つりて翠微作らん家の内      夏(句集)
山人は人也かんこ鳥は鳥なりけり    夏(句集)
ぬけがけの浅瀬わたるや夏の月     夏(句集)
蛇(だ)を載(きつ)てわたる谷路の若葉哉 夏(句集)
衣がへ人も五尺のからだ哉       夏(遺稿)
さみだれや名もなき川のおそろしき   夏(遺稿)
麦刈て遠山見せよ窓の前        夏(遺稿)
二十五のあかつき起きや衣更      夏(遺稿)  
おちこちに滝の音聞く若葉かな     夏(新華摘)
塵塚の髑髏にあける青田かな      夏(落日庵)
麦刈て遠山見せよ窓の前        夏(落日庵)
掴みとりて心の闇のほたる哉      夏(新五千稿)
我影を浅瀬に踏てすずみかな      夏(書簡)

稲妻や波もてゆへる秋津しま      秋(句集)
三径の十歩に尽て蓼の花        秋(句集)
朝霧や村千軒の市の音         秋(句集)
淋し身に杖わすれたり秋の暮      秋(句集)
中々にひとりあればぞ月を友      秋(句集)
木曽路行(ゆき)ていざ年寄(よら)ん秋独リ 秋(句集) 
茨野や夜はうつくしき虫の声      秋(落日庵)
人を取る淵はかしこか霧の中      秋(落日庵)
いてう踏(ふん)でしづかに児(ちご)の下山かな 秋(落日庵)
うら枯や家をめぐりて醍醐道      秋(夏より)

時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる 冬(句集)
冬こだち月に隣をわすれたり      冬(句集)
寒月や門をたたけば沓(くつ)の音   冬(遺稿)
極楽にちか道いくつ寒念仏       冬(遺稿)
打ちかけの妻もこもれり薬喰      冬(遺稿)
雪の旦(あさ)母屋(もや)のけぶりのめでたさよ 冬(遺稿)
白ぎくの一もと寒し清見寺        冬(夜半叟)
焼火(たきび)して鬼こもるらし夜の雪 冬(夜半叟)

2013.6.6.

 蕪村の句をあらためて読み直し、追加句を検討している。教えられることが多い。
それが終われば芭蕉の再点検をもと思ってもいる。

     ☆

 さて、ありがたいことに関悦史さんの「ウラハイ=裏「週刊俳句」」の「水曜日の一句」(2013.6.
5.)に次の句が引用された。「佐々木敏光句集『富士・まぼろしの鷹』」(邑書林)の第一部「富士」
からの句である。この第一部では、富士を多様な角度から読み込もうとしただけに、関さんの選句と解
説はありがたい。お礼を申し上げる。

 関悦史
  ●水曜日の一句〔佐々木敏光〕    2013年6月5日水曜日 

 稜線にキスして富士の初日かな   佐々木敏光

富士山の稜線と、そこから差し、ゆっくり上がって、離れていく初日との関わりをキスに見立てている。

富士で初日の句となると、とかくその荘厳さに居住まいを正さなければならない気になりがちだが、
「キス」の色香と愛嬌がおおらかで面白く、また太陽の縁のゆらめく光芒が何やら唇の潤いのようにも
感じられて、見立ての突飛さがちゃんと実体に返っているのが特長。

万物相和した目出度さが、重厚な景とすっきりした軽妙な言いとめ方から立ち上がる。

   句集『富士・まぼろしの鷹』(2012.7 邑書林)所収。

 関悦史 ●水曜日の一句〔佐々木敏光〕「ウラハイ」 

2013.5.25.

 あいかわらず、追加句。 加藤郁乎。といっても、「佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』(月刊)」
の六月号の準備もあるので「気分的に」いそがしい。もうすこし突っ込む必要があるが、またいつかと
思い、とりあえず、加藤郁乎追加句。

   加藤郁乎追加句
遺書にして艶文、王位継承その他無し  (『えくとぷらすま』)
小者ほどそりかへりみる小梅かな    (『江戸櫻』)
初桜さて世の中は化鳥かな 
春の川虚名ここだくなく流れ
古草や野に遺賢あり内助あり
持論などいかがなものか春の夢
しぐるるや異端もやがて伝統に
水澄みて亜流の亜流ながれけり
しぐるるや只事俳句傑作集       (『初昔』)
枯枝に烏合の衆のとまりけり
別嬪の降つて来さうなゆだちかな
月並を説く月並や冷やつこ
大方は堕つる人魂寒の月
どうであれ生涯一句初昔
反骨は群れをつくらず浮かれ猫

2013.5.24.

 あいかわらず、追加句。それも、京極杞陽と夏石番矢。たしかに真逆だ。「それでいいのだ。」
「現代俳句抄」にも「もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟性をもった精神であ
る。」とモンテーニュを引用している。

  京極杞陽の追加句
まつぴるま河豚の料理と書いてある  (『くくたち上』)
都踊はヨーイヤサほほゑまし
汗の人ギュ―ット眼つぶりけり
春愁の東洋人でありにけり      (『くくたち下』)
春川の源へ行きたかりけり
聖書ありあるときはなし置炬燵    (『但馬住』)
月の幸月に並べる星の幸      
生きてゐるうちはスキーを老紳士
桃一つ流れて来ずや岩の間を
スエターの胸まだ小さし巨きくなれ
宗教史星のキリスト花の釈迦
白峰の月くらがりを落つる滝
甚平を着て働いて死ににけり     (『花の日』)
たんぽぽの咲く踏切を寿福寺へ    (『露地の月』)
初不二を一句の中に浮かばしめ    (『さめぬなり』)

  夏石番矢 の追加句
家ぬちを濡羽の燕暴れけり       (『猟常期』)
階段を突き落とされて虹となる
街への投網のやうな花火が返事です   (『メトロポリティック』)
うなばらにああ神々の深呼吸      (『神々のフーガ』)
日本海に稲妻の尾が入れられる
ひんがしに霧の巨人がよこたわる
すべてをなめる波の巨大な舌に愛なし  (『ブラックカード』)
揺すぶられ流され致死量を超える嘘

2013.5.23.

 あいかわらず、追加句。

 県立図書館を含め、静岡県内の図書館には『春 川崎展宏全句集』がない。
思い切って買った。一万円と消費税。買って損はないと思い買ったのだ。
 意外に川崎の追加句は少なかったが、多いだけが能ではない。損はなかった(と思いたい)。

 川崎展宏の追加句

夜の眼のしばたたくゆゑ小雪くる       (『葛の葉』)
明日(みやうにち)は満月といふ越後湯沢
綿虫にあるかもしれぬ心かな       (『冬』) 
歳月や地獄も霞む硫黄島               
綿虫にあるかもしれぬ心かな
あらぬ方へ手毬のそれし地球かな
居並ぶや春の愁ひの大鎧
春宵一刻博多の太か月が出た
晩年を過ぎてしまひし昼寝覚       (全句集『春』)
晩年を隈なく照らす今日の月   
花はみな菩薩鬼百合小鬼百合 
 
2013.5.10.

 一般的な読書と散歩などはともかく、俳句に関しては、句作と句集や俳書を読む日々である。
 ただ、俳句とはこうでなければならぬという頑迷な文に出会うと、伝統派であれ前衛派であれうんざ
りしてくる。
 ニーチェは「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」と言っているが、自分
の解釈に拘泥し過ぎる人には疲れる。

 今日は、「俳句個人誌『富士山麓』 六月号」の「後記」ために用意している富澤赤黄男の文、「ク
ロノスの舌」の一部を引用しておく。

 詩は本質的に『曖昧』なものである。『曖昧』について理解できない俳人に
限って、つねに『説得』だけをやらうとする。

 根源論も俳人論も、無季俳句論、社会性論議も、僕には無用である。僕はただ、
ひとりの人間が、憤りの果てから、虚妄の座から、涙を流し、哀歓を越えて、つひ
にひろびろとした大気の中で思い切り呼吸をすることが出来ればと、それのみを悲
願するだけだ。

2013.5.8.
 追加句、最近でた加藤郁乎編の岩波文庫版『荷風俳句集』を使い、荷風。

  荷風追加句
羽子板や裏絵さびしき夜の梅     (『荷風句集』)  
まだ咲かぬ梅をながめて一人かな
うぐひすや障子にうつる水の紋(あや)
蝙蝠やひるも灯ともす楽屋口
涼風を腹一ぱいの仁王かな
深川や低き家並のさつき雨
象も耳立てて聞くかや秋の風
極楽に行く人送る花野かな
昼月や木ずゑに残る柿一ツ
箱庭も浮世におなじ木の葉かな
よみさしの小本ふせたる炬燵哉
冬空や麻布の坂の上りおり
落ちる葉は残らず落ちて昼の月
昼間から錠さす門の落葉哉
寒月やいよいよ冴えて風の声
寒き日や川に落ちこむ川の水
白魚に発句よみたき心かな       (岩波文庫『荷風俳句集』)

2013.4.25.

 追加句。常に準備中である。
今回は、桂信子、橋石、阿部青鞋。

  桂信子追加句
黒揚羽現れてこの世のひと悼む     (『草影』)
夕風やさざ波となる遠き蝉  
いつ遺句となるやも知れずいぼむしり

  橋石追加句
火の迫るとき枯草の閑かさよ      (『和栲』) 
郭公や酒も命もなみなみと       (『微光』)  
冬空の青き脳死もあるならん      (『微光』)  
   ☆
わがいのち風花に乗りすべて青し
七十の恋の扇面雪降れり
下町や殊にしたたる女傘
枕から外れて秋の頭あり
ラテン語の風格にして夏蜜柑
まさしくは死の匂いかな春の雪
春浅き二階へ声をかけて出る
草の根を分けても春を惜しむかな
たましいの玉虫色に春暮れたり
昼の木菟いずこに妻を忘れしや
いたずらに僧うつくしや二月の山
眉しろく虹の裏ゆく旅人よ
限りなくゼロがつづきて曼珠沙華

  阿部青鞋追加句
赤ん坊ばかりあつまりいる悪夢    (『火門集』)
あたたかに顔を撫ずればどくろあり
大野火の中より誰か燃えきたる    (『ひとるたま』)

2013.4.18.

 追加句。永遠に復習の時期。大切な俳人は多いが、次の三人もそうである。
年齢順に書くと、永田耕衣、橋石、三橋敏雄。それぞれ特異な俳人である。

  永田耕衣追加句
冬の雲一個半個となりにけり      (『與奪鈔』)
まつくらに暮れてしづかや寒雀
秋水や思ひつむれば吾妻のみ      (『驢鳴集』)
淫乱や僧形となる魚のむれ       (『闌位』)
てのひらというばけものや天の川
晩年を覗いてみよう葱の筒
茄子や皆事の終るは寂しけれ      (『冷位』)
永遠が飛んで居るらしあかとんぼ    (『殺佛』)
枯韮にたつぷり水を注ぎけり
寂しさをこぼさぬ蠅の頭脳哉      (『物質』)
物質の我を紅葉四方刺しに
春の道だけが歩いているわいのう
念願の釣瓶落としを浴び通す
いづこにも我居てや春むづかしき
知己もみな物質春の道を行く
追い越しし少年見えず秋の暮
何もせぬ忙(せわ)しさに在り冬桜   (『葱室』)
はるかぜや玄関番の蠅一つ  
人類を頼まぬ花の盛り哉
人生を発明し得ず猪を食ぶ       (『人生』)
骨折はみな老人や雪景色        (『自人』)
老雪(ろうせつ)や無欲の欲が深くなる 
死神が時を渡つて来て死にぬ      (『陸沈考』)

  橋石追加句
秋の湖真白き壺を沈めけり       (『雪』)
雪降れり沼底よりも雪降れり
柩出るとき風景に橋かかる       (『風景』)
合歓咲くや語りたきこと沖にあり
故山我を芹摘む我を忘れしや      (『和栲』) 
きさらぎの手の鳴る方や落椿
耳垢も目刺のわたも花明り
躓くや老いも裾濃の夕霞
日輪を呑みたる蟇の動きけり
寒鯔を釣る夢もちて人の中      
ひとつ食うてすべての柿を食い終わる
乾鮭をさげて西方無辺なり
生米の奥は千里の冬霞
まどろみのひまも仮面や花の冷
笹鳴よこの身焼かるる日も鳴くか
散る柳貌なきものら往き交わす
炎上の弥陀萍を照らしけん
縄跳とびの端もたさるる遅日かな
白扇をたためば乾く山河かな
秋ふかく用無き物を盗られけり
春山の腰のあたりを越えゆけり
日の沈むまで一本の冬木なり
人にそう呼ばれて一人静かなり     (『和栲以後』) 

  三橋敏雄の追加句
新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末     (『まぼろしの鱶』)
むささびや大きくなりし夜の山
野の果の孤独な火事を逃げる馬
外を見る男女となりぬ造り滝
生存者一人沖より泳ぎ着き 
蝉の穴蟻の穴よりしづかなる      (『眞神』)
渡り鳥目二つ飛んでおびただし 
鬼やんま長途のはじめ日当れり
たましひのまはりの山の蒼さかな
撫で殺す何をはじめの野分かな
石塀を三たび曲れば秋の暮
戦没の友のみ若し霜柱		
ふるさとは旅館の昼の布団部屋
撫でて在る目のたま久し大旦
鬼赤く戦争はまだつづくなり    
晩春の肉は舌からはじまるか
蝉の殻流れて山を離れゆく
尿尽きてまた湧く日日や梅の花     (『鷓鴣』)
一生の幾箸づかひ秋津洲 
いくたびも日落つる秋の帝かな
満月や水兵永く立泳
かたちなき空美しや天瓜粉
暗闇を殴りつつ行く五月かな      (『巡禮』)
顔押し当つる枕の中も銀河かな  
表札は三橋敏雄留守の梅        (『長濤』)
螢火のほかはへびの目ねずみの目 
みづから遺る石斧石鏃しだらでん    (『しだらでん』)
梟や男はキヤーと叫ばざる      

2013.4.5.
 追加句、今日はなぜか、水原秋桜子、中村草田男。他の俳人も続くことになるが、復習の時期である。

 水原秋桜子追加句
狂ひつつ死にし君ゆゑ絵のさむさ    (『岩礁』)
薔薇の坂にきくは浦上の鐘ならずや   (『残鐘』)
ふと迷ふ来馴れし辻もおぼろなり(   (『玄魚』)
白玉のよろこび通る咽喉の奥      (『餘生』)

 中村草田男追加句
校塔に鳩多き日や卒業す        (『長子』)
菜の花や夕映えの顔物を云ふ
冬薔薇石の天使に石の羽根       (『萬緑』)
春淡き月像(つきがた)乗せて金三日月
連山の流るるままに流る鷹     
梅一輪踏まれて大地の紋章たり     (『銀河依然』)
  ☆
青空に寒風おのれはためけり
なめくじのふり向き行かむ意志久し
母の日や大きな星がやや下位に
繭玉や今宵の空は星吊りて
吹かれあがりつづく落花や呼ぶごとし

2013.4.5.

 追加句、今日は四俳人である。それぞれ大切に思っている。勿論大切な俳人は他にも多くいる。

 久保田万太郎追加句
ほととぎす根岸の里の俥宿      (『草の丈』)
寒き灯のすでにゆくてにともりたる (わが恋よ)
拭きこみし柱の艶や年忘
寒の雨芝生のなかにたまりけり
まゆ玉やきのふとなりし雪げしき
まゆ玉にいよいよ雪ときまりけり
迎火やあかあかともる家のうち
ゆく春や客に見せたき不二みえず
花のある方へ方へと曲りけり      (『流寓抄』)
えにしだの黄にむせびたる五月かな
名月のふけたるつねの夜なりけり
短日やにはかに落ちし波の音
夏場所やもとよりわざのすくひ投げ
水にまだ青空のこるしぐれかな
春の日やボタン一つのかけちがへ
春待つや万葉、古今、新古今      (『流寓抄以後』)

 阿波野青畝の追加句
ひとの陰(ほと)玉とぞしづむ初湯かな (『紅葉の賀』)
加太の海底ひの鹿尾菜(ひじき)花咲くと(『旅塵を払ふ』)
土用波うねりに壱岐を乗せにけり    (『不勝簪』)

 松本たかし追加句
草堤に座しくづほれて春惜しむ     (『松本たかし句集』)
雪嶺の歯向ふ天のやさしさよ      (『石魂』)
天龍へ崩れ落ちつつ眠る山
    ☆
春月の病めるが如く黄なるかな
落花踏んで見知らぬ庭に這入りをり

 山口青邨追加句
泣きぼくろ彼女持ちけりけふの月    (『花宰相』)
ほのかなる香水をたてわがむすめ
けふもまた花見るあはれ重ねつつ    (『庭にて』)
そばの花山傾けて白かりき       (『乾燥花』)


2013.4.3.

 俳句メモを見ていたら、以前上田五千石の追加句を記したとき、次の三句をおとしていたことに気づ
いた。追加する。

 五千石追加句       
いつせいに春落葉塔はばたくか   (『森林』)
蚊遣香父のをんなもみんな果て   (『天路』)
秋風や吾妻をつひの知己として

2013.4.1.

 井上井月追加句

 放浪の俳人、井上井月をこの「現代俳句抄」で初めてとりあげたのは、十五年以上前のことだ。幕末
から明治初めごろを生きていたので、「古典俳句抄」でなく、「現代俳句抄」で扱うことにした。
 最近岩波文庫からも井月句集がでたので追加句と思っていたが、「俳句3月号」に「いま井月がおも
しろい!」が出たので、その取り上げられた句の中から選び追加し、ぼくの「抄」を補うことにした。
 今日は4月馬鹿、なぜか放浪の俳人井月をあつかうのにふさわしい気がした。

 井月追加句
妻持ちしことも有りしを着衣始(きそはじめ)
陽炎の動かす石の華表(とりゐ)かな     鳥居
降るとまで人には見せて花曇り
旅人の我も数なり花ざかり
数ならぬ身も招かれて花の宿
柳から出て行船(ゆくふね)の早さかな
姿見にうつる牡丹の盛りかな
菊咲くや陶淵明が朝機嫌
月ささぬ家とてはなき今宵かな
立ちそこね帰り後れて行(ゆく)乙鳥(つばめ)
鬼灯(ほほづき)を上手にならす靨(ゑくぼ)かな
冬ざれや壁に挟(はさ)みし柄なし鎌
よき酒のある噂なり冬の梅
鍛冶の槌桶屋の槌も師走かな
蝙蝠(かはほり)や足洗ひとて児(こ)は呼ばる
長閑さの余りを水の誇りかな
世事はみな人にまかして花に鳥

2013.3.24.

 藤田湘子の最後から二番目の句集『神楽』と最後の句集『てんてん』を、若干の追加句をくわえ、同
時にあらためて両句集の抄をここに掲載する。

 藤田湘子
霧氷林あらたまの日を捧げたり     (『神楽』)
雲水の疾風(はやて)あるきや百千鳥
水母にもなりたく人も捨てがたく
ゆくゆくはわが名も消えて春の暮
蜩や死までの扉いくつある
清水湧く青き千曲となるために
干蒲団箱根の谷に叩きをり
もろびとの鼻大寒となりにけり
巣立鳥大樹いづれも風あふれ
炎天の記憶あくまで無音なり
甚平着て転向といふ暗部あり
終戦忌頭が禿げてしまひけり
横浜の狸なりしが轢死せり
葛飾や一弟子われに雁わたる
あかつきに雪降りし山神還る
陶枕に混沌の頭を与へけり
闊歩して詩人になろうねこじゃらし
狐火の燃えたる頃の堕落論
我去れば電柱も野に遊ぶらん
老人は大言壮語すべし夏
あめんぼと雨とあめんぼと雨と
焼石に水の千代田区散水車
死蝉をときをり落し蝉しぐれ
亡き師ともたたかふこころ寒の入
結界の紅茸どもへ鐘一打
天山の夕空も見ず鷹老いぬ
春の鹿幻を見て立ちにけり
君たちの頭脳硬直ビヤホール
冬晴やお陰様にて無位無官
野火見つつ人間不信今更に       (『てんてん』)
たんぽぽと一本道とあそびをり
ひとりこそ自在や花の蕊に虻
空蝉(うつせみ)を拾へば笑ひ天よりす
暑けれど佳き世ならねど生きようぞ
春曙(はるあけぼの)我となるまでわれ想ふ
春の暮死んでから読む本探す
滅びても光年を燃ゆ春の星
けふ見たる桜の中に睡るなり
一塊のででむし動くああさうか
マクベスの科白(せりふ)がふつといなびかり
涅槃図に顔寄せ俳句亡者かな
伊予にゐてがばと起きたる虚子忌かな
枯山へわが大声の行つたきり
手術経し腹の中まで秋の暮
春夕好きな言葉を呼びあつめ
死ぬ朝は野にあかがねの鐘鳴らむ  (無季)

2013.3.21.

 今回は 松本たかし追加句を。蕪村を少しずつ準備している。

  松本たかし追加句
もの芽出て指したる天の真中かな    (『松本たかし句集』) 
遠雷や浪間浪間の大凹
ロンロンと時計鳴るなり夏館
鶺鴒(せきれい)の歩き出て来る菊日和
日を追うて歩む月あり冬の空
青天にただよふ蔓の枯れにけり
どん底を木曽川の行く枯野かな
春水の大鏡ある木の間かな       (『野守』)
夕まで初富士のある籬(まがき)かな
目のあたり浴泉群女深雪晴       (『火明』)

2013.3.19.

 今回は追加句、若干。
 まず、子規。ついで原石鼎。杉田久女、三橋鷹女。

 子規の追加句
宵闇や薄に月のいづる音    
アメリカの波打ちよする岩ほ哉
涼しさや羽生えさうな腋の下
蕣(あさがほ)や君いかめしき文学士
病間や桃食ひながら李(すもも)画く

 原石鼎の追加句
山霊のむささびなげて春の月
火星いたくもゆる宵なり蠅叩
夕月に七月の蝶のぼりけり

 杉田久女の追加句
灌沐の浄法身を拝しける
雉子なくや宇佐の盤境(いはさか)禰宜ひとり
 
 三橋鷹女の追加句
青葡萄天地ぐらぐらぐらす       (『歯朶地獄』)
秋蝉やうばすて山に姥を捨て      (『樵』以降)
どんぐりの樹下ちちははのかくれんぼ

2013.3.14.

 『俳句界別冊「平成名句大鑑」』を対象に、「現代俳句抄」の追加句を拾う。

 「抄」をつくるには、自分を棚にあげなければならない。自分にとって参考になる句を自分に忠実に
なって選ぶ。選ぶ行為にはかならずしも客観性がともなうとは限らない。他の人には不満が残るかもし
れない。「アンソロジー」(詞華集)と名乗らない理由である。

 さて、この『俳句界別冊「平成名句大鑑」』そのものに、客観性があるだろうか。これも「かならず
しも客観性がともなうとは限らない」のはいうまでもない。主宰者を優先させた商業的な面がうかがえ
る。
 さて、「平成名句」であるが、この本だけで「平成名句」を考えれば、確実に「昭和名句」と比較す
ると、力がない。少しの例外を除くと、同じ俳人でも、昭和時代の句に比して、とるべき句がない場合
が多い。なによりも若い俳人の句が少ない。

 こんなことをだらだら言ってたら始まらないので、とにかくはじめよう。すでに「現代俳句抄」にあ
る句は、とりあげない。(たとえば小澤實の句等)
 見落している句も多々あるだろう。時がたてば違うことになるかもしれないが、今回は以下の通りである。

  大木あまり
冬草や夢見るために世を去らむ
    稲畑汀子
初御空富士の夜明でありにけり
  茨木和生
狼を詠みたる人と月仰ぐ
  今井聖
元全共闘新米を送り来る
  宇多喜代子
天空は生者に深し青鷹(もろがへり)
  大串章
帰省子に校歌の山河近づけり
  小川軽舟
かつてラララ科学の子たり青写真
すぐ手帳開く男と鱧食へり
地は霜に世は欲望にかがやける
  櫂未知子
佐渡ヶ島ほどに布団を離しけり
いきいきと死んでゐるなり水中花
  黒田杏子
夏終る柩に睡る大男
  斎藤慎爾
狂ふまでは螢袋の中にゐた
  高野ムツオ
奥歯あり喉あり冬の陸奥の闇
泥かぶるたびに角組み光る蘆
  鷹羽狩行 
雪渓といふ一刀を掲げたり
年迎ふ山河それぞれ位置に就き
  高橋睦郎
蟲鳥のくるしき春を無為(なにもせず)
  高柳克弘
うみどりのみなましろなる帰省かな
  田中不鳴
天高し一歩一歩が今である
  田中陽
砂丘に転び静かな地球と思いたい
  筑紫磐井
老人は青年の敵 強き敵
  行川行人
薔薇園に夢の跡など見にゆかん
  長谷川櫂
富士といふ大埋火が雪の中
  泰夕美
十六夜に夫を身籠りゐたるなり
  正木ゆう子
熊を見し一度を何度でも話す
  宮坂静生
一日がたちまち遠し山ざくら
  本井英
妻知らぬセーターを着て町歩く
  森田智子
渋滞を抜けて加速の霊柩車
  山尾玉藻
陽炎をよく噛んでゐる羊かな

2013.3.12.
 『俳句界三月号別冊 「平成名句大鑑」』を追加句の視点で読んでいる。あまり選べそうにもないが、
結果はそのうちに。収録俳人は結社の主宰が優先されているようで、俳句が「お稽古」の世界の面があ
る以上、商業的には仕方のないことかもしれない。掲載もれだなと思っている俳人は、それほど悄気て
いるとは思えないが、マイペースでいくよりしかたない。世界は広いのだ。
 こういう場合に、よく引用する句を今日もかかげておこう。
    加藤郁乎
   虚名より無名ゆたかに梅の花
   時代より一歩先んじ蚊帳の外
   俳諧は愚図々々言はず秋の暮
    藤田湘子
   ゆくゆくはわが名も消えて春の暮   

 以下、平常の作業としての追加句。
 
   桂信子
クリスマス妻のかなしみいつしか持ち  (『月光抄』)
初日出て限りなく来る波の金      (『草影』)  
冬麗や草に一本づつの影
亀鳴くを聞きたくて長生きをせり
一心に生きてさくらのころとなる
花のなか魂遊びはじめけり
 一応は泰然として残り鴨        (『草影』以後) 
この世また闇もて閉づる夏怒濤

   山口誓子
踏切を過ぎて再び枯野をとめ      (『晩刻』) 
除夜零時過ぎてこころの華やぐも    (『青女』)
瓜貰ふ太陽の熱さめざるを       (『和服』)
真黒な硯を蠅が舐めまはす       (『構橋』)
油虫わが臥てゐるを飛んで越ゆ
頭なき百足虫のなほも走るかな     (『遠星』)
げぢげぢよ誓子嫌ひを匍ひまはれ    (『青女』)
燈台は光の館(やかた)桜の夜     (『方位』)

2013.3.10.

