<長崎三彩に魅せられて〜 陶郷 三彩の里>
長崎三彩「壺」 |
長崎三彩「大壺」 |
長崎三彩「額皿」 |
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| 上/三作品は代表作の一部 | |||
長崎三彩は1950年代に長崎市で生まれた。 造ったのは、第二次世界大戦に命をかけた特攻隊の生き残りである。 |
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![]() 上/長崎県大村市原町「三彩の里」 |
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| 先代 江口 洋(号・望洋)の生涯 | |||
![]() <江口 洋> |
1922(大正11)年 |
11月14日、母親の出身地島原で生まれる。 父親は、佐賀県久間村西山(現 塩田町)出身で代々200年 も続いた「志田焼」窯元。病気などで閉じ、佐世保市での 警察官生活などを経て長崎市へ移住。 信奉する歌舞伎「忠臣蔵」の天野屋利平から「天野屋」 の看板を掲げ、雑貨商、行商を営む。 頭脳明晰で商才に長けた江口は、磨屋尋常小学校、市立 商業学校を経て東京へ出る。 |
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1943(昭和18)年 |
早稲田大学政治経済学部在学中に、学徒動員令で「14期 飛行予備学生」として入隊。 のち「特攻隊」へ編入される。 |
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1945(昭和20)年 |
国のための死を考えた香川県詫間航空隊特攻基地で終戦。 生き残る。 正八位従七位海軍飛行中尉で除隊。原爆で被災した故郷 長崎市へ復員。 生活の為に有田の食器を仕入れ販売。学業の傍ら、繁華 街の一角に茶碗屋「天野屋」を開く。 |
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1947(昭和22)年 |
長崎経済専門学校研究科(現
長崎大学経済学部)卒業。 長崎市で本格的に父祖の窯業再興を目指す。 |
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![]() <作品「壺」> |
1956(昭和31)年 |
佐賀県有田のロクロ士・奥川忠右衛門に師事。 長崎市田上に「秀山窯」を開き、2代目「秀山」を襲名。 外地で見た「ペルシャ三彩」の大胆で明るい色彩に感銘、 ふる里に伝わる幻の「長与三彩」に注目し、その復元に成 功する。「長崎三彩」の誕生である。 |
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1961(昭和36)年 |
「三彩」製法特許と「長崎三彩」の意匠・商標登録。 | ||
1971(昭和46)年 |
病気(ガンの宣告)を機に、障害者でもある一人息子のた めに生き方を模索。陶芸の継承を兼ねた陶郷の里づくりを 考える。 |
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| 1974(昭和49)年 | 長崎県大村市原郷へ「秀山窯」を移し、三彩の里≠ニ 呼ぶ。 身障者を公募し、陶芸指導を始める。 |
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| 1976(昭和51)年 | 社会福祉法人「三彩の里」開設。 | ||
1980(昭和55)年 |
長崎県の壱岐島(現
壱岐市)に身障者授産施設「壱州窯」 開設。 |
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| 1988(昭和63)年 | 欧州旅行中に客死。享年65歳。 | ||
| 後継者 江口 司(三代目 秀山) | |||
司の代表作品 |
江口
洋の後継者である長男・司(1950年生)は、父に触発されて大学を中退し、陶 芸の道へ進んだ。多治見や九谷の著名な陶芸家に師事。 ふる里に戻って父の下で三彩の技を極める。「三彩の里」理事長としての激務をこ なす傍ら三代目「秀山」としても活躍し、日本伝統工芸展を始め、数々の陶芸展で入 賞を果たしている。 |
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| <左写真はアテネの国際展入選作品> | |||
<長与三彩>について |
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| 「長与三彩」は江戸時代、大村藩領内「長与村」で 生まれた磁器。緑・黄・紫などの鮮やかな紋様と大胆 なデザインが特徴で、長崎に入ってきた中国・清時代 の康熙三彩に学んだと言われる。 伝世品、いわゆる流通品が極めて少なく、「幻の焼 き物」と言われるが、郷土史研究の越中哲也さんは「 現存するのは50個もあればいい方で、大村藩のお庭焼 きだったのではないか」と指摘する。 では、「長与三彩」は、本当に長与村で生まれ、村 内のどこで焼かれたのか。 大村藩村記によると、江戸時代、長与村嬉里郷に「 皿山」があった。 寛文7(1667)年築窯され、安政6年 (1859年)まで約190年間に渡り「長与焼」が焼かれた。 波佐見焼きに学んだと見られ、皿、椀、鉢など日常 和食器が中心だった。 「長与三彩」と呼ばれる伝世品は、器の形、成形技 法、生地などが「長与焼」と一致し、しかも、三彩の 発色を試したと見られる破片が数回発見されたこと、 また、郷村記に「寛政四年・・・珍敷焼物伝来」の記載 があり、この皿山で焼かれたものではないかと伝えら れてきた。 <ナガサキ・ピース・ミュージアムより引用> |
<筒型花生> |
<蓋付椀>
<鼇甲手猪口> |
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<提供:諫早市教育委員会> |
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