館長からのメッセージNO.14(2003年3月22日)
ノーマ・フィールド先生を迎えて
世界と小樽の文学
昨年から今年にかけて、外国で日本文学を研究されている方々が、次々と小樽文学館を訪れました。昨年9月4日、シカゴ大学教授のノーマ・フィールド先生がお見えになり、9月11日には、サミュエル・ペリーさんが来館されました。ノーマ先生については後に紹介しますが、サミュエル・ペリーさんはノーマ先生のシカゴ大学の大学院に在籍し、現在は韓国に留学して、韓国におけるプロレタリア文学の研究に従事しています。小樽に来られたのは、言うまでもなく、日本のプロレタリア文学、とりわけ小林多喜二との関係を視野に収めているからで、来年は北海道の大学に留学して、博士論文を完成したいとのことでした。
さらに10月22日には、アメリカのオベリン大学の助教授アン・シェリフ先生がお見えになりました。アンさんは、D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』が世界の各国で惹き起こしたリアクションの比較研究をテーマとし、伊藤整に関する資料を熱心に調査していかれました。
また、小樽文学館にお出でになったわけではありませんが、11月に小樽文學舎が主催した文学散歩、「「啄木・賢治・遠野物語」の本源を尋ねて」では、シカゴ大学助教授のグレッグ・ガーリ先生が、盛岡で私たちと合流し、2泊3日の旅をご一緒されました。
小樽が生んだ文学者は現在、それほど幅広い関心を呼んでいるわけです。これは、小樽の生んだ文学が、そういう世界的な関心に耐えられるだけの質を備えている証拠でもあるでしょう。
もう四半世紀前、「北海道文学」運動が最盛期を迎えていた頃、瀬沼茂樹ほか、何人かの評論家が、札幌で、有島武郎に関する講演を行なったことがあります。懇親会の折、その運動をやっている人の一人が、瀬沼さんに、「北海道の人間でなければ有島文学の本質は分らない」とからみ始めました。瀬沼さんは腹を立てた様子も見せずに応対していましたが、私はそういう「地元主義」に強烈な反発と疑問を覚えました。当人は気がついていなかったかもしれませんが、「日本人でなければ、日本文学の味わいは分らない」という排他的な態度と同様な、屈折した自己特権化に通じてしまうからです。
もちろんその土地に生まれ育った人でなければ理解しにくいところもあるでしょう。しかし、その点を特権化して、それ以外の人たちの読み方を排除したり、軽視したりするならば、文学の読み方はマンネリに陥って、やせ細ってしまい、文学の豊かさを見失うことになる。文学が党派性によって抱え込まれた場合も、同様な危険があります。
私の見るところ、地域性や党派性で文学(者)を抱え込む傾向は、その後も研究者や、文学館関係者の間に伏流しています。だが、幸い、小樽文学館に関係するようになって、市民の皆さんにはそういう傾向が見られず、はるかに開かれた心性で、小樽の文学の豊かさを大切に育ててゆこうとしていることを知りました。そういう雰囲気があればこそ、外国から次々と研究者が訪れ、よい印象を抱いて帰られたのだろうと思います。
ノーマ・フィールド先生の講演
その点で、何といっても画期的だったのは、今年の2月23日、ノーマ・フィールド先生が講演を引き受けて下さったことです。先生は『市立小樽文学館報』第26号(平成14年12月25日)に、「小林多喜二「営養検査」その他」という論文をお寄せ下さいましたが、そのなかで、いま多喜二に注目する理由を次のように言っています。「革命の時代からはるかに遠いところに立つ私たちは革命を目指した文学にどうアプローチできるのだろう。答えは幾通りもあると思うが、ここではナラトロジー(語り学)に導かれてみよう。これはフォルマリズムによる作品の政治的欲望を潰す試みではない。プロレタリア文学、それから「蟹工船」の著者として知られてきた多喜二に纏わる既成概念をやぶり、改めて作品と世界の関係を考えるためである」。
世界と作品の関係を改めて考察するために、「既成概念をやぶって」多喜二を読み直す。その斬新な視点によって、多喜二の可能性を引き出した、この論文は、多喜二研究の新しい礎石を据えたものだと言っても過言ではありません。
ノーマ先生からこの論文をいただいた経緯は、昨年ロサンゼルスから送った「館長からのメッセージ」や、「小林多喜二「遺体写真」撤去について」(『館報』第26号)に書いておきました。
ノーマ先生は、日本語でも『天皇の逝く国で』(1994年、みすず書房)と、『祖母のくに』(2000年、みすず書房)という名著があり、読まれた方も多いと思います。その先生から貴重な論文をいただいた上に、さらに講演までしていただく幸運に恵まれたわけですが、その経緯について私は、先生の講演に先立って、こんなふうに紹介しました。「ノーマ先生は源氏物語研究で学位を取られ、御著書も数冊あり、アメリカで日本の古典文学を研究する人たちにとっては必読の書となっています。その先生が小林多喜二に関心を抱くというのは、意外な印象を持たれる方もいるかもしれませんが、先生のお祖母さまが小樽のご出身で、早くから小樽には親しみを感じ、すでに何回か小樽にお出でになったことがある。数年前、この文学館の多喜二の展示をご覧になって、強く惹かれるものを覚えたそうです。そのこともあって、ぜひ一度小樽の冬を経験して、多喜二の理解を深めたいというご希望でした。そうして、いま開催中の多喜二展をご覧にお出で下さったわけですが、私たちには願ってもないよい機会なので、市民の皆さんにお集まりいただくから、懇談会の形で何かお話しをしていただけないでようかとお願いをしたところ、快くご承諾下さいました」。
当日は250名を超える方々が集り、遠く釧路や旭川だけでなく、埼玉県や千葉県からもお出で下さった方がいました。ノーマ先生は、今の私たちが失ってしまったような、暖かみのある日本語で、多喜二の作品に底流する繊細な感受性への共感と敬愛を語り、いかに小林多喜二が先生にとっても、世界にとっても大切な文学者であるかを、諄々と説かれました。
私たちはすっかり魅了され、講演会は5時半に始まり、7時半に終ったのですが、皆さんはなお去りがたい様子で、8時半過ぎまで先生を囲んで懇談をしていました。
韓国文学展について
この講演会は、文学館を、世界に開かれた対話の方法を作り出す場としたいと考えている私たちにとって、記念すべき成果であり、貴重な収穫でした。
それをさらに稔りあるものとする試みとして、今年は7月18日から9月7日まで、韓国文学展を開き、8月9日と10日には、韓国の木浦大学校と祥明大学校から講師の先生にお出でいただいて、「韓国の文学と文化を知る」講演会とシンポジュウムを予定しています。小樽文學舎と文学館の事業として、これまで7000冊に及ぶ研究資料の図書を韓国の大学へ贈ってきましたが、それが機縁となった企画であることは、言うまでもありません。
韓国との交流は、今や全国的な展開を遂げていますが、このような企画は、全国の文学館のなかでも初めての試みと言えます。
館長からのメッセージNO.13(2002年3月26日)
歴史教科書問題と韓国行き
2002年3月9日小樽文学館での講演記録全文
はじめに
私は3月17日から7月1日まで、アメリカのUCLAという大学へ客員教授として出かけ、しばらく日本を離れることになりました。
UCLAのMichael Bourdaghs先生が中心になって、私の『感性の変革』(講談社、1983)を、Transformations
of Sensibility: Phenomenology of Meiji Literatureというタイトルで翻訳してくださり、それがこの3月、ミシガン大学の出版部から出ることになりました。UCLAではこれと合わせて、4月の19・20日学会のテーマとし、その上、4月5〜7日にワシントンD・Cで開かれる、全米のアジア学会(AAS)でも、私の研究を核とするシンポジュウムを一つ設けてくれることになりました。
これは、長年文学研究に携わってきた人間にとって、この上なく名誉なことですので、喜んでお礼を述べに出かける予定でいたところ、さらにUCLAから、それならば春の学期中、講義を持ってくれないか、という誘いがありました。小樽の皆さんに相談しますと、それは大変に結構なことだ、と理解をして下さり、しばらく休ませていただくことにしたわけです。
講演の主旨
そうするうち、今度は、文学館から、アメリカへ出発する前に、「歴史教科書問題と韓国行き」というようなテーマで話をしてもらいたい、という企画が出てきました。
ここで言う歴史教科書問題とは、「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが扶桑社という出版社から文部省に検定を申請した、中学校の日本史の教科書『新しい歴史教科書』をめぐって、賛否両論の意見が交わされ、――と言っても、マスメディアの上では批判的な意見が目立ったのですが――それが国際的な政治問題にまで展開された、あの問題を指しています。
私は、昨年の夏以来、この問題に関心を持ち、自分なりの意見をホームページ(http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)に載せてきました。しかしこれは、文学館の仕事に関わるものではなく、あくまでも私個人の関心でしかありません。ただ、昨年は、歴史教科書の問題と、小泉首相の靖国神社参拝の問題とが重なって、アジアの幾つかの国で非常に強い政治的なリアクションが起こり、韓国からは、日本と韓国との親善・交流事業をキャンセルしてくる、あるいは日本のほうでも、韓国への修学旅行を中止する、というようなことが相次いで起こりました。そういう雰囲気のなかで、私たちは、昨年の10月下旬、小樽文學舎主催の韓国訪問の旅をしてきました。初めは旅行に参加するつもりでいながら、しかし、マスコミの報道によれば、韓国の反日感情が高まっているという現在、不快な思いを味わってきたくない、という理由で、参加を諦めた人がいました。9月の11日、アメリカで無差別大量殺害のテロ事件が起こり、外国旅行への警戒心が強まっていた、という事情もからんでいたように思います。
そういう状況のなかで、それにもかかわらず、いや、こういう状況だからこそ、今あえて韓国へ行ってくることに意味があるのだ。そう考えて、私たちは、韓国旅行に踏み切ったわけですから、その意味では歴史教科書問題と韓国行きとは全く関係がなかったわけではありません。
文学館の人たちは、おそらくそう判断して、韓国行きの意味を歴史教科書問題とからめながら、何かメッセージを残していってもらいたい、と考えたのでしょう。少なくとも私自身はそのように理解して、話をさせてもらうことにしました。
しかし歴史教科書の問題は、大変に錯綜し、多岐にわたっていますので、ここではその全てにふれることはできません。ですから、関心をお持ちの方は私のホームページを見ていただくことにして、ホームページではふれなかった歴史研究の問題、というよりは歴史学者の問題から始めたい、と思います。
検定の経験
ただ、その問題に入る前に、どういう理由で私が歴史教科書の問題に関心を持ち始めたのか、といいますと、私が関心を持ったのは、私自身が大学の教師時代に、二度、高等学校の国語教科書(白表紙本)の検定の基礎作業を依頼されたことがあるからです。
依頼は大学の事務局を通して文部省から来ました。承諾して、札幌地区の説明会に出かけると、検定を依頼する教科書を一種類だけ渡されました。この本は、まだ装丁してなくて、表紙は真っ白、奥づけもありません。ですから、どの出版社から申請されたものか、どんな人たちが編集をしているか、全く分からないようになっています。これは出版社や編集者によって、検定に手心が加わったりしないための処置でしょう。この形態のものを、業界用語では白表紙本と呼んでいるわけです。
私はそういう教科書を受け取り、数ヶ月をかけて教材の適否や、学習の手引き(目標)の妥当性を検討し、検定意見を書留便で、文部省へ送り返しました。これはかなり神経の消耗する作業でしたが、文部省からの報酬は腹が立つほどの薄謝でした。たしか1万円だったと記憶しています。が、それはともかく、説明会場で見かけた人の数から判断して、一つの教科の検定担当者は全国では数百名、ですから、そのうち一社の白表紙本を担当する者だけでも二桁を超えていたでしょう。その人たちから送り返される意見を、文部省の検定官が整理し、集約して、審議委員会の資料とするのではないか、と思います。
そんなわけで、私は、自分に渡された白表紙本の出版社や編集者の名前を、最後まで知りませんでした。それだけではなく、白表紙本の内容や、私が検定を依頼されたこと自体も、誰にも漏らさないことを義務づけられていました。
ですから、少なくとも私自身の経験から見て、まだ申請中の、検定結果が出ない教科書の、その内容や執筆者が話題になる、ということ自体が、そもそもおかしい。にもかかわらず、扶桑社の白表紙本の内容を新聞社が知り、外国の政府機関までが騒ぎ立てて、その一連の動きは、明らかに扶桑社の教科書を検定に合格させまいとする意図を感じさせるものだった。これは原則的にあってはならない、極めて異常な事態だと、私はそう思わざるをえませんでした。
白表紙本流出の怪
そう思って事態を見ているうちに、検定が終わり、扶桑社の『新しい歴史教科書』も検定に合格して、今度は扶桑社の教科書を採用させまいとする動きが始まりました。扶桑社はそれに対抗するためでしょう、合格した教科書の市販本を作って、書店に並べる。おかげで、ようやく私も話題の『新しい歴史教科書』を手に取ることができました。それと合わせて『新しい歴史教科書』を批判する本も買い込み、読んでみたのですが、その内容はどれもひどい、あさましいほどひどいものばかりでした。私はひどいと感じたのは、『新しい歴史教科書』よりも、むしろそれを批判した本のほうです。批判の手口、批判の内容、いずれを取っても、悪質、低俗と言うほかはありません。
私がそう判断した理由の全体は、ホームページを読んでいただくことにして、いまは白表紙本の流出問題に限って紹介しておきますが、例えば『新しい歴史教科書』を批判する運動をやっている、俵義文という人が『徹底検証あぶない教科書――「戦争ができる」国をめざす「つくる会」の実態―』(二〇〇一年2月)という本を出していて、そのなかで、「白表紙本を公開してはならないという法的規制はありません」と主張しています。彼はその裏づけとして、二〇〇〇年11月29日の中日新聞に載った、「文部省」の、「検定が終わるまでは公開しないように同審議会メンバーや出版社などに行政指導で厳重な管理を求めている」という言葉を引用し、これを「文部省自身も法的規制がないことを認めた」証拠だ、としていました。この「同審議会」というのは、教科用図書検定調査審議会を指します。
要するに、文部省が行なっているのは「行政指導」であって、「法的規制」ではない。しかも、その「行政指導」は出版社や教科用図書検定調査審議会のメンバーを対象としているのであって、マスコミや市民を対象としているわけではない。だから、マスコミや市民が白表紙本を手に入れたり、その内容に批判を加えたりしても、「法」を破ったことにはならないはずだ。彼はそう主張していました。
これだけを取り出してみれば、それなりに筋の通った主張のように見えるかもしれません。しかし、これは、彼が痛いところを衝かれたための言い逃れ、と聞くほうがよさそうです。というのは、小林よしのりが『新ゴーマニズム宣言第一二八章』(『SAPIO』二〇〇〇年11月18日号)のなかで、小学館の編集者が「つくる会」の白表紙本のコピーを持っていたことを取り上げて、次のように指摘していたからです。「飯田橋のビルの一室に「子どもと教科書全国ネット21」の事務所があり、電話して行くとコピーして売ってくれたというのだ」。「「子どもと教科書全国ネット21」は出版労連の俵義文の組織だ」。さらに小林よしのりは、次のように非難していました。「歴史は一四八〇円公民は一〇八〇円」。「なんとわしらが心血を注いで書いた教科書を左翼運動家たちはコピーして売っていたのだ!」。
彼がこのことを指摘したのは、三重県の四日市市で開催された写真展で、白表紙本が展示されて、問題になった時期でもあったようです。ですから、時間的な関係を整理してみれば、俵義文は小林よしのりの非難に対応するために、白表紙本の流出問題に対する「文部省」の言葉を引用して、自分の行為を正当化しようとした。そして、自分の属する「子どもと教科書全国ネット21」が、扶桑社の白表紙本を無断でコピーして売っていることについては、「白表紙本の内容を知りえた市民やマスコミが、その内容に憲法違反などの重大な問題があれば、それを国民に公開することは何ら問題もないのです」と、反論したわけです。
これは論点のすり替えというほかはありません。なぜなら、白表紙本が流出していること自体が問題なのであり、しかもそれを無断でコピーして売る、という著作権の侵害が問題であるのに、彼は「その内容に憲法違反などの重大な問題があれば、……」などと言い抜けようとしているからです。
彼は小林よしのりが指摘した、コピー販売の事実については反論していません。それを反論せずに、むしろ「それを国民に公開することは何ら問題もない」と言っているのですから、彼の組織がコピー販売をした事実は暗黙のうちに認めているのでしょう。
そう理解した上で言うのですが、そもそも「つくる会」の白表紙本は、「憲法違反などの重大な問題」なのでしょうか。
俵義文は、その本の第1章の1節に、「憲法違反・侵略戦争肯定の「あぶない教科書」の実態」という見出しをつけていますが、しかし「つくる会」の白表紙本が憲法違反であることをなに一つ説明していません。3節は「日本国憲法、教育基本法の理念を、真っ向から否定する」、11節は「憲法を捻じ曲げ、改憲を主張する公民教科書」となっていましたが、仮に「つくる会」の白表紙本の内容が「日本国憲法の理念を否定」し、「改憲を主張する」ものであったとしても、果たしてそれは憲法違反なのでしょうか。私の理解では、現在の憲法は、そのような意見や主張を語る自由と権利をも保障しているのではないか、と思います。むしろ日本国憲法の擁護を振りかざして、自分と対立する意見を、根拠も明示せずに「憲法違反」と決めつけ、相手の著作物を無断でコピーして売っているほうが、法律に違反した行為と言わざるをえません。
歴史学者の共犯性
白表紙本の流出はこういう問題を含んでいるのですが、歴史学者のなかにはそんなこと大した問題ではない、と考える人もいるらしく、二〇〇〇年の12月5日、俵義文の「子どもと教科書全国ネット21」と歴史教育者協議会が、「教科書研究にたいする不当な脅迫・妨害を糾弾し、抗議する声明」を出しています。同じ二〇〇〇年12月5日、朝尾直弘ほか59名の歴史学者が、「史実をゆがめる「教科書」に歴史教育をゆだねることはできない」というアピールを出し、「つくる会」の教科書が登場することに対する「深い憂慮」を表明しました。もう一度時間関係を整理すれば、小林よしのりが白表紙本のコピー販売を指摘した、ほぼ一ヵ月後、これらの声明文やアピールがおなじ日に、いわば声を揃えて、小林よしのりたちの白表紙本を批判したわけです。後者のアピールには、二〇〇一年2月15日の時点で、「八九二名の歴史学者・研究者」が賛同したそうです。