『虚子選ホトトギス雑詠選集100句鑑賞』(春夏秋冬)岸本尚毅編著より

 雪解川名山けづる響かな     前田普羅
 青天に音を消したる雪崩かな   京極杞陽

等々、この本にはすでにぼくの「現代俳句抄」に掲載されている句は多い。
 すでに「現代俳句抄」に引用された俳人とその句は原則としてここではとりあげないが、この『雑詠
集』を読み、「現代俳句抄」に名のでている俳人で初めてとりあげることになる句については例外的に
(○)をつけ記載する。

春
 石段に立ちて眺めや京の春      野村泊月(○)
 山焼の麓に暗き伽藍かな       多田桜朶
 春の風邪あなどりあそぶ女かな    三宅清三郎(○)
 大風の藪の鶯きこえけり       田村木国
 かくし子のみめうるはしきひひなかな 本田一杉
 風の来てたんぽぽ絮をはなしけり   佐藤羨人
 永き日や畳に生えし太柱       庄司瓦全
 春潮や欧亜を分つボスフォラス    伊藤東離

夏
 白々と何の新樹か吹かれ立つ     高木晴子
       (『ホトトギスの俳人101』に他の句も))
 人かくす簾おろしぬ梅雨の茶屋    川名句一歩
 出歩きや梅雨の戸じまりこれでよし  高田つや女
 梅雨の寺和尚は獄にありといふ    斎藤鴎翔
 本の上の暗し明るし五月雨      岩崎魚将
 白壁に蛾がをり輸血終りたる     山本雄示
 夾竹桃くらくなるまで語りけり    赤星水竹居
       (『ホトトギスの俳人101』に他の句も))
 雷鳥を再び霧に見失ふ        余弦
 いつの間にわれ人妻や派手浴衣    二三子
 滝壺の旱の水のみづすまし      土山山不鳴
 海水着ふみしだきつつぬぎにけり   一方女
 
 
秋
 流燈に下りくる霧のみゆるかな    高野素十(○)
 遠まきの星にまもられ今日の月    林さち子
 秋蛍つちくれ抱いて光りけり     山本村家
 秋風に倒れしもののひびきかな    野村泊月(○)
 しみじみと日を吸ふ柿の静かな    前田普羅(○)
 ふくやかな乳に稲扱ぐ力かな     川端茅舎(○)

冬
 夢殿の前にうしろに返り花      冬青
 はつきりと月見えている枯木かな   星野立子(○)
 枯芝に手をつき梅を仰ぎけり     山口青邨(○)
 枯菊のしづかに雪をかつぐのみ    長田白馬
 あをあをと海よこたはる枯野かな   房之助
 極道のいやになりたる枯野かな    田部碧天
 滝涸れて一枚巌となりにけり     大橋桜坡子
 雪野原ぽかと穴ある流かな      弥政杏坡
    ☆
 なお
 黒きもの暗に飛び行く焚火かな    高濱年尾
は、すでに「現代俳句抄」に掲載しているので、ここに掲載しなかったが、今回『雑詠選集』を読んで、
あらためて何かを感じた句である。記しておく。

2013.3.8.

 飯田蛇笏の追加句。あいかわらず基本的な作業だなあ。そうはいっても基礎作業の大切さもあるのだ。

花の風山峰たかくわたるかな      (『山廬集』)
ありあけの月をこぼるるちどりかな
秋風や野に一塊の妙義山
大空に富士澄む罌粟(けし)の真夏かな
いきいきと細目かがやく雛(ひひな)かな
山風にながれて遠きひばりかな
山柿や五六顆(か)おもき枝の先
採る茄子の手籠にきゆァとなきにけり  (『霊芝』)
音のして夜風のこぼす零余子(むかご)かな   
山の春神々雲を白うしぬ
大乳房たぶたぶ垂れて蚕飼(こがひ)かな
秋しばし寂(じやく)日輪をこずゑかな
土を見て歩める秋のはじめかな
去年今年闇にかなづる深山川      (『山響集』)
老鶏(らうけい)の蟇ぶらさげて歩くかな
子のたまをむかへて山河秋の風     (『雪峡』)
冬の風人生誤算なからんや       (『家郷の霧』)
寒の月白炎曳いて山をいづ
金輪際牛の笑はぬ冬日かな
地に近く咲きて椿の花落ちず      (『椿花集』)

2013.2.28.

 本日「佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』(三月号)」を発行した。三月号といっても、
二月末日の発行で、実質的には二月に作成した句である。
 この前号である二月号から、あえて三句自選する。

    初春の輝く海へ富士下る

    死は未踏初日豊かにのぼりけり

               かまいたち
    人間といふやつかいなもの鎌鼬


 例のごとく、河東碧梧桐 の追加句

    ものうくて二食になりぬ冬籠
    愕然として昼寝さめたる一人かな
    闇中に山ぞ峙(そばだ)つ鵜川かな
    寒月に雲飛ぶ赤城榛名かな

2013.2.26.

 「どういうわけか、○○の追加句」と最近は、同じ表現を使っている。簡単に言うと俳句の勉強のた
めといえる。「個人俳句誌『富士山麓』」にも書いたが、波多野爽波のいう「多読多憶」(記憶の憶)
(『再読 波多野爽波』(邑書林)参考)のためでもある。それが自分の作った句への判断の目を養う。
    
  加藤楸邨の追加句
幾人(いくたり)をこの火鉢より送りけむ   (『雪後の天』)
安達太良の瑠璃襖なす焚火かな
明易き欅にしるす生死かな          (『野哭』)
凩や焦土の金庫吹き鳴らす
夾竹桃しんかんたるに人をにくむ
虹消えて馬鹿らしきまで冬の鼻        (『起伏』)
おのづからひらく瞼や牡丹雪 
野の起伏ただ春寒き四十代
遺壁(いへき)の寒さ腕失せ首失せなほ天使  (『まぼろしの鹿』)
白牡丹土中の暗に繋がるる          (『吹越』)
牡丹の奥に怒濤怒濤の奥に牡丹        (『怒濤』)

  久保田万太郎の追加句
桑畑に不二の尾きゆる寒さかな
春の夜や背にまはりたる胃の痛み
人ごゑを風ふきちぎる焚火かな
案のごとくしぐるる京となりにけり

2013.2.18.
 どう言うわけか、龍之介一句、青々十数句、追加

   芥川龍之介
世の中は箱に入れたり傀儡(くわいらい)師

   松瀬青々
人妻の傘(からかさ)ふかし春の雨    (『妻木』)
螢よぶ女は罪の聲くらし
黙りゐる事のかしこきなまこ哉
我妹子の膝にとりつく竈馬(いとど)かな (『鳥の巣』)
ただ其処に宙に見えけり夏の月      (『松苗』)
見る我と別な世界を螢とぶ 
雲の峰ほどの思ひの我にあらば
寒山が友ほしく来しけさの秋
ぽつかりと雪ほどのもの世にあらず
水よりも清き寝覚や茄子和(なすびあへ)
草が木にものやささやく野のおぼろ
春の水喜ぶ我に似たるかな
夢殿の赤に世の冬永きかな
鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな
色鳥を待つや端居の絵具皿
  ☆
鶏の吹き倒さるる野分かな
氾濫を感ずる裸女かな

2013.2.12.
 漱石、何度目かの追加。
古白とは秋につけたる名なるべし  (憶古白)
落つるなり天に向つて揚雲雀
駄馬つづく阿蘇街道の若葉かな
湧くからに流るるからに春の水
馬の子と牛の子の居る野菊かな
日は落ちて海の底より暑(あつさ)かな
秋立つや一巻の書の読み残し

2013.2.11.
 漱石、追加句。

安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり    (長女出生)
いかめしき門を這入れば蕎麦の花
灯を消せば涼しき星や窓に入る
菜の花を通り抜ければ城下かな 
鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂(たばるざか)
寝てくらす人もありけり夢の世に 
耳の穴掘って貰ひぬ春の風
ごんと鳴る鐘をつきけり春の暮
同じ橋三たび渡りぬ春の暮
煩悩の朧に似たる夜もありき
物草の太郎の上の揚雲雀
時鳥厠半ばに出かねたり
君が琴塵を払えば鳴る秋か
柿一つ枝に残りて鴉哉
本名は頓とわからず草の花
花売に寒し真珠の耳飾
物言はで腹ふくれたる河豚かな
元日の富士に逢ひけり馬の上
色々の雲の中より初日出
水烟る瀑の底より嵐かな

2013.2.4.

 元同僚の上杉省和(京都ノートルダム女子大名誉教授、俳号霧ヵ城)さんが、静岡新聞朝刊に「節分
随想」という随想書いておられる。ぼくの俳句も引用されているが、ぼくの俳句を別にして、随想とし
て実に良く書かれている。名文である。時間を見つけて、この随筆をアップしたいと思っているが、と
りあえず引用された二句を書いておく。去年出版した佐々木敏光句集『富士・まぼろしの鷹』からであ
る。

 胸底のさびしき鬼へ豆をまく(静岡新聞朝刊、上杉省和「節分随想」 2013.2.4.)

 自転車に春の空気を入れてみる (同上)

2013.2.3.

 俳句に重きをおく生活である。あれこれやっているが、とりあえず先延ばしになっている句を「現代
俳句抄」に追加しておく。『俳コレ』から、山田露結の二句である。

  けふすでにきのふに似たる鰯雲
  給油所をひとつ置きたる枯野かな

2013.1.31.

 今日発行の佐々木敏光・俳句・個人誌『富士山麓』の二月号にも書いた。

 「俳句界」2013年1月号、金子兜太の「五七調最短定型の力を知れ」は、毀誉褒貶の俳句生活を送っ
てきた金子の発言の基調には常にありながら、ある意味では一つの権威になってしまた彼の最終のレジュ
メの「一言」のようにも思える。最後といっても「五七調最短定型こそ屈強の形式で、俳諧と称せられ
るすべて、約束としての季題(季語)も、この定型あってのもの」とおおいに元気なものである。
 「五七調最短定型の力を知れ」、つまり「俳句の力を知れ」、「俳句の力を信じろ」とぼくも自分に
向ってあらためて言いたい。

2013.1.26.

 久しぶりに、木下夕爾の追加句。やさしく、なつかし俳人である。

目にしみる空の青さよ揚ひばり     (『木下夕爾全句集』)
焚火消えて真如の闇となりにけり
わが声の二月の谺まぎれなし
短夜のまづ青くそよぎそむ
汗拭けり孤りとなりしわが影と
炎天や相語りゐる雲と雲
のぼりきて全き月の芭蕉かな
秋風の中われに向く顔ひとつ
短日の貨車押しあひつつ停る
枯野ゆくともりてさらに遠き町
ひとすぢの春のひかりの厨水
惜春のいつ失ひし備忘録
遠谺しづめて泉あをかりき
竹林の奥春の水奏でそむ
空ことにまぶし林檎の花のもと
ひるの月噴水の穂触れやまず
夢いまだ子には託さじいわしぐも
榾火燃え闇あたらしくひろごれり
冬園のベンチを領し詩人たり

2013.1.23.

 思いきってアンケート「私の好きな俳句ベスト25」の25位の24句を追加する。出典も明らかに
しているし、俳句世界の高揚のためと思っていただけたらと思う。
 すべてぼくの「古典俳句抄」や「現代俳句抄」にのっていると安心しきっていたら、落とし穴があっ
た。
 一茶の  露の世は露の世ながらさりながら
をいれてなかった。落としていた。まさかと思うが、そんなこともおこるものだ。早速追加。
 露の世は  露の世の露の中にてけんくわ哉
はいれてある。一茶らしいおもしろい句ではある。

 以下、追加句である。
25)海暮れて鴨の声ほのかに白し      芭蕉
25)よく見れば薺花さく垣根かな      芭蕉
25)蛸壺やはかなき夢を夏の月       芭蕉
25)行く春や鳥啼き魚の目は泪       芭蕉
25)明けぼのやしら魚しろきこと一寸    芭蕉
25)秋深き隣は何をする人ぞ        芭蕉
25)この道や行く人なしに秋の暮      芭蕉
25)あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風 芭蕉      
25)葱(ねぶか)買(かう)て枯木の中を帰りけり 蕪村
25)涼しさや鐘をはなるるかねの声     蕪村
25)露の世は露の世ながらさりながら    一茶
25)鶏頭の十四五本もありぬべし      正岡子規
25)湾曲し火傷し爆心地のマラソン     金子兜太
25)水脈の果て炎天の墓標置きて去る    金子兜太 
25)芋の露連山影を正しうす        飯田蛇笏
25)天の川わたるお多福豆一列       加藤楸邨
25)雁やのこるものみな美しき       石田波郷
25)初蝶やわが三十の袖袂(そでたもと)  石田波郷
25)水枕ガバリと寒い海がある       西東三鬼
25)人恋し灯ともしころをさくらちる    加舎白雄
25)頭(づ)の中で白い夏野となつてゐる  高屋窓秋
25)日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり     松瀬青々
25)冬菊のまとふはおのがひかりのみ    水原秋櫻子
25)たんぽぽや長江濁るとこしなへ     山口青邨

2013.1.19.
 アンケート「私の好きな俳句ベスト25」を掲載する。「文藝春秋 増刊 くりま 5月号」
(2012年)からで、俳人と俳句愛好家113名からのアンケートである。ベスト25のうち、15位
までとする。著作権を考え、まるごとの引用を遠慮するためでもある。なおこれらの句はすべてぼくの
「現代俳句抄」に掲載されている。

 私の好きな俳句ベスト25 (うち15位まで)

 1この秋は何で年寄る雲に鳥       芭蕉
 1菜の花や月は東に日は西に       蕪村
 3去年今年貫く棒の如きもの       高濱虚子
 4荒海や佐渡によこたふ天の河      芭蕉
 5しら梅に明る夜ばかりとなりにけり   蕪村
 6旅に病んで夢は枯野をかけ廻る     芭蕉
 7閑(しづ)かさや岩にしみ入る蝉の声  芭蕉
 7夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡   芭蕉
 7さまざまの事思ひ出す桜かな      芭蕉
10遠山に日の当りたる枯野かな      高濱虚子
10咲き満ちてこぼるる花もなかりけり   高濱虚子
10糸瓜咲て痰のつまりし仏かな      正岡子規 
10海に出て木枯帰るところなし      山口誓子
10湯豆腐やいのちのはてのうすあかり   久保田万太郎
15牡丹散て打かさなりぬ二三片      蕪村
15稲づまや浪もてゆへる秋つしま     蕪村
15愁ひつつ岡にのぼれば花いばら     蕪村
15流れ行く大根の葉の早さかな      高濱虚子
15いくたびも雪の深さを尋ねけり     正岡子規
15雪とけて村一ぱいの子ども哉      一茶
15をりとりてはらりとおもきすすきかな  飯田蛇笏
15一月の川一月の谷の中         飯田龍太
15秋風や模様のちがふ皿二つ       原石鼎
15谺して山ほととぎすほしいまま     杉田久女

2013.1.17.

落穂拾い
 今回は特定の俳人にしぼってのことではない。最近いろいろ句集や俳書をぱらぱらとめくっているう
ちに、おとしていたことに気づいた句を追加する。「落穂拾い」である。 

   子規
凛として牡丹動かず真昼中
夕立にうたるる鯉のかしらかな
祇園会や錦の上に京の月

   虚子
永き日を君あくびでもしてゐるか
我心春潮にありいざ行かむ
人生は陳腐なるかな走馬燈

   藤田湘子
蜩や死までの扉いくつある       (『神楽』)
横浜の狸なりしが轢死せり
闊歩して詩人になろうねこじゃらし
老人は大言壮語すべし夏

2013.1.6.

 アンケートを扱う。アンケートを信じすぎるのは危うい。予断を生み、他の可能性を封じる場合もあ
る。アンケートにはアンケートの陥穽がある。また、著作権の問題もある。
 そこで、利用はそれぞれの一部だけにして、あとは各自その本を見て判断していただくことにする。

 『私の好きなこの一句』(柳川彰治編著、平凡社)
 アンケートによる集計は、いつも不安定な要素がつきものである。そもそも誰が答えるか、質問自体、
その聞き方によって大いに結果が変わる。あくまでも参考、目くじらをたてるものではない。
 この本には「現役俳人の投票による上位340作品」と副題にある。そもそも「現役俳人」のどの層を
アンケートに答える人としたのか、何年何月何日に行ったかによって大いに変わってくるのである。こ
の本は2012年(平成24年)5月発行だが、アンケートが行われたのは、は「東日本大震災」の2011年
3月11日以前か以降かによっても変わる。
 また、この本は現在発売中の本であり、そのまま利用するのはためらわれる。ただ俳句を作ろうとす
る人には、参考の一つとして、有益でもある。その一部、29位(2句あり)まで、引用させていただ
く。さらに興味のある人は、購入されるか、図書館で借りられるかなどされるとよい。なお、これらの
句は、すでに「現代俳句抄」でとりあげている。

 1)海に出て木枯帰るところなし       山口誓子
 2)芋の露連山影を正しうす         飯田蛇笏
 3)をりとりてはらりとおもきすすきかな   飯田蛇笏
 4)遠山に日の当りたる枯野かな       高濱虚子
 5)一月の川一月の谷の中          飯田龍太
 6)夏草や兵どもが夢の跡          松尾芭蕉
 7)花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ      杉田久女
 7)外にも出よ触るるばかりに春の月     中村汀女
 9)去年今年貫く棒の如きもの        高濱虚子
 10)菜の花や月は東に日は西に       与謝蕪村
 11)湯豆腐やいのちのはてのうすあかり   久保田万太郎
 12)閑(しづ)かさや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉
 13)萬緑の中や吾子の歯生え初むる     中村草田男
 14)谺して山ほととぎすほしいまま     杉田久女
 15)水枕ガバリと寒い海がある       西東三鬼 
 16)(はまなす)や今も沖には未来あり  中村草田男
 17)炎天の遠き帆やわがこころの帆     山口誓子
 17)摩天楼より新緑がパセリほど      鷹羽狩行
 19)はらわたの熱きを恃(たの)み鳥渡る  宮坂静生
 20)冬の水一枝の影も欺かず        中村草田男
 21)瀧落ちて群青(ぐんじょう)世界とどろけり 水原秋桜子
 21)いくたびも雪の深さを尋ねけり     正岡子規
 23)柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺      正岡子規
 24)くろがねの秋の風鈴鳴りにけり     飯田蛇笏
 25)荒海や佐渡によこたふ天の河      松尾芭蕉
 26)冬菊のまとふはおのがひかりのみ    水原秋桜子    
 27)旅に病んで夢は枯野をかけ廻る     松尾芭蕉
 28)ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜    桂信子
 29)鰯雲人に告ぐべきことならず      加藤楸邨
 29)流れ行く大根の葉の早さかな      高濱虚子

 『俳句界 2009年12月号』「昭和俳句の巨星 ベスト30」(俳人約300名に「好きな昭和の俳人
3名」(物故者のみ)をアンケート)のうち、30位(6人)まで。なおこれらの俳人は、すべてすで
に「現代俳句抄」でとりあげている。

 1)高濱虚子
 2)石田波郷
 3)飯田龍太
 4)加藤楸邨
 5)中村草田男
 5)山口誓子
 7)西東三鬼
 8)飯田蛇笏
 8)三橋敏雄
 10)橋本多佳子
 11)高柳重信
 11)水原秋桜子
 13)秋元不死男
 13)飯島晴子
 13)細見綾子
 16)桂信子
 16)川端茅舎
 16)高屋窓秋
 19)阿波野青畝
 19)久保田万太郎
 19)能村登四郎
 19)渡邊白泉 
 23)攝津幸彦
 23)永田耕衣 
 25)上田五千石 
 25)富澤赤黄男
 25)野見山朱鳥 
 25)波多野爽波 
 25)山口青邨
 30)安住敦 
 30)京極杞陽  
 30)鈴木六林男 
 30)高野素十 
 30)三橋鷹女 

2013.1.3.

 昨日に引き続き、パラパラめくっている手元にある本から本の中から。『ポケット俳句』(童話屋 
田中和雄編)は、机の隅に忘れられたように置かれていた。「童話屋」編集発行ということで、近づき
やすいしたしみやすい句が集められている。俳句でございといった難しそうな本もあっていいが、こん
な安心して読める本もあってもいい。絶対そうだと言い切らないが、俳句は近づき易く、単純明快な面
がこんなにあるんだと知らせるのも必要だ。いくつかの句を抜いてみる。勿論すでに「現代俳句抄」等
に取り上げている句はのぞく。

  尾崎放哉
自分をなくしてしまつて探して居る
たつた一人になり切つて夕空
わがからだ焚火にうらおもてあぶる
さよならなんべんも云つて別れる

  夏目漱石
楽寝昼寝われは物草太郎なり
朝顔の葉影に猫の目玉かな
秋はふみわれに天下の志
何の故に恐縮したる生海鼠(なまこ)哉
どつしりと尻を据ゑたる南瓜かな
我に許せ元日なれば朝寐坊

  正岡子規
山の池にひとり泳ぐ子肝太き
鳥啼いて赤き木の実をこぼしけり
長き夜や千年の後考へる

  堀口星眠
冬の栗鼠樅の青波乗りゆけり

  住宅顕信
若さとはこんなに淋しい春なのか
何もないポケットに手がある

  小西来山
お奉行の名さへおぼえず年暮れぬ
春雨や降るともしらず牛の目に

  橋間石
ふと思うことありて蟻ひき返す
顔じゅうを蒲公英にして笑うなり
詩も川も臍も胡瓜も曲がりけり

  篠原鳳作
吾子たのし涼風をけり母をけり

  山口青邨
本をよむ菜の花明り本にあり

  原石鼎
目覚(さ)まさば父怖しき午睡かな

  加藤楸邨
無数蟻ゆく一つぐらゐは遁走せよ

  山頭火
窓あけて窓いつぱいの春
うつむいて石ころばかり

  高濱虚子
朝寝もし炬燵寝もして松の内
賽の目の仮の運命(さだめ)よ絵双六

2013.1.2.

 俳書をぱらぱらめくっている。昔読んだ『現代俳人の風貌』(「俳句あるふぁ」編)の中で「現代俳
句抄」に入れていてよかったのに入れていない句に気づき、入れることにした。次の6句である。

 深見けん二
ばらばらに賑わってをり秋祭   (『花鳥来』)

 岡本眸
をみなにも着流しごころ夕永し  (『知己』)
近すぎて自分が見えぬ秋の暮

 福田甲子雄
盆地は灯の海山脈は寒茜     (『盆地の灯』)
靄あげて種蒔くを待つ大地かな  (『盆地の灯』以降)
 
 永田耕衣
男老いて男を愛す葛の花     (『自人』)

2012.12.29.

 先日サイトの「俳句百句選」に「「二十世紀俳句百句選」塚本邦雄選」を追加した。ついでに塚本の
『百句燦燦』をとも思わないわけではないが、この本は文庫本で販売中で、遠慮することにする。
 ただ、『百句燦燦』で「「二十世紀俳句百句選」塚本邦雄選」を充実させるためにその中の句を適当
に一部の句(大きな一部であるが)を使わさせていただく。
 「「二十世紀俳句百句選」塚本邦雄選」にでて来た俳人の句に、本来の選句のあとに追加した。また、
「プラス」として、僕なりに選句したものを十句付け加えた。

 *** プラス十句(『百句燦燦』より) ***

例ふれば恥の赤色雛の段          八木三日女

音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢         赤尾兜子
 
暗がりに檸檬浮かぶは死後の景       三谷昭

ほととぎす迷宮の扉(と)の開けつぱなし  塚本邦雄

秋風や模様のちがふ皿二つ         原石鼎

鬼百合がしんしんとゆく明日の空      坪内稔典

向日葵の蕊を見るとき海消えし       芝不器男

冬の馬美貌くまなく睡りをり        石川雷児

 「俳句百句選」のぼくの課題としては、十年前に明治、大正生まれの俳人を対象として選んだ敏光選
へ昭和生れの俳人の部を付け加えることである。いつのまにか平成生れの俳人もでている。光陰矢の如
しである。

 生死事大 光陰可惜   しょうじじだい こういんおしむべし
 無常迅速 時人不待   むじょうじんそく ときひとをまたず

 といっても焦ることもない。毎日を自分なりの生き方でに生きていくことだ。

2012.12.27.

 塚本邦雄選「二十世紀俳句百句選」(『現代俳句の世界』(集英社、1998)「二十世紀名句辞典」
より)をと思う。「アサヒグラフ 増刊号」(昭和六十年四月一日)が初出である。また『百句燦燦』
については、現在文庫本といえど発売中であり、直接にあつかうのは遠慮しておく。また、どうしたわ
けか上村占魚は、二句離れたところに取り上げられていて、何かの間違いと思われるが、「アサヒグラ
フ 増刊号」で確かめようと思ったが、この本は持っているはずであるが、どこかにまぎれて出てこな
い。そのまま二句をその位置に引用しておく。

 個性的な選句と時代のズレもあり、「現代俳句抄」にとりあげてない句は結構多い。以下の句がそう
である。62句にのぼっている。はじめて登場した俳人には、加倉井秋を、佐野まもる、大谷碧雲居、
八木林之助、久保田月鈴子、堀井春一郎、本郷昭雄、三浦秋葉、堀内薫、川島彷徨子、しょうり大、
長谷川久々子、千代田葛彦、岩村蓬がある。「現代俳句抄」へと整理していきたい。

曼珠沙華描かばや金泥もて繊く       長谷川素逝

新秋や女体かがやき夢了る         金子兜太

露霜の紅さして母遺りけり         岸田稚魚

むらさきの褪せしがごとく昼寝ざめ     加倉井秋を

雪渓に山鳥花の如く死す          野見山朱鳥

夜の芍薬男ばかりが衰えて         鈴木六林男

級長のまんと紅梅にひつかかる       阿部完市

美しき黴や月さしゐたりけり        加藤楸邨

枯を行く覆面の馬美貌なり         山口誓子

虹消えゆくふかきこころをつくすとも    佐野まもる

隙間風薔薇色をこそ帯ぶべけれ       相生垣瓜人

母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき 三橋敏雄

門口を山水走る菖蒲かな          富安風生

串の鮠(はや)枯るる光の十三夜      大谷碧雲居

黒帯の柔道に惚れ二月尽く         島津亮

芝焼いて曇日(どんじつ)紅き火に仕ふ   野澤節子

八十八夜の山より椿かつぎ出す       青柳志解樹

星金銀蝶多かりし日の空に         馬場駿吉

電柱の電線あはれ曼珠沙華         八木林之助

子のうたを父が濁しぬ冬霞         原裕

草中に裂帛の百合子のめざめ        友岡子郷

母訪ふや上を袖行く枯葎          永田耕衣

石の声みずの声して山ざくら        久保田月鈴子

水よりも淡きゆふべよ夏桔梗        上村占魚

しろがねのやがてむらさき春の暮      草間時彦

兜虫汨羅(べきら)のほとりにて消ゆる   堀井春一郎

氷上を遊女のあゆむ二日かな        秋元不死男

黄道を先行くこころ鷦鷯(みそさざい)   和田五朗

ころもがへしほのごときかなしみに     本郷昭雄

白粥の日数のなかの寒ざくら        鷲谷七菜子

蜀葵(からあおい)母があの世へ懸けしもの 宮入聖

洗ひ髪身におぼえなき光ばかり       八田木枯

芥子咲かせをりほのぼのと老兆す      松村蒼石

男らや真冬の琴をかき鳴らし        飯島晴子

絢爛の重みをつねに雉子翔べり       三浦秋葉

蜻蛉(せいれい)の紅の凛漓を指はさむ   篠田悌二郎 (りんり 凛=引き締まった 漓=薄い)

北風や涙がつくる燭の虹          高柳重信

雲雀落ち天に金粉残りけり         平井照敏

男湯に噴水があり男の子欲し        堀内薫

まうへ舞ふ蝶のまうへは唯紺青       川島彷徨子

憶良らの近江は山かせりなずな       しょうり大

八十八夜の山より椿かつぎ出す       青柳志解樹

繭の中もつめたき秋の夜もあらむ      木下夕爾

天を発つはじめの雪の群必死        大原テルカズ

模糊として男旅する薄氷          長谷川久々子

百日紅真昼の砂の臈(ろう)たけて     加藤かけい

まなぶたの一重と二重若菜籠        磯貝碧蹄館

枯野ゆく鳴りを鎮めし楽器箱        平畑静塔

宝石にまぎれ何時より花の種        有馬朗人

てのひらにくれなゐの塵実朝忌       永島靖子

春寒や錆のもどりし銀蒔絵         上村占魚

白木連(はくれん)の天のきぬずれ聴えけり 千代田葛彦

雷夜読む洋書大きな花文字より       田川飛旅子

市子らに月の朧と日の爛(ただ)れ     岩村蓬

麦秋の人去るに足る光かな         飴山實

今生のこれも夢なる百合の風        石塚友二

凍蝶の金箔褪せし日の光          加藤三七子

勿忘草わかものの墓標ばかり        石田波郷

畦を違へて虹の根に行けざりし       鷹羽狩行

仏足に一本の曼珠沙華を横たふ       橋本多佳子

2012.12.24.

 今回は『俳句年鑑2013』(角川)より。「これ一冊で、俳壇がまるごとわかる!」とキャッ
チコピーがかかれている。
 引用は今回は少数にとどめておく。
 すでに別の所から「現代俳句抄」に引用しているものに、

 秋風が芯まで染みた帰ろうか     田島風亜

がある。
 今回の掲載句を書く。

 いつまでも花のうしろにある日かな  大峯あきら
 いくさにもつなみにも生き夕端居   小原啄葉
 春泥のわらべのかたち掻き抱く
 初蝶やこの世は常に生まれたて    高野ムツオ
 かりがねの空を支える首力
 漂泊は鶴の骸を見るためか      渡辺誠一郎
 慟哭の一幹として裸木は
 海底やゆらぐ千本山櫻        黒田杏子
 八方の原子爐尊(たふと)四方拜   高橋睦郎
 子供らとしやがんで蟻の国に入る   仙田洋子 
 みな過去に呑み込まれゆく楸邨忌   矢島渚男
 夕空は宇宙の麓春祭         小川軽舟
 もう去らぬ女となりて葱刻む     高柳克弘 
 芋虫の神は芋虫空しづか       有澤榠(りん) <カリン>

2012.12.23.

 『戦後生まれの俳人たち』(宇多喜代子、毎日新聞社)が、書店の本棚で待っていた。直ちに購入し
た。
 完全な人間がいないように、完全な本はない。「流派党派内でのみ読まれたり」することから外にで
で、「新鮮な句との出会い」をと書かれているが、人選、選句は難しい。ぼくの「現代俳句抄」もしか
り、遺漏は多い。偶然に出会った句の中から、ぼくの感受性によりかかって「抄」の作業をおこなって
いるだけだ。俳句の世界はもっと広い。
 
 対象が広がりすぎたせいか、本自体が持つ磁力というか力強さには欠けている。漠然と「なべて世は
こともなし」という文句が浮かんできた。あくまでも全般的に言うとであるが「戦後生まれの俳人たち」
の力が、感じられない。勿論、俳句は力だけを求めるものではない。「なべて世はこともなし。」は、
ロバート・ブラウニングの詩の文脈では平穏をもたらす神をたたえるものであるが、ここではぼくは「何
事もない」「何事も起こっていない」という意味で使っている。例外も多々あり、あくまでも全体的な
印象であり、強調しすぎることはないが、素直な感想として書いておく。(当然自分を棚にあげて書い
ていることになっている)

 宇多も「現今、俳句がエンターテインメントの領域で華やいでいること」への懸念に触れているが、
それ自体が問題であるのでなく、多様性という豊穣が、エンターテインメントの領域の中で希釈され失
われ、俳句が痩せていくことに対する懸念である。

 いつか「気になる俳句」で触れた小澤實さんの発言を再録しておく。小澤さんは自己を「前衛的立場
を愛おしむ伝統派」ということになろうかと言っておられる。「一見隆盛を極める現在の俳句界ですが、
昭和期の遺産にもたれかかり、食い潰しているといった印象を否定できません。大袈裟にいえば、表現
の革新を目指すといったような気概に欠ける気がしてなりません。」(小澤實編『おとなの愉しみ 俳
句入門』)

 あんまり俳句論を振りかざすのは、性にあっていないので、やめておく。

 以下「気になる俳句」として引用する。「現代俳句抄」にすでに引用している句は言及しない。


 子のことばあふれて春の川となり  明隅礼子(「現代俳句抄」にすでに引用している句あり)

 寂しいと言い私を蔦にせよ     神野紗希(「現代俳句抄」にすでに引用している句あり)

 春暁の山は創世記の匂い      渡辺和弘

 にはとりの血は虎杖(いたどり)に飛びしまま 中原道夫 
                      (「現代俳句抄」にすでに引用している句あり)

 はるかなる空よりしぐれきたりけり 長谷川櫂(「現代俳句抄」にすでに引用している句あり)

 去年今年月浴びて山睦み合ふ    井上康明

 渦巻くはさみし栄螺も星雲も    奥坂まや(「現代俳句抄」にすでに引用している句あり)

 鉞(まさかり)のごとき詩語欲し冬銀河 小島健(「現代俳句抄」にすでに引用している句あり)

 はつなつの櫂と思ひし腕(かいな)かな 田中亜美

 ポストまで歩けば二分走れば春   鎌倉佐弓(「現代俳句抄」にすでに引用している句あり)

 老人はとしとりやすし小鳥来る   橋本榮治 

 大川の真ん中瞑し翁の忌      橋本榮治 

 星々の軋み大原雑魚寝かな     小林貴子

 十一面みな秋風を聞くまぶた    藤田直子

 神島へ胸をひらきて鷹発てり    藤田直子 

 頼朝の虚子の鎌倉?時雨   (蝉) 星野高士(「現代俳句抄」にすでに引用している句あり)

 海に出てしばらく浮かぶ春の川   大屋達治(「現代俳句抄」にすでに引用している句あり)

 絨毯の一角獣を蹂躙す       有澤榠(りん) <カリン>

 義士の日や何に触れても静電気   福永法弘

 夭折はすでに叶はず梨の花     福永法弘

 冬銀河かくもしづかに子の宿る   仙田洋子(「現代俳句抄」にすでに引用している句あり)
 
 鳥雲に入るや荒ぶる魂となり    仙田洋子

 生きている指を伸べあふ春火鉢   西山睦

 少女みな紺の水着を絞りけり    佐藤文香

 正客に山を据ゑたり武者飾     野中亮介

 困るほど筍もらふ困りをり     加藤かな文(「現代俳句抄」にすでに引用している句あり)

2012.12.17.
 藤木清子(生没不明 昭和六年から十五年まで句を発表)についての本『ひとときの光芒 藤木清子
全句集』(宇多喜代子編著、沖積舎)を入手したので、藤木清子をあつかう。無名に近い俳人をひろい
あげた宇多喜代子の手柄ともいえる本である。埋もれた俳人は、けっこう多いはずである。というより
運のいい一部の俳人をのぞき、俳句の詩型の短さ、近づき易さ、その無名性から、俳人はもともと埋も
れゆく存在であるともいえるのである。
 静岡県立図書館にリクエストをして、購入が決まった。富士宮市立図書館は予算的に購入が無理であ
ろうし、より利用者が多くみこまれると思っての県立へのリクエストであった。
 すでに、『女流俳句集成』、『反骨無頼の俳人たち』、『鑑賞 女性俳句の世界』を使い「現代俳句抄」
には藤木清子の項目をもうけていた。その場合に『藤木清子全句集』の情報記事から、
 「逝くものは逝きて巨きな世がのこる」
の句は追加していた。
 評論的なことは書かない。「気になる俳句」を追加する。

  藤木清子 追加句

しんじつは寂し林檎はうつくしく    (『藤木清子全句集』)
戦争と女はべつでありたくなし
運命にもたれをんなのうつくしき

2012.12.15.
 最近、「俳句百句選」関係を更新することが多い。それとは別に、本では『虚子百句』(富士見書房) 
だとか『山口誓子の一〇〇句を読む』など(飯塚書店)百句に関わる本にせっすることも多い。また、
『上田五千石の時空』(北溟社)といった五千石論にも「上田五千石百句選」がついていたり、百句選
という文字に出会うことが多い。
 今のところ、虚子百句、山口誓子百句、五千石百句をこころみるつもりはないが、そういうものを読
んでいく中で、「現代俳句抄」に追加してもいいなと思ったりすることはある。
 そこで、山口誓子、上田五千石の句集を読み直し、「現代俳句抄」に追加することにした。

    山口誓子句への追加

紅くあかく海のほとりに梅を干す    (『激浪』)
われありと思ふ鵙啼き過ぐるたび    (『晩刻』)
白鷺の長き飛翔をみな終る       (『青女』)

    上田五千石句への追加
       
啓蟄に引く虫偏の字のゐるはゐるは  (『風景』)
家を出てすぐに旅人法師蝉      (『琥珀』)
友として妻ゐる返り花ざかり
梟や出てはもどれぬ夢の村
通らせてもらふ小春の菊畠
初蝶を見し目に何も加へざる
魚族みなまなこ険しき四月かな    (『天路』)

2012.12.13.
 今回は、「俳句百句選」に上杉省和さんの「俳句五十句」を掲載する。「○○選」の多様性の一つの
例として上杉さんの了承を得て掲載する。

 上杉省和さんは、静岡大学の元同僚で、霧ヵ城の俳号を持つ日本文学研究者、京都ノートルダム女子
大学名誉教授。参考教材としてこの「俳句五十句」を作成されました。ぼくの句がのっているので自己
宣伝ともいえますが、読んで欲しいのは偽らざるところで、学生のアンケートでは、結構好評であると
のことです。

 なお、五十句のうち、四十句はすでにぼくの「現代俳句抄」などに掲載されている。
残りの十句は以下の通りである。上杉さんらしい選句となっている。


命継ぐ深息しては去年今年         石田波郷
虹消えてしまえば還る人妻に        三橋鷹女
大根を煮た夕飯の子供達の中にをる     河東碧梧桐
無産階級の山茶花べたべたに咲くに任す   中塚一碧樓
凧の一念空あるゆえに空へゆく       荻原井泉水
湯の少女臍すこやかに山ざくら       飯田龍太
とほのくは愛のみならず夕螢        鈴木真砂女
嫁ぐとは親捨つことか雁渡る        中村汀女
花吹雪観る土中の父も身を起こし      西川徹郎
初夏やひらきかげんの母の膝        松葉久美子

 **************
 俳句五十句   上杉省和 選
 **************

鶏頭の十四五本もありぬべし         正岡子規
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな         正岡子規
金亀子(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな 高濱虚子
凍蝶の己が魂追うて飛ぶ                  高濱虚子
をりとりてはらりとおもきすすきかな    飯田蛇笏
冬蜂の死に所なく歩きけり         村上鬼城
秋風や屠(ほふ)られに行く牛の尻     夏目漱石
木がらしや目刺にのこる海の色       芥川龍之介
わが胸にすむ人ひとり冬の梅        久保田万太郎
学問のさびしさに堪へ炭をつぐ       山口誓子
蟻よバラを登りつめても陽が遠い      篠原鳳作
ちるさくら海あをければ海へちる      高屋窓秋
命継ぐ深息しては去年今年         石田波郷
寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃      加藤楸邨
雪はげし抱かれて息のつまりしこと     橋本多佳子
足袋つぐやノラともならず教師妻      杉田久女
虹消えてしまえば還る人妻に        三橋鷹女
大根を煮た夕飯の子供達の中にをる     河東碧梧桐
無産階級の山茶花べたべたに咲くに任す   中塚一碧樓
凧の一念空あるゆえに空へゆく       荻原井泉水
けふもいちにち誰も来なかつたほうたる   山頭火
せきをしてもひとり            尾崎放哉
ゆく船へ蟹はかひなき手をあぐる      富澤赤黄男
「月光」旅館/開けても開けてもドアがある 高柳重信
憲兵の前で滑つて転んぢやつた       渡邊白泉
広島や卵食ふ時口ひらく          西東三鬼
おそるべき君等の乳房夏来(きた)る    西東三鬼
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ    金子兜太
子を殴(う)ちしながき一瞬天の蝉     秋元不死男  
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る       能村登四郎
野に住めば流人のおもひ初つばめ      飯田龍太
湯の少女臍すこやかに山ざくら       飯田龍太
妻がゐて子がゐて孤独いわし雲       安住敦
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり       森澄雄
萬緑や死は一弾を以て足る         上田五千石
くさぐさの呼び交わしつつ枯れてゆく    相生垣瓜人
とほのくは愛のみならず夕螢        鈴木真砂女
愛されずして沖遠く泳ぐなり        藤田湘子
嫁ぐとは親捨つことか雁渡る        中村汀女
ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき     桂信子
新宿ははるかなる墓碑鳥渡る        福永耕二
降る雪を仰げば昇天する如し        夏石番矢  
花吹雪観る土中の父も身を起こし      西川徹郎
背泳ぎにしんとながるる鷹一つ       矢島渚男
三月の甘納豆のうふふふふ         坪内稔典
君はいま大粒の雹、君を抱く        坪内稔典
帰るのはそこ晩秋の大きな木        坪内稔典
自転車に春の空気を入れてみる       佐々木敏光
初夏やひらきかげんの母の膝        松葉久美子
ふはふはのふくろうの子のふかれをり    小澤實

2012.12.5.
 山本健吉選、俳句百句選を引用する。『現代俳句の世界』(集英社、1998)「二十世紀名句辞典」
からで、大岡信と同じ出典となる。
 ただ、あくまでも商業用ではなく、個人の勉強用として使っていただきたい。俳句の基礎をかためる
勉強というか基礎作業に使ってもらいたい。ぼくも自分の勉強のためにつくっている。
 ところで、山本健吉の俳句百句選は、大岡信の百句選にくらべると、ぼくの選とは離れる率が高い。
 ぼくの「現代俳句抄」に載せていなかった句は、大岡百選では5句だったが、山本選では33句にな
る。「現代俳句抄」にない句は、大岡選では5パーセント、山本選では33パーセントである。
 時代の好みもあるかもしてない。山本にくらべると、大岡のほうがぼくの年齢にグ−ンと近い。
また、山本選は、詩人の一行や作家の一節も採用していて、その点はおもしろいが、一部の俳人では視
点が違うのか、こんな句を選んでいて感覚が違うなとついつい思ってしまったりする。
 いずれにしても、俳句発展のための引用であると思っていただきたい。

******百選の中から、「現代俳句抄」に追加する句、33句******

五月雨や棹もて鯰うつといふ         泉鏡花
慈姑(くわゐ)の子の藍いろあたま哀しも   室生犀星
ほうたるほうたるなんでもないよ       種田山頭火
妻よ子よ春日の杜(もり)の冬日和      瀧井耕作
手鏡にあふれんばかり夏のひげ        日野草城
櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる      梶井基次郎
落葉やんで鶏の眼に海うつるらし       三好達治
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた    安西冬衛
渡し場に/しやがむ女の/淋しさ       西脇順三郎
牡丹打つ雨の力を見てゐたり         高濱年尾
こまごまと木犀散らす金十字         永井龍男
今朝は初雪ああ誰もゐないのだ        太宰治
蓮の実の飛ぶ静かなる思惟を見し       中島月笠
月あらば満目秋草の野なるべし        福田蓼汀
水入れて壺に音する秋の暮          細見綾子
蚊や蚤や人はすなはちはりねづみ       阿部宵人
寒鯔を釣る夢もちて人の中          橋關ホ(かんせき、かんは間の旧字)
紅葉の色きはまりて風を絶つ         中川宋淵
眼路(めじ)といふものの末なる秋の暮    斎藤玄
ぬばたまの黒飴さはに良寛忌         能村登四郎
すぐ覚めし昼寝の夢に鯉の髭         森澄雄 
看取り寒し笑ひは胸にきてとまる       石原八束
朽(くだ)ら野や妙竹林話水手書       加藤郁乎
遊び子のこゑは漣はるのくれ         林翔
病む母のひらがなことば露の音        成田千空
冬の夜や金柑を煮る白砂糖          草間時彦
虹なにかしきりにこぼす海の上        鷹羽守行
春の野に出でて摘むてふ言葉あり       後藤比奈夫
新巻の塩のこぼれし賑わひや         角川照子
日当れば湧きて浮寝の鳥の数         鷲谷七菜子
枯野ゆく葬(はふ)りの使者は二人連れ    福田甲子雄
夜の眼のしばたたくゆゑ小雪くる       川崎展宏
眼に溜めて風の音見ゆこぼれ萩        福永耕二

**************
  俳句百選 山本健吉
**************

去年今年貫く棒の如きもの          高浜虚子

日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり        松瀬青々

五月雨や棹もて鯰うつといふ         泉鏡花

物干に富士やをがまむ北斎忌         永井荷風

水洟や鼻の先だけ暮れ残る          芥川龍之介

鷹のつらきびしく老いて哀れなり       村上鬼城

雪散るや千曲の川音(かわと)立ち来り    臼田亞浪  

ひとすぢの秋風なりし蚊遣香         渡辺水巴

をりとりてはらりとおもきすすきかな     飯田蛇笏

秋蝶の驚きやすきつばさかな         原石鼎

鳥とぶや深雪がかくす飛騨の国        前田普羅 (健吉は「鳥落ちず」を採用)

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり      久保田万太郎

慈姑(くわゐ)の子の藍いろあたま哀しも   室生犀星

ほうたるほうたるなんでもないよ       種田山頭火

生涯の影ある秋の大地かな          長谷川かな女

めまぐるしきこそ初蝶といふべしや      阿部みどり女

谺して山ほととぎすほしいまま        杉田久女

化粧(けは)ふれば女は湯ざめ知らぬなり   竹下しづの女

妻よ子よ春日の杜(もり)の冬日和      瀧井耕作

手鏡にあふれんばかり夏のひげ        日野草城

冬菊のまとふはおのがひかりのみ       水原秋桜子
   
葛城の山懐に寝釈迦かな           阿波野青畝

つきぬけて天上の紺曼珠沙華         山口誓子

方丈の大庇(おおひさし)より春の蝶     高野素十

こときれてなほ邯鄲のうすみどり       富安風生

祖母山も傾山(かたむくさん)も夕立かな   山口青邨

蟻台上に飢ゑて月高し            横光利一

櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる      梶井基次郎

落葉やんで鶏の眼に海うつるらし       三好達治

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた    安西冬衛

渡し場に/しやがむ女の/淋しさ       西脇順三郎    

花杏(あんず)受胎告知の翅音びび      川端茅舎

枯菊と言捨てんには情あり          松本たかし

あなたなる夜雨の葛のあなたかな       芝不器男

瀧の上に水現れて落ちにけり         後藤夜半

雪達磨とけゆく魂(たま)のなかりけり    西島麦南

牡丹打つ雨の力を見てゐたり         高濱年尾

あはれ子の夜寒の床の引けばよる       中村汀女

美しき帰雁の空も束の間に          星野立子

真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道       中村草田男   

淡墨桜風たてば白湧きいづる         大野林火

こまごまと木犀散らす金十字         永井龍男

今朝は初雪ああ誰もゐないのだ        太宰治

春来る童子の群れて来る如く         相生垣瓜人

蓮の実の飛ぶ静かなる思惟を見し       中島月笠

いちまいの朴の落葉のありしあと       長谷川素逝

にぎりしめにぎりしめし掌に何もなき     篠原鳳作

頭(づ)の中で白い夏野となつてゐる     高屋窓秋

爛々と虎の眼に降る落葉           富澤赤黄男

力竭(つく)して山越えし夢露か霜か     石田波郷

日本語をはなれし蝶のハヒフヘホ       加藤楸邨

葉桜の中の無数の空さわぐ          篠原梵

吸殻を炎天の影の手が拾ふ          秋元不死男

座る余地まだ涅槃図の中にあり        平畑静塔 
 
大旱の赤牛となり声となる          西東三鬼
 
桐一葉落ちて心に横たはる          渡邊白泉
 
十方にこがらし女身錐揉みに         三橋鷹女

きしきしと帯を纏(ま)きをり枯るる中    橋本多佳子

月あらば満目秋草の野なるべし        福田蓼汀

鶏頭を抜き捨てしより秋の暮         安住敦

夢の世に葱を作りて寂しさよ         永田耕衣

死にたれば人来て大根煮きはじむ       下村槐太  

春の雪青菜をゆでてゐたる間も        細見綾子 

水入れて壺に音する秋の暮          細見綾子

春落葉いづれは帰る天の奧          野見山朱鳥

燃ゆべきは燃え果てにけり地に秋風      下村ひろし

裏がへる亀思ふべし鳴けるなり        石川桂郎

蚊や蚤や人はすなはちはりねづみ       阿部宵人

寒鯔を釣る夢もちて人の中          橋關ホ(かんせき、かんは間の旧字)

紅葉の色きはまりて風を絶つ         中川宋淵

眼路(めじ)といふものの末なる秋の暮    斎藤玄

そよぎあふ草の秀たのし秋の雲        木下夕爾

ぬばたまの黒飴さはに良寛忌         能村登四郎

鈴に入る玉こそよけれ春のくれ        三橋敏雄

木曽のなあ木曽の炭馬並び糞(ま)る     金子兜太

身をそらす虹の/絶巓/処刑台        高柳重信

紫雲英燃ゆ子捨川とて村外れ         澤木欣一

春曙何すべくして目覚めけむ         野澤節子

月の人のひとりとならむ車椅子        角川源義

すぐ覚めし昼寝の夢に鯉の髭         森澄雄 

いきいきと三月生る雲の奧          飯田龍太

看取り寒し笑ひは胸にきてとまる       石原八束

大雷雨鬱王と会うあさの夢          赤尾兜子

貌が棲む芒の中の捨て鏡           中村苑子

朽(くだ)ら野や妙竹林話水手書       加藤郁乎

遊び子のこゑは漣はるのくれ         林翔

わが山河いまひたすらに枯れゆくか      相馬遷子

筍や雨粒ひとつふたつ百           藤田湘子

病む母のひらがなことば露の音        成田千空

冬の夜や金柑を煮る白砂糖          草間時彦

虹なにかしきりにこぼす海の上        鷹羽守行

春の野に出でて摘むてふ言葉あり       後藤比奈夫

新巻の塩のこぼれし賑わひや         角川照子
 
日当れば湧きて浮寝の鳥の数         鷲谷七菜子

枯野ゆく葬(はふ)りの使者は二人連れ    福田甲子雄

桜咲く磯長(しなが)の国の浅き闇      原裕

夜の眼のしばたたくゆゑ小雪くる       川崎展宏

落椿とはとつぜんに華やげる         稲畑汀子

いにしへの花の奈落の中に座す        角川春樹

2012.11.30.
 先日の「平成の名句600句」を素材としてあつかった選に続いて、その補遺をかねて「現代詩手帖」
2010年6月号、高柳克弘「ゼロ年代の俳句100選」に関わる選をすることとする。句の選択を広げると
いう思いから、「俳句空間 豈weekly」2010年6月6日、高山れおな「「ゼロ年代の俳句100選」を
チューンナップする」も同時に含めて選ばせてもらう。

******「現代俳句抄」に追加する18句******

目覚めるといつも私が居て遺憾    池田澄子
雪まみれにもなる笑つてくれるなら  櫂未知子
牛乳飲む片手は腰に日本人      山本紫黄
その奥に鯨の心臓春の闇       高野ムツオ
伊予にゐてがばと起きたる虚子忌かな 藤田湘子
年寄は風邪引き易し引けば死す    草間時彦
歳月や地獄も霞む硫黄島       川崎展宏
酔ひし父引きずる運動会前夜     今井聖 
こののちは秋風となり阿修羅吹かむ  大石悦子
ことごとくやさしくなりて枯れにけり 石田郷子
櫻見にひるから走る夜汽車かな    八田木枯
玉葱を切っても切っても青い鳥    小野裕三
亡き人の香水使ふたびに減る     岩田由美
どの道も家路とおもふげんげかな   田中裕明
ゆるむことなき秋晴の一日かな    深見けん二
毛布からのぞくと雨の日曜日     加藤かな文
全人類を罵倒し赤き毛皮行く     柴田千晶
枯蟷螂人間をなつかしく見る     村上鞆彦

******本文22句*************

目覚めるといつも私が居て遺憾    池田澄子
雪まみれにもなる笑つてくれるなら  櫂未知子
牛乳飲む片手は腰に日本人      山本紫黄
その奥に鯨の心臓春の闇       高野ムツオ
死ぬ朝は野にあかがねの鐘鳴らむ   藤田湘子
伊予にゐてがばと起きたる虚子忌かな
初山河一句を以つて打ち開く     長谷川櫂 
年寄は風邪引き易し引けば死す    草間時彦
歳月や地獄も霞む硫黄島       川崎展宏
こののちは秋風となり阿修羅吹かむ  大石悦子
酔ひし父引きずる運動会前夜     今井聖
ことごとくやさしくなりて枯れにけり 石田郷子
あぢさゐはすべて残像ではないか   山口優夢
満月や大人になってもついてくる   辻征夫
櫻見にひるから走る夜汽車かな    八田木枯
玉葱を切っても切っても青い鳥    小野裕三
亡き人の香水使ふたびに減る     岩田由美
どの道も家路とおもふげんげかな   田中裕明
ゆるむことなき秋晴の一日かな    深見けん二
毛布からのぞくと雨の日曜日     加藤かな文
全人類を罵倒し赤き毛皮行く     柴田千晶
枯蟷螂人間をなつかしく見る     村上鞆彦 

2012.11.29.