見方を変えれば、この時点で歴史教育協議会のメンバーや、「八九二名を超える歴史学者・研究者」が――この数字は日本の大学や研究機関における歴史学者の半数以上を占めるのではないか、と思われる数ですが、ともかくその人たちが――白表紙本を読んでいる。しかし流出自体が問題であることには目をつぶり、あるいは気がつかずに、その意味では白表紙本の流出と、著作権侵害の可能性がある行為に加担していたことになります。そういう加担を呼びかけたのはどういう人たちであったか。念のために列挙しておきます。朝尾直弘、甘粕健、網野善彦、荒井信一、粟屋憲太郎、猪飼隆明、石躍胤央、伊藤康子、井上勝生、入間田宣夫、岩井忠熊、江口圭一、笠原十九司、糟谷憲一、門脇禎二、鹿野政直、木畑洋一、君島和彦、木村茂光、木村礎、工藤敬一、小沢浩、小谷汪之、小林昌二、小松裕、佐々木潤之介、佐藤宗諄、鈴木良、高沢裕一、田港朝昭、堤啓次郎、戸沢充則、直木孝次郎、中塚明、永原慶二、西川正雄、橋本哲哉、浜林正夫、林英夫、広川禎秀、藤木久志、古厩忠夫、松尾尊〓、松島栄一、丸山雍成、丸山幸彦、峰岸純夫、宮城公子、宮田節子、宮地正人、村井章介、安井三吉、安丸良夫、弓削達、吉田晶、吉田伸之、吉見義明、渡辺則文、和田春樹、脇田晴子。
「歴史認識」のまやかし
現代の日本の歴史学者はこれほど頽廃しているのですが、その上この人たちが不勉強で、かつ鈍感な証拠は、「歴史認識」などという言葉を、一〇年も二〇年も使い続けていることです。この世の中に「歴史認識」などというものはありません。私たちが普通「歴史」と呼んでいるものは、過去の出来事を、何らかの因果関係で捉えること、つまり出来事と出来事との間に何らかの脈絡を見出して、これを語り伝えることです。あるいはそのように語られた過去の出来事です。
例えば、太平洋の海底で地震が起きたとしましょう。日本やアメリカの沿岸を襲うような、大きな津波を生み出すほどの規模でなかったとすれば、それは自然史における小さな出来事かもしれませんが、人間の歴史における事件とは認識されません。逆に、おなじ規模の地震が人家の密集した地域に起こり、大きな災害をもたらしたとすれば、その地域の生活や制度を変えてしまう原因となった事件として認識され、語られ、そして歴史化されてゆくわけです。
それをもう少し抽象化して言えば、他の出来事と全く切り離された、単独の出来事は、歴史とはなりません。歴史的な認識と、語り伝えの対象とはならないからです。言葉を換えれば、ある出来事が歴史的な認識の対象となるということは、私達が、一定の認識の仕方や、語り方を持っているからにほかなりません。もし私達が歴史的にものを見て、一定の脈絡をつけながら語ってゆく方法を持たないとすれば、歴史は個々別々な出来事に解体して、意味を失い、出来事の痕跡も残さずに、物理的な変容を遂げつつ、地球の自然過程に呑みこまれてしまうでしょう。
そのことと合わせて、もう一つ、改めて確認しておかなければならないのは、過去の出来事とはすでに私たちの前から消え去っている、つまり眼前に不在なものであって、その痕跡と思われるものしか現存しないということです。この眼前に不在な、実体的には存在しないものを、痕跡の分析と統合を通して再構成したものを、私たちは「歴史」と呼んできました。歴史学とは、目の前にない、不在のことがらに関する学問なのですが、「歴史認識」などという言葉を乱発している人たちは、まるで歴史というものが実体的に存在し、だから客観的に認識できるのだと、そのような意味合いで使っています。
もちろん私は、優れた歴史書を読んで、高度に客観的な認識に達しえたかに思える経験があり、それを可能にする視点や方法があることを否定しません。なぜ、そういうことが起こりえるかと言えば、それは、私達の認識や語り方は必ずしも固定したものではないからです。これまでその出来事を伝えてきた語り方を検討し、また、違った形で出来事を伝えている文献や資料を新たに見出して、改めて出来事と出来事との関連を捉えなおす。あるいは、これまで歴史的な認識の対象としては重要視されてこなかった出来事を取り上げて、新しい脈絡を作り出す。そのようにして、私達は、自分たちの認識の仕方や語り方を組み替え、刷新してゆくわけです。私達が新しい、リアルな歴史に接したという印象を受けるのは、そういう歴史の記述に接した時です。
そんなわけで、歴史とは認識し、物語るレベルで現われるものであって、ですから「歴史的認識」という認識行為はありえますが、「歴史認識」などというものはありません。もう一度言えば、「歴史」とはそれ自体が認識にほかならないからです。もしありうるとすれば、歴史的な認識の、その認識の仕方や語り方に関する認識ということになるはずで、その意味ならば私も理解でき、それはそれとして極めて重要な問題だと考えています。なぜなら、歴史的な認識行為に関する認識とは、認識の仕方と語り方によってどんなことを明らかにすることができたか、それと共に、どんなことが明らかにしえないままに残っているかを、明確に、謙虚に自覚することだからです。だが、歴史教科書の問題で騒ぎ立てた歴史学者のなかに、そんな上等な意味でこの言葉を使った人は見当たりませんでした。歴史学者はそんなことは百も承知だ、常識にすぎない、と反論するかもしれません。しかし、もしそうならば、「歴史認識」などという曖昧な言葉は捨て去るべきでしょう。
範疇の餌食
それでは、なぜこのような言葉が使われているのか。私の見るところ、それはマルクス主義の歴史学がもたらし、あえて言えば、今もなおその悪弊が残っているからです。
ご存知のように、マルクス主義の歴史学は、歴史的研究の科学性と、社会変革の指針を目指して、生産力と生産諸関係という下部構造を、概念的に設定しました。そして、この下部構造を実体化して、そこに政治制度や文化やイデオロギーなどの観念的な上部構造の決定因を求め、その変化や変革の動因と方向性を探り出そうとする、そういう認識方法を取ったわけです。
例えば明治維新という政治的な変動を説明するために、この立場の歴史学者は、農村経済における綿栽培や養蚕の普及と階層分化や、幾つかの都市における織物業のマニュファクチャー化などに関心を向け、その限りでは、それまで歴史的な認識の対象とされなかった事象を掘り起こし、歴史的な脈絡を見出したことで、それなりの成果を挙げてきました。
ただ、その研究で取り上げられた事象は、それぞれ幾つかの地域に見られる事柄であって、これを日本列島に幅広く起こったこととは言い切れません。しかも、この、いわゆる下部構造の変化というのは、誰の目にも明らかな政治的な事件とは違って、非常に長い時間的なスパンを取らないと、なかなか見えてこない、ゆるやかな社会の変化です。これを事件として語ることは容易ではありません。そのため、この立場の研究者は歴史の物語性を極端に警戒し、否定してしまいました。それだけでなく、地域的な変化を強引に普遍化するために、極端に抽象的な概念化を行なわざるをえませんでした。
その一例として、山田盛太郎の「明治維新に於ける農業上の諸変革」(『日本資本主義発達史講座』)の一節を挙げてみましょう。
「純粋封建的土地所有組織と零細耕作農奴経済とによって特徴づけられた徳川幕藩封建制の妥協的解消、転化。強力的な構築になる軍事機構=キイ産業体制の基礎たるところの、また半隷農的零細耕作農民および半隷僕的賃金労働者の地盤=供給源たるところの、厖大なる半農奴的零細耕作土壌〔この範疇的表現、半農奴主的寄生地主的特質の半封建的土地所有諸関係〕そのもの、それの、同時的、相互規定的の、強力的な創出過程。かくのごとき関係のもとにおける創出になる半封建的土地所有制=半農奴的零細耕作は、軍事的半農奴制的日本資本主義の基本規定として現われる」。
この、とうていまともな文章とは思えない、歴史的記述を理解するためには、「純粋封建的土地所有」とは何か、それは「農奴制」とどう関連するのか、「半農奴制」と「半隷農制」と「半隷僕制」とはどう違うのか、説明をしてもらうほかはありません。しかしまた、その説明を見ても、要するに帝政ロシア時代の事象や、産業革命期のイギリスの事象を説明するために生まれた用語を借りてきて、それを「半……的」という形容詞に転用して、一見社会科学的な論文をこしらえているだけだ、ということしか分かりません。限られた地域の、しかも非常に長い時間を経て、ゆるやかな変化を遂げた事象を、歴史的な認x識の対象に仕立て、それが日本列島に普遍的な出来事だったように見せかけるために、彼は、このように抽象的な範疇(カテゴリー)を押しつけて、曲筆舞文を書かねばならなかったわけです。私の明治維新期の先祖はどうやらそういう歴史的な規定のもとで生きていたことになるらしいのですが、もしこの人に向かって、「あんたは、「半農奴主的寄生地主的特質の半封建的土地所有諸関係」の、生きた「範疇的表現」だったんだよ」などと言ったとすれば、きっと目を剥いて「俺はそんなに仰々しい人間だったのかねえ。そういう珍文漢文な戒名みてえな範疇の餌食にされるのは御免だな。冗談じゃねえ。勘弁してくれや」と、笑い飛ばしてしまうでしょう。
しかし笑い話ではありません。この論文を含む『日本資本主義発達史講座』は長い間、マルクス主義的、あるいは自称民主主義的・科学的な歴史学者によって、まるでバイブルのように読まれ、彼らは昭和30年代くらいまで、こういう範疇によって過去を整理する論文を量産しつづけてきたからです。そういう人たちが好んで使ったのが「歴史認識」という言葉でした。その意味で「歴史認識」とは、過去の範疇論的な類別ということだったわけです。このような範疇論的な類別や、範疇の押しつけをやっていけば、あらゆることを客観的に認識したかのように錯覚でき、読者にもそう見せかけることができる。それがマルクス主義歴史学以来の、「科学的な」歴史的研究のレトリック、いや、トリックでした。
日本のマルクス主義者や、その後の歴史学者は、あまりマルクスやエンゲルスを読んで来なかったのではないでしょうか。マルクス自身は『哲学の貧困』のなかで、こんなことを言っています。例えば一軒の家屋を作り出している様々な要素を少しずつ取り去り、この家屋を他の家屋から区別しているところの材料や形態を抽象してゆくならば、あとには一つの物体だけしか残らなくなる。さらにその物体を抽象してゆくならば、もはや一つの空間しか残らず、最後にこの空間をも抽象してしまうならば、ついには全く純粋な量という論理的な範疇だけしか残らない。家屋にかぎらず、その他の物体にせよ、人間にせよ、それらに備わっている偶有的な要素を全部抽象してしまうならば、最後の抽象において論理的諸範疇だけが実体として取り出されて来る。だが、そのように抽象を行いながら分析をしているかのように思い込み、対象からますます遠ざかっているのに、対象に浸透するほどまで接近しているかのごとく思い込むのは、じつは形而上学者のやり方にすぎない。
対話のない歴史研究/教育
私の知るかぎり、現在の歴史学者はおおむねマルクスが言う形而上学者でしかなく、その証拠に、彼らはある過去の出来事を呼ぶ場合、一つの決まった言葉しか認めようとしません。
いま、この世に存在する一つ一つの事物や、一つ一つの概念にそれぞれ対応する言葉が必ず一つずつあり、しかし二つ以上は認めない、という世界を仮定して見ましょう。そうしますと、この世の事物や概念の数だけ言葉が必要になってくるわけですが、その代わりに、伝達の上では誤解が生まれない、理想的なコミュニケーション状況が作られるように思われます。ついでに、言葉を組み合わせる「文」の型の数も決まっていて、それ以外の文型を認めないとすれば、もっと正確なコミュニケーションが保証されることになります。
数学や物理学や化学は、ある限定した範囲内ですが、こういう言語世界を作って、それによって学問の正確さを保証しようとしてきました。学者のなかには、こういう学問をモデルとして、理想的な言語状況を考えている人が、案外多い。
しかし、別な面から見れば、そういう世界は非常に窮屈で、退屈な言語世界になってしまう。なぜなら、そういう社会は、全ての人間に全くおなじ経験しか許さず、ですから、そもそも経験や認識を伝え合う必要もほとんどなくなってしまうからです。
しかし幸いなことに、たとえそういう社会を人工的に作ったとしても、数年のうちに崩壊してしまうでしょう。このことは、その社会の中の小さな集団や個人が、他の地域や職業の人たちとは異なる経験を重ねていった場合を考えてみれば、すぐに分かります。異なる経験を重ねた人たちは、それぞれ別な言葉を作ることになるはずだからです。あるいは、その経験を、すでに存在する、社会全体に共通の言葉で言いあらわしたとしても、その言葉に含まれる概念の幅や、その言葉に伴なう連想内容が異なってしまうからです。こうした差異は世代が変れば、さらにいっそう大きくなってゆく。それにもかかわらず、あの理想的な言語世界に固執するならば、かえって誤解の氾濫する世界に逆転してしまうにちがいありません。
そして、そうであればこそ、私たちは、自分(たち)の経験や考えを伝えるために、その都度、表現の工夫を必要とする。そこから対話が始まります。逆に言えば、決まった言葉、決まった文型しかない社会の言語表現は、本質的に独白でしかない。それは全体主義、統制主義の言語でしかありません。日本の戦争中の状況や、現在の幾つかの社会主義国家の状況を思い浮かべれば、このことは直ぐに納得できるでしょう。
おなじことは、歴史教科書問題の発言についても言えます。「過去の、この出来事はこういう言葉で呼ぶべきだ。それをしないのは歴史認識が欠けているからだ。かつてこの出来事を引き起こした政治勢力の復活を求めている証拠だ」。そんな種類の言説が、声高に、盛んに行なわれていました。要するに、ある出来事の呼び方、認識の仕方を管理しておこうと、権力主義的は衝動に駆られてしまったわけです。
これは歴史的な認識の訓練が全くできていない証拠であって、それを自称歴史研究者がやっているのですから、笑い話にもなりません。
S・I・ハヤカワの警告
S・I・ハヤカワというアメリカの言語学者が、『思考と行動における言語』(S.I. Hayakawa. Language in
Thought and Action. 1939。大久保忠利訳、1965、岩波書店)のなかで、範疇が一人歩きする危険を、こんなふうに指摘しています。
たとえば、あるユダヤ人が慈善事業を行なったとする。すると、周りの、ユダヤ人でない者たちは、「ユダヤ人はああやって人気を取ろうとしているのだ」と噂する。彼がある寄付行為をためらったとする。すると、「ユダヤ人だからケチなのだ」と悪口を言う。彼が、他のアメリカ人と何ら変わったところのない生活習慣に生きていると、「やつは自分がユダヤ人であることを隠そうとしているのだ」と陰口を言う。彼が偏屈な人間だったとする。すると、「やっぱりユダヤ人は我々と同化したがらないのだ」と決めつけてしまう。
これは一つの決まり文句のなかに、矛盾する事例までも封じ込めて、その言葉からはみ出す見方や言葉を許さない、あの「歴史認識」主義者の好みそうな、やり方ですが、実際、笑い話では済まされません。
皆さんのなかにも、いったん周りの人間が自分について悪意のレッテルを貼ってしまったら、もう自分が何をしてもそのレッテルの枠でしか解釈しない、そういう不快な経験を味わった人もいるのではないか、と思います。
今のアメリカでは、こういう形でのユダヤ人差別は、消えてなくなっているかもしれません。しかし、現在では、それがイスラム圏の人たちに向けられているかもしれません。実は、私たちの間でも、こういった人種論や民族論がまことしやかに語られていないともかぎらない。そして、こういう範疇的なレッテル貼りが恐ろしいのは、現に目の前にいる人を見ながら、その具体的な姿を理解しようとせずに、自分たちが抱いている先入観を眼の前の人に押しつけてしまうことです。しかも、その先入観がどんなに矛盾していても、そんなことにはおかまいなく、自分の感情のはけ口に都合のいい先入観を取り出してきて、目の前の人に押しつけてしまっていることです。私たちがいったんこのような立場に置かれてしまうと、反論することは容易ではない。ただ、それでも、生きているかぎり反論できる可能性は残っているわけですが、過去の出来事や、そのなかに生きていた人たちは、現在の歴史学者に反論をすることができません。先ほど言った、範疇の餌食になるとは、こういうことを指します。
もう一度、先に論文にもどってみましょう。ヨーロッパのある時期、Feudal Systemと呼ばれる土地所有制度がありました。日本のある時期、封建制という土地所有制度があり、両者に共通する面がたしかにあります。しかし、どちらが「純粋な」封建制度なのか、決定できることではありませんし、そんな必要もありません。まして「半封建制」などという不思議な制度があったはずがないのですが、この歴史学者は観念のなかで「封建制」を折半したり、折衷したりして、それを日本の現象に押しつけている。おなじように、帝政ロシアにおける農奴制を前提に、日本の地主/小作制度を「半農奴制」などと呼び、これは本質的に比喩的なレトリックにすぎないのですが、まるで実体に基づく概念であるかのように使っていたわけです。
「表象」の手口(1)
ただし、マルクス主義の歴史学は昭和50年代に入って、急速に影響力を失ってしまいました。それは、下部構造と上部構造という構図の公式主義的な限界がはっきりとしてきて、人間世界の構造を新たに解明しようとする、構造主義が起こってきたためです。しかし、権力と反権力という構図を、抑圧と被抑圧という構図に置きかえ、範疇によって対象を作り出し、過去の出来事を範疇の餌食にするやり方は、一向に改まっていません。歴史学が科学性を目指す以上、社会科学的な範疇を借りざるをえないからですが、最近は通俗臨床心理学や精神分析学の範疇までも取り入れて、なんとか生き延びようとしている。それだけでなく、特定の事物を一種の代表例に取り上げて、範疇的表現を試みる。そういう手口は、図版や図録に頼ることが多くなって以来、ますます盛んに行なわれているありさまです。
このような手口を、言説研究のほうでは「表象」と呼んでいますが、歴史学者が専門家以外の人に向けて、啓蒙的な歴史書を書く場合、それをじつに安直に使ってきました。
たぶん皆さんは、なんらかの形で、一度は、「ペリーの率いるアメリカの艦隊が浦賀に現われ、その衝撃が日本中を駆けぬけた」というような記述を読んだことがあると思います。これは歴史学者が明治維新を語るときの、常套句だからです。
しかし実際の記録をみれば、ペリーの艦隊に応接に出かけた役人たちは割合に落ち着いて応対していますし、幕府の中枢にいた政治家は、アメリカが開港を求めに来るだろうことを、すでに予想していました。緊張が走ったのは、急遽、海防のために駆り出されることになった、幾つかの大名の家臣ぐらいなものでしょう。農民や商人にとっては、ほとんど他人事だったようです。
ペリーが去ったあと、いろんなかわら版が出て、そのなかに「阿女里香通人」というのがあります。私はいま、岩波書店の『新古典文学大系明治篇』の月報に、エッセーを連載していて、その一回目でも書いたことなのですが、そのかわら版の絵を見てみますと、どうやら日米交歓図のつもりだったのかもしれません。海軍提督の軍帽らしいものを逆さに据えて、火鉢替り(?)とし、中腰の男がキセルで煙草をのみ、椅子に掛けた女が琵琶を弾いている。もう一人の男が洋服を着て、とんがり帽子をかぶり、左手にでんでん太鼓(?)、右手に小さな撥を持って踊っている。そして、その絵の上に「きんぱきんぱさんちよろ、かむなんほう、とくりいつ、おちやヲとろ、あるほろめん、そとんくる、てきふくりん、たん。コウコウハア」という、歌詞らしいものが書いてあります。
なんだか訳の分からない言葉ですが、左側に単語表を掲げていて、「めでたいことを きんぱ」「うれしいことを さんちよろ」「かなしいことを めいそ」などと説明しています。これに従って解釈すれば、「きんぱきんぱさんちよろ」というのは、「めでたいな、めでたいな、うれしいな」という意味になるようです。どうやらここに挙げられた言葉は、かわら版の作者の考える「アメリカ言葉」だったらしいのですが、だんだん読み進めていって、終わりのほうを見ると、「ちんほこを ほうひし」「おまんこを ぺろんす」などとあって、要するに冗談だったのでしょう。こういう遊びによって、当時の民衆が、黒船の来航から受けた衝撃を表現していたのだなどとは、とうてい考えることはできません。