 十数年ぶりの「俳句百句選」の更新を続ける。
 雑誌『俳句』の「平成の名句600句」を素材にして、その中から百句あまりを選んでみる。選であ
る以上恣意的な面があることは避けられない。もともとの「600句」が選者の選択など恣意的であり、
その上に乗っかかったぼくの選はぼくの気質とあいまって恣意度はさらに増すはずである。絶対的なも
のは、死以外はありえないというのが、ぼくの持論だが、そんな論をわざわざ持ち出すこともないだろ
う。
 選んだ句はぼくの「現代俳句抄」にすでに引用されている句が多い。110句のうち82句がすでに
「現代俳句抄」に入っている。また、ぼくが「鷹」にいたせいか、贔屓したつもりはないが、気質的に
そうなるのか、結果的には「鷹」関係者の句が結構多くなっている。御大の藤田湘子、そして飯島晴子、
去った人、残った人をまとめていえば、ぼくの記憶では、宮坂静生、辻桃子、小澤實、奧坂まや、小川
軽舟、高柳克弘、などである。

 ***「平成の名句600句」より「現代俳句抄」にはじめて引用する句 28句***

枯草や住居無くんば命熱し      永田耕衣 
踏切のスベリヒユまで歩かれへん         
綿虫にあるかもしれぬ心かな     川崎展宏
淡海といふ大いなる雪間あり     長谷川櫂
人が人を愛したりして青菜に虫    池田澄子
秋風が芯まで染みた帰ろうか     田島風亜
是々非々もなき氷旗かかげある    小澤實
投げ出して足遠くある暮春かな    村上鞆彦
肘あげて能面つけぬ秋の風      小川軽舟
死ぬときは箸置くやうに草の花
かたまりて吹雪の中をゆく吹雪    辻桃子
口あけて全国の河馬桜咲く      坪内稔典
福助のお辞儀は永遠に雪がふる    鳥居真里子 
一瞬にしてみな遺品雲の峰      櫂未知子
やがてわが真中を通る雪解川     正木ゆう子
いま遠き星の爆発しづり雪
またもとのおのれにもどり夕焼中   飯田龍太
人類に空爆のある雑煮かな      関悦史
みんなみは歌湧くところ燕      奧坂まや
わが思ふ限り夫在り魂祭       西村和子
蝶われをばけものと見て過ぎゆけり  宗田安正
初電話かけてもみたし仏達      星野椿
山に金太郎野に金次郎予は昼寝    三橋敏雄
一山の花の散り込む谷と聞く     稲畑汀子
鬼哭とは人が泣くこと夜の梅     高野ムツオ
ひそかなるものに花野と信仰と    岩岡中正
水温む鯨が海を選んだ日       土肥あき子
気絶して千年氷る鯨かな       冨田拓也


 ************************
 雑誌『俳句』の「平成の名句600句」より110句
 ************************

白梅や天没地没虚空没        永田耕衣
枯草や住居無くんば命熱し
踏切のスベリヒユまで歩かれへん
地の底の燃ゆるを思へ去年今年    桂信子
忘年や身ほとりのものすべて塵
たてよこに富士伸びてゐる夏野かな
再びは生れ来ぬ世か冬銀河      細見綾子
百千鳥雄蘂雌蘂を囃すなり      飯田龍太
またもとのおのれにもどり夕焼中
涼風の一塊として男来る      
石段のはじめは地べた秋祭      三橋敏雄
当日集合全国戦没者之生霊
山に金太郎野に金次郎予は昼寝
夜寒さの松江は橋の美しき      森澄雄
妻がゐて夜長を言へりさう思ふ
よく眠る夢の枯野が青むまで     金子兜太
おおかみに螢が一つ付いていた
言霊の脊梁山脈のさくら
無方無時無距離砂漠の夜が明けて   津田清子
生前も死後も泉に水飲みに      中村苑子
非常口に緑の男いつも逃げ      田川飛旅子
霜履きし箒しばらくして倒る     能村登四郎
天山の夕空を見ず鷹老いぬ      藤田湘子
あめんぼと雨とあめんぼと雨
滅びても光年を燃ゆ春の星
やませ来るいたちのやうにしなやかに 佐藤鬼房
またの世は旅の花火師命懸
銀河系のとある酒場のヒヤシンス   橋關ホ(かんせき、かんは間の旧字)
西日さしそこ動かせぬものばかり   波多野爽波
チューリツプ花びら外れかけてをり
花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく    眞鍋呉夫
初夢のなかをどんなに走つたやら   飯島晴子
さつきから夕立の端にゐるらしき
葛の花来るなと言つたではないか
寒晴やあはれ舞妓の背の高き
白髪の乾く早さよ小鳥来る
十薬の蕊高くわが荒野なり
綿虫にあるかもしれぬ心かな     川崎展宏
炎天へ打つて出るべく茶漬飯
初夢のいきなり太き蝶の腹      宇佐美魚目 
虫の夜の星空に浮く地球かな     大峯あきら
日輪の燃ゆる音ある蕨かな
一枚の障子明りに技芸天       稲畑汀子
一山の花の散り込む谷と聞く
倒・裂・破・崩・礫の街寒雀 (阪神大震災)友岡子郷
はらわたの熱きを恃(たの)み鳥渡る 宮坂静生
戦争がはじまる野菊たちの前     矢島渚男
船のやうに年逝く人をこぼしつつ
遠くまで行く秋風とすこし行く
寒暁や神の一撃もて明くる (神戸地震)和田悟朗
初電話かけてもみたし仏達      星野椿
蝶われをばけものと見て過ぎゆけり  宗田安正
口あけて全国の河馬桜咲く      坪内稔典
たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ
淡海といふ大いなる雪間あり     長谷川櫂
蝉時雨もはや戦前かも知れぬ     攝津幸彦
国家よりワタクシ大事さくらんぼ
あらそはぬ種族ほろびぬ大枯野    田中裕明
空へゆく階段のなし稲の花
神護景雲元年写経生昼寝       小澤實
是々非々もなき氷旗かかげある
貧乏に匂ひありけり立葵
人が人を愛したりして青菜に虫    池田澄子
人類の旬の土偶のおっぱいよ
前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル
まだもののかたちに雪の積もりをり  片山由美子
ひそかなるものに花野と信仰と    岩岡中正
車にも仰臥という死春の月      高野ムツオ
鬼哭とは人が泣くこと夜の梅
健啖のせつなき子規の忌なりけり   岸本尚毅
また一つ風の中より除夜の鐘
手をつけて海のつめたき桜かな
墓石に映つてゐるは夏蜜柑
飛込の途中たましひ遅れけり     中原道夫
狼は亡び木霊は存ふる        三村純也
生涯のいま午後何時鰯雲       行方克巳
かたまりて吹雪の中をゆく吹雪    辻桃子
わが思ふ限り夫在り魂祭       西村和子
水の地球すこしはなれて春の月    正木ゆう子
地下鉄にかすかな峠ありて夏至
やがてわが真中を通る雪解川
しづかなる水は沈みて夏の暮
いま遠き星の爆発しづり雪
地下街の列柱五月来たりけり     奧坂まや
みんなみは歌湧くところ燕
坂道の上はかげろふみんな居る
来ることの嬉しき燕きたりけり    石田郷子
火事かしらあそこも地獄なのかしら  櫂未知子
春は曙そろそろ帰つてくれないか
佐渡ヶ島ほどに布団を離しけり
一瞬にしてみな遺品雲の峰
いきいきと死んでゐるなり水中花
もりソバのおつゆが足りぬ高濱家   筑紫磐井
来たことも見たこともなき宇都宮
加速するものものこそ光れ初御空   五島高資
泥に降る雪美しや泥になる      小川軽舟
肘あげて能面つけぬ秋の風
死ぬときは箸置くやうに草の花
福助のお辞儀は永遠に雪がふる    鳥居真里子 
ことごとく未踏なりけり冬の星    高柳克弘
麿、変?              高山れおな 
秋風が芯まで染みた帰ろうか     田島風亜
寂しいと言い私を蔦にせよ      神野紗希
投げ出して足遠くある暮春かな    村上鞆彦
九官鳥同士は無口うららけし     望月周
心臓はひかりを知らず雪解川     山口優夢   
人類に空爆のある雑煮かな      関悦史
水温む鯨が海を選んだ日       土肥あき子
気絶して千年氷る鯨かな       冨田拓也

 ************
2012.11.27.

 本当に久しぶり「俳句百句選」を更新した。
 『現代俳句の世界』(集英社、1998)「二十世紀名句辞典」の大岡信からはじめることにした。
「二十世紀」とあるように、これは一世代前の名句選ということになる。ぼくが朝日新聞の大岡信の
「折々のうた」の影響もあり、短歌をはじめ、そして俳句に移った時代には新しい感覚の選でもあった
のである。当時は初めてのフランス生活から帰って来た時で、日本文化の重要性をひしひしと感じてい
た。短歌からはじめたが、やがて簡潔で力強い俳句に移った。小説を書く思いもけっこう強かったが、
いつかいつかと思っている内に時代もかわり、もっぱら俳句と言う事になっている。
 大岡信の百句選であるが、句の作者は中勘助を除きすべてぼくの「現代俳句抄」に登場する。選はそ
の時の心理状況にも大いに影響されたりする「水物」でもある。飯田龍太も選をあやまったと思い見破
られないようにその句を援護する心理のことを書いている。それぞれの気質もあり、百パーセント大岡
信に同意するわけではないが、百選の一例として引用しておく。

 まず、ぼくの「現代俳句抄」で取り上げていない句を、そして「大岡信百句選」全句を引用する。

******「現代俳句抄」への追加句*********

 渡辺水巴
薫風や蚕(こ)は吐く糸にまみれつつ

 中勘助
独り碁や笹に粉雪つもる日に

 阿波野青畝
畑打つや土よろこんでくだけけり

 岸田稚魚
屍の出づるとき爽やかなこゑ通る

 澤木欣一  
水塩の点滴天地力合せ


**************
  俳句百選 大岡信
**************

 松瀬青々
日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり

 高浜虚子
流れ行く大根の葉の早さかな
彼一語我一語秋深みかも
去年今年貫く棒の如きもの

 臼田亞浪  
郭公や何処までゆかば人に逢はむ

 種田山頭火
石に腰を、墓であつたか

 渡辺水巴
薫風や蚕(こ)は吐く糸にまみれつつ

 前田普羅  
雪解川名山けづる響かな 
奧白根かの世の雪をかがやかす

 富安風生
みちのくの伊達の郡の春田かな
よろこべばしきりに落つる木の実かな

 飯田蛇笏
たましひのたとへば秋のほたる哉
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 
をりとりてはらりとおもきすすきかな

 中勘助
独り碁や笹に粉雪つもる日に

 原石鼎
秋蝶の驚きやすきつばさかな
春の水岸へ岸へと夕かな

 竹下しづの女
化粧(けは)ふれば女は湯ざめ知らぬなり

 松村蒼石 
たわたわと薄氷に乗る鴨の脚 

 林原耒井(らいせい)
片隅で椿が梅を感じてゐる

 室生犀星
ゆきふるといひしばかりの人しづか
       

 久保田万太郎
竹馬やいろはにほへとちりぢりに
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

 杉田久女
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ
朝顔や濁り初めたる市の空
 
 山口青邨
祖母山も傾山(かたむくさん)も夕立かな 

 水原秋桜子(1892-1981)
葛飾や桃の籬も水田べり
寒鯉を真白しと見れば鰭の藍
最上川秋風簗(やな)に吹きつどふ
 
 高野素十(1893-1976)
蟻地獄松風を聞くばかりなり
方丈の大庇(おおびさし)より春の蝶

 西島麦南 
雪達磨とけゆく魂(たま)のなかりけり  

  後藤夜半
瀧の上に水現れて落ちにけり

 川端茅舎  
蛙の目越えて漣又さざなみ
朴散華即ちしれぬ行方かな

 橋本多佳子 
乳母車夏の怒濤によこむきに

 阿波野青畝
なつかしの濁世の雨や涅槃像
畑打つや土よろこんでくだけけり

 三橋鷹女
みんな夢雪割草が咲いたのね

 永田耕衣 
近海に鯛睦み居る涅槃像
少年や六十年後の春の如し	

 中村汀女
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや
外(と)にも出よ触るるばかりに春の月

 西東三鬼
水枕ガバリと寒い海がある
中年や遠くみのれる夜の桃

 三好達治
水に入るごとくに蚊帳をくぐりけり

 日野草城
春暁や人こそ知らね木々の雨 
物種をにぎれば生命(いのち)ひしめける

 中村草田男
六月の氷果一盞(いつさん)の別れかな
秋の航一大紺円盤の中
萬緑の中や吾子の歯生え初むる

 秋元不死男 
冷されて牛の貫禄しづかなり

 山口誓子
かりかりと蟷螂蜂の貌を食む
全長のさだまりて蛇すすむなり
土堤(どて)を外れ枯野の犬となりゆけり
      
  皆吉爽雨 
ゆく雁やふたたび声すはろけくも

 富澤赤黄男  
蝶墜ちて大音響の結氷期

 芝不器男 
永き日のにはとり柵を越えにけり

 星野立子 
しんしんと寒さがたのし歩みゆく

 大野林火 
月夜つづき向きあふ坂の相睦む 

 加藤楸邨  
隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな
雉子の眸のかうかうとして売られけり 
鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる 

 篠原鳳作 
しんしんと肺碧きまで海の旅

 松本たかし
とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな
金粉をこぼして火蛾やすさまじき

 長谷川素逝  
ふりむけば障子の桟に夜の深さ 

 細見綾子
女神仏に春剥落のつづきをり

 高屋窓秋
血を垂れて鳥の骨ゆくなかぞらに

 岸風三楼
月明のいづくか悪事なしをらむ 

 相馬遷子  
冬麗の微塵となりて去らんとす 

 石田波郷
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ
力竭(つく)して山越えし夢露か霜か
雪はしづかにゆたかにはやし屍室

 渡邊白泉 
戦争が廊下の奥に立つてゐた

 中村苑子
黄泉(よみ)に来てまだ髪梳くは寂しけれ

 木下夕爾
花冷の包丁獣脂もて曇る

 桂信子
ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜   
ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき

  野見山朱鳥 
一枚の落葉となりて昏睡す

 阿部青鞋(せいあい)
虹自身時間はありと思ひけり
 
 岸田稚魚
屍の出づるとき爽やかなこゑ通る

 森澄雄
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり
秋の淡海かすみて誰にもたよりせず

 金子兜太
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな
霧の村石を投(ほう)らば父母散らん	

 澤木欣一  
水塩の点滴天地力合せ

 石原八束 
鍵穴に雪のささやく子の目覚め 

 野澤節子
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ 	

 草間時彦
足もとはもうまつくらや秋の暮 

 飯田龍太
一月の川一月の谷の中 
貝こきと噛めば朧の安房の国

 三橋敏雄
昭和衰へ馬の音する夕かな  

 高柳重信
軍鼓鳴り          
荒涼と
秋の
痣となる

  赤尾兜子
音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
                       
 藤田湘子 
うすらひは深山へかへる花の如

 宇佐美魚目
東大寺湯屋の空ゆく落花かな

 加藤郁乎
雨季来たりなむ斧一振りの再会

 河原枇杷男
ある闇は蟲の形をして哭けり

 鷹羽狩行
天瓜粉しんじつ吾子は無一物

2012.11.26.

 藤木清子をもう少し読もうと、『鑑賞 女性俳句の世界』(角川)4巻目を、ついでに全巻を静岡県
立図書館で借りてしまった。
 藤木に関しては、あらためて追加引用する句はなかった。全巻をすべて精しく読んだわけではないが、
久しぶりで、女流俳人の多彩な世界に接するとともに、八木三日女など、現代詩的世界を持つ一連の女
流俳人たちの句を読み、やや疲れることとなった。歳のせいかな。
 気分転換というわけではないが、伝統俳句の新しい波ともいえる京極杞陽、波多野爽波の追加句を行
う。波多野爽波は言う。「写生の世界は自由闊達の世界である」と。

  京極杞陽の追加句
 春雨を枕に耳をあてて聞く                (『くくたち下』)
 子供らに雪ふれ妻に春来たれ
 ブラウスをつまんで涼を入れてをり   (『露地の月』)
 昼寝して童の頃の夢を見て       (『さめぬなり』)
 ひぐらしに歴史は常にかなしくて

   波多野爽波の追加句
 腕時計の手が垂れてをりハンモツク   (『鋪道の花』)
 新緑や人の少なき貴船村 
 毛糸編む一つ想ひを追ひつづけ 
 蓑虫にうすうす目鼻ありにけり     (『湯呑』)
 天ぷらの海老の尾赤き冬の空      (『骰子』)
 大根の花まで飛んでありし下駄
 冬ざるるリボンかければ贈り物
 チューリツプ花びら外れかけてをり   (『一筆』以後)
                        
2012.11.20.

 藤木清子に、さらに一句を追加する。

  晝寝ざめ戦争厳と聳えたり    (『反骨無頼の俳人たち』)

2012.11.18.

 藤木清子(生没不明 昭和八年から十五年まで句を発表)の句を追加する。今までは二句引用してい
た。村上護編『反骨無頼の俳人たち』(春陽堂)からの引用であった。

 逝くものは逝きて巨きな世がのこる

が掲載されているという宇多喜代子編著『藤木清子全句集』はそのうち読むことになると思うが、今回
はまだ、『女流俳句集成』(立風書房)と『反骨無頼の俳人たち』からである。

こめかみを機関車くろく突きぬける (『女流俳句集成』)
ひとりゐて刃物のごとく晝とおもふ
きりぎりす視野がだんだん狭くなる
しろい晝しろい手紙がごつん来ぬ
ひとすぢに生きて目標うしなへり
春昼の影も涙をふいている       (『反骨無頼の俳人たち』村上護編(春陽堂))
断崖より落ち現実によこたはる(入院断章)

2012.11.13.

 俳句には、色々の楽しみ方と苦しみ方がある。この世に生まれてきた以上は、楽しみたいものだが、
そうは問屋がおろさないこともある。俳句もそうである。楽しみというか癒しを求めてはじめたはずな
のに、苦しみそのものになることがある。特に結社にはいって、先生の「選句」を絶対視し自分を追い
込むことになったり、また先生の理不尽な言葉に振り回されたりして、苦しむことになる人は多い。勿
論結社にいても、普通に俳句を楽しんでいる人も多い。仲間との屈託のない交流、選句はともかく何か
を作りあげる事そのもののえも言えぬ喜びに浸る人も多い。幸福な俳句人生だ。
 ときどき聞くことであるが、「父は、母は、俳句を作ることで、なにかに癒されていたと思う。」と
しみじみと語るひとびとのことを思い出した。この前テレビで見た例はその一例であった。

    亀山郁夫さんの父君の句
 NHK教育の日曜日「こころの時代」の「父なるもの」での亀山郁夫さんの話である。ドストエフスキー
翻訳、研究で有名な、東京外語大学長、亀山さんのお父さんは中学校の校長になり、理想主義を貫こう
とするあまり軋轢をおこし、校長職をやめざるをえないことがあったようであるが、家庭では亀山さん
など子供たちにも厳しいだけの、理解不可能な父親のように思えたようである。
 その父親が、死後俳句をのこしているのがわかった。とくに次の句は、父親が自分についてどう思っ
ているのかわからなかった亀山さんは、亀山さんへの旧友の「子」とは亀山さんのことだとの指摘を受
け、強い印象を受ける事になった。子を思う親心が表現されている。

 子の帰省待てど返なし三日果つ

 亀山さんにうまいなと思う句もあると言わせるように、心にしみる句がある。ここではテレビ画面の
なかで読み取れた句の中からしかフォローしていないので、不十分かもしれないが、孤独でもあった親
の心がにじみ出ている。勿論俳句を作らなかった親たち、俳句を作れない親たちも、同じような心で生
き、重なる心があったはずである。以下、いわゆる印象的な句をあげる。(ダビングしていたので確か
めて見ると、先ほどの亀山さんへの旧友の手紙に、「春燈」へ「投句」した「句」という文字が見える。
俳誌「春燈」に選句されのっているのだ。その当時は「春燈」は安住敦主宰だったかもしれない。久保
田万太郎につながる重要な俳句雑誌である。) 

 その白さもて夕顔の月に泛ぶ
 虫の宿老いての旅は虔しく
 門火焚く捨てし家郷の幾山河
 里の火は狐火に似て秋祭
 嫁せし子のこたびは泣かず虫しぐれ
 まぼろしの母が紫蘇拔く裏畑
 元日の暮れて一ト日を老ひにけり
 三日果つ潮引くごとく子ら発ちて
 葱坊主なべて幼きものは愛し
 六十路わがいのち愛しみ菊芽挿す
 ふたりには余る餉の卓虫しぐれ
 花八手妻呼ぶ外に呼ぶ名なし
 冬ごもり方三尺の座もて足る
 年の夜の振子の刻むいのちかな

 これらの句は幸福だ。たとえ子の世代だけであれ、思いを伝える役をはたした。実際うずもれた感動
句は、いたるところに無数にあるはずである。
  
2012.11.9.

 追加句には江戸期の俳人が続いているが、今回は其角。
 其角。なぜか崇拝者たちが語るほどには魅了されることは少ないが、面白い俳人であることには間違
いない。酒をほどほどにしておくようになった年齢のせいかも知れない。
 半藤一利著『其角俳句と江戸の春』を読んだり、加藤郁乎を読み直しているうちについつい追加句と
なった。半藤の本についての紹介の文に 
   芭蕉に愛された異色の俳人・宝井其角。酔っては名句を吐く姿は、唐の詩人
   李白を彷彿とさせる。ワビ、サビの世界や芭蕉の閑寂枯淡の境地とはかけ離
   れ、自然風土よりも市井の人事や人情の機微を詠んだ姿に迫る
とある。
 
  其角の追加句
御秘蔵に墨をすらせて梅見哉
文はあとに桜さしだす使ひかな
夕日影町中に飛ぶ胡蝶かな
夕すずみよくぞ男に生れけり
かたつぶり酒の肴に這はせけり
いなづまやきのふは東けふは西
武帝には留守とこたえよ秋の風
投げられて坊主なりけり辻相撲
闇の夜は吉原ばかり月夜かな
冬来ては案山子のとまる鴉かな
爐開きや汝をよぶは金の事
詩あきんど年を貪る酒債かな
年わすれ劉伯倫はおぶはれて    (劉伯倫は竹林の七賢人の劉伶の事、要するに酔っ払い)
酒ゆえと病を悟る師走かな
からびたる三井の仁王や冬木立

2012.11.8.

 今回は、「俳句ページ」の「古典俳句抄」の加舎白雄の追加句。

心こめて筆試みることしかな
旅人の窓よりのぞくひひなかな
陽炎の眼(まなこ)にしみるばかりなり(兄の死に際し、墓前で)
あかつきや人はしらずも桃の露
物がたり読みさして見る藤の花
春の日を音せで暮るる簾かな
子規(ほととぎす)なくや夜明けの海がなる
めくら子の端居さびしき木槿かな
更衣簾のほつれそれもよし
鵜の觜に魚とりなほす早瀬かな
すずしさや蔵の間より向嶋
うつくしや榎の花のちる清水
たそがれや稲田の螽相はじく
鶴おりて人に見らるる秋の暮
大寺や白湯のにえたつ秋の暮
行く雲や秋のゆふべのものわすれ
行く秋や情に落ち入る方丈記
行く秋の草にかくるる流かな
金屏に旅して冬を籠る夜ぞ
寒月や石きり山のいしぼとけ

2012.11.7.

 俳句読み直し、ゆっくりあわてずやっていく。
 今回は、突然であるが、江戸期の俳人、上島鬼貫の句の追加をする。鬼貫はすでにホームページの「俳
句」の中の「古典俳句抄」に掲載している。最近芭蕉、其角などの俳句を考えている。今回追加を考え
たのは、『鬼貫百句』(創風社出版)等に触れたことによる。

  鬼貫の追加句

鴬の青き音をなく梢かな
目は横に鼻は竪(たて)なり花の春
から井戸へ飛びそこなひし蛙よな
草麦や雲雀があがるあれさがる
とび鮎の底に雲行く流れかな
鵜とともに心は水をくぐり行く
さはさはと蓮うごかす池の亀
水無月や風に吹れに故里に
あの山もけふの暑さの行方かな
冬はまた夏がましじやといひにけり
すず風やあちら向いたるみだれ髪
魂棚や蚊は血ぶくれて飛びあるく
世には着て親に背くを馬鹿踊
木も草も世界みな花月の花
樅の木のすんと立たる月夜かな
名月や雨戸を明けて飛んで出る
この秋は膝に子のない月見かな
あらたのし冬立つ窓の釜の音
つくづくと物のはじまる火燵かな
水よりも氷の月はうるみけり
人間に智慧ほどわるいものはなし 

2012.10.29.

 虚子の流れの中で、前々回にも扱った『ホトトギスの俳人101』(新書館)を使う。

 頭文字をとってホトトギス四Sといわれた水原秋桜子、山口誓子、高野素十、阿波野青畝の追加句は、
別項としてあらためて、あつかう予定で、また村上鬼城、飯田蛇笏、中村草田男、野見山朱鳥など、す
でに扱った俳人も次々とでて来る。離脱者を含めホトトギス俳人山脈の豊富さをあらためて思う。
 今回は、すでに独立してあつかっていた俳人の中から、武原はん女 池内友次郎 京極杞陽の三人を
それぞれ一句追加し、またはじめて引用する俳人たちを『ホトトギスの俳人101』(新書館)からま
とめて、掲載する。はじめて扱う俳人の中にも独立して記載していい俳人もいるが、この「俳句メモ、
一種の俳句ノート」の流れもあり、断念する。

 『ホトトギスの俳人101』(新書館)からの追加句

除夜の鐘なれば舞はんと立ちあがり 武原はん女

秋風や嘘言はぬ人去つてゆく    池内友次郎

わが知れる阿鼻叫喚や震災忌    京極杞陽

   ☆

風鈴の鳴らねば淋し鳴れば憂し   赤星水竹居

満月に正面したる志        深川正一郎

火の国の男と生れ阿蘇を焼く    大久保橙青

寒燈下面テもあげず沈金師     伊藤柏翠

泣くことも絶ゆることあり彼岸花  高木晴子

鴨泳ぐ胸に日の輪をまるく掛け   上野章子

人はみななにかにはげみ初桜    深見けんニ

時雨忌や心にのこる一作者     河野静雲

アラビアンナイトの国の月の旅   福井圭児

星空に立ちあがりたる橇の馭者   成瀬正俊

エイプリルフールに非ず入院す   荒川あつし

み吉野の花なればこそ踏みまよひ  田畑美穂女

朝霧に村溺れんとしてゐたり    藤崎久を

夜神楽や神の饗宴うつくしく    竹下陶子

青い鳥赤い鳥ゐて囀れり      小島左京

子供達お墓参りに来て元気     今井千鶴子

大夕立とて天界の一(ひと)雫   藤浦昭代

大切な看護日誌や年尾の忌     坊城中子

もののけの遊ぶ吉野の春の月    岩垣子鹿

一歩づつ過去となる音落葉踏む   千原叡子

鰯雲生涯いつも一人旅       安原葉

鶏頭の赤が最も暗き庭       山田弘子

我に棲む風も音たて芒原      稲岡長

月光のふりつもりゆく枯野かな   長山あや

遠花火街を絵本にしてしまふ    水田むつみ

籠枕あたまの中を風が吹く     内藤呈念

今生を滝と生まれて落つるかな   岩岡中正

父も又早世の人獺祭忌(だつさいき)稲畑廣太郎

天晴れな黄身の出でたり寒卵    坊城俊樹

蒲公英や三番打者は女の子     山田佳乃

初夢の覚めてサハラの砂の上    坂西敦子

壮大でたわいなき夢夏布団     

2012.10.25.
 虚子の追加句、若干。前回、保留にした句から、以下の句を追加する。
 次は、四S、芭蕉、蕪村、、等々。

 ふみはずす蝗の顔の見ゆるかな       (『五百句』)
 口あけて腹の底まで初笑            (『六百句』)
 不思議やな汝れが踊れば吾が泣く
 永き日のわれ等が為の観世音          (『七百五十句』)
 眠れねばいろいろの智慧夜半の秋

2012.10.23.

 俳句読み直しはいよいよ虚子である。いよいよといっても、ここでは「現代俳句抄」に追加する句を
書き出すだけである。いまさら虚子の大きさ、その茫洋さの豊かさを言って始まらない。
 ただ、俳句がすべて虚子のコピーのようなものになってしまってはつまらない。

    夜神楽や神の饗宴うつくしく 

は、いい句と思う。何の間違いか、ぼくのメモ帳では一時これは虚子の句となっていた。あらためて調
べてみると、虚子系列の俳人、竹下陶子の句であるようだ。いい句であることは間違いない。
 ただ、

    神にませばまこと美はし那智の滝 

などを思い出せば、虚子の句と思ってしまうのも故なしとはしない。竹下陶子を貶めるためではない。
こういう句を得たのは竹下陶子の手柄でもある。虚子への一途な信仰が生み出したようにも思える。

 そのうち、虚子の子と孫である高濱年尾、稲畑汀子の読み直しを付け加えようと思っている。ここで
はとりあえず、『ホトトギスの俳人101』から追加句を選んでおく。

  高濱虚子の追加句
競べ馬一騎遊びてはじまらず         (『五百句』)
うなり落つ蜂や大地を怒り這ふ
秋天の下に浪あり墳墓あり  (鎌倉)
黒揚羽花魁草にかけり来る   
ワガハイノカイミヤウノナキススキカナ         (「五百句」時代)   
我汗の流るる音の聞こゆなり
ぐんぐんと伸びゆく雲の峰のあり
大空をただ見てをりぬ檻の鷲
マスクして我と汝でありしかな        (『五百五十句』)
落花生喰ひつつ読むや罪と罰
吾も亦紅なりとついと出で
おでんやを立ち出でしより低唱す
我が生は淋しからずや日記買ふ
懐手して論難に対しをり
夏潮の今退く平家亡ぶ時も          (『六百句』)
天地(あめつち)の間にほろと時雨かな
死ぬること風邪を引いてもいふ女
春惜むベンチがあれば腰おろし
ハンドバツク寄せ集めあり春の芝
過ちは過ちとして爽やかに
敵といふもの今は無し秋の月
新米の其一粒の光かな            (「六百句」時代)
何をもて人日の客もてなさん         (『六百五十句』)
烈日の下に不思議の露を見し
山の日は鏡の如し寒桜
念力のゆるみし小春日和かな
造化又赤を好むや赤椿
手で顔を撫づれば鼻の冷たさよ
闘志尚存して春の風を見る
大いなる新樹のどこか騒ぎをり        (「六百五十句」時代)
志俳句にありて落第す            (『七百五十句』)
悪なれば色悪よけれ老の春
地球一万余回転冬日にこにこ
羽子をつき手毬をついて恋をして
鎌倉の古き土より牡丹の芽
例の如く草田男年賀二日夜
春の山歪ながらも円きかな

  高濱年尾の追加句
秋晴やかもめの尻に水の映え          (『ホトトギスの俳人101』)
秋風や竹林一幹より動く
かるたとる手がすばしこく美しく
吾一人落伍をしたる虚子忌かな

  稲畑汀子の追加句
春光を砕きては波かがやかに          (『ホトトギスの俳人101』)
ふり向けば又芒野に呼ばれさう
がたと榾崩れて夕べなりしかな 

2012.10.19.

 俳句読み直しは、虚子の予定であると、虚子、虚子、虚子と言い続けてきたが、虚子に関しては、読
む本も多く、しばらく予定中であることとする。虚子の大きさ、茫漠さをあらためて思う。

 今回は、西東三鬼が先になった。以下、三鬼の追加句である。

 手品師の指いきいきと地下の街     (『旗』)
 屋上の高き女体に雷光る
 兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り
 夜の湖ああ白い手に燐寸の火
 機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク
 パラシウト天地ノ機銃フト黙ル
 国飢ゑたりわれの立ち見る冬の虹    (『夜の桃』)
 狂院をめぐりて暗き盆踊     
 大寒の猫蹴つて出づ書を売りに
 少女二人五月の濡れし森に入る
 陳氏来て家去れといふクリスマス    (『今日』)
 猫が鶏殺すを除夜の月照らす
 麦熟れてあたたかき闇充満す
 モナリザに仮死いつまでもこがね虫
 歩くのみの冬蠅ナイフあれば舐め
 秋の航一尾の魚も現れず        (『変身』)
 雪山呼ぶ O(オー)の形の口赤く    
 眼帯の内なる眼にも曼珠沙華
 通夜寒し居眠りて泣き覚めて食ふ
 発光する基地まで闇の万の蛙
 老斑の月より落葉一枚着く
 少年を枝にとまらせ春待つ木 

2012.10.17.

 俳句読み直しは、あいかわらず虚子の予定である。三鬼も準備中。

 そうこうしているうちに読んだ本では『この俳句がスゴい!』(小林恭二著)が意外に面白かった。
どんな句が選ばれているのかと思ったが、大部分はぼくの「現代俳句抄」と重なっている。
そういうわけで、面白かったのは、選句ではなかった。それにまつわる裏話的な話が面白かった。

 まず、面白かったのは、虚子に関してである。
 一般的に俳句指導者は権威的である。しかも嫉妬心が強い。自分を凌駕することになる者を排除しよ
うとする。虚子はその点、そういった嫉妬や排除の悪徳からは自由であったという指摘は、百パーセン
トはそうだとは思えないが、そういう面もあるかと、それなりに面白い指摘である。
 金子兜太の絶対真似しようがない句柄の指摘も具体的な例をあげていて面白い。
 最後に面白かったのは飯田龍太の「結局諸悪の根源は結社なのだよ」と小林恭二に言ったことである。
小林は「鼻白む思い」で聞いたという。なにしろ龍太こそ「結社の頂点にいる俳人」そのものと思えて
いたからだ。しかし龍太はそれから一年たたないうちに「「雲母」を解散させ、自らも引退して」しま
う。
 小林は、結社が会員を束縛してしまうだけではなく、主宰者をも束縛することを指摘する。龍太もそ
ういったことを十分意識していたようだ。ただ、小林にとって残念なことには、龍太が主宰をやめただ
けではなく、俳人龍太までも道連れにし、句作をやめてしまったことであるという。
 小林は、結社を全面的に否定するわけではない。結社がなくなれば俳句の継続には致命的な打撃を与
えるという。お茶などの稽古ごとでは、家元がなくなれば伝統の変質において甚だしい事になろう。た
だし、小林は結社が俳句の革新を阻害している面はきちんと指摘しているのである。

 今回は具体的な追加句はない。

2012.9.19.
 俳句読み直しは、虚子の予定である。虚子は近々触れる。ただ、そうした準備の過程で、ついつい先
に読んでしまう本がでてくる。

 たとえば、『疾走する俳句 白泉句集を読む』(中村裕 春陽堂)。読んでいて、次の句を落として
いることに気づく。
 
 あぢさゐも柳も淡き雨のなか 

 また、岩波文庫から出た『加藤楸邨句集』初句検索もあって便利だ。だが、「炎昼の」がない。何か
ぼくの勘違いがあるのかもしれないが、「炎昼の」の句は、『野哭』にあっても重要な句で、楸邨のあ
る部分を表現している。この句集は、『加藤楸邨全集』を底本としているようだが、そのさい訂正など
もあったようで、なんらかの理由で削除されたのかもしれない。そのうち『加藤楸邨全集』をしらべて
みたいが、とりあえずこの文庫本に「炎昼の」の句がないのは釈然としない。

 炎昼の女体のふかさはかられず

 芭蕉の『奥の細道』に関する本の尾花沢のところで、「紅花」についての句

 行く末は誰が肌ふれむ紅の花

が、でてきて艶のある句だと、遅ればせながら感心したが、どうも芭蕉の句ではないようだ。他の芭蕉
句集などでは、「存疑編」などであつっかわれるだけだ。そういうあつかいに不満があるわけではない
が、実際芭蕉が読んでいたらと思うのは自由である。

 さて、佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』の九月号に次の句を引用したので、「気になる句」
として載せておく。その箇所の文全体も載せておく。

   ほとんど読まれることのないはずのWeb上の無名な「個人誌」ということで、一応公開はしてい
  るが、リアルに橋關ホ(かんせき、かんは間の旧字)の次の句が思われる。

   人知れずもの書きためる雪の底    異端的な立ち位置にいるつもりはないが、結社や団体に属さないぼくとしては、加藤郁乎の次の   句は、ぼくの今の立場を若干なぐさめてくれる。    虚名より無名ゆたかに梅の花    時代より一歩先んじ蚊帳の外    俳諧は愚図々々言はず秋の暮  ほかにもあるが、今日はこのぐらいで。 ***************
2012.9.19.

 まずはじめに、わが句集に関して。「静岡新聞」の「大自在」(「天声人語」にあたる)の
『富士・まぼろしの鷹』を推薦する文章を紹介する。

 読み直し第四回目。前回の渡邊白泉に続いて、高屋窓秋、そして富澤赤黄男。  同じ一行詩に近い句でありながら、衝撃力の大きい富澤赤黄男の句、やわらかでありながら大きい高 屋窓秋の句、ぼくは高屋窓秋の方に立ちたいと自分では思っている。高屋窓秋の句に相当する俳句がか ければ本望なのだが。  そこで、ぼくの「現代俳句抄」で引用した句を使って、少しだけ高屋窓秋オマージュを書いてみる。   まず、高山れおなの「平明で記憶しやすい一句欲し」に相当する句は、高屋窓秋では次の句になる。 平明で記憶しやすい句をとつくづく思う。  頭(づ)の中で白い夏野となつてゐる  ちるさくら海あをければ海へちる  山鳩よみればまはりに雪がふる もちろん、富澤赤黄男の次の句もいいが、ぼくの資質でいえば目指す句としては無理である。  爛々と虎の眼に降る落葉  蝶墜ちて大音響の結氷期  椿散るああなまぬるき昼の火事  さて、高屋窓秋は古句に対しても興味をしめしているが、筑紫磐井に次の句がある。  俳諧はほとんどことばすこし虚子  もりソバのおつゆが足りぬ高濱家 高屋窓秋は今回追加する次の句では、十分筑紫磐井の先駆者(?)となっている。 (実際の影響関係では、加藤郁乎の影響の方が大であるだろうが。)    降る雪や昭和は虚子となりにけり  歳時記に何はなくとも四月馬鹿   高屋窓秋の追加句 白い靄に朝のミルクを売りにくる    (『白い夏野』) さくら咲き丘はみどりにまるくある 静かなるさくらも墓もそらの下 降る雪が川のなかにもふり昏れぬ     (『補遺』) 花蔭に天才孤児が自殺する       (『石の門』) 荒地にて石も死人も風発す 地吹雪の奥より旅のひかりかな     (『ひかりの地』) 海の眼や深い孤影の波まより きらきらと蝶が壊れて痕もなし 詩のことばかすみの肌に彫られけり おほぞらや渦巻きそめし星月夜      (『補遺』) いつしかに白虎となりて老いにけり 泳ぎつく銀河のほとり夢深し      (『花の悲歌』)  いざ山を吹かれて下りん花吹雪 くろがねの秋の艦隊沈みけり 降る雪や昭和は虚子となりにけり 春の月土筆のために上りけり 歳時記に何はなくとも四月馬鹿 貝ひとつ浮かれて泳ぐ春の海 雪月花銀河の端のこの梅見 黄泉路にて誕生石を拾ひけり     富澤赤黄男の追加句 絶壁へ冬の落日吹きよせられ      (『魚の骨』) 味噌汁をふきつつわれは頽廃れゆく 陽だまりにをれば内閣倒れけり 自転車がゆきすぐそのあとを闇がゆく 寒雷や一匹の魚天を搏ち        (『天の狼』) 草原のたてがみいろの昏れにけり 火口湖は日のぽつねんとみづすまし 草原のたてがみいろの昏れにけり もくせいの夜はうつくしきもの睡る 影はただ白きカン湖(=塩湖)の候鳥(わたりどり) 灯を消してああ水銀のおもたさよ 冬天の黒い金魚に富士とほく 鶏交り太陽泥をしたたらし やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ 湖はしんしんとある空中戦 蛇よぎる戦(いくさ)にあれしわがまなこ 沛然と雨ふれば地に鐵甲 断雲(ちぎれぐも)浮いてキリンに喰べられる(『再版天の狼』) 蝙蝠は孤独の枝にぶらさがる 甲蟲たたかへば 地の焦げくさし    (『蛇の笛』) 切株に 人語は遠くなりにけり 流木よ せめて南をむいて流れよ 頭蓋のくらやみ 手に 寒燈をぶらさげて いつぽんの枯木に支へられし 天 月光へ せめて 掌(てのひら)およがせむ  

2012.9.16.

 読み直し第三回、渡邊白泉。 (三谷昭も追加する。)
 基本的には、「現代俳句の世界 16」(朝日文庫)、「鑑賞現代俳句全集 第六巻」(立風書
房)、「渡邊白泉全句集」(沖積舎)の三冊を使用しているが、「現代俳句集成 第十四巻」(河出書
房新社)の「渡辺白泉句集」に続いて、三谷昭の「獣身」が掲載されているので、三谷昭もとりあげる
ことにした。
 三谷昭の「暗がりに檸檬泛かぶは死後の景」は、俳句をはじめたごろ強く印象に残った句である。す
でに「現代俳句抄」にその句を引用している。なによりも彼の著書「現代の秀句」(大和書房)は、例
句の選択がぼくにあっていたせいか、何度も読み返した本である。今回「獣身」を読み、意外に追加句
が少ないのに気がついた。ある時代の俳句であることはわかっても、訴えてくるものが今のぼくと少し
ずれているような気がした。 
 なお、渡邊白泉ほどの高い位置にいるわけではないが、ぼくのように一人で俳句を作り続けようとす
るものには「白泉句集」の「あとがき」は示唆的である。昭和三十年代のことである。以下「あとが
き」。

 俳壇や文壇から絶縁された孤独の窖(あな)で無償の努力をつづけることは、わたしにとってさした
る苦しみではなかったが、この(俳句ができない)時期においては、身の細胞が日に日にハラハラと舞
い落ちてゆくような痛苦を味わったのである。
 しかし、「夜の風鈴」の一句によって、わたしは甦ることができた。
  (中略)
 爾来わたくしは、焦ることもなく、恐ることもなく、ひとり閑々として俳句を作りつづけて来た。俳
壇というところにとどまっていたら、このような制作のありかたは、とうてい実現することはなかった
であろう。わたくしは、この境を何よりも貴重なものとして守り通さねばなるまい。


  渡邊白泉追加句
白壁の穴より薔薇の国を覗く      (『渡邊白泉全句集』)
あまりにも石白ければ石を切る
一本の道遠ければ君を恋ふ 
ふつつかな魚のまちがひそらを泳ぎ
鳥籠の中に鳥飛ぶ青葉かな
日向ぼこするや地球の一隅に
地平より原爆に照らされたき日
気の狂つた馬になりたい枯野だつた
松の花かくれてきみとくらす夢
ハルポマルクス見に起重機の叢林を
戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり   
やはらかき海のからだはみだらなる
支那兵が草山を抱き戦死せり
あをあをとぶらんこをこぐ手足かな   
桃色の足を合はせて鼠死す
秋の夜や宇宙を点とみる努力       
わが秋や疊の上の道をしえ 


  三谷昭追加句
雪国の駅や目鼻が汽車を待つ      (『獣身』)
原爆の灰の中にも蝶がいる

2012.9.13.

 読み直し第二回「久保田万太郎」 次回は「渡邊白泉」(ついでに三谷昭 も)

  久保田万太郎の追加句

もち古りし夫婦の箸や冷奴       (『草の丈』)
海贏(ばい)の子の郭ともりてわかれけり
ぬれそめてあかるき屋根や夕時雨
短日や國へみやげの泉岳寺
水鳥や夕日きえゆく風の中
ひぐらしに燈火はやき一ト間かな
吉原のある日つゆけき蜻蛉かな
かずかずの亡き人おもふ蚊遣かな
夏の月いま上りたるばかりなり
月の雨一トきは強くなりにけり
春麻布永坂布屋太兵衛かな
生さぬ仲の親子涼みてゐたりけり
うららかに汗かく耳のうしろかな
ゆく年のひかりそめたる星仰ぐ
夕端居一人に堪へてゐたりけり
ゆく春や鼻の大きなロシア人
この街のたそがれながき薄暑かな
げんげ田のうつくしき旅つづきけり
露の道また二タまたにわかれけり
ふゆしほの音の昨日をわすれよと    (『流寓抄』)
いまは亡き人とふたりや冬ごもり
海の日のありありしづむ冬至かな
はつそらのたまたま月をのこしけり
まゆ玉のことしの運をしだれける
人情のほろびしおでん煮えにけり
鴬やつよき火きらふ餅の耳
月の出のおそきをなげく田螺かな
河童忌や河童のかづく秋の草 
くろかみにさしそふ望のひかりかな
短日やにはかに落ちし波の音
ゆく年や草の底ゆく水の音
さめにけり汗にまみれしひるねより
東京に行かずにすみし夜長かな
四萬六千日の暑さとはなりにけり
花菖蒲ただしく水にうつりけり
ゆく春やみかけはただの田舎町
あたらしき畳匂ふや夕蛙
ふるさとの月のつゆけさ仰ぎけり
水にまたあおぞらのこるしぐれかな
四月馬鹿朝から花火あがりけり
はればれと馬市たちし花野かな
熱燗のいつ身につきし手酌かな     (『流寓抄以後』)
お降りのまつたく雪となりにけり
たけのこ煮、そらまめうでて、さてそこで
一生を悔いて詮無き端居かな
かなかなの鈴ふる雨となりにけり
三月や水をわけゆく風の筋
永き日や機嫌のわるきたいこもち
時雨傘さしかけられしだけの縁
春暁やしらみそめたる床ばしら
花疲れおいてきぼりにされにけり
高波にのまれてさめし昼寝かな

2012.9.3.
 不十分ながらウエブ版「佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』(月刊)」を始めた。発刊の日付は二
〇一二年八月三十一日である。これからの作句生活の基盤作りをと思ってのことである。
 これを機会に、初心にもどって気になる俳人たちの句をじっくりと読み直してみたい。

 どういうわけか、第一回は木下夕爾ということになった。第二回は久保田万太郎の予定である。
芭蕉、蕪村、子規、虚子と読み直したい俳人は多い。蛇笏、素十、誓子、秋桜子、三鬼、白泉、、きり
がない。不器男、鳳作、赤黄男、窓秋、瓜人、耕衣、、きりがない。

 再読の結果は「現代俳句抄」に追加の句として現れることになる。また、削除は原則的に行わない。
簡単な感想はともかく、余計な感想は書かない。

 木下夕爾の追加句

茨の実にわが影長き墓畔かな     (『木下夕爾全句集』)
鐘の音を追ふ鐘の音よ春の昼
かたく巻く卒業証書遠ひばり
あたたかにさみしきことをおもひつぐ
熟れ麦の息する風とおもひけり
よく折れる鉛筆の芯春の蝉
ひと若しはしれる汗もうつくしく
とけてゐるアイスクリーム秋の蝉
そよぎあふ草の秀たのし秋の雲
秋の日や凭るべきものにわが孤独
かくれすふたばこのけむり秋の風
秋風や話につれてゆるみし歩
冬凪や鉄塊として貨車憩ふ
毛糸あめば馬車はもしばし海に沿ひ
しはぶきの次の言葉を待ちにけり
毛虫焼く火のめらめらと美しき
壺にさしてすぐに風そふ芒かな
燃ゆる日にひしめく闇も去年今年
手をふれてピアノつめたき五月かな
遠雷や萱わけて人出できたる
ひとの手のつめたき記憶夜の秋
月涼しこころに棲めるひと遠く
刃を入れるべく紅き林檎をぬぐひけり
立冬の木の影遊ぶ芝の上
孤独なり冬木にひしととりまかれ

2012.8.24.