もう一つ例を挙げますと、ペリーが去った後、ペリーの顔を描いた浮世絵やかわら版が売られました。そのなかに、天狗のような衣裳を着て、手の指が細長く尖っている、そういうペリーの絵があります。それを例に挙げて、ある歴史学者は、ペリーを天狗に見立てたところに、当時の民衆の不安が表出されている、と解釈しました。その絵だけを見れば、確かにそんな意味づけもできないわけではありません。しかし、横浜開港資料館に集められている、当時のペリー像を見れば分かるように、ごく当たり前の肖像画に近いものもあれば、ユーモラスな印象のものもある。その全体を見れば、当時の民衆の不安を読み取ることには無理があるようです。
江戸時代の百科辞書で、割合に多くの人に親しまれたらしい書物に、『和漢三才図会』というのがあり、様々な異国を紹介した箇所があります。それを見てゆきますと、女人国や小人国は言うまでもなく、無腹国とか穿胸国とか羽民国とかいう国まで登場してきます。この紹介から、皆さんのなかには、平賀源内の『風流志道軒伝』という、日本のガリバー旅行記とでもいうべき、読み物を思い出す人もいるかもしれません。事実、江戸時代には、『風流志道軒伝』だけでなく、不思議な姿をした人間を登場させる黄表紙なども出版されていました。ペリーを描いた人たちは、アメリカという新しい異国から来た、未知の人間を表現する上で、『和漢三才図会』のような世界像を借りていたのだ、と見るべきでしょう。
要するに、先ほど紹介した歴史学者は、ペリーの肖像画を取り出して、当時の民衆という範疇の感情を表象するものと意味づけたわけです。それも一つの解釈といえますが、その時代の文化的な文脈に置いてみれば、また違った解釈が可能となります。私はこれまで、自分自身の言葉としては、民衆とか大衆とかいう言葉を使わないように心がけてきました。そういう人間なので特に強く感ずるのかもしれませんが、先の歴史学者は、本当は実体性のない範疇を実体化する方向で、ペリーの絵という視覚的な資料を使っていたわけです。
「表象」の手口(2)
このようなやり方を、文学研究の立場から言いますと、提喩的レトリックと言います。提喩というのは、ある全体の一部分を取り出して、その全体の本質を代表させるレトリックで、先ほど紹介したS・I・ハヤカワの指摘を思い出してください。例えばある外国人が、私を例に挙げて、「日本人って、みんなそんなもんだよ」と決めつけたとしましょう。確かに私は、日本の国籍を持ち、日本人として生きてきました。しかし現在、この世に日本人として生きている人間は一億人以上もいて、その大部分は私と性格も異なれば、体つきや顔つきも違う。私を代表例として差し支えないような人はまず存在しません。それにもかかわらず、先の人は、日本人という大きな集合を前提とし、その集合を構成している一人一人は何らかの形で、その集合の特徴や性質を備えている、だからほんの小さな一部分を取り出して、集合全体を代表させることができるのだ、と考えたわけです。もう少し抽象化して言えば、彼は、大きな集合を構成する一人一人はみんな誰でも同じような、均質的な存在なのだ、と見なしたわけです。これは全体主義のレトリックにほかなりません。
皆さんは、そんな短絡的な見方をする人は滅多にいない、と考えるかもしれません。しかし、現在、書店に並んでいる日本人の書いた韓国人論や、韓国人の書いた日本人論を手に取ってみれば、その大半がこの種のレトリックを乱用していることに気がつくはずです。
もっとも、現在一般に使われている提喩的なレトリックはこれほど単純ではなく、もう少し複雑な方法を用いています。前に挙げたペリーの絵の場合、描かれているのはもちろん当時の日本の民衆ではありません。描かれているのはペリーなのですが、その描き方を、あの歴史学者は、日本の民衆の「不安」という集合的な感情に関連させたわけです。
この歴史学者は専門分野ではとてもいい仕事をしていて、私は多くのことを教えられました。ですから、この点だけを取り出して云々しますと、何か問題の多い論文のような印象を受けるかもしれませんが、それは私の本意ではありません。それを一つお断りして、ペリーの絵にもどりますと、この絵が直接に指し示しているのは、ペリーその人だけであって、民衆の姿が見えるわけでもなければ、「不安」が描かれているわけでもありません。では、なぜ歴史学者が眼に見えないものを読み取ったのか。それは、その人がペリーの来航に始まる、いわゆる「幕末」史の大きな物語に従っていたからではないか、と思われます。私たちが文学研究や文化研究において「大きな物語」(グランド・ナラティヴ)というのは、その時代の大きな流れや、傾向のことを指します。この場合で言えば、〈ペリー来航の衝撃が日本列島に走り、幕府の土台が揺らぎ、明治維新という新しい時代を迎えた〉というような、大枠の捉えかたのことです。その期間に起こった出来事は、この大きな流れのなかの一事件、つまり一挿話として繰り込まれ、位置づけられ、意味を与えられる。逆に、この大きな物語の挿話となりえないような出来事は、取り除けられて、歴史的事件として言及されることはありません。たぶんその歴史学者はこの大きな物語を前提として、「ペリー来航の衝撃」→「古い秩序の崩壊」→「社会の混乱」→「民衆の不安」という具合に連想していって、ああいう意味づけに達したのでしょう。
その意味づけが、もし読者にリアリティを感じさせたとすれば、それは、読者のほうもあの大きな物語に取り込まれていたからです。読者のほうも取り込まれていればこそ、描かれていないものまでが見えてきたかのように錯覚し、「なるほどなあ」と納得して、そして次には、「不安」という感情を実体化して、それが民衆のなかに底流したかのように思い込んでしまうわけです。
「表象」の落とし穴
何だか文学論みたいになってしまいましたが、もちろんこれは歴史記述の問題でもあります。教科書その他、一般の歴史書というのを開いてみれば、大半はこのようなレトリックで書かれていることに気がつくはずです。このような歴史書を書いた研究者に向かって、いま私が「もし歴史的記述は物語ではない、レトリックではないと言うのならば、それを一切使わないで、完全に科学的で、実証的な歴史を書いてみて下さい」と注文を出したとしましょう。たぶんその人は書けなくなってしまう。特に日本史などという通史は書けません。紀元前の古代から現代に至るまでの通史などというものは、この二つの方法なしに書けるはずがないからです。この事情は、中国史や韓国史はもちろん、どこの国の歴史であっても変わりません。
歴史の教科書や、市民向けの歴史書などは、かなり沢山の写真や図版を使っています。確かにある事柄を理解したり、イメージを作ったりする上で便利なものが多いのですが、歴史学者はそれがどういうレトリックに基づいているか、自分できちんと把握していなければならないでしょう。
これは認知心理学の初歩的な実験ですけれど、ある俳優がややうつむいている写真を撮っておいて、二つの映画のなかに、それぞれクローズアップで挿入して見ました。そうしますと、観客は、一つの映画におけるそのシーンを見て、「あの主人公は悲しそうに眼を伏せていた」という印象を語り、別な映画に使われたその写真については、「楽しい思い出を、一人そっと噛みしめていた」という印象を語り、そうして、〈こんなに複雑な感情を演じ分けることができるなんて、あの俳優はなんて名優なんだろう〉とほめそやしたそうです。こんなふうに、写真というのは、物語の展開や、コメントによって別な意味を生んでしまう、別な意味に使われてしまう、極めて危険なメディアでもあるわけです。
小林よしのりの『戦争論』は歴史学者の、この盲点を衝いていました。彼の指摘によれば、大阪国際平和センター(愛称は「ピースおおさか」)に展示されている「一九二〇年朝鮮で日本軍が独立運動を弾圧した虐殺事件の写真」が、じつは朝日新聞の一九八四年8月4日の夕刊に「一九三七年の「南京大虐殺」の写真」として載ったものとおなじであり、しかも森田信吾の『栄光なき天才たち』(一九九二年)では、「一九四一年以降の「三光事件」の写真として使われている」そうです。ばかりでなく、中国で出版された『日本侵華図片史料集』では、「満州・遼寧の虐殺写真」となり、満州事変の記念館では「一九三二年の「平頂山事件」の写真」となっている。つまり、一種類の写真が、五つの異なる事件の証拠写真として使いマワシされていたわけです。
おなじく小林よしのりの指摘によれば、笠原十九司の『南京事件』(岩波書店)に使われた、一枚の写真には、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち/国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』(一九三八年刊)所載」というキャプションがついていました。ところが、もともとその写真は朝日新聞の熊崎玉樹カメラマンが撮ったもので、「アサヒグラフ」一九三七年11月10日号に掲載され、翌年3月発行の『支那事変写真全輯―中―上海戦線』(朝日新聞社刊)にも転載されている。その写真に関する「アサヒグラフ」説明は、「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかえる日の丸部隊女子供の群」であり、『支那事変写真全輯』の説明は「夕になれば白一色の綿の花畑から嬉々として我家へ帰る」だった。そうしてみると、国民政府の軍事委員会が、「アサヒグラフ」の写真を借用しながら、まるで反対の意味の説明をつけたことになるわけですが、笠原十九司は後者の説明をそのまま鵜呑みにしてしまったらしい。これは歴史学者としては重大な失態だった、というほかはありません。
お分かりのように、これらのことにかかわった歴史学者たちは、どうやらその写真が何時、どこで、誰が何を写したものかを検討することなしに使っていた。先に挙げたペリーの絵はそれなりの根拠をもっていたのですが、こちらの場合は、根拠のきわめてあやふやな写真を、自分たちの大きな物語に現実感を与えるために、つまり自分たちの大きな物語を実体化するために、使っていたわけです。
小林よしのりの『戦争論』が強引な意味づけに満ちていることは、一読して明らかです。劇画というジャンルは、表象の操作に都合がよく、彼は確信犯的にそれをやっている、と見てよいでしょう。そういう人間が、これまでマスメディアや歴史学者が行ってきた写真のトリックを暴いたわけですから、見事に穿ったところがあり、批判された側が受けたダメージは相当に大きかっただろう、と想像できます。
さすがに良心的な出版社の、岩波書店は広告誌の『図書』で謝罪するとともに、『南京事件』を出荷停止にした、ということです。ところが、この『戦争論』を批判する本が次々と現われ、揚げ足取りめいた泥仕合が始まりました。この泥仕合が、小林よしのりの加わった『新しい歴史教科書』のメンバーと、これを批判するグループとの攻撃合戦にまで拡大され、一方が相手を「自虐史観」だと決めつければ、他方は相手を「自国中心の皇国史観」だとやり返し、要するにS・I・ハヤカワが言う「ユダヤ人」の乱発で、その実態は目糞が鼻糞を笑うに等しい、低俗なものでしかありません。
なぜ、そんなことになってしまうのか。要するに彼らには、自分たちの大きな物語を生徒の頭のなかに再生産し続けることだけが大事なのであって、それを方法論的に検討しなおす謙虚さもなければ、いったん大きな物語を外してみる勇気もないからだ。そう考えざるをえません。
歴史学の終焉
歴史を知ることから得られる最も重要な収穫は、類比的な認識への目が開かれることだと言えるでしょう。江戸時代の物語作者は、類比的な認識と見立ての方法をさまざまに試みることによって、豊かな「知」の世界を開いていました。壬申の乱と建武の中興とを重ね合わせてみたり、南北朝の争乱における主要な人物を、源氏と平家の争乱における主要な人物の生まれ変わりに見立てたりして、斬新な見方を提供してくれたわけです。
私はそういう能力を持ち合わせていませんが、昨年の無差別大量殺戮テロをきっかけとしたアメリカと世界の政治力学は、徳川幕府が天草の乱を利用して支配体制を完成していった過程とよく似ています。ソ連が解体して以来の、いわゆる冷戦構造崩壊後の国際政治的な動向が、関が原の戦いから、大阪の陣を経て、天草の乱に至るプロセスにほとんどパラレルだからです。ただし、天草の信仰集団と、アフガニスタンのアルカイダとを類比させることはできません。アフガニスタンのタリバーンと反タリバーンの葛藤、またそれぞれの勢力を構成する武装集団の集合離反の様相は、一九三〇年代の中国大陸における軍閥の行動を重ねて見たほうが理解しやすいようです。
ともあれ、私の見るところ、現代の歴史学者は江戸時代の物語作者よりも上等な認識と方法を持っていません。しかし、歴史学は物語ではなくて、実証科学だ、という反論が出るかもしれませんが、歴史学は変化の認識なしには成り立ちません。――もし一つの社会が全く変化せずに持続しているとすれば、どうして歴史的な認識が生まれるでしょうか――歴史を記述するとは、ある社会状態から別な状態へと移り変った経過を記述することであり、その変化を引き起こした主要な要因を「主語」に選んで、つまり「主役」に選んで説明することです。そうである限り、それは物語の枠のなかにあり、物語としての分析と批評を免れることはできないはずです。
それに、そもそも歴史学における科学性なるものは、先にも見てきたように、他の学問の概念をつまみ食い的に借りて、範疇の餌食をやっているにすぎません。せいぜい歴史学固有の概念と言えるものは、古代とか中世とか近世とかいう時代区分の概念だけなのですが、しかしその概念を支える時間の観念は、古典物理学の段階から抜け出ることができないありさまです。
一つの学問を他の学問と区別する基本的な条件は、その学問における研究対象の範囲を設定できることと、それに対応する固有の研究概念を生産し、かつそれを刷新してゆく検証方法を備えていることです。この基準に照らして見れば、歴史学の学問性とは極めて疑わしい、不安定なのもでしかないことは明らかです。
さすがに最近は歴史学者のなかからも物語性への関心が生まれ、成田龍一さんが『歴史学のスタイル――史学史とその周辺―』(校倉書房、二〇〇一)や、『〈歴史〉はいかに語られるか――一九三〇年代「国民の物語」批判―』(NHKブックス、二〇〇一)という魅力的な本を書いています。これは物語分析における「読者」論の方法を導入し、歴史叙述を、誰に向けて、何を語っているのか、という視点から分析したもので、ようやく歴史研究者も語りの方法とスタイルの問題と取り組み始めたわけです。
ただし、成田さんはまだ、誰が語っているのか、という「語り手」の問題には踏み込んでいません。この問題に踏み込み、さらにその「語り手」がどんなものを主語に選んで、過去の出来事を選別し、再編成しているか、そのシステムを明らかにした時、初めて歴史記述とはどのような戦略を持ったものなのか、陽の目に晒されることになるでしょう。ということは、つまり、「民衆」とか「日本人」とか「国民」とかを主語とする歴史記述のいい加減が露呈してしまうだろう、ということでもあります。なぜなら、すでに指摘したように、これらの集合的な概念は内容が曖昧で、あの「ユダヤ人」とおなじく、なんでもありの概念でしかないからです。
現在のところ、一種のセンチメンタルな合意によって、民衆とは権力の被害者であり、だから良い人ばかりで、しかも創造性に富んでいたことになっています。が、事例の取り方によっては、民衆とは、あっさりと権力主義的な加害者に転じてしまい、底意地悪く、平気で自然や文化を破壊してしまう俗衆だ、ということになりかねません。日本人や国民を主語に選んでも、同様な結果となるでしょう。ですから、どちらの立場で書こうとも、観念的なフィクションでしかなく、ただ前者の肯定的な視点で書けば、うまく騙してほしい人間や、虚栄心をくすぐられたい人間が喜んで読み、その限りでリアリティがあるように思い込むことができるだけです。
先ほど挙げました「表象」の問題について言えば、もちろんああいうことを私が初めに言い出したわけではありません。文化学(カルチュラル・スタディ)という歴史的研究の一分野の人たちが、すでに、権力がどのような表象を使って「国民」とか「国家」とか「国史」とかいう観念を人々のなかに植えつけてきたか、の研究を手がけています。ただ、不思議なのは、一方でそういう権力批判的なポーズを取りながら、それでは「歴史」という観念や、歴史学という制度そのものがどういう表象の操作によって作り出されてきたのか、自分たちがどういう表象を使いながら制度の維持に努めているか、その点にまで研究関心を向けていない。そういう怠慢な体質の端的な現われが、小林よしのりの『戦争論』に対するリアクションだったと思います。小林よしのりが指摘した写真使いマワシの問題、あの程度のことは、もともと彼ら自身がやっておかなければならなかったことでしょう。ところが彼らはその怠慢を反省していない。そして、小林や「つくる会」をある種の表象に仕立てて、自己保存を計っている。考古学の捏造問題が出た時、私は、相互検証のシステムを持たないらしい考古学の体質に驚きました。どうやら歴史学や文化学も似たような体質にまみれている。だからこそ写真の使いマワシを見のがしてきたのではないでしょうか。
他に対する批判が質の高い客観性を獲得するのは、きちんとした自己批評を経ていることが必要です。それをせずに、あらゆる社会現象に対して、自分を客観的な「知」であるかのように装うこと、それは自分を無傷で、特権的な高みに置くことにほかなりません。
歴史学とマスメディアの同質性
さて、だいぶ遠回りをしてきましたが、このように整理してみれば、現在の歴史学者とマスメディアが同質の存在であることが、お分かりのことと思います。
マスメディアが使う写真やヴィデオ・フィルムは、たしかに現場を写したものであることによって、一見客観的な事実の報道に思われます。しかし、前に紹介した認知心理学の実験でも分かるように、編集の仕方やコメントのつけ方によって、全く異なった印象を植えつけることが可能です。
もう一つ、マスメディアが好んで用いる手法は、アンケートというやり方です。それによって内閣支持率が上ったとか、下がったとか、報道されますと、私たちはついうっかり、それが国民による客観的な評価のように印象づけられてしまう。しかしアンケートというのはくせ者で、少し冷静に考えれば、たいして根拠のあることではない。なぜなら、どんな人たちを対象に、どんな表現で問いかけたのか、明らかではないからです。このアンケートが、無作為抽出で二〇〇〇人を撰び、電話で返事を聞くやり方だったとしましょう。全体のアンケート項目をよく見ることができない状況で、電話で問い合わせられた時、私たちはうまく自分の意見を整理した上で答えられるかどうか。そういう問題がありますし、そもそも二〇〇〇人という数が1億人以上の人たちの意見を把握する上で適切な数かどうか。それを適切と考えるとすれば、その前提として、日本の市民はおおむね均質的な存在であり、どの小部分を取り出しても全体の本質を反映しているはずだという、あのレトリックを承認していることになります。