 『金子兜太 自選自解99句』は店頭で見て、それぞれの句に毛筆による自筆書きが掲載されているせ
いでついつい買ってしまった。その中から、「現代俳句抄」でのとりこぼしというか、漏れていたもの
がないかと思いっていたが、一句目の「白梅や老子無心の旅に住む」から九十九句目の「今日までジユ
ゴン明日は虎ふぐのわれか」まで取り上げたい句はすでに「現代俳句抄」に取り上げていた。掲載され
ている毛筆による自筆そのものも、力強く、独自のイメージをたちあげている。現代にあたえるエネル
ギーはいうことないが、これから流れてゆく時にどれほど耐えられるかはぼくが心配することでもなさ
そうだ。

 「小澤實 自選二百句」を読みたくて「俳句あるふぁ8−9」を買った。自選を実際確認したいとい
うのが主な動機である。いつかここで「もしドラ」(ドラッガー)の「イノヴェーション」にふれたと
き、小澤さんについても

 イノヴェーション、変化の重要視は、図書館でふと手にした小澤實編『おとなの愉しみ 俳句入門』
にもあらためて感じた。小澤さんは言っている「一見隆盛を極める現在の俳句界ですが、昭和期の遺産
にもたれかかり、食い潰しているといった印象を否定できません。大袈裟にいえば、表現の革新を目指
すといったような気概に欠ける気がしてなりません。」また自身の俳句観のスタンスを「前衛的立場を
愛おしむ伝統」派ということになろうかと言っておられる。イノヴェーションの立場を意識した発言だ。
   (2011.5.9)

と、引用しながら書いた。「俳句あるふぁ」でも上田信治さんが「小澤さんは、最近しきりと俳句の将
来について危惧をもらすのだが」と書き、ついで「もし俳句に現在や未来があるとすれば、それは彼の
歩みとともにあるはずだ。」と小澤さんに花をもたせている。
 さて、小澤さんの句、若干「現代俳句抄」に追加したい。

人抱けば人ひびきける霜夜かな    (『立像』)
貧乏に匂ひありけり立葵
秋風や濡らしてみたき壺ひとつ
人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   (『瞬間』)
穴子の眼澄めるに錐を打ちにけり
こがね打ちのべしからすみ炙るべし 
ひとすじの光は最上鳥渡る      (「澤」未完句集)
初浅間わが両眼を占むるなり
さざなみにさざなみあらた花待てる 

 坂口昌弘『ライバル俳句史』の特に「桑原武夫と小林秀雄」を再読した。俳人たちのライバル関係だ
けでなく、桑原武夫と小林秀雄を扱った点で新鮮でおもしろかった。ただぼくの頭の中で細部がやや曖
昧になってしまったので、再読となった。
 細かいことは、『現代俳句の世界』(集英社)所載の「第二芸術論をめぐって」をも読み直す必要が
あるが、合理主義でわりきろうとする桑原にたいして、小林は、坂口のまとめのように、「文学の本質
は個人と感性と主観に基づく多様性である。人間も俳句作品も生きている生命体である。俳句も俳句論
も最後は人の感性に基づく。」ということになろう。
 小林の発言を二つあげておく。
「俳句を純粋に愛するしろうとというものがある。俳句というものを純真に楽しんで、生活の一部とし
て楽しんでおる人が無数にある。専門俳人でなく、そちらの方に俳句というものの日本のほんとうの社
会現象がある。そういう社会現象をあなた(桑原氏)がもっと論じてくれるとよかった。俳句というも
のは実に妙な社会的生物ですよ。第二芸術論という言葉は抽象的すぎます。」
 「あなた(桑原氏)が、俳句を一ぱいならべて、どれがよいか、というようなことを言っていたが、
あれは賛成しません。ああ並べて品評されたら芭蕉は現代の一俳人に負けるかも知れない、しかし芭蕉
の精神といういうものは、負けないし、ああいう例ではその精神をつかめない。芭蕉という人は俳句と
生活とが全く一致していた人です。寧ろ俳句は生活の断片的結果だったでしょう。これは以来大変重要
な日本文学の伝統的精神となったもので、そういうところを論じてほしかった。」

 なお、次ぎの佐々木敏光句集『富士・まぼろしの鷹』の句も紹介されたので記しておく。

   秋風や屋上にある潦(にはたづみ)
        (2012.8.20. ウラハイ=裏「週刊俳句」 相子智恵「月曜日の一句」)

 
2012.8.8.

 ぼくの句集『富士・まぼろしの鷹』のウエブでの言及は、詩人の清水哲男さんの

   鶏舎なる首六百の暑さかな
          (2012.7.23.清水哲男「新・増殖する俳句歳時記」)

 (ついでに、新聞では

   立ち上がり尺取虫となりにけり

          (2012.7.17.読売新聞朝刊、長谷川櫂「四季」)) と「鷹」の天地わたるさんのブログだけであったが、今回ワイン好きの俳人福永法弘さんの「ワインと 俳句」に    郭公や甲斐に古り行くワイン蔵 (『富士・まぼろしの鷹』 佐々木敏光) が、引用されていた。俳句というより、題材としてだけなのか、どちらにしても、記録として記してお く。  なお、俳人ではないが、    牡蠣殻の山をこえきて牡蠣を食ふ  をウエブに引用してくださったかたがいる。ありがたいことだ。この句は、私信だがある俳人が高く 評価してくれていた句である。             ☆  『怖い俳句』(幻冬舎新書)という本がでている。  著者は倉阪鬼一郎で、ぼくもすでに「現代俳句抄」で、倉阪鬼一郎の句    悪い知らせが届く今日は覚(さとり)の日 (『魑魅』) を引用している。  この本は、ぼくにとっては「怖い俳句」というより俳句を読みすすめるなかですでにいろいろ接した ことのある句があつかわれている「なつかし俳句」の本といった感じのほうが強い。『怖い俳句』の企 画にはなにか幻冬舎の販売作戦の流れを感じるが、ぼくもついつい買ってしまった。  最初の芭蕉の句    稲づまやかほのところが薄の穂 がすでにそうだし、無理に怪異に遠からずと言うようにもっていっているような気がする。  「短いから、よけい怖い」も、それらしく思えるがなんとなくとってつけたような気もする。本当に 怖いのはなんといっても人間そのものである。それを表現するためにはある程度の言葉の長さを必要に なってくる。  ただ、俳句という短さの強さ・微妙さを違った角度から知らせるための俳句鑑賞入門としては、教科 書的な句に限っていないという意味で、おもしろいものとなっている。  蕪村の句もなつかしい。    狐火や髑髏に雨のたまる夜に  虚子の    襟巻の狐の顔は別に在り  蛇笏の    流燈や一つにはかにさかのぼる となると、怖さよりなつかしさがさらにます。    人殺す我かも知れず飛ぶ蛍 という前田普羅の句は、二十代のこの句を読んだころの「我」が蘇ってくくるなつかしさ。    暗がりに檸檬泛ぶは死後の景   三谷昭 は、短歌を作りながら、俳句を志向していた時期に、呪文のように唱えた句である。 「現代俳句抄」にも、はやばやと掲載した。    貌(かほ)が棲む芒の中の捨て鏡  中村苑子 など、俳句勉強時代の面白く読んだ句が次々、次々と出てくる。  以前ぼくの「現代俳句抄」でさらに補強した阿部青鞋や河原枇杷男も入っていてなによりである。  有馬朗人の    釣瓶落しの日が首吊りの縄の中 などもあって、フォローもけっこうされているようだ。  いつか、ぼくの    広島のまつかな釣瓶落しかな について「恐ろしい句」だと言われたことを思い出した。原爆の光景とかさなる釣瓶落しである。  知らない俳人の句もあったが、それほど衝撃的な句はなかった。  もちろん、折笠美秋や西川徹郎を知らないといっているのではない。知っている。引用されているか なりの俳人の名前は知っている。    杉林あるきはじめた杉から死ぬ  折笠美秋の句には怖さとは別に哀愁の極みがある。西川徹郎の句は、刺激的ではある。が、怖いとは 思わない。本人にそんな意図があるはずはないはずだが、刺激的なことばがただ羅列されている書き割 りのような俳句に思えてしまうのだ。   詩にもよくあるパターンであるが、    波波波波波あ首波波   江里昭彦 は、怖いというより俳句的実験作で、ぼくもいつか引用した関悦史の句    皿皿皿皿皿血皿皿皿皿  も決して新しいものではないことを告げている。本当に新しいことは難しい。  以上、普通の人にくらべるとやや俳句をあれこれ読んでいるぼくは、「怖い俳句」というより、次々 となつかしい名が登場する「なつかしい俳句」とついつい言ってしまう所以である。  

2012.7.29.

 今回は具体的な句を引用しない。ただ自立的に俳句をつくるには、それなりの「覚悟」が必要で、そ
のことににかかわる文章を引用する。最近再読することが多い、セネカの文である。
 さて、セネカであるが、最近よく読み直している。ぼくの好きなモンテーニュの先達であり、と同時
にぼくの好きな老子、禅に通じることの多いローマの哲人である。琴線にふれる言葉が少なくない。
 お稽古事としての俳句は先生のおっしゃることを忠実に実行すればそれでいいが、すくなくとも自立
的に俳句を考えるような状態にいたれば、ある覚悟がなければ、前進できなくなる。
 そこで、自由と覚悟に触れたセネカの文を引用することにする。読みやすさを考え、草柳大蔵訳『セ
ネカ わが死生観』を使う。「賢者の不動心について」の部分である。

 本当の自由とは、中傷など気にもとめず、わが心を喜びの湧き出る唯一の源泉とし、目に見える
さまざまなことに思い煩わされない精神を持つことである。

 世論に左右されて行動する人たちは、中傷と侮蔑の渦巻く中で暮らすことを覚悟しておかなくて
はならない。覚悟ができていれば、ことはいくらか軽く感じられるものであるから。

 なお、上記の文章のなかの「わが心を喜びの湧き出る唯一の源泉とし」は俳句も文学である以上、表
現にあたっては心すべきことである。もちろん、湧き出るといっても、それはしばしば「もの」に触れ、
「季節」にふれ、「こと」にふれ「湧き出る」ものであり、かならずしも抽象的なものではない。 

      ☆ ☆ ☆

 そうは言っても、せっかくだから俳句も少しだけあげておく。天野祐吉編『笑う子規』を再読した際
の産物である。この本は、冗談好きでもあった子規の句をうまく集めてていて、面白い句をあげていけ
ばきりがない。今回は夏の句だけにする。それも四五句だけ。
 この本は「わび、さび」とか「師系」とか肩ひじはったものこそ俳句と勘違いしている人には、思い
違いを正してくれる本であると思うが、勘違いしている人が、勘違いに気づくことはとても難しいこと
だろう。

 この本は、秋の句だがすでに「現代俳句抄」に掲載している次の句もあったりして、実に楽しい本で
ある。
 
  枝豆ヤ三寸飛ンデ口に入ル

 さて夏の句 四五句をあげる。、

  夕立や並んでさわぐ馬の尻

  短夜や幽霊消えて鶏の声

  金持ちは涼しき家に住みにけり

  極楽は赤い蓮(はちす)に女かな

  一匙のアイスクリムや蘇(よみがえ)る

 
 
 
2012.7.24.

 最近というか、句集を出してから、自分の句集についての言及が急に多くなった。なるべく多く句集
を読んでほしい。そのために句集を出したのであるというしかない。ただ、行き過ぎるとしつこくなる。

 清水哲男さんの『増殖する俳句歳時記』は、ぼくがホームページをはじめた1996年ごろから、当
時は検索機能がいまほど便利になっていなかったので、お互いにリンクを張りあうというかたちで、交
流がはじまった。当時は清水さん一人が、毎日がんばっておられた。ただ、書いてみたらとお誘いをう
け、三度だけ、つまり三句(楸邨、虚子、哲男)だけ評者として参加した。その後、このサイトの評判
は高まっていった。「新」と言う字が加わった今では、清水さんは月曜日だけの担当という体制になっ
ている。清水さんのこれからのご健康を祈念するのみだ。

 その『新・増殖する俳句歳時記』の昨日(7月23日)は、ぼくの『富士・まぼろしの鷹』の一句だっ
た。

 鶏舎なる首六百の暑さかな     佐々木敏光

清水さんらしい適切な評言があった。

2012.7.17.

 今朝の読売新聞に佐々木さんの句がのっていると元同僚から電話がかかってきた。早速、コンビ二に
新聞を買いにいったが置いてなく、結局新聞販売店で買った。
 かつての朝日新聞の「折々のうた」と同じあつかいの縁取りの記事で、タチアオイの写真もあった。
長谷川櫂の「四季」である。

 立ち上がり尺取虫となりにけり    佐々木敏光

 「立ち上がり折れ曲がってこそというのだ」と長谷川さんは書いている。

 出典はないが、最近出版した『富士・まぼろしの鷹』からの引用である。多様性を追求し
ている句集のつもりだ。

        ***

 最近興味をひかれた記事と本に『俳句7月号』の「平成の名句600」と『私の好きなこの一句 
現役俳人の投票による上位340作品』(平凡社)がある。
 選句は選者によってきまる。真逆の評価もありえる。「平成の名句600」と『私の好きなこの一
句』、その結果は、誰が選んだのか、投票にどのような人が参加したかによって決まってしまう不安定
なものである。特に『私の好きなこの一句』にはその俳人の周辺にいるひとたちのおかげで上位にのぼっ
た句が多々あるように思えた。
 それでもすべての句集を読む環境にないぼくにとっては新しい句との出会いとともに、すでに読んで
いてもあらためて「現代俳句抄」にいれたくなる句の再発見の場となりうる。「平成の名句600」と
『私の好きなこの一句』は両方ともすでに「現代俳句抄」に掲載している句は結構多いが(この「現代
俳句抄」はぼくの俳句の勉強のためで、客観的な名句集ではない。もともと芸術には客観的なものはな
いのである。)、今回あたらしく引用するものとしては、以下の句ということになる。

 夜寒さの松江は橋の美しき      森澄雄『餘日』

 あらそはぬ種族ほろびぬ大枯野    田中裕明『夜の客人』

 まだもののかたちに雪の積もりをり  片山由美子『風待月』

 泥に降る雪美しや泥になる      小川軽舟『手帖』

 狼は亡び木霊は存ふる        三村純也『常行』

 地下鉄にかすかな峠ありて夏至    正木ゆう子『静かな水』

 しづかなる水は沈みて夏の暮

 生涯のいま午後何時鰯雲       行方克巳『昆虫記』

 はらわたの熱きを恃(たの)み鳥渡る 宮坂静生『山の秋』

 戦争がはじまる野菊たちの前     矢島渚男『野菊のうた』

 春は曙そろそろ帰つてくれないか   櫂未知子『蒙古斑』

 麿、変?              高山れおな『荒東雑詩』

 坂道の上はかげろふみんな居る    奥坂まや『妣の国』

2012.6.23.

 寺山修司、「現代俳句抄」には無理をしてまで追加することはないと思っていたが、追加したい句が
でてきた。「俳句界」を何冊かパラパラめくっていたら、飛び込んできた。寺山を間歇的に読み返すこ
とは多いが、どうしたことかこの句はぬけていた。「寺山修司*句セレクション」にあった。

 もしジャズが止めば凩ばかりの夜  (未刊全句集『浪漫飛行』)

 制作年代も若く、また若い感覚の句である。今のぼくは、凩の世界に溶け込んでしまうことに充実を
感じるかもしれない。

2012.6.16.

 初めてのもしかしたら最後になるかもしれない句集の刊行を待っている。6月26日刊行予定である。
いわく「佐々木敏光句集『富士・まぼろしの鷹』」である。
 富士については、採用しなかった多くの句を含め一通りのパターンを詠んだ気がする。ずるずると読
み続けるとすると、へたをすると自己模倣になりかねない。時間をおいてすこしずつ新しい切り口を模
索したい。
 ここで、今回の句集の「帯」のための13句、邑書林の島田牙城さんに選んでもらった13句を掲載
しておく。

  「富士百四十句」抄
 牛たちは富士を仰がず春の風   (佐々木敏光句集『富士・まぼろしの鷹』)
 万緑は富士山頂を攻めきれず
 富士山を洗濯したる野分かな
 縄とびや富士いま入るまた入る
 破魔矢もていつしか富士をさしてゐる
 異国よりきて滑落死富士は富士
  「まぼろしの鷹」抄
 まぼろしの鷹か凍湖の宙に消ゆ
 牡蠣殻の山をこえきて牡蠣を食ふ
 凧あがる無人島とぞ思ひしが
 チユーリツプ地底明るくなりをるか
 鶏鳴のやぶれかぶれや梅雨深し
 山女美(は)しきよらの塩をふりて焼く
 虫の音へ裏階段をおりてゆく

 二句つけくわえるとすれば、「富士百四十句」から

   日本最高峰富士山剣ケ峰
 炎天へ刃するどく剣ケ峰 

「まぼろしの鷹」の中からは、周りの人がときどき口ずさんでくれる次の句としておこう。

 自転車に春の空気を入れてみる

 新しい出発のためにといえば大袈裟だが、句集、俳書をあたらしく読んだり、また再読をしたりして、
のんびりと最出発にそなえている。
 たとえば石田修大著『我生きてこの句を成せりーー石田波郷とその時代』を新しく、宗田安正著『昭
和の名句集を読む』を再読するといったようにである。
 石田波郷といえば、全集をもっている数すくない俳人である。若々しい抒情から、諦念に近い静かな
抒情まで、抒情の幅にも豊かなものがある。
 石田波郷から、水原秋桜子、そして藤田湘子と句集の再読は広がってゆくが、ここでは石田波郷から
「現代俳句抄」への追加句をと思い、選ぼうとしたが、この項目については追加句を無理をしてまで選
ぶ必要はないと思いいたることになった。

 『昭和の名句集を読む』は、河原枇杷男や阿部青鞋といった資料のすくない俳人を読むうえでの参考
になった。この本に選ばれていて、今回追加してもいいなと思える句を付け加える。

 蝸牛賓辞は空を彷徨えり     (河原枇杷男『鳥宇論』)

 梟の目にいっぱいの月夜かな   (阿部青鞋『火門集』)
 群衆のごとくに書店の書よ崩れよ
 畦みちの虹を両手でどけながら
 空蝉もたしかに鳴いて居りにけり
 貝のほか飛ぶもののなき時間かな
 埠頭から大きなとげが生えている
 かたつむり踏まれしのちは天の如し
 梯形の口して泣けり或る男

2012.5.6.
 数日前に書いたものを、含め、今日かいたものから逆順にのせておく。

       *****

 今日は、これまた久しぶりに、飯田龍太である。「気になる俳句」追加である。

 飯田龍太
枯れ果てて誰か火を焚く子の募域    (『童眸』)
山碧く冷えてころりと死ぬ故郷     (『麓の人』)
雪山に何も求めず夕日消ゆ
生前も死後もつめたき箒の柄      (『忘音』)
冬耕の兄がうしろの山通る
大寒の薔薇に異端の香気あり      (『山の木』)
吊りあげし鮠に水の香初しぐれ
短夜のペン雑然と何か待つ       (『遅速』以後)

       *****

 句集『富士・まぼろしの鷹』刊行を準備している。あらためてみると山梨側からは富士の句をあまり
よんでいない。車で日帰りで山梨県をたずねることはけっこう多いが、じっくりとすごすことが少ない
せいかもしれない。
 今回富士には限らない視点で、山梨の俳句の巨人、飯田蛇笏を読み直してみたいと思い、読みかえし
た。すでに収録した句は多いが今回の「現代俳句抄」への追加句は以下の通り。飯田龍太はまたの機会
にする。

  飯田蛇笏(1885-1962)
はつ汐にものの屑なる漁舟かな     (『山廬集』)
なつやせや死なでさらへる鏡山
山寺の扉に雲あそぶ彼岸かな
ゆく春や人魚の眇(すがめ)われをみる
月いよいよ大空わたる焼野かな
山川に流れてはやき盆供かな
浪々のふるさとみちも初冬かな      
火山湖のみどりにあそぶ初つばめ    (『心像』)
花びらの肉やはらかに落椿
月光とともにただよふ午夜(ごや)の雪 (『雪峡』)
川波の手がひらひらと寒明くる
寒雁のつぶらかな声地におちず     (『椿花集』)
秋の風富士の全貌宙にあり
山中の蛍を呼びて知己となす
涸れ滝へ人を誘ふ極寒裡


 ところで、特別に進んで書きたいとは思わないが、一応書いていないと次へすすめないような気がす
るので、『震災句集』と『関揺れる』について書いておく。
 長谷川櫂については、まず『震災歌集』が震災後はやばやと書店にならんでいるのを見て、その素早
さへの驚きとともにある種の違和感を感じたことを思い出す。自分の思いを表現する一つの手段として
文芸がある。それぞれがその思いをこめて表現するのはきわめて健全なことだ。「ある種の違和感」と
いったが、これをながながと書くのが今回の主題ではない。
 それから十カ月後ぐらいに『震災句集』が出版された。

 実質的には、

 燎原(りようげん)の野火かとみれば気仙沼

で「震災」自体の句は始まる。自分を神に近い絶対者の位置において見ているという批判があるようだ
が、多彩な表現があって良いわけで、そのことに目くじらをたてることもあるまい。自分を神に近い絶
対者の位置において見るという視点への批判はたとえばフランス小説ではバルザックなどの十九世紀作
家の小説(ロマン)への批判としては、アンチ・ロマンとして開花したはずであるが、はたして本当に
花が咲いたかどうかは、疑問形でかたるしかない。「語る神」を幻視したい読者もけっこういるもので
ある。
 
 幾万の雛(ひな)わだつみを漂へる

 二句目である。文芸における「想像力」の重要性が云々されるが、これら最初の二句はまさに「想像
力」によって作られた句であるといえる。ただこの「想像力」が文芸の神に祝福されるものかどうか、
また被災者の「想像力」とぶつかった時どうなるのかは見ものである。しらけた思いをもたらす可能性
もないとはいえないと思える。
 それぞれの多彩な表現、それぞれの想像力、それらを時が鍛える。これからのあたらしい世代にも訴
える句になっているかどうか、時の批判をみとどけるほどにはぼくには時がのこされてはいない。
 
 『関揺れる』は御中虫が『震災句集』に反発して、ツイッターにのせた句である。反発もいろいろな
位相があるが、俳句の大御所的な存在を目指すように見える俳人に対する反発はともかく、格別の反発
はわかったようでよくわからない。それぞれの次元での多彩な表現はあっていいと思う。単なる排斥で
はない批判も大切だと思うととりあえず言っておく。
 『関揺れる』は面白い句集である。実に面白い展開がある。マンガ世代の句集といってよい。現代の
「落首」というか「狂句」である。「関揺れる」を季語のごとくあつかうということらしいが真意はよ
くわからない。「面白い展開がある」といったが、読み進むと面白いはずなのに、その内バリエーショ
ンというかマンネリ的な表現の波をただような感じにおそわれることになる。
 具体的な句を選びたいと思うが、選句といったものを受け入れるような構造にはなっていない。

 注意しろ関が余計に揺れだした    (『関揺れる』)
 本日はお日柄もよく関揺れる

 バリエーションの例として引用しておく。

 選句がうまくできないまま、とにかく読んで見るとおもしろいよといって、この項を終えることにな
る。

 なお、松岡正剛の「千夜千冊番外録」の次のまとめは、適切であるように思える。
 「しかし、とはいえ長谷川をそこまで追いつめるにはよほどの図抜けた才能を一気に消費する必要が
ある。ぐだぐだしていてはダメ、それなら長谷川に軍配が上がる。ここはやはり御中虫ほどの高速ツイー
トが必要だったのである。」 

 今回のこの二著をめぐって俳句界における論争の必要を説いている論者もいるようだが、文学論争に
は罵詈雑言によるエネルギーの無駄遣いの論争が多く、結局は各自の作品をつくって闘うしかない。そ
ういう意味では、御中虫は罵詈雑言的な言葉でいどむだけではなく、作品で挑んだ分それなりに意義の
ある行為であった。

 いずれにしろ、勝ち負けは人にまかせて、時にまかせて、とにかく自分の俳句を作り続けるという
「今」を生きるよりほかはないというのがぼくの思いだ。

2012.3.20.
「犬もあるけば棒にあたる」とのことわざのように、市立図書館に行ったら棒にあたった。禍福のうち
の福の棒にあたった。俳句の世界が、少し広がった。
 歩いていたら新刊書の棚の前にきた。『悲しみのゴンドラ』という書名が飛び込んできた。別にベニ
スの思い出にひたっていたわけではないが、ついつい手にとってしまった。詩集であった。ぱらぱらめ
くるうちに、いわゆる詩作品とともに「俳句詩」というべき三行詩が展開されていた。
 トランストロンメルという著者は知らなかったが、その本の解説で、2011年度のノーベル賞を受け
たスウェーデン詩人であると知った。つまり村上春樹を抑えてノーベル賞受賞を果たした詩人であった
のだ。
 「俳句詩」という訳語で、『悲しみのゴンドラ 増補版』には詩人の「俳句詩」が抄訳で追加されて
いるなどを含め、充実している。「俳句詩」についてはおおよその表現傾向がわかるようになっている。
 外国人の俳句については、あまり詳しくはない。フランスの詩人のボヌフォアが、第一回の正岡子規
賞をうけたことは、なんとなく記憶しているが、詳しいことは知らない。夏石番矢が「世界俳句協会」
を創立したことは知っているが、その機関紙をパラパラとめくっただけで、詳細ははよくわかっていな
い。
 ときどき外国人の作った俳句を目にすることもあるが、そのときの状況が悪かったのか感銘をうけた
記憶はない。
 増補版の栞には、黒田杏子がかつて絶版した詩集から筆写したことを感動をこめて書いている。斎藤
慎爾の文もある。その後「現代詩手帖 2011年2月号」に、高柳克弘の文があるのを見つけたが、何
をいいたいのかよくわからなかった。

 駄弁をろうする余裕があるほどいいたいことはないので、「気になる俳句」として、俳句詩を引用す
るにとどめることにする。なにかしら「気になる」ほどの興味を湧き上がらせる「俳句詩」である。

 木の葉が囁いた
 猪がオルガン演奏中だと
 と 鐘々が鳴ったのだ

 里程標のひとつづき
 みずからさまよい出たかのように
 聴えくる山鳩の声

 人のかたちの鳥たち
 林檎の樹々は花をつけていた
 この大きな謎

 少年がミルクを飲み
 おそれもなく眠る独房
 石造りの子宮

 黙示
 あの林檎の古木
 海が近い

 
 最後にこの詩集の「解説」にあるトランストロンメルの詩論、非常に示唆的である。

  「俳句型 ―― ヴィジョンがこの三行に入り込むのは、サーカス芸人が二十米の高みから水
を張った小桶を目指して跳び込むようなもの。自身も砕けることなく。」

 また詩友に送ったという手紙の一節、

  「十七文字の俳句は厳しい形、其処にある自由は針のめどを通すほどしかない。」 
 
2012.3.14.
 最近文庫本に『寺山修司の俳句入門』(光文社文庫)があるのに気がついて、最近読んだ。
寺山のものはすでにいろいろ持っているが、改めて若い感覚とはどういうものであるか感じた。そして
時代の若さも。
 これを機会に「気になる俳句」の句をを少し増やしてもいいかなと思い、句集を読み直した。
 ただ、すでにある程度の句を収録していて無理をして増やしている感じがあったのも否めないが、個
性的であるとはどういうことかの見本をすこしでも増やしてもいいかなとも思った。実際は少なかった。

 螢火で読みしは戸籍抄本のみ     (『花粉航海』)
 魔にもなれずマント着て立つ広場かな 
 旅に病んで銀河に溺死することも


 邑書林の島田牙城さんのツイッターで、御中虫句集『関揺れる』がでるとのこと。
 そういえば、御中虫についてはすでに 『おまえの倫理を崩すためならば何度(なんぼ)でも車椅子
を奪うぜ』の書名をあげている。(2011.8.14)その時には具体的な句はあげなかった。
 この機会に読み直してみるかと、家中探し回ってやっと見つけた。

 最近の芥川賞ではないが、「共食ひ」という語を使った句があった。

 共食ひはまうやめました鰯雲  (『おまえの倫理を崩すためならば何度(なんぼ)でも車椅子
                    を奪うぜ』)

 ずいーと読んだが、今回も引用する句はしぼれなかった。

 女なんだ証拠はないが信じてくれ

 乳房やさわられながら豆餅食う

 などには、叫ぶ存在の存在感の萌芽を見たわけであるが。

 ただ、精神的にもおもしろい存在であるのはたしかで『関揺れる』は読んでみたいと思った。
 予約注文することにした。


2012.2.27.
 『俳コレ』(邑書林)をよむ。

 若者ばかりと思っていたが、年配の作者もいるので、あくまでも若い世代の基調ではあるが、基調は、
ライトバース。
 ライトバース。軽い詩。坪内稔典おとくいの分野である。池田澄子もその傾向がある。俳とはもとも
とそんなものだという言い方もあるだろう。「軽み」。ただ、あまりにも手軽なライトにながれている
ようにも思われる。平成月並みになりかねない平成ライトのカラーが強い。
(ただ、芭蕉的大きさ、重さとともに軽みや滑稽にも大いに関心のあるぼくはあまりひとのことは言え
ない。)

 かつては腸ねん転をおこしているような若者の俳句のアンソロジーが盛んに出版された時代があった。
自分だけのイメージを難解な形で表現しようとするのも若者の特権である。そしてそういった若者たち
の教主は常にいた。

 『俳コレ』一読の印象としては、若すぎるライトバースだが、その言葉で切り捨てできるものでもな
い。未来の萌芽も当然のように秘めているはずだ。

 気になった句をいくつかあげてあげてみる。「そもそも俳句とは」などといった理屈はとらない。そ
れぞれの俳句で十分だ。気になるかそうでもないかがあるだけだ。
 結果的に年配者の句をけっこう選んでしまったようだ。

 迷ひたき寒林のある二十歳かな    野口る理
 歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて   福田若之
 おつぱいを三百並べ卒業式      松本てふこ
 春の空言葉は歌になりたがり     南三十國
 みんな笑顔枯木ばかりの道歩む
 幸福だこんなに汗が出るなんて    雪我狂流
 湖は平らな所ボート浮く
 入口のやうにふらここ吊られけり   斎藤朝比古
 サイレンとカレーの混ざり合ふ朧   山下つばさ
 良夜かな独りになりに夫が逝く    渋川京子
 九官鳥同士は無口うららけし     望月周
 空蝉をたくさんつけてしづかな木   津川絵里子 (蝉旧字)
 見えさうな金木犀の香なりけり
 江戸川や金魚もかかる仕掛網     依光陽子
 
 
2012.2.21.