仮にアンケートの対象を、現在リストラで職を失った人たちに絞ったとすれば、支持率の数は大幅に減ってしまうでしょう。それでは偏ったアンケートになってしまう、という反論があるかもしれません。しかし、この反論の危険なところは、一見客観的で公平に見えるアンケートが、現に困っている少数の人たちの意見を、あくまでも少数意見にほうに押し込めておく、数字のトリックになりかねないことです。
さらに問題なのは、問いかける表現の方法です。アンケート調査をやったことのある人は気がついていると思いますが、ちょっとした言葉の操作で、簡単に回答の方向を誘導することができる。たとえば「小泉首相が外務大臣を更迭したことをどう思いますか」と問いかけるのと、「小泉首相が、田中真紀子氏を外務大臣から外したことをどう思いますか」というのとでは、おそらく反応が大きく異なってくる。さらに「現時点で」という言葉を加えるならば、また異なってくるでしょう。「現時点で」という表現は、〈NGO問題の真相がまだ解明されていない段階で〉という意味を、回答者の頭のなかに生み出す。そして、〈まるで臭いものには蓋をするようなやり方で〉というネガティヴな印象を喚起し、その結果、否定的な回答が増え、数字の上では小泉内閣の支持率が低下したことになってしまう。
もっとも、数字のトリックに自分からハマッてしまう現象は、文学研究のほうでも見られることで、例えば万葉集の研究者が、用例の数値化ということをやっています。用例の数値化というのは、これこれの言葉が出てくる歌が幾つあるかを調べ、二十数首ある用例の一般的な意味はこれこれであるが、この歌の場合は違ったニュアンスで使っている。だから、そこに、この歌の独自な価値があるのだとか、作者の独自な詩想が見られるとか、評価するわけです。しかし、たまたまそのニュアンスをもつ歌が、万葉集には一つしか取られなかっただけで、万葉に取られなかった膨大な数の歌のなかでは当たり前に使われ、あるいはその数のほうが多かったかもしれません。つまり、統計的な数字というのは、その母集団を設定することにどれだけの根拠があり、どんな限界を持っているか、を明確にしておく必要があるのですが、そういう方法論的検証もなしに、現象的な数字から結論を引き出している。もしこの種のやり方を取るならば、本当は、その歌における、その問題の言葉と置きかえることが可能な、他の言葉を、可能なかぎり探し出すことです。そして、その歌のなかの、問題の言葉の位置に、それらの言葉を置いてみて、どういう表現効果の差異が生まれるか、を検討してみることです。言葉を換えれば、おなじ言葉が幾つの歌に使われているか、ではなくて、一つの歌の、ある言葉と置きかえうる、別な言葉が幾つあるか、という手続きを踏むことであって、これを範列論的方法と言います。分かるように、これはあくまでも言葉と言葉のレベルで研究する、正当な方法であり、用例の数を調べ、パーセントを出してみたところで、言語表現の価値に迫ることはできません。
おなじようにマスメディアも数字のトリックに自分からハマッて、支持率が下がっただけで重大な政治上の失態があったかのように論評し、野党の政治家までがそれに乗せられ、更迭問題を国会で取り上げれば点数を稼げると思い込んでいる。しかし一番大切な問題は、この更迭が日本の外交にプラスなのか、マイナスなのか、ということはないでしょうか。
昨年、歴史教科書問題に続いて、小泉首相の靖国神社参拝の問題で、韓国や北京政府が反発している、という事が、日本で盛んに報じられていました。その時期、田中外務大臣が北京へ出かけ、北京政府の首脳と会談して帰ってきましたが、その会談の後、北京政府の唐外務大臣が記者団に対して「(小泉首相の靖国神社参拝については)やめなさい、とゲンメイしました」と答え、記者の質問を振り切るように去って行った。このことは、皆さんの記憶に新しいと思います。このゲンメイを朝日新聞やNHKは「言明」としていましたが、前後の文脈から判断して、これは「厳命」のはずです。仮に「言明」だとしても、「やめなさい」を受けて、「命令」のニュアンスを伴なう。いずれにせよ、他国の外務大臣を遇する正当な扱い方とは、私には思えませんでした。その後の経過を私はつまびらかにしませんが、当然、日本の政府も、外務大臣自身も厳重に抗議したはずですし、また必ずそうしなければならない。日本の外務大臣の軽重が問われるような扱いだったからです。
他方、田中外務大臣は記者団に対して、「小泉首相に、靖国神社参拝を考え直すように、進言する」という意味のことを言っていました。多分そうしたのでしょうが、小泉首相は考えを改めませんでした。ところが、その直後、自民党の野中代議士たちが北京を訪問して、帰ってから小泉首相に北京政府の雰囲気を伝えたところ、小泉首相は靖国神社参拝の日程を変えてしまった。その前後、首相の周辺からも、8月15日を避ければいいじゃないか、という意見が出ていたようです。姑息な言い逃れというほかはありませんが、ともあれ、小泉さんは野中代議士たちの意見を聞いた時点で、あっさりと持説を曲げてしまった。
この一連の動きを、外国の首脳から見れば、なんだ今の外務大臣に話をするよりも、自民党の有力政治家に働きかけたほうが、話が通ずるじゃないか、ということになりかねません。うんと露骨に言えば、田中真紀子という外務大臣は、まさか子どもの使いじゃあるまいに、ということです。この時点で私は、外国における田中真紀子外務大臣の評価は失墜した、と見ていました。その後の田中真紀子氏は、外務大臣として有効に機能していなかったのではないか、と思います。
それにもかかわらず、そこをきちんと見極めてコメントできる政治評論家がいない。マスメディアは依然として首相と外務大臣を人気者扱いにして、支持率の維持に協力している。そういう状態のほうが、私には異常に見えたのですが、逆に何をやっても支持率が上らなかったのが森首相と小淵首相でした。特に小淵首相の時は、アメリカの新聞が「冷めたピザ」と評した言葉を、まるでお墨付きを貰ったかのように振りかざして、マスメディアは面白半分にひどい言い方を弄んでいました。一つの国の総理大臣というだけでなく、一人の人格をここまでコケにして喜んでいる、メディア体質は、きっと将来、大きな禍根を残すだろう。そう考えて、私は小淵さんが首相になった前後から、ずっと新聞の――特に週刊誌の広告の――切り抜きを作ってきました。案の定、田中真紀子代議士が、亡くなった小淵さんを冒涜するような発言をし、マスコミは一応「不謹慎な」言葉として報道をしましたが、しかし結局コメンテーターたちは「真紀子さんらしい、ちょっとした言葉の行き過ぎ」という、ご愛嬌のエピソードで終わらせてしまった。感受性の荒廃というほかはありません。
いずれ切り抜きを整理してホームページに載せるつもりですが、私がそれを思い立ったのは、まだ大学に勤めていたころ、文学部の会食で、向こう側に坐っていた、一人の同僚が、騒がしい声で「小淵程度の男でも首相がやれるんだからな」と言うのを耳にした時からです。重責を担っている人間に対する敬意のかけらもない、傲慢な物言いで、俗ウケを狙う、反骨の野党気取り。そんな風潮がここにも現われてきたのか、と愕然としました。
しかし小淵恵三氏が外務関係の仕事に就き、地雷の撤去と、今後の地雷の禁止に関する国際会議に出た時、日本の政府は調印に消極的だったのですが、彼自身の判断で調印に踏み切り、同席した関係国の代表から高く評価されたそうです。
昨年10月、私たちは韓国の木浦大学校を訪れ、共生園に足を伸ばしました。ご存知の人も多いと思いますが、共生園というのは、韓国の牧師さんと結婚した日本の女性が、戦後、独力で、身を削るような苦心をしながら、韓国の孤児を世話してきた施設で、現在お孫さんが経営に当たっています。経営は決して楽ではなく、「一度に大口の寄付をいただくより、小額でも継続的に援助していただくほうが、ずっとありがたい」とおっしゃっていました。その共生園を小淵首相が訪ねたことがあり、記念碑が立っています。私が「小淵さんのほかにも、日本の政治家が訪問したことがありますか」と訊ねますと、「いいえ、小淵さんだけです。小淵さんが元気でいらっしゃれば、韓日関係がこんなにぎくしゃくすることはなかったでしょうね」という返事でした。
こういうことを数字は表すことができません。もっと言えば、マスメディアがこういうことを報道せず、小淵恵三という政治家は、調整能力はあるかもしれないが、政治家の能力があるわけでなく、ただ派閥の力関係のおかげで首相に選ばれただけだ、というニュアンスの報道しかしない。逆に、小泉や田中に関しては、「何かやってくれそうな気がする」とか、「歯に衣を着せない、あの率直なキャラクターで政治に新風を送り込んでくれそうだ」などという、無責任な印象批評を紹介しながら、期待できる政治家のイメージを送り続ける。それが支持率という、根拠の曖昧な数字に現われているだけです。
方法としての韓国行き
さて、そろそろ締めくくりに入りたいと思いますが、これまでの私の指摘を聞いて、皆さんは、たしかに歴史学には方法的にいろんな問題があるらしいけれども、しかし歴史的な事実というものはあり、それを明らかにする学問があるのは当然ではないか、と疑問を感じておられるかもしれません。実は、私自身もそう考えています。私がこれまで述べてきたことは、どのようにして私たちはそこまでたどり着くことができるか、その方法を探るためでした。
先ほどの言いましたように、歴史学者は過去の、ある時代について、大きな物語を作り、この物語にリアリティを与えてくれそうな出来事を選んで、その物語のなかに位置づけ、意味を与える。そういう手口を使ってきました。しかしその時代の人たちが、おなじ大きな物語を生きていたということは、まずありえません。一八五〇年代の、嘉永年間や安政年間の人たちが、俺たちは「幕末」という一つの体制の終焉期に生きているのだ、などと考えていたはずがないからです。当たり前のことですが、当時「幕末」などという言葉はありませんでした。彼等は彼らなりの大きな物語を持っていたとしても、それは後世の歴史学者が作った物語とは異なっていたはずです。その時代の人たちが作っていた大きな物語と、現代の歴史学者が作る大きな物語との喰い違い、この喰い違いのなかにこそ、私の考えでは、歴史が新しく立ち現われてくる契機が潜んでいます。
さらに、その時代の人たちが出会った出来事や、その人たちが起こした事件を、できる限りさまざまな文脈を通してとらえてみる。つまり、さまざまな意味の錯綜体としてその出来事を再構成してみましょう。あのかわら版の例で言えば、かわら版というメディアが生まれた経緯や、未知な国の人間の姿を想像する仕方や、その国の言葉を創作してしまう言語遊戯の文化や、人物の肖像に関する「写真」(真を写す)という観念と技術の変遷など、それらの点に焦点を合わせてみれば、当時のかわら版の作者は、ペリーの来航という話題を、面白いかわら版を作る一つの題材に使っていたにすぎない。言葉を換えれば、歴史年表に太字で書き込まれているような、「節目の」事件が、その時代における全ての現象の第一原因、説明の原理であるわけではない。そういうことが分かります。
また、そのような手続きを通して、一つの事柄の多様で、豊かな意味を再現してみれば、その時代の人たちが、自分たちの大きな物語のなかで位置づけたり、意味を見出したりする仕方自体もまた、一面的であり、あるいは奇妙な勘違いをしていたらしいことが理解できます。
このように二重、三重の喰い違いの総体こそが、歴史学の問題なのであって、この総体のなかで、現代の歴史学者が作った大きな物語の観念的な特徴や限界、いわば歴史学的な言説の歴史性が見えてくる。私の考えでは、その時代の大きな物語や、後世の歴史家が作る大きな物語の一面性や限界を露呈させてしまう重み、この重みを私は「権利」と呼びたいと思いますが、その権利を、私たちが過去の出来事に見出しえた時にこそ、その出来事に歴史的な事実としての厚みが生まれてくるわけです。
もう、お分かりのことと思いますが、私たちは、少なくとも私は、日本と韓国との関係を規制しているかもしれない出来事の、その錯綜する意味の厚みにふれるために韓国へ出かけました。その出来事は必ずしも歴史年表に太字で書かれるような、節目の事件である必要はありません。そもそも年表に太字で書かれるような事件が直ちに大きな波紋や反響を生じて、国家や世界全体に波及していったかのような、そいうい思い込みは、マスメディアが発達してから作られた観念であり、その意味ではマスメディが生んだイメージだと言えるでしょう。
そんなわけで、太字で書かれているような事件の場所に行って、大きな物語を再確認するだけならば、あの「歴史認識」が好きな人たちが要領よく経験し、そつのない優等生の作文を書いてくれます。私たちの経験はもっと不器用であっていい。韓国の木浦市には、かつて日本の領事館だった建物が残っていて、現在は文学館として使われています。昨年、一緒に旅行したなかの一人の人が、「地元の人たちは、どういう気持で、自分たちの土地が生んだ文学者を顕彰するために、あの建物を使っているのか。それを考えると、なんだか混乱してくる」という意味のことを語っていました。私はそこまで出かけなかったので、それを聞いて、ああ、いい経験をしてきたな、と羨ましくなりました。その人は、文字通り意味の厚みにふれて、いい意味で混乱を経験することができたからです。それを聞きながら、私は、東国大学校の李暢鐘先生が学生に夏目漱石の『坊ちゃん』の翻訳をさせた時の話を思い出し、それと共に、フレドリック・ジェイムソンというアメリカの文学理論家が、『言語の牢獄』(Frederic
Jameson. The Prison-House of Language. 1972。川口喬一訳、1988、法政大学出版局)のなかで、「言葉に記憶はないのだ」という意味のことを言っていたのを思い出しました。
ご存知のように、漱石の『坊ちゃん』は「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」と始まるのですが、李暢鐘さんによりますと、「無鉄砲」という言葉は現在の韓国語のなかに定着していて、学生さんたちはそれが日本語に由来する言葉であることに気がついていなかったそうです。これはどういうことか。少し抽象的な言い方をするならば、いま現在、この「無鉄砲」という言葉を使っている韓国の若い世代にとって、この言葉の意味は現在の使い方のなかにしかない、ということになるでしょう。
他方、もちろん「無鉄砲」という言葉の由来を知っている人たちがいます。これもまた少し抽象的な言い方をすれば、そういう人たちがその言葉の「記憶」を持ち、いわば言葉に「記憶」を与えているわけです。このように、言葉の由来を知り、かつて使われていた意味や、時代による意味の変化を調べること、これを通時的(diachronic)研究と言い、長い間ヨーロッパの言語学の主流をなしていました。それに対して、現在の生きた、生活経験のなかで、直接に使われている使い方を、同時代の他の言葉との相関関係のなかで研究する言語学があり、これを共時的(synchronic)研究と言います。フェルディナン・ド・ソシュールという言語学者が、この共時的研究を提唱し、単に言語学の領域だけでなく、20世紀後半の人文・社会科学の全体にわたって革命的な変化を惹き起こしてきました。フレドリック・ジェイムソンはその理論の特徴を「言語に記憶はないのだ」、つまり言語それ自体が自分の過去の記憶を持っているわけではない、という面白い言い方で要約してみたわけです。
もちろん建物と言葉とを簡単に同一視することは危険です。そのことを弁えた上で、しかしあえてこの見方を用いるならば、一つの建物がいま現在使われている、生きた使い方、これと合わせて、その由来をも知るときにこそ、私たちはその建物の厚みにふれたことになるのではないでしょうか。
どこの国でも、過去を語るために建てたもの、特定の過去を語るためにだけ残した建物を持っています。それはそれなりに大切なことですけれど、ただ、それを見学する経験は、一つの、公式的な意味を強いられる窮屈さと退屈さがつきまとうこと、これは否定できません。現在の生きた意味と、過去との複合体としての建物が持つ意味の厚み、それにふれた時の豊かな経験が捨象されてしまうからです。
私たちが出発する少し前に、私は木浦大学校の申寅燮先生に、歴史教科書問題の政治問題化や、韓国のリアクションが日本で報道される仕方と、またそれに対する日本の反応とに言及して、にもかかわらず私たちは訪問する予定であることを、メールで送りました。それに対して申さんから、「そういう政治問題化にとらわれず、むしろ私たちの気持を読む旅をしていただきたい」という意味の、大変に印象的で、深い内容のある返事が戻ってきました。もともと私たちが韓国行きを計画したのは、一昨年、小樽文學舎の本、およそ三二〇〇冊を日本文学の研究資料としてお贈りし、その返礼として、昨年の2月、木浦大学校の総長が、申先生や許先生と一緒に、わざわざ小樽までお出で下さった。その民間レベルの交流をもっと内容あるものにしたい、と考えてからですが、申さんから、その意図を汲んだ、ああいう繊細な心づかいの返事をもらったわけです。申さんが言う「気持を読む旅」の意味とは少し違うかもしれませんが、私はいま述べたような「厚み」にふれながら、いま現在のお互いの生きた関係のなかで、お互いを理解し合う旅であることを望んで出かけました。そして私たちは成功したと思っています。
館長からのメッセージNO.12(2002年2月24日)
小樽文学館 3月9日(土)午後2時から
私は3月17日から7月1まで、アメリカのUCLAという大学へ客員教授として出掛け、しばらく日本を離れることになりました。
数年前から、UCLAのMichael Bourdaghs教授が中心となって、Kamei Projectというチームを作り、私の『感性の変革』(講談社、1983)を、Trasformation
of Sensibility: Phenomenology of Meiji Literatureというタイトルで翻訳してくださり、それがこの3月、ミシガン大学より出版されることになりました。それだけでなく、UCLAがこれを記念する形で、4月の19・20日に学会を開いて下さり、その上、4月5〜7日にワシントンD・Cで開かれる、全米のアジア学会(AAS)でも、私の研究を核とするシンポジュウムを一つ設けてくれることになりました。
これは、長年文学研究に携わってきた人間にとって、この上なく名誉なことですので、喜んでお礼を述べに出かける予定でいたところ、さらにUCLAから、それならば春の学期中、講義を持ってくれないか、という誘いがありました。小樽の皆さんに相談しますと、それは大変に結構なことだ、と理解をして下さり、しばらく休ませていただくことにしたわけです。
そうするうち、今度は、文学館から、アメリカへ出発する前に、「歴史教科書問題と韓国行き」というテーマで話をしてはどうか、と勧められました。
たしかに私は、昨年の夏以来、この問題に関心を持ち、自分なりの意見をホームページ(http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)に載せてきました。しかしこれは、文学館の仕事に関わるものではなく、あくまでも私個人の関心でしかありません。ただ、昨年は、歴史教科書の問題と、小泉首相の靖国神社参拝の問題とが重なって、韓国や北京政府の中国で非常に強い政治的なリアクションが始まり、韓国のほうからは、日本と韓国との親善・交流事業をキャンセルしてくる。あるいは日本のほうでも、韓国への修学旅行を中止する。そういうことが相次いで起こりました。その雰囲気のなかで、私たちは、昨年の10月下旬、小樽文學舎主催の韓国・木浦大学校を訪ねる旅をしてきました。しかし、なかには、初め旅行に参加するつもりでいながら、マスコミの報道によれば、韓国の反日感情が高まっているという現在、不快な思いを味わってきたくない、という理由で、参加を諦めてしまった人がいました。9月の11日、アメリカで無差別大量殺害のテロ事件が起こり、外国旅行への警戒心が強まっていた、という事情もからんでいたように思います。