 最近読んだ本から二冊

 伝統派とかならずしもそれにとらわれない二人の俳人の本をとりあげる。句集を読んでの感想をあつ
かった本と句集についての本である。 

 宇多喜代子『名句十二か月』(角川書店)
 伝統派から前衛まではば広く宇多が名句と思えるものを集めている。
 すでにぼくのサイト「現代俳句抄」に引用した句も多くなつかしく読んだ。この本ではじめて読んだ
句もなぜかなつかしく読めた。安心して読める句だ。
 匿名(死刑囚とのことだ)作者の次の句は新鮮だ。死刑囚の境遇が直截に表現されている。ヴィヨン
ではないが、「よくわかっている、あの狂おしい青春時代に、勉強していたら、行い正しくふるまって
いたら」という思いにかられているのだろうか。

 一匹の蟻の自由を見てをりぬ   匿名

 そういえば、「鷹」に入る前、つまり俳句を自分なりに作りはじめたころの自分の句をひさしぶりで、
思い出した。

 日向ぼこ一匹の蟻見失ふ   佐々木敏光

 未発表である。もしかしたら「鷹」に投句したかもしれないが、採用されてはいない。

 岸本尚毅『生き方としての俳句 句集鑑賞入門』(三省堂)
 すでにこの欄で岸本の『高浜虚子 俳句の力』を紹介している。
 『高浜虚子 俳句の力』は俳句の本道としての虚子を盲信ではなく、確固たる信念のもと紹介してい
る気持ちの良い本であった。

 『生き方としての俳句 句集鑑賞入門』は、虚子、芭蕉の言及に始まり、俳句とは何か、また色々な
句集の紹介の書でもあり、簡単にまとめることはできない。
 ということで、書けば長くなる。具体的な句については、今回は書かない。じっくり読んで損はしな
い俳書としてすすめておくという中途半端な形で本日は終わる。
 といっても、一句だけあげておきたい。これはぼくのサイト「現代俳句抄」にすでに引用している句
だが、定住前の十年その後の数年の森の中での生活で、あらためて響いてくる句である。

 落栗やなにかと言へばすぐ谺   芝不器男

2012.2.15.

 今回は、堀本裕樹と関悦史の句を扱いたい。
 堀本は過去にすでに言及しているが、「現代俳句抄」にはまだのせてはいなかった。
今回『俳句界』で、「北斗賞」受賞作「熊野曼荼羅」「自選十句」の掲載があり、そのうちから

 詩を生みて万年筆の吹雪きけり    (「熊野曼荼羅」「自選十句」)
 火焔土器よりつぎつぎと揚羽かな
 那智の滝われ一滴のしずくなり

を、「現代俳句抄」に追加引用したい。前回の「北斗賞」にはほとんど感興はわかなかったが今回は注
目していた若手俳人だけにここにとりあげる。(ついでに今回の芥川賞「共食い」は勝手に書いてよと
いいたくなるある意味では脆弱な作品と思われた。)

 詩を生みて万年筆の吹雪きけり
 那智の滝われ一滴のしずくなり

は、すでに別のところで、見知っていた句であった。

 ただし、最初の句は、最初に読んだ時には、

 詩を書いて万年筆のふぶきけり  

と書いてあり、「北斗賞」では「書いて」が「生みて」と推敲されている。
 最初句を見たとき、引用するかなと思ったことを思い出した。

 また、すでに去年の『俳句界』1月号の「平成の好敵手」から。

  炎天を突き破りたき拳あり      堀本裕樹
  只の石からすあげはが荘厳す     高柳克弘

の二句を紹介しているのが、堀本、高柳それぞれの句を「現代俳句抄」に追加する。

  関悦史も「現代俳句抄」に『新撰21』から、

 虚子の忌の喋る稲畑汀子かな 

 を、すでに引用しているが、今回、句集『六十億本の回転する曲がつた棒』(邑書林)を入手、もう
すこし増やしていいかなと思った。

 皿皿皿皿皿血皿皿皿皿            (『六十億本の回転する曲がつた棒』)
 ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり
 抱へて遺骨の祖母燥(はしゃ)ぎつつバス待つ春
 天使とも蛆ともつかぬものきたる
 まだ夢を見てゐる牡蠣を食ひにけり
 小鳥来て姉と名乗りぬ飼ひにけり
 胡桃のなか僧棲みてともに割らる
 
 ところで、
 島田牙城の『誤植』は不思議な句集である。句集の最後に「以上三百三十三句を誤植とする」とある。
別に誤植はないように思える。あとがきに「タイトルを「誤植」としたのには意味がない。(中略)語
るまい。」とある。韜晦趣味を示す言であろうか。「照れ」からそうなのか、また旧漢字使用を含め強
烈な「反骨精神」のしからしむるところなのか、おそらく両方であろうと思っておく。
 信州在住の「<俳の人>たる歩みに肝を据ゑた」俳人、若い俳人の発掘に力をそそぐ編集人でもある。

 さづかれる罪のごとくにおめでたう  (『誤植』)
 正月の神取巻が多すぎる
 みな道を闊痰ヲてゐる雪野かな      (「間」の旧字体)
 數へ直さうぶらんこの鎖の輪 

 今日別のところ(「森の中のモンテーニュ」)でも書いてしまったが、次のことを自覚して、大きく
句作を続けたいものだ。

 久しぶりに、ある禅語に再会した。
 「大用現前、軌則を存ぜず」という禅語だ。つまり「自然は人工的な規則などとは無縁な、大用現前
(眼の前で現象している自然そのものは大きく働いている)があるものであり、人間の判断や規則が及
ばないものである。」この言葉は、たとえば俳句には俳句なりの規則がある。ただ、そういった規則的
なものを意識しつつも、それに縛られることなく、自由に発想をして、大きな意味での自然を表現する
ようにするといったかたちで、活用できる。大きなものを見つめていきたいものだ。


2012.1.9.

 新年初めての、そして久しぶりの更新。ほとんど間歇的になっているが、無理な努力は行わない。

 12月に書くつもりであった関心句を若干。

 『俳句年鑑2012』(角川学芸出版)からである。
 あくまで「気になる俳句」はぼくの関心に関わる俳句であって、他意はない。

 まず「片山由美子選100句」から

 車にも仰臥という死春の月      高野ムツオ
 もひとりの我の住みゐる蜃気楼    眞鍋呉夫
 みんみんに頭蓋締め付けられゐたり  奥坂まや
 朴の花どすんどすんと山置かれ    宮坂静生
 
 「今年の句集ベスト15」の諸記事(橋本榮治、小林貴子、鴇田智哉)から

  『妣の国』(奥坂まや)より

 十二月コツプに水の直立す
 若楓おほぞら死者にひらきけり
 ことごとく髪に根のある旱かな

  『観自在』(三村純也)より
 
 大神を仕留めて狂ひ絶えし家

  『残像』(山口優夢)より

 あぢさいはすべて残像ではないか
 
  上記の奥坂や高野、山口の句はすでに見知っていた。俳句雑誌、句集など読んではいないわけでは
ないが、今回は『俳句年鑑2012』にしぼってみた。ひとの褌で相撲をとっているような気もするが、
自分にとっていい句を見つけるには手段を選ばないほうがいい。選句に関して自分に誇るつもりはない
のである。

 ついでに、最近のNHK俳句の中で八田木枯の次の句を含め2句が紹介された。自解付きであった。

  汗の馬芒のなかに鏡なす     (『汗馬楽鈔』)

  八田木枯の句、今までも選ぼうと思って読んだりしたがどうも選びきれない。肝心なところで待て
よということになる。紹介などは他の人にまかせたほうがいい俳人のケースなのかもしれない。

2011.12.3.

 更新、遅れ遅れになっている。一方遅れることに無頓着になっている自分もいる。
俳句関係の本、あれこれと読んでいないわけではない。いまの所無理してまで書くことはないというの
が正直な思いだ。

  当然採用したと思いこんでいたわけだが、落としていた句に次の句がある。追加しておきたい。大
峯あきらの句である。
『自句自解ベスト100句 大峯あきら』(ふらんす堂)を読んでハッとした。

 虫の夜の星空に浮く地球かな      (『夏の峠』)

  季節は違うがすでに引用している次の正木ゆう子と同じような雰囲気を与える句であるが、「虫の
夜」が独特な雰囲気を醸し出す。自解に「私はいったいどこにいるのか」とある。

 水の地球すこしはなれて春の月     (正木ゆう子『静かな水』)

 これを機会に大峯あきらの句を追加しておきたい。 

炎天の富士となりつつありしかな    (『紺碧の鐘』)
人は死に竹は皮脱ぐまひるかな     (『吉野』)
青空の太陽系に羽子をつく       (『牡丹』)
月はいま地球の裏か磯遊び
 
 『自句自解ベスト100句』といえば、小川軽舟のそれは自解に際しての素直な感想に好感をもって
読めた。

 我等パンツならべ干すなり冬銀河  (未発表)

は、鷹新人会あとの袋回しのとき好評だった句のようだ。「ただし、湘子に投句するのは躊躇され
た。」とある。湘子は実に、恐い先生であった。書き出すときりがないが、弟子養成にあたっては厳し
く、時には行き過ぎのように思えることもあった。良くも悪くも伝統的な親父世代を体現したような先
生であった。俳句に対してはそうではあったが、同時にけっこう気安さもちゃめっけもあったのだ。

2011.10.14.
 久しぶりの更新。
 『ユリイカ 2011年10月号』「特集*現代俳句の新しい波」を読む。
 編集者も言っているように、この雑誌は詩の雑誌であり、俳句の特集には慣れていないようである。
たとえ慣れているといっても「新しい波」というテーマで十全な特集ができるかは保障の限りではない。
「新しい波」は見えてくるともう新しさを失ってしまいがちだ。そして、「新しい波」はそうそう起こ
るものではない。 

 川上弘美×千野帽子×堀本裕樹の鼎談では、結社離れが「新しい波」であることがあらためてわかる。

 若い俳人の俳句作品掲載、こちらが古びているせいもあるが、新しい波にしては、新しい感動をもた
らさない。せっかくの高柳克弘、山口優夢、堀本裕樹など注目している俳人たちの作品がならんではい
るが。
 これもこちらが古びているせいか、かえって俳人ではない又吉直樹(ピース)の俳句(?)の素朴さ
というか、原初的な表現が語りかけてくる。

  夕焼けだ逃げろ

  幹事の死角に入る

 原初的ということで、久しぶりで、短歌の饒舌さに嫌気がさして、俳句にうつった昔を思い出した。
俳句も饒舌に感じてしまったら、ただ、単語だけになるのかなと当時思ったものだ。今更かくことでも
ないが、

 あつ、桜

では、話にはならないだろう。

 角川春樹のインタヴューはおもしろかった。題して「「魂の一行詩」 の揮う力」。
ただ内容的には「新しい波」とはいえず、角川の持論(「魂の一行詩」)の展開であった。
俳句も詩であることは賛成だ。盆栽俳句として、旧態依然たるものを切り捨てようとする態度もわかる。
ただ、日本一行詩協会といった言葉をきくと、ぎょっとする。どんなすぐれた考えもスローガンにして
しまうと、その熱気が追随者たちの中で陳腐化することもありうる。
 定義しすぎないゆるやかな勇気が求められる。これはスローガンとは言えないが、たとえば、かつて
引用したことのある田中裕明の発言ぐらいでやめておくのが、ぼくの好みである。

 「俳句は詩です。詩は言葉でつくります」
 「詩はむりなくわかることが大切だと思います」
 「俳句という詩は、ほんのささやかな営みですが、セオリーを身につけて、そしてセオリーを忘れる
ことが大切です」

 最近の加藤郁乎の『晩節』の次の句ほどに言い切ることはないだろう。けれん味もそこそこに。

  けれん味はもう沢山や冷奴

  立川志らくの『落語進化論』の発言が思い出される。芸能ではないが、有季定型を基本としつつ、
時には羽目をはずしつつとも思う。
  「大切に守られながらも、才能ある演者たちによってどんどん作り変えられていくのが、伝統芸能
のあるべき姿だと私は信じている。」

 ここで、文脈をそれるが、最近やっていることを書く。

 原点に帰るというか、俳句の故郷への再訪というか、俳句についてあらためて考えて見るためにも、
目下、芭蕉、蕪村、一茶を読み直している。(勿論、万葉、漢詩などさらなる詩の源泉への訪れもかか
してはいない。)

 たとえば示唆的な句の多い芭蕉では、次の二句などがこれからの作句のヒントになりそうな気がする。

 若葉して御(おん)めの雫ぬぐはばや

 鎖(じやう)あけて月さし入れよ浮御堂  

 蕪村も一茶も示唆的な句が多いが今回は省略。なお、芭蕉、蕪村、一茶などの句は、すでにこのサイ
トの「俳句」欄に大部分引用している。

 さらに文脈がそれることになるが、最近 最近、村上春樹『雑文集』を読んで、あらためて「書くこ
と」、俳句を書くことについて考えることになった。特に冒頭の「自己とはなにか(あるいはおいしい
牡蠣フライの食べ方)」の章である。
 コメントを書いてみたが、つまらないので、それは省き、引用だけにしておく。


 「小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家と
は、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業(なりわい)とする人間です」と。」

 村上はその理由を「多くの正しい観察のないところに多くの正しい描写はありえない」と言い、わず
かにしか判断を下さないのは「最終的な判断を下すのは常に読者であって、作者ではないからだ。小説
家の役割は、下すべき判断をもっとも魅惑的なかたちにして読者にそっと(べつに暴力的にでもいいの
だけれど)手渡すことにある。
 おそらくご存じだとは思うけれど、小説家が(面倒がって、あるいは単に自己顕示のために)その権
利を読者に委ねることもなく、自分であれこれものごとを判断を下し始めると、小説はまずつまらなく
なる。深みがなくなり、言葉が自然な輝きを失い、物事がうまく動かなくなる。
 よき物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することで
はなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ。」

 「読者はその仮説の集積をーーもちろんその物語を気に入ればということだがーー自分の中にとりあ
えずインテクトし、自分のオーダーに従ってもう一度個人的にわかりやすいかたちに並べ替える。」

 「仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、
初めて風は目に見えるものになる。」

 
 その他、最近読んだ句集の感想も用意していたが、そのうち機会があったらということにして、今回
はこれで終わる。

2011.8.14.

 他人の句を読まなくなったわけではない。最近は実作を中心とするようにしている。俳句雑誌や手持
ちの句集、選集や、図書館の俳句関係の書なども適当に読んでいるが、現在は実作に大きな比重をかけ
ている。
 自分なりの俳句を創る面白さが、或る程度の休止期間を経て、最近特にわかりかけてきた。無所属と
いう気安さも「俳句を創る面白さ」に貢献している。そういうわけで、この「気になる俳句」の更新は、
気になるほど「気まぐれ」になるはずである。
 
 さて、『新撰21』、『超新撰21』気になっているが、「気になる俳句」というかたちで、具体的
にあれこれの句をあげるのは、これらの選集には表面的な多彩さもあり、なぜか短くまとめるにはむつ
かしい。ここでは、そのうちの一部について触れるだけでとどめておきたい。
 また、御中虫『おまえの倫理を崩すためならば何度(なんぼ)でも車椅子を奪うぜ』のエネルギッシュ
な句については老人のぼくがわざわざふれなくてもいいかなと思うことにした。勿論エネルギーに満ち
た句の存在の必要性はわかっているいるつもりだ。(『超新撰21』の中で、高山れおなの種田スガル
小論で、御中虫を含め、肉食系女子の二十一世紀自由律という語を使って最近の一連の俳句を説明して
いる。おもしろい表現だ。そうはいっても草食系男子の俳句想望俳句と言う語はやや気の毒すぎるとは
思うが。)

 『新撰21』では、ぼくがかつて「鷹」にいたせいか、俳句は結局好みの問題になるわけであり、あ
くまでぼくの好みによるわけで、目下「鷹」とはまったく無縁で党派精神とは全く関係ないが、高柳克
弘は安心して読める。

 草原のかぜ虫籠をとほりけり    高柳克弘

 は、昔どこかで読んで、その若さが新鮮だと思ったことを思いだした。

 相子智恵の次の句はすでにこの欄で触れているが、かつて「鷹」編集長であった小澤實さんの「澤」
所属とのことだ。
 
 一滴の我一瀑を落ちにけり     相子智恵  

 他に気になるというより、面白いなと思った句を四、五あげておく。

 心臓はひかりを知らず雪解川    山口優夢

 水澄むや宇宙の底にいる私     神野紗希
 
 なまはげの指の結婚指輪かな    中本真人

 うららかや青海原といふけもの   冨田拓也
 
 虚子の忌の喋る稲畑汀子かな    関悦史
 
 『超新撰21』でも、上記と同じ理由により、党派精神とは全く関係なく、小川軽舟は安心して読め
る。小川軽舟はすでに「現代俳句抄」でもとりあげている。今回は次の二句を付け加える。

 闇寒し光が物にとどくまで     小川軽舟

 平凡な言葉かがやくはこべかな   小川軽舟

 『超新撰21』で一句だけをあげるとすると

 波寄せて詩歌の国や大旦      大谷弘至

 である。響きが大きく気持ちのいい句である。
 「鷹」という名を出したが、大谷は長谷川櫂の「古志」の新主宰とのことだ。長谷川櫂には「冬深し
柱の中の濤の音」という句があり、俳句をはじめたころ、上手いと共に句の広がりに感心したものだ。
 かつて古い「鷹」を見ていたら投句欄で長谷川櫂という名が目に入った。長谷川の遍歴時代だったの
か、妙に安心をおぼえたことがある。長谷川櫂は、平井照敏から飴山實へ師事ということになっている。
集団行動が嫌いというより苦手といっていいぼくも本格的に俳句をはじめる以上は結社しかないと思い
こみ、結社をそれなりに調べてみた。そして能村登四郎、上田五千石、飯田龍太とともに、平井照敏も
リストにいれた。結局は藤田湘子を選んだ。
 『超新撰21』で、全体的に面白く読めるのは、小川軽舟に続いては、榮猿丸である。この人も、か
つて「鷹」編集長の小澤實さんの「澤」所属とのことだ。ぼくが富士近くにすみ、目下富士の句を中心
に詠んでいるいるせいもあり、次の句におもしろさを感じた。

 富士山は雲の奥なる昼寝かな    榮猿丸

次の句も面白い。

 竹馬に乗りたる父や何処まで行く  榮猿丸

 他に面白い句をあげると、つぎの通り。
 
 清明や雲の生まるる音のして    明隅礼子

 天の川源流今も星生まれ      小沢麻結

 上のとんぼ下のとんぼと入れかはる 上田信治

2011.7.18.

 ある闇は蟲の形をして哭けり

 すでに「現代俳句抄」に掲載していた河原枇杷男の句の一つである。

 今日は、枇杷男の句を追加する。
 枇杷男は、特異な俳人である。刺激的な存在である。知名度の詳細はしらないが、句集そのものが手
にはいりにくい。図書館でも句集は、『烏宙論』(『現代俳句集成 第17巻』)以外を見つけようとす
るのは困難である。
 ただ、最近では愛媛県の国際俳句大賞の受賞者 金子 兜太につづき、河原枇杷男も俳句賞受賞者とし
て表彰されている。見ている人は見ているのである。枇杷男の句集は入手しにくい。これを機会に、複
数人編集による選句集ぐらいは出してほしいものだ。
 『烏宙論』は、『現代俳句集成 第17巻』に、また抄出的なものとして、『現代俳句全集五』、『現
代俳句集成全一巻』や『現代俳句の鑑賞101』などあるが、『烏宙論』以外の句集は、図書館でもみ
つけにくい。
 今、国会図書館の『河原枇杷男全句集』を富士宮市立図書館経由で借りている。ただ、国会図書館の
本は閲覧室以外では閲覧できない。コピー禁止とけっこうきびしい。 パソコンで興味のある句を書きと
ることにした。この本は東京都立図書館にもあるのだが、都立図書館は他の図書館への貸し出しはしな
いとのことである。

 追加句は以下の通り。

 河原枇杷男

母の忌の蛍や籠の中を飛ぶ      (『烏宙論』)
蝶交む一瞬天地さかしまに 
手にもてば手の蓮に來る夕かな
身を出でて杉菜に踞む暗きもの
在る草に佛眼賜ふ玉霰
行く秋のひとさし指は焚きにけり
流木の一つは深夜を飛行せる
秋かぜや耳を覆へば耳の声
薄氷笑ふに堪へて物は在り
枯草に二人の我のひとりすむ     (『密』)
抱けば君のなかに菜の花灯りけり
身のなかを北より泉ながれけむ
誰も背に暗きもの負ふ蓬摘み
枯野くるひとりは嗄れし死者の声   (『閻浮提考』)
昼顔や死は目をあける風の中 
一頭の闇のいななく粉雪かな  
ぜんまゐのこの一本の嗤ひかな    (『流灌頂』)
昔より我を蹤けくる蝶ひとつ     (『訶梨陀夜』)
薄氷天に奥山在るごとし  
くれなゐの夢より蝉かひとつ落つ     
おほむらさき虚(おほぞら)もまた年経たる(『蝶座』)
星月夜こころに羽打つもの棲みて
三味線草地球も長き影曳くや      (『喫茶去』)
春深しおのれ抱へてよろめきぬ
家霊みな嫗のかほや稲の秋
蛾を打つて我ばらばらに毀れける
響として皆物は在り寒昴
鶯や高橋新吉けふも留守        (『阿吽』)
この道や虹よりことば又貰ふ
こがらしの尾を踏む観心寺出て
実朝忌至るところに谺棲み
年の暮れときどき我を君と呼び 

2011.7.15.