そういう状況のなかで、それにもかかわらず、いや、こういう状況だからこそ、今あえて韓国へ行ってくることに意義があるのだ。そう考えて、私たちは、韓国旅行に踏み切ったわけですから、その意味では歴史教科書問題と韓国行きとは全く関係がなかったわけではありません。
文学館の人たちは、おそらくそう判断して、韓国行きの意味をもう一度確認し、これからの方向を探るために、歴史教科書問題とからめながら、何かメッセージを残していってもらいたい、と考えたのでしょう。少なくとも私自身はそのように理解して、話をさせてもらうことにしました。
しかし歴史教科書の問題は、大変に錯綜し、多岐にわたっていますので、その全てにふれることはできません。ですから、今回は、ホームページではふれなかった歴史研究の問題、特に歴史研究者の頽廃に焦点を合わせながら、それに対抗する「方法」としての韓国行き、という視点で話を進めたいと考えています。
時には挑発的な言い方をするかもしれませんが、インパクトの強い内容を心がけています。
館長からのメッセージNO.11(2001年9月9日)
この度は、小樽文學舎主催の「木浦・ソウルの旅」(10月24日〜28日)にご参加くださり、ありがとうございました。
韓国側では、私たちを迎えるために、現在、木浦大学校の副教授・申寅燮(しん・いんそぷ)先生が準備に当たって下さっています。先日の申先生からのメールによれば、申先生自身が私たちの行程を車で走ってみて、スケジュールを調整するなど、きめ細かい配慮をして下さっています。
おなじく申先生によれば、たしかに韓国では「最近教科書問題が変に政治的に悪用され、言説の操作により」、一部の人たちがそれに同調した面があったようです。しかし申先生は、「むしろこんなときこそ、気持ちを読んで歩く「旅」が必要ではないかと存じます。しかもマスコミで騒ぐようなことも実際それほどの実質を持っておりませんので、まあ、その辺のことも皆さん、お触れになったらよろしいのではないでしょうか」と言って下さっています。この度の旅行にご参加下さる方々のなかにも、一抹の不安を感じている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ご安心下さい。申先生のように、冷静に事態を見ている方が私たちを迎え、一緒に「気持ちを読んで歩く「旅」」をしようと、誘って下さっています。私たちもこういう暖かい「気持ち」を受け止め、交流を深めて来ましょう。
なお、旅行のプレ行事として、9月29日(土)午後2時から、小樽文学館でミーティングを開きます。
このミーティングでは、韓国からの留学生に来ていただき、韓国の文化や風習、韓国の見どころなどについて話していただく予定です。木浦市に共生園という施設を作り、韓国の孤児を世話した日本人女性のことは、最近「世界、ふしぎ発見」というテレヴィ番組でも取り上げられましたが、その女性の伝記映画『愛の黙示録』――これは日本の大衆文化の解放を記念した、日韓共同製作の第一作です――の鑑賞も予定しています。
旅行に参加される方々はもちろん、参加されない方々も是非お運び下さい。
館長からのメッセージNO.10(2001年8月10日)
小樽文學舎では、このたび、韓国の木浦市とソウル市を訪ねる4泊5日(10月24日〜10月28日)の旅を企画しました。例年行っている文学散歩の旅行を、今年は、韓国にまで足を延ばしてみようと考えたわけです。
すでに皆さんご存じのように、昨年の末、小樽文學舎から韓国の木浦大学校に33000冊を超える図書をお贈りしました。木浦大学校では大変に喜び、今年の2月、魯珍榮総長をはじめ3名の先生が感謝状を携えて小樽までお出で下さり、また、お贈りした図書がよりよく活用できるように、「小樽文學舎寄贈図書室」(小樽文學舎の部屋)という図書館の別室を作って下さって、4月にオープンしました。幸い市民の皆さんには寄贈の趣旨に賛同してくださる人々が多く、その後小樽文學舎に寄せられた図書を整理したところ、2200冊を超える図書をお贈りできる見込みとなり、近日中に発送する予定です。
今回の「訪ねる旅」の一番の目的は、「小樽文學舎寄贈図書室」(小樽文學舎の部屋)を訪ねて、小樽市民と木浦大学校との交流の絆をより強いものとすることにあり、木浦大学校では韓国の歴史と文化を紹介する講演や伝統芸能見学を予定してくださっています。それだけではなく、木浦市は古代から日本・韓国・中国の交流の要衝でしたから、歴史的な遺跡も多く、それらの見学を通していっそう韓国への理解が深まることでしょう。
帰路はソウルヘ寄って、景福宮や国立民俗博物館や南大門市場などを見学し、ショッピングも楽しんでいただこうと考えています。
最近の日本と韓国との関係は、いわゆる歴史教科書の問題にからんで、ややぎくしゃくしているように思われます。しかしそれは多分にマスメディアが仕立てた政治問題の性格が強く、そうであればこそ私たちは、そのような報道に過剰反応することなく、聡明な知恵を持って民間の交流と相互理解を深める努力をしてゆくことが必要なのではないでしょうか。
今回の「訪ねる旅」にはすでに2回木浦市を訪ねた経験を持つ文学館長のほか、小樽文学館の職員2名が同行します。韓国では現地の旅行会社の係員がずっと同行するだけでなく、木浦大学校の先生や学生の皆さんが案内してくださいます。
この意義ある「訪ねる旅」に、皆さんが参加してくださるようお願い申しあげます。なお、定員は30名を予定しています。
館長からのメッセージNO.9(2001年5月16日)
木浦大学校のシンポジュウムに参加して
4月20日(金)と21日(土)に韓国の木浦大学校で開かれた、韓国日本語文学会のシンポジュウム「21世紀の日本文学研究」にパネラーとして参加してきました。その時の旅の様子や、「小樽文学舎の部屋」がオープンされた時の様子は、前回のメッセージ「再び木浦を訪ねて」でお知らせしました。
今日はシンポジュウムそのものについて報告したいと思います。
「21世紀の日本文学研究」をテーマとする21日のシンポジュウムは、次のような構成で進められました。
午前:発表・山下宏明(愛知淑徳大学)/指定討論者・張永 (群山大学校)
発表・小池正胤(東京学芸大学名誉教授)/指定討論者・湯浅佳子(東京学芸大学)
午後:発表・亀井秀雄(小樽文学館)/指定討論者・尹相仁(漢陽大学校)
発表・許錫(木浦大学校)/指定討論者・朴鐘明(建国大学校)
この後、3時半から総合討論に移ったわけですが、主催者が同時通訳を組んでくれましたので、使用言語は韓国語、日本語のいずれでもよく、おかげで時間のロスがなく、充実した対話を行うことができました。
私の発表は『海外で日本文学はどのように研究されているか』というものでした。
お気づきの人も多いと思いますが、私は3月17日に小樽文学館で、同名のタイトルの講演を行い、それは『市立小樽文学館報』第23号に掲載されています。内容もこの時の講演と一部重なっています。
なぜそんなことをしたかと言えば、おなじ主旨のことを日本で語る場合と韓国で語る場合、私の「語る主体」はどうように変化せざるをえないか、それを実験することによって「日本文学を研究する主体」の問題を顕在化させたかったからです。
そんなわけで私は、申先生にお願いして、小樽での講演をあらかじめ配布してもらい、参加の皆さんに、発表との差異に注目してもらうことにしました。
おなじ理由で、ここに、韓国での発表の原稿を紹介しますが、後半の小森陽一さんに言及したあたりから、小樽での講演とは大幅に変わっています。勝手なお願いですが、『市立小樽文学館報』第23号のものと読み比べていただければ幸いです。
「『海外で日本文学はどのように研究されているか』
於、木浦大学校
2001年4月21日
亀井秀雄
今日、私は『海外で日本文学はどのように研究されているか』というタイトルの報告をさせていただこうと思います。じつは私は一ケ月ほど前に、北海道の小樽市の文学館で、おなじタイトルの講演を行いました。今日のタイトルはそれをそのまま使い、内容も一部分重なることになると思います。
このことは皆さんに不快な気持ちを起こさせるかもしれません。
なぜなら、別なところで一度話したことを、ここでもう一度繰り返すのは不誠実なことだからです。それだけでなく、「海外」という言い方は小樽市においては「外国」、つまり日本以外の地域を意味しますが、ここ、木浦市においては不適切な使い方であることは明らかです。
私のように日本人として日本に生まれ、長年日本文学の研究に従事して来た人間が、小樽市において日本文学の研究の現状について語る時、語る主体である私自身のポジションは、いわば小樽という場(トポス)と溶け合った状態にあり、聞き手にとっても、私自身にとっても特に問題意識化されることはありませんでした。しかし、ここ、木浦という場において皆さんと日本文学研究のあり方について討論しようとする時、小樽における私のポジションをそのまま維持することはできません。もし維持したいならば、「日本における文学研究の現状」というタイトルを選んだでしょう。
にもかかわらず、敢えて先のようなタイトルを選んだのは、「海外において『海外で日本文学はどのように研究されているか』を語るとはどういうことか」という問いを自分に向けてみることによって、私自身のポジションを洗い出しておきたい。そうでなければ、「21世紀の日本文学研究」の展望は得られないのではないか、と考えたからです。
ところで、私が日本文学について語り、日本文学を研究するポジションの問題に眼を開かれたのは、1986年にシカゴ大学へ出かけ、James
A. Fujiiさんと知り合った時のことです。Fujiiさんは現在、アメリカのUCLAの、アーバイン校で日本文学を教えていますが、当時は徳田秋声研究の博士論文を書いている大学院生でした。私は徳田秋声についてはほとんど知識がなかったので、何の役にも立つことは出来なかったのですが、いろんな話をしている時、Fujiiさんがこんな印象的な体験を語ってくれました。
Fujiiさんは、その名前から察せられるように、Japanese-American、つまり日系二世のアメリカ市民です。日系人は現在でもマイノリティの位置に置かれ、また、Fujiiさんが文学研究に志した1970年代、日本文学はアメリカではマイナーなジャンルでしかありませんでした。英語が依然として主流を占めているアメリカでは、やはりヨーロッパ語圏の文学がメジャーな研究ジャンルだったこと、その事情は想像がつくと思います。
そういう状況のなかでFujiiさんはあえて日本文学を専攻したわけですが、欧米の文学を専攻するヨーロッパ系アメリカ人の人たちからは、「君は日系人で、日本語にも不自由しないから、まだ専攻する学生の少ない日本文学を選んだのだろう」などと言われたそうです。ところが、日本に留学してみると、今度は日本人から「英語で育った君に日本語の微妙なニュアンスが分かるかね」などと、疑わしそうな眼を向けられてしまう。いわばアメリカにおいても日本においても疎外された立場に立たされてしまったわけです。
私にとって、これは、意表を衝かれるような言葉でした。
私はその直前に『二葉亭四迷』(1986年5月)という明治の文学者の伝記を出版したばかりでした。ご存知の人も多いと思いますが、二葉亭四迷は外国語学校でロシア語を学び、その語学力は現在も高く評価されています。しかし当時、ロシア語は学問に必要な言語とは認められず、東京大学のカリキュラムには入れられていませんでした。その意味で、ロシア語は学問の言語としては長い間ステイタスの低い、マイナーな位置におかれてきたわけです。そういう言語を選んだ結果、二葉亭四迷のように、初めから学者コースの門を閉ざされてしまった人間がどのような人生を歩まなければならなかったか。それが、『二葉亭四迷』という伝記を書いた時のテーマです。
ですから、私は私なりに、言語のステイタスと、それを選んだ人が負わざるをえない社会的なポジションとの関係は承知しているつもりだったのですが、Fujiiさんのように日系人のポジションの問題には思い至っていませんでした。Fujiiさんの言葉はそういう私の眼を開いてくれたわけです。
Toyotomi Morimoto という人が1997年に出した、"Japanese Americans and
Cultural Continuity"(『日系アメリカ人と文化継承』)という研究によりますと、もともとアメリカへ移民した日本人のなかには、祖国の言葉と文化を忘れてはならないと考え、日本人学校を作り、日本から日本語の教科書を取り寄せ、のちには自分たちで日本語の教科書を作ったりした人たちがいました。しかしその反面、自分の子供が将来アメリカで高い社会的ステイタスを手に入れるためには、早くからアメリカ社会に溶け込ませたほうがいいという意見を持って、子供をアメリカの学校にだけ通わせることを選んだ人たちも多かった、ということです。
そういう歴史があり、また、1941年に日本とアメリカとの戦争が始まった時、アメリカ政府は日系アメリカ人を収容所に隔離するなど、日系人に対する差別と迫害があって、それ以来家庭のなかでも日本語を話すことを止めてしまった人たちもいたようです。
その意味では日本語はアメリカではステイタスの低い、マイノリティの言語であり、状況次第では隔離され、迫害されかねない言語でもあったと言えるでしょう。それをもっと一般化して言えば、言語というものはけっして単なる中立的なコミュニケーションの手段ではありえず、まさしく社会的葛藤の一部であって、ある言語を選ぶこと、あるいは選ばされることは、その葛藤を引き受けること、または葛藤を蒙ってしまうことでもあるわけです。
そういう状況のなかで Fujiiさんのご両親は家庭のなかで日本語を維持し、それだけが理由でなかったにしても、Fujiiさんはあえて日本文学の研究を選んだ。それはきわめて自覚的な自分の立場の選択であったはずです。事実1993年に出した、"Complicit
Fictions"(『小説の共犯』)という著書のなかで、Fujiiさんはその選択を方法化した言葉として読むことのできる、こんなことを語っています。
この本はJames A. Fujiという、日系アメリカ人を連想させる名前によって特徴づけられている。この名前は、読者に、果たしてこの本は信頼できる日本人の知識をきちんと伝達してくれるかどうか疑わしいという印象を生みかねない。他方、白人の男性の署名を持つ著書は、それだけでもう一般的には、首尾一貫した厳格さを守っていると評価されがちなのだが、この本はそういう効果を期待できない。またこの名前のおかげで、私は、自分の失われたルーツを回顧的に懐かしんだり、個人的なアイデンティティを回復したいがためにこの本を書いたのだ、という読者の予断を受けることになるかもしれない。このように、いろんな意味で、この著書は Japanese-American の書いた本だという表示から逃れることはできないのだ。この国では、人種という偏見のため黒人はその生き方を制約されている。たとえそれほどの悪意を蒙らないとしても、この Japanese-American、つまり日本人でアメリカ人という、二つのナショナリティをハイフンで結んだ、そのつなぎ目が露見して、おかしな印象さえ与える立場は、日本学というスタンプを押して排除してしまう政治力学が働くや、きびしい立場へと逆転してしまうのである。
Fujiiさんは自分の立場の難しさを伝えようと、大変屈折に富んだ言い方をしていて、直訳したらかえって分かりにくくなってしまう。そこで私は以上のように意訳してみたわけですが、少し補足しますと、私が「白人の男性の署名を持つ著書は、それだけでもう一般的には、首尾一貫した厳格さを守っていると評価されがちなのだ」と訳したところは、Fujiiさんの表現では、"the
promise of seamless rigor conventionally assured by a signature
of white male identity"となっています。つまりFujiiさんの眼から見れば、〈アメリカの学会においては、白人の男性にアイデンティファイされるような名前が署名してある著書は、もうそれだけでseamlessな視点と方法とを備えたものとして保証されてしまう、そういう恵まれた、ある種特権的な位置を与えられている〉ということです。
特に私に印象的だったのは、Fujiiさんがseamlessという言葉を使っていたことで、日本では現在この言葉は女性のストッキングの種類を現すのに用いられていますが、私の知るかぎりでは、Fredric
Jamesonが"The Political Unconscious"(『政治的無意識』1981年)のなかで、きわめて効果的にそれを使っていた。その使い方をFujiiさんは受け継いでいるように思われます。
seamlessのseamは縫い目、裂け目、傷あとという意味ですから、seamlessはそれがないこと、見えないことを意味し、Jamesonはこの言葉を物語のイデオロギー的な機能を言い表すのに使っています。それを私なりにアレンジして説明しますと、〈私たちの社会はもちろん均質的なものではなく、階級や民族性や性差などの裂け目を抱え、対立や葛藤を生み、そのため多くの人たちが身体的にも精神的にも傷を負っている。そうであればこそ人々は、そんな裂け目などないようなユートピア的世界を夢想し、対立や葛藤を覆い隠してしまうイデオロギーを作らないではいられない。ある種の物語はこの願望を満たすために産み出されたのであって、対立や葛藤が解決し、傷を負った人たちが癒されるというプロットを仕組んで、もともとこの世には解決できない対立や葛藤などはないのだというメッセージを発しているのだ〉というわけです。
そのように考えて見ますと、かつて日本の総理大臣が〈日本は日本人という単一民族で構成されている国家だ〉という意味の発言をしたことがありますが、この言葉は〈日本は日本人にとってseamlessな共同体なのだ〉と言い換えることができます。しかしもちろん、日本はけっしてseamlessな共同体ではありません。階級や民族性や性差などの裂け目に満ちた国なのですが、それを彼は覆い隠し、seamlessに見せかけて、民族性の裂け目を抱えた人たちを無視してしまうイデオロギーを発していたことになる。ああいうことを言うことによって、彼自身が日本とseamlessな関係にあるかのように振る舞っていたわけです。
それでは、アメリカ社会において自分がseamlessな関係にあるかのように振る舞うことができたのは、どんな人たちであったのか。James
A. FujiiさんのようにJapanese-Americanであることが一目で明らかな名前の人は、けっしてアメリカ社会とseamlessではありえません。比喩的に言えば、JapaneseとAmericanとを結んでいるハイフンそのものが既にseam(裂け目)を露呈してしまっているからです。アメリカにはこのように、民族性を示す言葉を冠せられた市民が沢山いて、アフリカ大陸から強制的に連れてこられた人たちの子孫はAfro-Americanと呼ばれ、アメリカの先住民はNative-Americanと呼ばれている。結局民族性の言葉を冠せられず、シンプルにAmericanを自称できる人たちは、Fujiiさんが言うWhite、つまり白人だったわけです。この人たちが自分をEuro-Americanと呼ぶようになったとは、寡聞にして私はまだ聞いていません。その意味でアメリカは白人がみずからを中心化してきた社会と言えるわけで、ですから先ほど紹介したFujiiさんの言葉は、そういう状況が学問の世界に及んでいる事実を顕在化させるためのものだったと言えるでしょう。
Fujiiさんが意図するところは、しかし、おそらくそれだけではありません。
近代の学問は主にヨーロッパに起源を持ち、ヨーロッパで磨き上げられてきたという伝統があるため、その伝統のなかで学んだヨーロッパ人の、特に男性は、自分たちこそ客観的・科学的で、公平中立な判断が可能な主体なのだ、と自負してきました。そして、自分たちの言語以上にそれにふさわしい言語はない、という態度を取ってきたように思われます。もちろんヨーロッパに起源を持つ学問の伝統がすごい厚みを持っていること、これは否定できません。しかし、その学問が世界のなかで最も普遍性が高いもののように位置づけられて来た理由は、ヨーロッパの列強がその経済力と軍事力と政治システムによってヨーロッパ以外の地域を植民地化し、政治的・経済的・文化的に支配してきた歴史と無関係ではありません。その点から見れば、ヨーロッパの学問の科学性や、中立的・客観的な認識方法というものは、実は、一方では、そのような支配の過程で培われ、他方では、その支配を支えるものでもあったことになります。
Fujiiさんが"Complicit Fictions"を書き始めた1990年代の初めは、まだそういう学問体質が濃厚に残っていたのでしょう。そうであればこそ彼は、以上のような意味でのヨーロッパ中心主義に支えられ、ヨーロッパ中心主義を強化してきた学問のなかで育ち、みずからの普遍性を自負する、科学的・客観的・公平中立的な認識主体を、「超越的主体(Transcendental
Subject)」と呼び、それに対するJapanese-Americanの立場を鮮明に表明せずにはいられなかったのだと思います。
またこのことから、Fujiiさんの日本人研究者に対する批判的な眼差しも想像することができるでしょう。谷崎潤一郎の『文章読本』(1934年)を見ますと、〈もともと日本語は論理的ではないけれども、その代わり非常に繊細なニュアンスに富んでいるのだ〉といった考えに基づいて、日本民族は芸術的な感受性に恵まれているのだなどと主張しています。それ以来、川端康成、中村真一郎、三島由紀夫、丸谷才一、井上ひさしなど、ずいぶん沢山の文学者が『文章読本』を書いて、『文章読本』という名前を持つ日本語論・日本文化論のジャンルが出来上がっているほどなのですが、井上ひさしを除いて、みんな同じようなことを言っている。しかし谷崎潤一郎の『文章読本』を少し丁寧に検討して見れば、日本人の虚栄心をくすぐる、この種の日本語論は結局、ヨーロッパ言語、というよりも〈ヨーロッパ言語は論理的なのだ〉という固定観念を前提として生まれてきたものだったことは明らかです。その意味で日本人の民族的特性などというものは、もしそれを民族的な主体性と呼ぶとすれば、ヨーロッパ中心主義、Fujiiさんの言葉を借りて言えば「超越的主体」を基準として、それとの違いとして見つけ出した、いわば派生的な主体でしかありません。
その種の自己発見というやつが、どんなに危ないものなのか。そのことは、比較する対象がヨーロッパ言語ではなく、アジアの言語やアフリカの言語だった場合、どんな特徴を発明することになるかを想像して見れば、すぐに理解できるでしょう。私たちは自分を何かと比較することによって自分の特徴を見出すわけですが、逆に言えば、このように発見した〈自分〉というものは比較した対象に制約され、時には囚われてしまっている。その点を十分に自覚していないと、滑稽な自己錯覚に落ち込んでしまいかねない。
ところが、近代の日本においては、比較対象に選んだヨーロッパ的なものを、あたかも普遍的なものであるかのように思い込んでしまったため、それとの比較を通して見出した自分たちの特徴を、日本民族に普遍的な本質だと決めてしまったわけです。しかも他方、これまでの日本人の多くは、特に日本の知識人は、アジアやアフリカの人たちに対する場合、自分を、あのヨーロッパ中心主義から生まれた普遍主義の側に置いて、まるで自分のほうが「超越的主体」であるかのように、優越した立場から眺めるという過ちを犯してしまいました。そういう日本人の自己認識がどれほど錯覚と矛盾に満ちているか。それをテーマとして、1986年に、オーストラリアのPeter
N. Daleという人が"The Myth of Japanese Uniqueness"(『日本人の独自性という神話』)を書いています。
もう一つ、私の経験を話させて下さい。1994年に、ハーバード大学で「明治学会」という学会が開かれました。その学会で私に印象的だったのは、オープニングのシンポジュウムで、日本から参加した歴史学者が――この人は日本における民衆史を開拓した歴史家としてよく知られています――「私たちの明治研究にこんなに沢山の外国の人たちが関心を持って下さって、大変嬉しく思います」という意味の挨拶をしたところ、さぁーと白けた空気が会場に流れたことです。その歴史学者は日本学がまだまだマイナーな状態だった時期にアメリカへ出かけ、いわば啓蒙家的な役割を果たしてきた人ですから、それから20年ほど経って、「明治学会」のために大きなホテルを一つ借り切ってしまうほど日本学が盛んになった現状を喜び、思わず先のような言葉を発してしまったのにちがいありません。ところが、それが若い世代の反発を招いてしまった。要するにそれは、日本人が日本の明治時代を「私たちの」と呼んだことに対する反感だったと言っていいでしょう。
この印象は必ずしも私だけのものではなく、食事の時に一緒した人たちも似たような感想を語っていました。そこではいろんな意見が出ましたが、おおむね次のような点では一致していたように思います。
それはどのような意見だったかと言いますと、〈アメリカにとって日本の歴史はアメリカ史の重要な一部分であり、また、日本にとってもアメリカ史は日本史の重要な一部分ではないか〉ということです。
ご存知のように、日本は1850年代に、アメリカの艦隊を率いたペリーという提督から開港を求められて鎖国を解き、それ以来アメリカとは極めて密接な、それこそ4年近くも戦争をしてしまうほど抜き差しのならぬ関係にまで至り、その戦争の決着がついた後、アメリカは日本を占領し、ある意味でその状態は現在も尾を引きずっている。それだけでなく、日本の経済的な動向はアメリカの政策決定に重要な影響を及ぼし、またその逆でもあるという関係が続いています。とすれば、アメリカの歴史は日本の歴史の一部分であり、逆に、日本の歴史はアメリカの歴史の一部分だと見るべきでしょう。その見方に立てば、日本の明治という時代は、日本人だけが「私たちの」歴史と呼ぶべきものではないはずです。
もう一つの点は、〈明治の文献、特に明治前半の文献は特別な修練を積まなければなかなか読めないし、ましてニュアンスを味わい分けるのは極めて難しい。その意味で明治の文献は現在の日本の若い世代からも、日本以外の地域で日本学を始める人からも、ほとんどおなじ距離にあると言っていいのではないか〉ということです。もちろん日本に生まれ、日本語を使って育った人のほうが明治の文献になじみやすい。知識を増やす機会にも恵まれている。このこと自体は否定できません。しかしだからと言って、日本で生まれ育った人間でさえあれば明治の文献がよく分かる、というわけではない。にもかかわらず、自分が日本語とseamlessな関係にあると思いこんでいるとすれば、それはとんでもない自己錯覚だと言わねばなりません。
さて、ずっとアメリカでのことばかり話してきましたが、私の話の趣旨はもうお察しいただけていることと思います。
じつは小樽では、以上のようなことと合わせて、日本語で詩を書いている金時鐘さんが1986年に出した『「在日」のはざまで』という著書を取り上げたのですが、胸に迫るものがあってしばらく声が出なくなり、話を続けることができなくなってしまいました。申し訳ありませんが、ここでは少し抽象的な言い方をさせていただきたいと思います。
事柄を日本における日本文学の研究に限ってみても、一見して韓国人と分かる名前を持った論文が受ける扱いは、多少の改善が見られるにしても、依然としてある種の保留づきで評価されがちなことは、何かにつけて皆さんは痛感されていることと思います。
かつて大日本帝国の政府は、帝国を多民族国家・多言語国家ととらえ、その上で日本語を帝国内に通用する「国家語」として位置づけて来ました。そして戦争が拡大するにつれて、一方では軍事占領をした地域にこの「国家語」を持ち込み、他方では植民地の言語を否定して「国家語」に一元化してしまおうとして、いわば日本語をアジアのメジャーな言語に位置に押し上げる野心を抱いたわけですが、それがどんなに非人間的な強制を伴っていたか、皆さん自身やご両親の記憶として鮮明に残っていることと思います。
しかし現在の日本では、かつて帝国が多民族国家であり多言語国家を自負していた事実はほとんど忘れられています。日本の敗戦とともに、日本語は一挙にマイナーな位置に転落してしまいましたが、しかしそのような強制がさまざまなポジションから日本語にかかわる人たちを生んだ事実、これが消えるはずはありません。ばかりでなく、1970年代からの急速な経済成長に伴って日本語の地位も上がり、以前とは異なる形ですが、再び、いやそれ以上の拡がりをもって、さまざまなポジションから日本語にかかわる人たちを生み、それが日本語のあり方に影響を及ぼしつつあります。それを別な面から見れば、国内的にも多民族・多言語状況が生まれてきたということであって、それが必然的な成りゆきであることは、英語圏の状況を見ればもっとよく分かります。
ところが、日本の自称文学者はそういう経緯を無視した形で「日本語の混乱」憂えたり、「美しい日本語を守れ」などと言っている。つまりseamlessな日本語がありうることを前提として、自分も、自分以外の人たちもそれとseamlessな関係に持ってゆきたいらしいのですが、じつはそういう発想が日本語のニュアンスなどと言い出す「日本人」を生んでしまうわけです。この身勝手な「日本人」中心主義が、他のポジションから日本語や日本文学にかかわっている人たちの理解を妨げているのだ、と言わなければならないでしょう。
これを別の言い方をすれば、アメリカの歴史は日本の歴史の一部分だというどころではなく、韓国の歴史、台湾の歴史、旧満州の歴史、中国の歴史は日本の歴史そのものである、という認識が欠けていることでもあります。
木浦大学校の許錫教授に、「明治時代における韓国移住日本人の文学活動についての調査研究」(1993年)という貴重な研究があります。許先生は、明治期に日本人が韓国へ大量に移住し、日本語新聞を発行し、そこに新聞小説が掲載され、じきにハングル小説が現れてくる経緯を詳細に辿っていました。それでは、これは日本文学史なのだろうか、それとも韓国文学史なのか。そういう問いを立ててみれば直ぐ分かるように、これは日本文学史の重要な一部であると共に、韓国文学史の重要な一部でもあるはずで、従来の比較文学的な研究とは異なる、新しい研究の地平を拓く可能性を示しています。
最近10年ほどの間に、日本の研究者のなかでも、日本が植民地支配をした地域の文学の研究が盛んとなり、資料の掘り起こしなどに大きな成果を挙げて来ました。私もそれはきわめて大切なことだと思うのですが、しかし時として、なんてこの人たちは鈍感なのだろうと苛立ってしまう。というのは、その研究者は日本の植民地支配への反省と批判の言葉をそつなく織り交ぜ、植民地支配をした国家権力を糾弾してみせたりしているのですが、にもかかわらず、依然として自分の文学観を無反省のままに温存し、それこそ超越的な立場から旧植民地の作品を論評したりしているからです。視点を変えて言えば、金時鐘さんの世代の人たちが「普通学校」で徹底的に教え込まれたという小学唱歌や、和歌や俳句や小説などのジャンルを植民するとはどういうことか、という問題意識が欠けている。そういう問題意識と視点を欠落したまま、自分の評価基準で測っている。自分と日本文学との関係は基本的なところでseamlessなのだという前提に立っていて、そのため自分のポジションが見えていないわけです。
私は似たような印象を、昨年の11月4日にソウルで開かれたシンポジュウムでの、小森陽一さんの発言から受けてしまいました。あの時の「「過去清算」と21世紀の日韓関係」という全体的なテーマのなかで、私の「日本の戦後文学」という報告がやや水と油の関係になってしまうだろうことは、私自身、感じていました。そのテーマを依頼された時、聞き手は必ずしも文学を専門にしている人ばかりではないので、基本的な文学史の事実も織り込んでほしいと求められ、また、そのシンポジュウムの直前の10月21日、私は慶北大学校で開かれた韓国日本語文学会で「日本文学における戦争と戦後――伊藤整の場合―」という報告をさせてもらい、それと重複しないようにという意識も働いていました。そんなわけで、一つには、敗戦直後の日本の文学に現れた〈有罪感〉とはどういうものであったか、二つには、敗戦以前のどういう文学史・思想史の文脈のなかで戦争責任が問題にされたのか、の二点を中心に報告をして、会場の皆さんとの対話の前提を作ってみることにしたのですが、しかしコメンテーターの小森さんは話題を近代文学の成立期にもってゆき、植民地支配に責任を取ろうとしない日本の現状を糾弾するパフォーマンスを演じはじめた。私は、論点を歴史の物語(グランド・ナラティヴ)にすり替えてしまう、彼のやり方に準備不足・勉強不足を感じて、彼の世代の日本の研究者に見られる危険な傾向を指摘したわけです。
私が指摘したのは、彼の世代の人たちが非常に安直な形で国民や民族を擬人化して、そのなかに〈抑圧〉とか〈隠蔽〉とか〈無意識〉とか〈トラウマ〉とか〈怨恨(ルサンチマン)〉とかいう通俗的な臨床心理学の概念を持ち込んで、歴史の物語を作ってしまう傾向です。なぜこれが危険かと言えば、19世紀的な有機体理論、あるいは有機体イメージと呼ばれるレトリックの無反省な応用でしかないからです。このレトリックは、例えば国家を人体に見立てて、国家の制度的なメカニズムや人間の役割を、人体の各部分の機能や役割になぞらえる。もう少し抽象的に言えば、それは、〈全体は部分を有機的に統合することによって、単なる部分の算数的な総和以上の生命的な働きを発揮し、他方、部分は何らかの形でその全体の本質を分け与えられているのだ〉という理屈として現れてきます。あるいはまた、一つの時代の始まりと終わりを説明する時に、成長期、成熟期、衰退期と区分けをするような、動植物の生命サイクルになぞらえるやり方に使われたりします。その意味で、国民を統合したり、歴史のイメージを与えるのにはきわめて都合のよいレトリックなのですが、別の面からみれば、一つの個性に見立てた国民的・民族的な特性はその国家や民族に属する人間の誰もが備えているはずだし、また備えていなければならない、というイデオロギーとなって、全体主義の理論に転化してしまいかねない。その危険性はナチス・ドイツや、かつての日本主義のイデオロギーを思い浮かべれば、ただちに納得できるでしょう。
そういうレトリックのなかに、日本人の無意識の欲望とか日本人のトラウマとかいう、通俗臨床心理学の、しかもマイナスのイメージを伴う概念を持ち込みますと、一見新しい理論のように思われますが、実際には全体主義と通底する一元化(unification)のレトリックが働いている。日本が敗戦した時、国家的な強制のために〈日本人〉として括られていた人の立場は実に多種多様だったはずです。その人たちが全ておなじトラウマや怨恨を共通に分け合っていたはずがありません。
それにまた、無意識という概念は手抜きの研究者には大変に都合のよい概念であって、なぜなら、実際には後世の自分の解釈にすぎない〈動機〉を歴史上の人物の〈無意識〉のなかに仮定し、つまりこっそりと隠して置いて、それを自分が発見してみせるという疑似実証主義が可能だからです。昨年の11月のシンポジュウムから帰った直後、日本の考古学者の捏造事件が発覚し、私は思わず笑ってしまいました。なぜならその捏造の手口は、抑圧・隠蔽の〈無意識〉理論家とそっくりおなじだったからです。
この人たちの臨床心理学的なレトリックの背後にあるのはアイデンティティという観念だと見ることができます。しかしアイデンティティという観念は、ヨーロッパ中心主義のなかで生まれた近代的な自我の観念と一対のものであって、その理念的・究極的なあり方がseamlessな超越的主体だったということ、このことの怖さを彼らは本当のところでは気がついていないのではないか。気がつかないまま、全ての歴史的な事象を国民国家論の枠組みに回収してしまい、自分はそれに対して超越的主体であるかの如く語っている。
私が特に強くそういうことを感じたのは、場所がソウルだったからのように思います。ヨーロッパ中心主義への批判は、現在の日本の近代文学研究者の間では既に常識だと言っていいでしょう。日本ではこれまでにも何回か、ヨーロッパ中心主義批判や近代主義批判の運動が起こり、その都度、〈西洋的知性の行き詰まり〉とか〈アジアの再発見〉とか〈日本への回帰〉とかいう言説を伴ったナショナリズムの運動へと展開してきました。ところが現在のヨーロッパ中心主義批判は、ヨーロッパのなかからかなり自虐的な形で起こったものであり、その上、〈オリエント〉とか〈アジア〉とかいう概念そのものが、じつはヨーロッパが自分の自己同一性を確認するために作り出した、対比的な概念にすぎなかったことをも暴いている。その意味でこれは、日本の研究者に、自分で思想を構築する負担をあらかじめ免除してやっているようなものですから、彼らにとってこれほど受け入れやすい理論はなかったわけです。
しかし見方を変えれば、ヨーロッパ中心主義を批判することは、それと一対だった〈オリエント〉や〈アジア〉の概念をも解体してしまうことであって、これこそがじつはヨーロッパ中心主義の現在的な形態なのだと言えなくもありません。なぜなら、ヨーロッパ/オリエント(またはアジア)という二項対立が解体されてしまった状況であればこそ、日本の研究者は、ヨーロッパ中心主義の批判理論をあたかも普遍的な理論の如く、公式的に適用することができたからです。昨年私はその適応の安易さに気づかされ、それと共に、彼らと自分との裂け目を先に述べたように自覚するに至りました。そして今回、あえて小樽での講演を半ば再現してみたのは、再び語る主体の場を韓国に移しながら、〈自分が日本人として日本文学にかかわっているということは、裏返して言えば、じつは日系日本人としてしかかかわって来なかったことなのだ〉という形で、あの裂け目を確認したかったからにほかなりません。少なくとも私にとってこのことは、あのFujiiさんを含めて、さまざまなポジションから日本語・日本文学にかかわっている人たちとの関係のなかで自分を相対化する必要・不可欠な手続きであり、またそうしなければ、21世紀において日本文学の読みのグローバルな地平を拓くことはできないのではないか、と考えています。」
この私の発表に関して、尹相仁教授が次のような覚え書きに基づいて、コメントして下さいました。
「『「海外で日本文学はどのように研究されているか」を拝読して』
1.ハイフンの自覚
'James A.Fujii/ジェームズ・フジイ(藤井)'の場合
'日系日本人'(=目に見えないハイフン)として日本文学にかかわるということ
(=日本文学(=国文学)イデオロギーと連座する道を断つ)
ハイフン=自己疎外の装置、あるいはヨーロッパ(日本)中心主義に対する批判の足場
2.国民国家論の問題
Cultural Studiesの落とし穴
ハイフンの自覚がない?