 こういうユーモアもいい。阿部青鞋のそれだ。
 今まで掲載していた阿部青鞋の句は

 くさめして我はふたりに分かれけり   (『ひとるたま』)
 想像がそつくり一つ棄ててある

等の四句だけであった。刺激的な俳人である。
 今回思い切って数を増やそうと思う。といっても肝心な句集が手に入れにくい。手元にあるのは、選
集だけである。(『俳句の魅力 阿部青鞋選集』)追加句のため、何種類かの俳句紹介関係の本や阿部
青鞋論などを参考にしたりして、追加することにした。もちろん僕が面白いと思った句だけだ。 

 皿嗅げば皿のにおいがするばかり    (『火門集』)
 地曳網おそろしければ吾も曳く
 半円をかきおそろしくなりぬ
 電線を死後のごとくに見上げ居り
 流れつくこんぶに何が書いてあるか
 虹自身時間はありと思ひけり
 青年と気持のわるい握手をする
 むつかしき顔してあるく暑さかな
 寒鯉やくちをむすんでひげ二つ
 かあかあと飛んでもみたい桜かな
 砂ほれば肉の如くにぬれて居り
 かたつむり湖畔に踏まれうれしがる
 わが目にくるほかはなき冬日差
 雁がみな帰る香炉も帰るおもい
 人間を撲つ音だけが書いてある
 立ちあがりくる夏汐のふぐり見ゆ
 噴水を上げて不幸な首都があり
 ぶりの血を見ながら牡蛎を買いにけり 
 感動のけむりをあぐるトースター 
 べとべとのつめたい写真館があり
 憤怒して畳にもどる冬の蠅
 キリストの顔に似ている時計かな
 釣人のうしろ鶯きゃーと鳴く 
 牛を飼い畠をつくる嫉妬深さ 
 げに悪き鯉にならばやと思う教師 
 蓮根は飛んでみたしと思ひけり 
 ゆびずもう親ゆびらしくたたかえり
 ぼくの家が五六の蜂に愛される
 つったっている憂鬱な汐干狩
 青年のごとくに腹をこわしをり
 冬蝶のこときれしのちあそびけり     (『続・火門集』)
 筋肉が緊張すればすみれ咲く
 額縁屋額縁だけを売りにけり
 十本の指を俄かにならべてみる
 おそろしき般若のめんのうらを見る
 うかんむりの空を見乍ら散歩する
 この国の言葉によりて花ぐもり      (『ひとるたま』)
 想像がそつくり一つ棄ててある
 炎天をゆく一のわれまた二のわれ
 ねむれずに象のしわなど考へる
 くさめして我はふたりに分れけり
 或るときは洗ひざらしの蝶がとぶ
 冷蔵庫に入らうとする赤ん坊
 左手に右手が突如かぶりつく
 一匹の穀象家を出てゆけり   
 何もかも知らんとひかる螢かな
    ☆
 あんぱんのあんを見て食ふ二月かな      (補遺)
 望の月しばらく見ればしばらく経つ      (不明)
 いくつ鳴るつもりの柱時計かな
 天国へブラック珈琲飲んでから
 参考に一つの星が流れけり 
 
2011.7.14.

 今回は、佐藤鬼房。
 佐藤鬼房、学ぶべきものが多い俳人である。東北という土地に根差した豊かな想像力。
東北の底力を思う。鬼房を通じ、今回の東北、東日本大震災につながる人々を思う。

 今の所上田五千石、河原枇杷男、阿部青鞋 なども用意している。虚子、芭蕉、蕪村、江戸俳諧もす
こしずつ進めている。
 また、そのうち『新撰21』、『超新撰21』、御中虫『おまえの倫理を崩すためならば何度(なん
ぼ)でも車椅子を奪うぜ』などにも触れてみたい。

 その前に、三橋敏雄の次の句、追加しておきたい。

 出征ぞ子供等犬は歓べり     (『まぼろしの鱶』)

 鬼房句追加。

かまきりの貧しき天衣ひろげたり    (『名もなき日夜』)
馬の目に雪ふり湾をひたぬらす     (『海溝』) 
生きてまぐはふきさらぎの望の夜    (『朝の日』)
新月や蛸壺に目が生える頃       (『何處へ』)
半跏座の内なる吾や五月闇       (『半跏座』)
蝦蟇よわれ混沌として存へん
秘仏とは女体なるべし稲の花      (『霜の聲』)
帰りなん春曙の胎内へ         (『枯峠』)
ほら吹きになりたや春の一番に
またの世は旅の花火師命懸       (『愛痛きまで』)

2011.6.21.
 相生垣瓜人

 何物が蛾を装ひて入り来るや
 一団の年賀状にぞ襲はれし
 老人の打つに忍びぬ老鬼かな
 心まで着ぶくれをるが厭はるる
 春来る童子の群れて来る如く

 すでに引用している句であるが、読み直してみるとけっこう面白い。老年の俳句作りの一つの面白い
例だろう。橋間石もそうだがこのひとの若い時の句はあまり面白いとは言えない。
 
 「現代俳句抄」への追加句をと、読みなおして見るとけっこう面白い句が多いが、なにかパターン化
しているようで、今回の追加は多くない。

炎天をさ迷ひをれる微風あり(『負喧』)
一連の好語を聞けり鶯語なり
一院へ落花を浴びに行きにけり
天高し其他の物は皆低し  
無謀にも米寿の春を迎へけり

2011.6.18.
 『金子兜太・池田澄子 兜太百句を読む』を読む。なかなか面白い。つらい時期にも、面白く俳句を
作ろうとしている。
 この機会に、あらためて兜太追加句を選んで「現代俳句抄」に追加することとする。

 蛾のまなこ赤光なれば海を恋う     (『少年』)
 どれもロ美し晩夏のジャズ一団     (『蜿蜿』)
 白梅や老子無心の旅に住む       (『金子兜大全句集』「生長」)
 立山や便器に坐禅のような俺が     (『猪羊集』  (金子兜太自選句))
 月が出て美女群浴の白照す       (『詩經國風』)
 白樺老僧みずみずしく遊ぶ                        
 燕帰るわたしも帰る並(な)みの家   (『両神』)
 小鳥来て巨岩に一粒の言葉       (『東国抄』)
 合歓の花君と別れてうろつくよ     (『日常』)
 みちのくに鬼房ありきその死もあり
 長寿の母うんこのようにわれを産みぬ
 亡妻いまこの木に在りや楷芽吹く
 孤独死の象や鯨や正月や        
 今日までジユゴン明日は虎ふぐのわれか

2011.6.13.
 「現代俳句抄」 飯島晴子 追加四句

 わがたましひ赤?(えひ)となり泳ぐかな      (『八頭』)
 禿鷲の翼片方づつ収む
 みぞはぎは大好きな花愚図な花           (『寒晴』)
 ほんだはら潰し尽くしてからなら退(の)く     (『平日』)

 飯島晴子の発言
「(...)作法を決めたくないのが私の作法であるという観を呈している。しかしどの句も、その時
の私自身に対してせい一杯忠実につくってきたつもりである。そのうちに、俳句は事前に予定すると成
功し難いという厄介なこともわかってきた。
 作法は選ばず、結局私がこだわるのは言葉だけである。俳句という特殊な詩形にのせて、言葉を詩の
言葉としていかに機能よく働かせるかという興味である。
 俳句の場で言葉、言葉というと、こころを軽視しているととられる。だが、作品をなすにはまず何ら
かの意味でのこころが在り、最後に又何らかのこころが出ていなければならないのは当然である。」 
   (飯島晴子「俳句作法」)

2011.6.10.
 
  体内も枯山水の微光かな 橋間石(『微光』)

  「詩の本領は重層の曖昧さにある」(橋間石)

2011.6.6.

  落蝉や誰かが先に落ちて居る   永田耕衣 (『殺祖』)

2011.6.4.
  先々日の追加。
 特集「夭折の俳人たち」の小林貴子の文章「哀惜」で触れられている蜂須賀薫の句をここに引用して
おく。小林貴子さんの紹介句の中の一つである。

 闇汁の中泳ぐものあるといふ      蜂須賀薫   

2011.6.2.
 富士宮に定住後、今では「富士百句」を集中的に詠んでいる。句数だけではすでに数百句になってい
るが、残せる句となると別のことである。今までは基本的には有季定型として句作していた。今では、
富士を季語に相当する、いわゆる芭蕉の「発句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別等、無季の句あ
りたきもの」を意識して句作している。少なくとも富士は「名所」、別な言い方をすると「歌枕」と言っ
ていいであろう。いわゆる無季の句であるが、無季の句を含めて句作の楽しさをおぼえている。
 定年後の予定としては、句作、短編小説創作、モンテーニュ論執筆と少なくとも三つあったが、定年
後二年たった今は、三兎を追うより句作一兎にしぼるのが残された人生を豊かに生きることにつながる
と思い定めている。
 すでに二十年以上前から、永田耕衣、橋間石、相生垣瓜人などには注目はしていたし、句集もそれな
りに集めていたが、老年の豊かさを秘めたこれらの俳人は、今あらためて関心をもっている。また今さ
らのように「鷹」の副主宰格であった飯島晴子の句作姿勢に教えられることが多い。晴子の自死もわか
りかけてきた気がする。俳句と格闘するすさまじさの一端もやっとこの歳でわかりかけてきた。ただ、
ぼくはぼくなりのペースで、すすめるより他はない。ぼくはぼくであるより他はない。

 さて、前々回の大木あまり『星涼』について「数句にしぼろうとするとなかなか難しい」と言ったが、
今回は

  かりそめの踊いつしかひたむきに 

を「現代俳句抄」に取り上げる。

 また、前々々回の『新撰21』についての追加は以下の通り。  

  『新撰21』すでに一回読んだあと、時をおいてまたパラパラと読みなおした。そのなかで、見落
とすべきではなかった句を見つけ「現代俳句抄」に取り上げることとする。

 相子智恵の

 一滴の我一瀑を落ちにけり        (『新撰21』)

 である。高柳克弘はすでに、

 ことごとく未踏なりけり冬の星      (『未踏』)

を、「現代俳句抄」にとりあげておいたが、つぎの一句をつけくわえたい。

 蝶々の遊ぶ只中蝶生る          (『未踏』)

 さらにまた、藤田哲史のすでに触れた次の句も『新撰21』にあり、「現代俳句抄」にいれたい。 

 泳がねど先生水着笛を吹き        (『新撰21』)

ついでに書こうと思っていたことを書いておく。
 『俳句界』五月号「夭折の俳人たち」に関しては「現代俳句抄」で、すでにとりあげている俳人は多
い(篠原鳳作、寺山修司、福永耕二、攝津幸彦、田中裕明、住宅顕信など8,9人におよぶ)が、取り
上げていなかった俳人の俳句でことに面白かったのは、加本泰男の次の句である。

 偉大なる母が寝ておる秋の夜

 同じ特集の小林貴子の文章「哀惜」に、蜂須賀薫の名を見たとき、昔「鷹」にはいった時のことが思
い出されてきた。当時の「鷹」には小澤實さんをはじめ、小林貴子さんなど信州大学出身の優れた若い
人たちがいて、その中に、蜂須賀薫さんもいるのをいつしか気がついていた。そのうち亡くなったのを
知った。若いのに気の毒とは思ったが、てっきり病死と思っていた。今回自殺であったことを初めてしっ
た。ここでその感想を書こうとは思わないが、若い人たちが俳句とともに懸命に生きていたことをあら
ためて思ってみた。遅ればせながら、ご冥福を申しあげたい。
 
2011.5.9.
 「もしドラ」(『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』)
がベストセラーになり、またテレビ放映されたり、ドラッカーは一種のブームになっている。ぼくもそ
の流れの中で、はずかしながらついつい『ドラッカー名言集』を読んでしまった。
 後悔はしていない。それなりに有益な面もあった。
 ぼくにとっては、彼が言っている次の二点があらためて面白いと思った。
 1.「唯一の正しい答えはない」とともにイデオロギーの終焉を語っていること。
 2.イノヴェーションの重要性、背後には「すべては陳腐化する」つまり変化、革新への大切さを強
調していること。

 俳句と結びつけられる面もある。
 イノヴェーション、変化の重要視は、図書館でふと手にした小澤實編『おとなの愉しみ 俳句入門』
にもあらためて感じた。小澤さんは言っている「一見隆盛を極める現在の俳句界ですが、昭和期の遺産
にもたれかかり、食い潰しているといった印象を否定できません。大袈裟にいえば、表現の革新を目指
すといったような気概に欠ける気がしてなりません。」また自身の俳句観のスタンスを「前衛的立場を
愛おしむ伝統」ということになろうかと言っておられる。イノヴェーションの立場を意識した発言だ。
 かつて小澤さんが編集長をされていた「鷹」は、主宰の藤田湘子がかつて現代俳句協会の幹事長をやっ
ていたり、副主宰格の飯島晴子などを含め、イノヴェーション的な面も結構大きかったようにも思える。
そういう自由さにひかれて入会したわけだが、ぼくが「鷹」入会したころには、「鷹」も大きなまがり
かどにきていた。「俳句における新」を言い通づけておられた湘子先生だが、大結社をまとめる苦労も
あったと思うが、すでにシフトは俳人協会になされていて、俳人協会員のメンバーの比率が多くなって
いた。勿論、現代俳句協会が前衛とは限らないし、俳人協会が後衛というわけでもない。前衛でも
<陳腐化>した前衛もありうるのである。
 ぼくも「鷹」の同人になった時には、現代俳句協会、俳人協会のどちらかに推薦するとの知らせを受
けたが、どちらと決められないまま、なるべく集団的な行動はしたくないという性向からどちらの推薦
もうけなかった。
 ところで、俳人協会新人賞もうけた小澤さんの同書にある自己の立場の表明「前衛的立場を愛おしむ
伝統」は、俳人協会、俳句界のある種の健全さを表している。
 よくは知らないが、現代俳句協会から俳人協会の分裂は、作品の評価をめぐる幹部俳人たちの個人的
な軋轢からとも思えるが、また一種のイデオロギーの闘争でもあったとも思われる。「唯一の正しい答
え」をめぐっての争いのようにも思われる。俳句と言う小さな世界、ガリバーの小人国の卵をめぐる争
い、卵の殻の正しい割り方は大きな方から割るか小さな方から割るかについての意見の違いに由来する
争いと同じように思える。もうすこし自由に考えていいのではないかと資本主義、共産主義、全体主義
の軋轢と破産を見つめてきたドラッカーにかけて、ついつい言いたくなるのである。
 といっても、言葉でイノヴェーションというのは楽だが、実際どう展開していくかは、実に難しい問
題だ。各個人ががんばるより他ない。単純に他を排斥しないで。一見古くさくても、新しいものもあっ
たりするのである。

 ところで、ここ数週間メモっていた句がある。気になる俳句として取り上げておく。その前に、目下
気になっている田中裕明の発言をあげておく。宇多喜代子さんの文書からメモしたはずである。

 「俳句は詩です。詩は言葉でつくります」
 「詩はむりなくわかることが大切だと思います」
 「俳句という詩は、ほんのささやかな営みですが、セオリーを身につけて、そしてセオリーを忘れる
ことが大切です」


  長谷川櫂

 だぶだぶの皮の中なる蟇      (『天球』)
 なきがらを霞の底に埋めけり    (『虚空』)
 初山河一句を以つて打ち開く    (『初雁』)

  飯島晴子

 葛の花来るなと言つたではないか   (『平日』)

  金子兜太

 わが世のあと百の月照る憂世かな    (『狡童』)		
 存在や木菟に寄り添う木菟       (『両神』)

  波多野爽波

 夕焼の中に危ふく人の立つ     (『鋪道の花』)

  三橋敏雄

 行かぬ道あまりに多し春の国    (『鷓鴣』)

  攝津幸彦

 捺印すわが春景の前景に      (『四五一句』)

  池田澄子

 人類の旬の土偶のおっぱいよ  (『たましいの話』)

  正木ゆう子

 進化してさびしき体泳ぐなり   (『夏至』)
 泳ぎたしからだを檻とおもふとき (『悠 HARUKA』)

2011.4.15.
 『田中裕明全句集』何度目かの再読。新たに数句、引用しておく。

  どの道も家路と思ふげんげかな   (『先生から手紙』)
  ぼうふらやつくづく我の人嫌ひ   (『夜の客人』)
  みづうみのみなとのなつのみじかけれ
  くらき瀧茅の輪の奥に落ちにけり
  凶年や頭あづけて夜の柱
 
 大木あまり『星涼』、読売文学賞を受賞とのことだ。
 1941年生れ、70歳前の句集としては、感受性が若い。個性的である。なかなか年をとりにくい
現代という時代が影響を及ぼしているのかもしれない。ただ、数句にしぼろうとするとなかなか難しい。
 年齢をすなおに感じさせる句もある。そのうちの一つ。

  うたた寝をしつつ逝きたし木の実降る

 森の中で暮らしてしているぼくも、このような死をのぞまないわけではないが、当分死ぬのはご免こ
うむりたいものだと現代の新老人として思う。

2011.4.11.

 前回更新をした後、あたらしく更新を準備しようとしていたところ、東日本大震災が起こった。
原発関係者や地震学者たちには言って欲しくないが、まさに「想定外」の地震、津波、原発事故の三重
苦で、亡くなられた方々、被災者の方々には、言葉はない。
 それはまた、日本人が忘れてしまっていたさまざまな事を思い出させた。
  富士宮を震源とする震度6強の地震もおこり、また原発事故による計画停電なども加わり、ぼくた
ちもそれなりに混乱に巻き込まれた。

 用意して書こうと思っていたことも、むなしくなったりした。
 関東大震災のとき、文芸の無力さに対して、芥川龍之介は次のように言っている。「芸術は生活の過
剰ださうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰
である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又巧(たく)みにその過剰
を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。」

 さて、しばらくは、句作中心にして過ごす。更新はさらに減少する。決して、自粛するわけではない。
作るということをさらに深く考えたいのだ。

 最近特に面白いと思っている本をあらためて二冊。すでに言及している本である。
  岸本尚毅『高浜虚子 俳句の力』
  『田中裕明全句集』

 以下、以前用意していたものの一部を載せておこう。

 『新撰21』『超新撰21』をすこしずつ読んでいる。この2冊、色々毀誉褒貶があるようだが、若
い世代の俳句を知る一手段として、絶対視することなく見てみたい。
 ただ、俳句、短歌の優劣を判断するわけではないが、若い世代にとっては、俳句より短歌の方が表現
しやすいのかなと思わないでもない。あくまでも「優劣を判断するわけではない」が、また、時間をか
けてゆっくりと読む必要があるが、語数を多く使える意味でも心情吐露など抒情的な表現をしやすい短
歌にふさわしく、短歌が若い世代の表現となっているとも思える。このことは決して俳句そのものが劣
るわけではない。それぞれの役割があり、表現においては抒情がすべてではない。

 『現代の歌人140』(新書館)から引用してみる。

 わたくしの犬の部分がざわめいて春のそこかしこを噛みまくる     荻原裕幸

 「お客さん」 「いえ、渡辺です」 「渡辺さん、お箸とスプーンおつけしますか」   斉藤斎藤
 
 じいさん動いてる歩道あるいてる子犬のような酸素をつれて      斉藤斎藤 

 また『てのりくじら』(枡野浩一著)の

 振り上げた握りこぶしはグーのまま振り上げておけ 相手はパーだ   枡野浩一

 これらの短歌は、若い世代にはけっこう面白く読めると思える。

 『新撰21』『超新撰21』には、目下これほど面白く読める句はなかなか見つけてにくい。そのう
ち見つかるだろうが、若い世代には、必ずしも抒情を目指さない俳句は、若い世代をひきつけるものと
しては難しい。とはいって、これらの若い世代の短歌は抒情といいきれるのだろうか。渇いたというか、
自虐的でニヒルな笑いを目指す一傾向といってもいいのかもしれない。抒情の開花とは言い難い面もあ
る。

 あらためて言うが。短歌と俳句の優劣を判断するわけではない。

 例句をあげずにいうのはどうにか思うが、老人の俳句、悪くない。虚子の句も悪くない。若さの果て
の世代のための俳句、その可能性をあらためて見つめる必要もありそうだ。岸本が虚子を通じて言おう
としている安心できる俳句もわるくない。また、骨董品が悪いわけではないが、作られる俳句は一種の
詩であって欲しい。骨董品をめでるような俳句の世界にはなっては欲しくない。ぼくの好きな『田中裕
明全句集』の句なども少し間違うと品のある骨董品になりかねない面も有る気もしないわけではないが。

2011.3.3.

 以下「気になる俳句」を久しぶりで更新。以前の様に引用した句を自動的に「現代俳句抄」に追加す
るとは必ずしも言えない。ということは追加する場合もありうるという中途半端な態度をとることもあ
りうるということである。追加句の選択は一見恣意的に見えるが、ぼくなりの見通しのもとに行う。た
とえば次の筑紫磐井の句は、追加句とする。

  『俳句』(2011年,1月号) 「2011年の白地図」より

 もりソバのおつゆが足りぬ高濱家   筑紫磐井
 和をもつて文學といふ座談会
 来たことも見たこともなき宇都宮
 つまらなき山田温泉に逗留す

 泳がねど先生水着笛を吹き      藤田哲史

 天使とも蛆ともつかぬもの来る    関悦史

 桜貝たくさん落ちてゐて要らず    高柳克弘

 電話鳴る直前しづか夕桜       小川軽舟

  以下三句は高山れおなの句、高山の句の幾つかはメモをしているが、今では出典が分からなくなっ
ている(清水哲男さんなどの引用などから)。高山が俳句をよく読んでいることはよくわかる。その意
味ではそれを生かした面白い句も多いが、はたして記憶に残る句になっているかどうか、また加藤郁乎
のような存在になるのかどうか時を待たねばならないだろう。

 手花火の君は地球の女なり
 曲学し阿世し下痢し冬帽子
 総金歯の美少女のごとき春夕焼

心境の変化があつたのか高山には次のような句もある。

 平明で記憶しやすい一句欲し (『俳句年鑑2011』)

 『新撰21』『超新撰21』に関してはあわてて選句しない。若い世代に学ぶというより、とにかく
頑張ってほしい。
(今までの引用の句の中には、それらに入っている句もあるが。)

 岸本尚毅『高浜虚子 俳句の力』は、あらためて虚子について、俳句について考えさせる。
 「ホスピスに持っていきたい句」という切り口で虚子を評価する岸本ほどではないが、ぼくのホーム
ページ内の「森の中のモンテーニュ」の記事「 「天地同根」「万物一体」(2009.9.14.) 」において、
ぼくの関心事「天地同根」「万物一体」にかけて虚子のアニミズムなどを含む自然体的な態度などを肯
定的に書いた。そこではついでに虚子のひ孫の坊城俊樹氏の「「天地有情」という言葉。(中略)これ
が虚子の遺言であることは、私の勝手なる想像だけれども今まで誰も言ったことがない。かなりお買い
得な情報と思うけれど。」の発言を引用しておいた。(たしかに、ぼくにとっては「花鳥諷詠」より「天
地有情」の方が、広がりが大きい。)
 岸本の本で何度か引用されているよく知られている次の句(「現代俳句抄」に掲載済み)などは、独
特の俳句力を秘めている。

 大寒の埃の如く人死ぬる
 風が吹く仏来給ふけはひあり
 大海のうしほはあれど旱かな
 遠山に日の当たりたる枯野かな
 桐一葉日当たりながら落ちにけり
 山国の蝶を荒らしと思はずや
 去年今年貫く棒の如きもの
 時ものを解決するや春を待つ
 独り句の推敲をして遅き日を

 その他数々の岸本の『高浜虚子 俳句の力』に引用されている句々をもう一度、味わい直してみるの
もよいことであろう。

2011.2.5.
 今回から、「気になる俳句」(「俳句雑感時々少々」改題)を掲載する。余計な感想は書かない。た
またま読んだ俳句の本、俳句雑誌などから気になった句をメモがわりに掲載する。ぼくの俳句忘備録と
いってもいい。別に忘れるのがもったいないというわけでもない。ただ、メモっておきたいなと思った
時、メモるだけである。感想は基本的には書かない。ということは、書くこともありうるというわけで
ある。そして、ここでとりあげる句は、ぼくの「現代俳句抄」には反映しない。「現代俳句抄」は基本
的には、これからは更新しない。ということは、更新に及ぶこともないわけではないと、中途半端なこ
とは限りない。

 『俳句界』(2011.1月号)から。

 今回のこの号の「俺の俳句論」の筑紫磐井の「つつましく思うこと」は面白い。ぼくの「現代俳句抄」
への姿勢ときわめて似ているからだ。
 「だから私の俳論は「何でもあり」である。」の「だから」は、その論を読んでもらわないとわから
ないが、「何でもあり」がぼくの姿勢でもある。勿論、ぼくが、「何でもあり」と言う形で、俳句を作っ
ているわけではない。基本的には「有季、定型」である。「無季、無定形」として自分で納得できる句
が出来ていないだけである。ただ、鑑賞は自由にしたい。これ以外の表現しかできないという人もいる
はずだ。そういう人は自由な形式で作ってほしい。「何でもあり」でいいのである。筑紫磐井の言うよ
うに、「最終的には、歴史の淘汰を経て生き残った作品なのだ」でいいと思う。そうはいっても、実は
よっぽどの作品でないかぎり「歴史の淘汰を経て生き残った作品」であるかどうかの判断を下すのはい
つの時代でも難しい。歴史は常に過渡期なのである。
 ついでに、筑紫磐井は「俳人協会」の会員であるらしい。これもよくわかる。これでいいのだ。筑紫
磐井の句を考えると、「俳人協会」の会員であるとは思えないが、どちらかというと前衛的な「現代俳
句協会」では前衛を誇る一部分が独断的になり、色々な意味できわめて窮屈なことになることになりう
ることは、他の組織でもけっこう経験することである。
 ちなみに、かつて僕が、『鷹』の同人に推薦された時、「俳人協会」「現代俳句協会」どちらかの会
員推薦を行う旨の連絡を受けた。ぼくは自分では「現代俳句協会」かなとも思いながら、生来の団体所
属ぎらいから、結局どちらも受けなかった。『鷹』主宰だった藤田湘子も「現代俳句協会」で、副会長
として苦労したらしいことは何となくきいていた。ただ、当時の『鷹』では同人として推薦された時、
「俳人協会」に入るのが、多数派になっていたようだ。(余計なことをついつい書いてしまった。)

 「気になる俳句」本題である。『俳句界』1月号の「平成の好敵手」から。

  炎天を突き破りたき拳あり      堀本裕樹
  只の石からすあげはが荘厳す     高柳克弘

 ついで、同号、「俳諧書留」(加藤郁乎)の中で引用されている句。

  つながれて秋のボートとなりにけり  辻桃子
 





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