3.韓国人が韓国において日本文学を研究するということ
――二つのハイフンに取り囲まれて
'ユンサンイン※1/尹(伊)相仁(いん そうじん)2'の場合
1(韓国における外国文学研究の場において)無視され、敬遠される日本文学研究者
2(日本における日本文学研究の場において)括弧のなかに括られる韓国人研究者
――ハイフンの抑圧と自由
※オリジナルは、ハングル 」
尹教授のコメントを、私は全て理解できたとは言えませんが、その趣旨は次のようなものだったと思います。
「まずフジイさんについて言えば、二つのエスニシティを繋ぐハイフンは、ヨーロッパ中心主義と日本人中心主義との両者から疎外されていることの象徴的な表徴と言える。が、これを裏返して見れば、この自己疎外を一種の批判的な装置として、両者を相対化してしまう主体的な方法に変えている。ばかりでなく、ヨーロッパ中心主義を相対化しつつ、そのディシプリン(学問的修練)を自分のものとして駆使し、その意味では日本の研究者に対して優位に立っているのではないか。そのディシプリンを日本の研究者が学び、またそれが韓国の日本文学研究者にも及んでくる。そういうヒェラルキー(階層性)があるとすれば、フジイさんのポジションと、日本文学を研究する韓国人のポジションとは異なるように思う。
次に亀井先生の日系日本人という自己規定は、目に見えないハイフンを想定することによって、日本人中心主義を相対化しようとする志として理解できる。とは言え、亀井先生が日本において、日本人として、日本文学について、日本語で書く場合、依然としてseamlessな状況のなかにあり、私たちから見てそれが特権的な立場であることは否定できないと思う。
それに対して、韓国における外国文学研究の世界において、日本文学の研究者はとかく無視され、敬遠されがちであり、他方、日本における日本文学研究の場においては、韓国人研究者は括弧づきでしか見られない。自分の論文を日本で発表する場合、尹相仁という署名が「いん そうじん」と、日本の漢字読みで呼ばれたり、時には「尹」という姓が「伊」と書き換えられていたこともある。このように、韓国において日本文学を研究する韓国人研究者は二重のハイフンに囲まれた状況にある。
その意味で二重のハイフンは抑圧の表徴であるが、しかし逆にこれを自由への契機に転換することも出来る。ただ、それをあまり強調するとイデオロギー的な主張に走りかねない。」
尹教授のこのコメントに続いて、山下さんが「〈亀井さんが日本において、日本人として、日本文学について、日本語で書く場合、依然としてseamlessな状況のなかにあり、尹先生から見て特権的な立場であることは否定できないと思う〉という指摘は、自分には非常に衝撃的だったが、亀井さんはどうだったか」と質問し、私は次のように答えました。
「必ずしもそれは、私には衝撃的ではなかった。韓国において、私が先ほどのような発言をした場合、日系日本人という言い方が、二重に日本人性を強調する言葉となりかねない、そういうパラドックス(逆説)を孕んでいることは、承知していた。それにもかかわらず、あえてそういう言い方をしてみたのは、日本の研究者が自明の前提としている枠組みのなかに閉じこもるのではなく、その枠組みを顕在化させながら、それが内包している裂け目、あるいは、それと自分との裂け目を表現したかったからだ。そうしなければ、自分とは異なる立場から日本文学研究にかかわっている人たちとの関係が見えてこないのではないか。
そういうことを含めて、私には、尹先生の指摘は全てよく納得できた。むしろ私にとってインパクトが強かったのは、韓国における日本文学の研究者を取り囲む二重のハイフン(抑圧)を、尹先生が自由への契機として捉えていた、その発想の柔軟さだった。そして私がこの場であのような発表をし、尹先生のコメントを聞きながら、改めて気がついたことは、結局私は、日本人のヨーロッパ模倣、ヨーロッパ追随という、これまでもよく使われてきたパターンを繰り返したにすぎなかったのではないか、という点だった。韓国という場に身を置くことで、ヨーロッパ模倣を克服する方法を探るつもりでいながら、おなじパターンを繰り返すパラドックスを演じてしまった。」
私の発表に続いて、許錫教授の「韓国における日本文学研究の諸問題について」という発表があり、そこからも多くのインパクトを受けたのですが、ここではその冒頭の一節を紹介するだけに止めます。
「韓日の国交正常化以降今日に至るまでの約40年の間、韓国の一角では'日本'文学研究の土台づくりが行われてきた。本発表者が日本文学研究に志したのは1970年代だからおよそ第二世代の研究者として自らを位置付けることができよう。ところで、20世紀までを一つの単位で区切って把握するとき、はたして半世紀にやや満たない研究の歴史で日本文学研究は満足できるほどの成果を収めているだろうか。
もしかして小説が持つ近代的性格、亀井先生の御指摘のように、小説のイデオロギーの伝播に似たような問題が文学研究の中でもおこっているのではないだろうか。英語圏の文学理論が日本の研究者によって解釈され、その解釈に影響を受けた留学経験を持つ研究者たちによって現在の日本文学研究界が支えられているのではないか。それとも、もっと根本的に日本研究者たちが悩もうとする痕跡を、自分の悩みに内面化させながら、日本人の視点で日本文学史を読む風土が、私たちにないかを問いたい。
皮肉なことに、このような状況はポストコロニアルに関する談論が日本文学研究者で大反響を呼び起こしたとき、我々の学会にも若干の時差をおいて同じことが起こったのを見逃すことができない。亀井先生のお話に共感するところは、日本経由のポストコロニアルの談論が、韓国人として自分を認識する研究者の立場で見た場合、非常に適用しやすい論議を持っているということであった。むろん私は排他的な国家観を所有し、否定的な日本を前提に私の談論を展開しようとする意図はない。日本偏向主義の克服を主張しながら日本のポンドに頼る韓国での日本学の研究が持つ政治的な立場、制度化された学会の各組織に対して一抹の不安とともに日本文学の研究の自省的な把握と新しい方向の模索のための、一つの提言、といった性格を持つ。」
この志の高い発言のなかで、特に私が感銘を受けたのは、「皮肉なことに、このような状況はポストコロニアルに関する談論が日本文学研究者で大反響を呼び起こしたとき、我々の学会にも若干の時差をおいて同じことが起こったのを見逃すことができない。亀井先生のお話に共感するところは、日本経由のポストコロニアルの談論が、韓国人として自分を認識する研究者の立場で見た場合、非常に適用しやすい論議を持っているということであった。」という個所でした。
ポストコロニアリズムの初発のテーマは、帝国主義的な植民地支配の批判にあったと思いますが、現在の研究テーマはそれだけにかぎりません。むしろ現在の主要な関心は、いち早く近代的な制度を整えた〈先発国〉が、その政治的・経済的に優位な立場を利用して、〈後発国〉の文化的生産/消費のシステムや、市民のライフ・スタイルにまで支配力を及ぼしている状況、これを明らかにし、批判することに向けられています。
その意味で現在のポストコロニアリズムは、きわめて今日的な問題をラジカルな視点から追及する思想運動、あるいは社会運動としての性格を強く持っており、これによって日本の研究者と韓国の研究者の間に、両国の歴史的な関係について、はじめて共通の問題構成が可能になったと言っても過言ではありません。
ですから、大変に重要な学問なのですが、しかし私の見るところ、日本の研究者の受け入れ方は、ヨーロッパの理論の直輸入にすぎず、それこそコロニアリズム(植民地主義)の再演というほかはない有様です。ポストコロニアリズムのコロニアル的現象。これほど逆説的な事態は他に例を見ない、と言えるでしょう。
許先生はそういう私の指摘を受ける形で、先ほどのような発言をされたわけです。それは私にとって大変にありがたい応答でした。特に私が感銘を受けたのは、許先生が、韓国における「日本経由のポストコロニアル」の現象から、逆に日本におけるポストコロニアリズムの問題を照らし出す、そういう視点を示してくれたことでした。
現代の社会学者は、時々、通約不可能性(incommensurability)という言葉を使いますが、これは、共通の尺度では測れないという意味です。いまこの言葉を借りるならば、一つの歴史的な事象に関しても、日本の人と韓国の人の体験は、質的にも、構造的にも共通の尺度では測れない、いわば通約不可能な部分があること、これは否定できません。
私は許先生の論文「明治時代における韓国移住日本人の文学活動についての調査研究」に言及して、許先生のいわゆる渡韓日本人の文学活動は、日本文学史の重要な一部であると共に、韓国文学史の重要な一部でもあるはずだ、という意味の指摘をしました。これを共通の問題構成とすれば、その文学をどのように位置づけ、どう評価するかは、日本文学史の場合と韓国文学史の場合とでは、大きく異なるはずで、そこに通約不可能性の問題が浮上してくるわけです。
しかしだからと言って、共通の問題構成など意味がないというわけではありませんし、通約不可能性は必ずしも対話不可能性を意味しません。むしろ共通の問題構成を行ってみて、はじめてその通約不可能な部分が見えて来、それによって対話の場が拓かれてゆくのだ、と考えるべきでしょう。私の発表に関する尹先生のコメントのなかにも、私はこの通約不可能性を何とか言語化しようとする、尹先生のもどかしさと誠実さを感じました。
特に強くそれを感じたのは、フジイさんの状況と、韓国における日本文学研究者の状況を対照した個所ですが、もう一つ、「(韓国における外国文学研究の場において)無視され、敬遠される日本文学研究者」という問題の指摘からも強いインパクトを与えられました。もちろんこの問題は、解放後の韓国において、一時期、日本語・日本文学・日本人が「無視され、敬遠される」に等しい扱いを受けてきたことと無関係ではありません。――先日、韓国から北大に留学している金勁和さんが文学館を訪ねた時も、韓国に『外国文学研究』というステイタスの高い研究雑誌があるが、日本文学研究の論文はなかなか正当に扱ってもらいない、という意味のことを話していました。――他方、日本においても(私の経験によれば)かなり長い間、外国文学/日本文学の間には一種の階層的な差別構造があり、新しい文学理論の紹介と輸入はもっぱら外国文学研究者の主導で行われてきました。現在でもその状況は残り、これは「外国」のイメージにかかわる問題でもあり、また、日本文学研究者が自前の理論を生産することを怠ってきた問題でもあるでしょう。
ただ、それにもかかわらず、日本文学研究が一定の市民権を獲得できたのは、一方では、日本文学の生産それ自体は明治以来、途絶えることなく行われ、評論→研究という経路を通して、日本文学研究を支え、活性化してきたからです。またその反面、評論や研究が文学生産にフィードバックの役割を果たしてきたからにほかなりません。このことの意味は、仮に10年間、日本語の文学が全く書かれない状況が発生した場合を考えてみれば、すぐに納得できるでしょう。ところが、おそらく現在の韓国において日本文学が生産されることはなく、韓国文学そのものの生産も中断を余儀なくされてしまう不幸な時期がありました。中断をもたらしたのは、言うまでもなく日本の植民地支配の時期における言語政策であり、文化政策です。つまり日本文学研究のための理論構築や、日本文学研究のステイタスという問題に焦点を絞ってみても、このように通約不可能な問題が立ち現れてくるわけで、そのことを抜きにした共通の問題構成などありえません。
念のためにことわっておけば、私のこの説明は日本/韓国という国家的な枠組みを固定させ、再生産する方向に向かっているように見えるかもしれません。しかし私の言いたいのはむしろその反対で、国家的な枠組みを再生産してしまうような通約不可能な事態というものがあり、それと直面することを避けてはならないということです。ですから、もう一度言えば、この通約不可能性は決して対話不可能性を意味するものではありません。そうではなくて、この通約不可能性をどのように理論的、方法的に克服してゆくか、そういう課題を自覚すればこそ、私たちの対話の場が拓かれてゆくのだ。そう私は考えています。
またそのように考えてみれば、いち早く自分を韓国の側に置き、日本の歴史の糾弾を演じて見せるなどというやり方は、この通約不可能性に直面することを回避し、対話を馴れ合いの合唱(unison)に変質させてしまう、三百代言的な、見え透いた手口でしかないことは、あまりにも明らかでしょう。
ところで、さて、3時半から始まった総合討論で、大真大学校の佐野正人さんから私に対して質問がありました。あるいは私の思い込みが含まれているかもしれませんが、質問は凡そこのようなものだったと記憶しています。「ポストコロニアリズムや国民国家論を一つの契機として、アジアの各地域から新しい研究主体が立ち上がってきたと思う。日本においてもそのような立場による発言が活発に行われているが、かえってその主体は拡散し、風俗化してしまっているように見える。その点をどう思うか。」
それを受けて私はこんなふうに発言しました。「たしかに指摘の通りだと思う。なぜそういう状態に陥ってしまったかと言えば、発表でも言及したように、日本の研究者が自分の思想を構築する知的な努力を放棄しているからだろう。それはディシプリンの喪失とも関連する。かつて日本に現れた、ヨーロッパ中心主義に対する批判的な思想運動は、丸山真男が指摘したように、すでに処女性を失ってしまったと言えるが、そうであればこそ理論的・思想的にそれらと正面から向き合って行かなければならないのではないか。
私の見るところ、日本のポストコロニアリズムや国民国家論の研究者は社会主義的大国主義や帝国主義、あるいは社会主義的国民国家の問題を視野に入れようとしない。資本主義的帝国主義や国民国家のマイナス面は摘発するが、社会主義のそれを避けている。
その指摘と矛盾するようだが、私は、やはり現在のところ国民国家は共同体のシステムとしてもっとも高いレベルにあり、そのことを見落としてはならないと思う。人間のさまざまな権利、人権、それらの保障を憲法や法律で明文化し、それを実行するシステムを作り出す点で、国民国家はそれなりに高い達成を示している。その点を見落とさず、しかも同時に、既存の国民国家のマイナス面を批判してゆくのでなければ、いま現在、国民国家を立ち上げることを当面の課題としている地域の人たちとの対話は生まれないのではないか。
文学というのは、それを成り立たせている言語のあり方からして、否応なしにナショナリティを帯びてしまうが、それにどう対応するかという問題も、以上のような関心のなかで考えてゆかなければならないと思う。」
社会主義は20世紀における最大の政治実験だった。そう私は考え、アメリカにいた時も、ポストコロニアリズムや国民国家論の人たちに、〈なぜそれが失敗に終わらざるをえなかったのかを検討しておくことが、21世紀に向けての一番の思想的な課題ではないか〉と問いかけてみたことがあります。なぜなら、ポストコロニアリズムの主要なテーマの一つは、植民地において、どのように資本主義的な富や力への欲望をかき立て、従属/被従属の関係に誘導してきたか、その手口を明らかにすることにあり、ですから、社会主義の失敗もその手口によってもたらされたと言えるからです。現在、余命を保っている社会主義国家もそれに抗し切れないだけでなく、大国主義的に富や力を誇示するやり方で、資本主義国家を模倣し、あるいは周辺の地域を半植民地化している。しかも、人権や権利の保証や、福祉なども面では資本主義国家に遠く及ばない、というより、それらを犠牲にしている状況さえ見られます。それを視野に収めない議論は、片手落ちと評されても仕方がないでしょう。国民国家の立ち上げを当面の課題とする人たちと、その先はどうあるべきか、そもそもその先を構想することは可能だろうか、という対話を交わす基盤を持てず、それだけでなく、現在の国民国家にけっこう要領よく依存している自分自身と対話を始める契機も生まれないわけです。
ところが、この人たちは、10人が10人、ほとんど異口同音に、「だからと言って、資本主義がいいとは言えないでしょ」と切り替えしてきて、それで話題は打ち切り。そんなことを何度か経験しているうちに、「この腰抜けどもが」といった感情が私のなかに生まれ、それが先の発言に紛れ込んでいたかもしれません。もしそうならば、佐野さんの質問をまともに受け止めなかったことになり、佐野さんには申し訳ないことをしてしまいました。
さらについでに言ってしまえば、ポストモダンやポストコロニアリズムの人たちはホモジェニティ(同質性集団)のイデオロギーを批判し、ヘテロジィニアス(異種混交の)共同体のあり方を主張しています。その言わんとするところはよく分かるのですが、この人たちのグループの作り方はホモジェニティそのものであって、異質な意見を持つ人には排他的に振舞う傾向が顕著に見られる。要するに言うこととすることとが裏腹であり、それに対する反発がこの人たちに対する私の違和感の根底をなしていることを私は否定しません。
およそ以上のような形でシンポジュウムの経験をまとめていたところ、先日、日本近代文学会から秋の大会に関する連絡が入りました。連絡をくれたのは、学会事務局というより、大会シンポジュウムのテーマ設定を任されたワーキング・グループだったのですが、この人たちは考えたテーマは「文学の属領化――占領する/文化研究――」というものでした。その趣旨説明にこんなことが書いてあります。
「現在の文学研究の視角からは、文化研究を支える理論の受容を可能にする最大の力が脱(再)属領化を行い続ける世界資本主義であり、これに便乗してきた人間だけがエスニックの前衛性を謳歌出来るという事態の倒錯が見えて来ない。文化研究はその脱(再)属領化のプロセスを記述すること、さらにアジア、ヨーロッパ、アメリカ、アラブなどの様々な空間と接合や対話を通して、世界資本主義に抗する力を担い得るはずなのだが、そうした可能性は文学研究からはほとんど閑却されてきた。
ことに日本の文学研究の場合、文化研究を移入する際に、なぜそれが有用なのかという検討を無視した再生産を行ってきたことで、二重の属領化に与するという傾向にあったと言えよう。ポストコロニアリズムを例にとれば、その再生産の裏面には、研究主体が「第一世界」の人間であり、欧米の植民地闘争の理論的帰結を「結論だけ」手に入れれば良いのだという楽天的な思考が見え隠れする。このような倒錯を自覚し、敢えて私たちを「第三世界」の一員として認識することは、文化研究などの理論の移入の死角を捉え直す重要な契機となろう。
文化という概念が半ば国策的に曖昧に流通する中で、研究者個々人が文化研究に対してオルタナティヴに肯定否定を表明するのでなく、その方法論の可能性や限界について広い角度から議論しておく必要があるだろう。今回のシンポジュウムが文化概念の再検討を行い、二重の属領化を意識化することで、今後の文学研究の可能性を模索する議論の場となることを期待したい。」
まるで木浦大学校における私たちの発言を聞いていたような問題の設定で、その言やよし、と言いたいところですが、私はそれに乗ってみたい気持ちが起こりませんでした。その理由はもうお分かりのことと思いますが、語り口があまりにも「楽天的」(ノーテンキ)だからです。これを書いた人(たち)は、いったいどんな立場で、誰のことを、誰に向かって言っているのか。その辺が曖昧な、優等生の作文としか言いようがありません。
たしかに最近、「文化研究を移入した」つもりらしい「日本の文学研究」をよく見かけますが、輸入した公式を適用するのに都合のよい作品や文学事象をつまみ食いしただけの論文も少なくない。その作品や事象が内包する論理を発見し、それに公式をフィードバックさせてみるだけの根気も能力がないためです。ひょっとしたら、先の趣旨文を書いた人(たち)もその一人だったかもしれませんが、もしそれがまずいことだと気づいたのならば、なぜそんなところに落ち込んでしまったのかについて、自己批判を含んだ、しっかりとした論文を書けばよいことで、他人まで自分(たち)の反省に加えようなどというのは、恥の上塗りと言うほかはないでしょう。
そうではなくて、もし自分(たち)以外の人のなかに先の趣旨文で言うような「楽天的な思考」が見える、というのであるならば、そういうポスコロたちを真っ直ぐに批判し、彼らを突き抜けて、ポストコロニアリズムの思想そのものと対峙すればよいことです。そういう姿勢があれば「二重の属領化」など起こるはずがありません。
何だか調子が高くなってしまいました。こんなふううに、日本の研究者の上っ調子が見えてくるほど、それだけ木浦大学校でのシンポジュウムは充実したものだったのだ、と理解していただければ幸いです。
館長からのメッセージNO.8(2001年5月3日)
再び木浦を訪ねて
4月の20日(金)と21日(土)に韓国の木浦大学校で開かれた、韓国日本語文学会のシンポジュウム「21世紀の日本文学研究」にパネラーとして参加してきました。
まず小樽文学舎から贈った図書の状況と、前後の旅の様子をお伝えし、シンポジュウムの内容は近日中に報告することに致します。
〔木浦まで〕
出かけたのは19日で、午後1時5分、大韓航空機で発ち、3時50分頃に仁川(いんちょん)空港に着きました。この空港はつい最近開港した、韓国が誇る国際空港で、税関を通ってからリムジンバスの乗り場まで、何百メートルも歩かなければならない。その規模の大きさに驚かされました。木浦大学校から北大に留学している朴順花さんが附いてくれなければ、迷ってしまったところでしょう。
仁川空港から金浦(きむぽ)空港までリムジンバスで1時間弱。金浦空港から5時30分時の飛行機に乗ろうとするところで、私は順花さんが紙袋の手荷物を持っていないのに気がつきました。光州(くわんじゅ)空港までの航空劵を買う時、カウンターの下に置いたまま忘れてしまったらしいのです。韓国の女性は面長の美人が多い(と私は思う)のですが、順花さんは丸顔、色白の、おっとりした感じの美人です。背丈は私とおなじくらい。その順花さんが、私の注意を受けて、はっとした表情になったかと思うと、搭乗口の航空職員に声をかけ、見事なアスリートの走りで、航空券販売のカウンターへ向かって駆けて行きます。そのあざやかな変身ぶりに、私は何だか感動してしまいました。
搭乗口の航空職員がカウンターへ電話をかけてくれました。国内便の空港とは言っても、金浦空港はつい最近まで韓国最大の国際空港だったわけですから、これまたやたらに広い。カウンターは2階、搭乗口のあるフロアーは3階で、長いエスカレーターで登り降りしなければなりません。その距離を順花さんと私はおしゃべりをしながら歩き、そして搭乗客の列の後尾に附いてゆっくりと搭乗口まで進んだわけです。ですから、その間、10分以上はかかっていたでしょう。幸い手荷物はカウンターの下にありました。あの混雑する空港のなか、これが今の羽田や成田ならば、誰かが持って行ってしまったにちがいありません。アメリカならば、間違いなく盗られてしまったはずです。そういうところにも私は、現在の韓国の人気のよさを感じました。
金浦空港は5時半に発つ予定でしたが、出発が少し遅れました。光州空港までおよそ50分、木浦大学校の申寅燮先生が迎えに来てくれていました。空港で夕食を取りながら、名古屋大学の名誉教授で、現在は愛知淑徳大学に勤めている山下さんが釜山から来るのを待ち、さらに私たちより1便遅れて金浦を発った、名古屋大学の高橋さん、阿部さんが来るのを待ち、皆が揃ってから車で木浦へ向かい、9時半過ぎに新安ビーチホテルに入りました。それほど遅かったにもかかわらず、許錫先生が待っていて下さいました。
申先生も許先生も2月の12日に、魯珍栄総長と一緒に感謝状を持って、小樽までお出かけ下さった先生がたです。
昨年、木浦大学校を訪れた折は、千歳から金浦空港に着き、直ぐに国内便に乗り換えることができたのですが、今回は仁川空港から金浦空港までの移動が入り、その分だけ時間がかかり、やや強行軍だったことは否めません。次に訪れる時には、金浦空港で軽い夕食を取り、光州から直ぐに木浦へ向かえば、8時頃にはホテルに入れるのではないかと思います。
仁川から金浦までの地下鉄が開通すれば、もっと早く移動できるはずなのですが、来年のワールドカップまでに間に合うかどうか、ということでした。
〔小樽文学舎の部屋〕
20日(金)は8時半に車でホテルを出、木浦の名山・儒達山(ゆだるさん)の彫刻公園と、共生園(こんせんうぉん)を案内してもらいました。共生園は韓国の男性と結婚した、尹鶴子(田内千鶴子)という日本の女性が植民地支配の時代から、約3000人の孤児を育てた施設です。彼女の生涯を描いた『愛の黙示録』という映画が作られたことがあり、私は観ていないのですが、ご覧になった人も多いのではないか、と思います。
この施設は高台に位置して、後ろに儒達山を控え、前には木浦港の眺望が開け、色とりどりに咲き誇るツツジや椿の花に覆われていました。高い木の梢にカササギがカチ、カチと聞こえる鳴き声(羽音?)を響かせて飛び交っていました。韓国では「カラスの鳴き声は縁起が悪く、カササギの鳴き声を聞くと縁起がよい」という言い伝えがあるそうです。韓国の国鳥だと聞いた記憶がありますが、定かではありません。ちなみに国花は木槿です。日本では珍しい白い花をつけた木槿をよく見かけました。
その敷地のなかに、日本国総理・小渕恵三が訪れ、桜を植えたことを記念する碑が建っていました。日づけは平成12年4月18日。ああ、小渕さんはここを訪れて間もなく倒れたのだな、と思い、木浦の人たちはそれを知ってこの碑を建ててくれたのかもしれない、と思い、胸が熱くなりました。
11時30分、木浦大学校に魯珍栄総長を訪ね、挨拶を交わした後、総長の案内で人文科学大学内に設けられた小樽文学舎寄贈図書室へ向かいました。小樽文学舎の会員をはじめ市民の皆さんが贈った図書のために、総長が図書館の分室を、人文科学大学のなかに作って下さったわけです。分室の前には「小樽文学舎の部屋」という愛称を書いた札がかかっていました。
この日、韓国日本語文学会のために韓国の国内から多くの研究者が集まり、私も参加します。それに間に合うように準備を進め、じつは木浦大学校の先生や学生の皆さんにも初めて「小樽文学舎の部屋」を披露するという、私にとっても実にありがたく、晴れがましいオープニング・セレモニーを用意してくれていました。大学の皆さんや山下さんたちの盛大な拍手のなか、総長、図書館長、許教授、そして私がテープ・カットを行い、部屋のなかに入った時、木浦大学校と小樽とが太いパイプで結ばれたことを実感しました。
図書は全て登録が済み、きれいに配架されて、その脇に研究用の机が並べてあります。山下さんや高橋さんも、その充実ぶりに驚いていました。図書館長の林利澤教授の話では、この日に間に合うように、図書館員を督励し、徹夜の作業までやったそうです。私のお礼に、「いや、こういう嬉しいことのためならば何回でも徹夜をやります。今回いただいた本と同じくらいの量のものが入るだけのスペースがまだありますから」と、晴れやかな顔で応えてくれました。
「小樽文学舎の部屋」の披露が終わり、海岸のレストランで昼食を取った後、1時から韓国日本語文学会の開会式が行われましたが、魯総長はこの時の挨拶でも、小樽文学舎からの図書は木浦大学校の研究教育と韓国における日本学の発展に貴重な財産となるだろうと、謝辞を述べて下さいました。木浦大学校は早くから名古屋大学と交流協定を結び、つい最近、神戸大学とも交流協定を結んだそうです。それらの大学と同格の重みを持つものとして、小樽文学舎との関係を位置づけてくれたわけです。
開会式の後、各分科会に別れて研究発表が行われましたが、申先生が気を使って、「今日の発表の大半が韓国語なので、日本からの皆さんは聞き取りが不自由でしょうから」と、木浦市の郊外を案内してくれることになりました。ただ、私は前日の疲れが残っているため、ホテルまで送ってもらい、しばらく身体を休めてから、夕方のレセプションに加わることにしました。
レセプションでは北大に留学した人や、昨年知り合った人たちと歓談を楽しみましたが、「小樽文学舎の部屋」を見てきた人たちは一様に声を揃えて、木浦大学校が羨ましいと語っていました。
〔木浦からソウルまで〕
次にシンポジュウムを紹介すべきところですが、少し長いものになりそうなので、それは後日ということにして、帰りの行動を先に紹介します。
22日(日)、9時半頃、ホテルのチェックアウトを済ませ、申先生、朴順花さん、学生さん二人と、車で光州へ向かい、途中、王仁博士遺跡址に寄りました。王仁が日本に文字を伝えたことは、皆さんよくご存じと思いますが、韓国の人だったことを知っている人は意外に少ないのではないでしょうか。その王仁博士の出生地とされる聖基洞(そんぎどん)の広大な敷地のなかに、廟が建てられ、記念館には博士の生涯を描いた絵が掲げられていました。博士誕生の時の絵は、キリストの生誕図に似ていなくもありません。
そこを出て、博士が飲んだという「聖泉」の湧いている奥処に行く途中、この日はとりわけ好天気でもあり、日曜日だったこともあって、こちらの芝生では、お爺さんとお婆さんのグループがお弁当をつかいながら歌ったり踊ったり、あちらの、眼の覚めるほどあざやかな八重桜の下では、別なお爺さんとお婆さんのグループが写真を取り合ったりして、屈託なく、楽しんでいる。その様子は、たしかに古代の牧歌的な雰囲気を思わせる光景でした。公園の奥にある聖泉は小さなわき水で、傍に柄杓が置いてあります。さっそく飲んで、渇きを癒しました。このところ、本を読むスピードが落ち、理解力・思考力も衰えてきているので、博士にあやかって、少し脳の働きを活発にしてもらいたい、と願をかけたわけです。ところが、お婆さんから「ナンデココマデキタノ」と話し掛けられ、お爺さんから「長い間、日本語を使わなかったので下手になってしまった」と説明され、とっさに上手く答えられませんでした。この世代の人たちが日本語を話すことができる歴史的な背景を、シンポジュウムでは問題にしてきたばかりなので、韓国語でも答えられず、日本語でも答えられず、一瞬うろたえてしまったわけです。
さようなら/アンニョンヒ・ゲセヨと挨拶して別れ、再び車に乗り、国立公園の月出山(うぉるちゅるさん)に登り、道岬寺(とかぷさ)を見たのち、ホテルのレストランで昼食を取り、さらに車を走らせて、4時少し前に光州空港に着きました。空港には申先生の奥さんとお嬢さんのチスちゃんとが見送りにきてくれました。チスちゃんは日本で育ち、申先生の家族と私の家族とが会食した時など、一人で楽しくおしゃべりしているほどだったのですが、「こんにちわ」と言ったきり、何だか困ったような表情で口を結んでいます。奥さんが「韓国へ帰ってから家のなかでも日本語を使わないので、忘れてしまったみたいです」と取りなしながら、しかし「頭はどこ?
耳はどこ?」と聞けば、もちろんちゃんと訊かれたところを指してみせます。親しくしていた妻や娘が来なかったのが不満だったのかもしれません。それでも、空港内を移動する時は、私と手をつないで歩きました。
光州からの飛行機は4時10分発。ここで皆さんと別れましたが、木浦大学校4年生の金光玉君が、ソウルのコンピューター会社に勤めている兄さんに会いに行くという理由で、同行してくれました。
5時頃、金浦空港着。バスで1時間ほどでソウルのコリアナ・ホテルに入り、荷物を置いて、金君と仁寺洞(いんさどん)へ出かけました。
仁寺洞はソウルでも指折りの繁華街で、おしゃれなファッション・ショップやレストランの他、骨董品店や陶磁器店や書道具店が並び、丁寧に見てゆけば思いがけない掘り出し物も見つかるそうです。それだけでなく、街角では大道芸が演じられ、飴やファーストフードの屋台が出ています。一抱えもある大きな重ね餅の形をした、固くて、黒味がかった鼈甲色のかぼちゃの飴は、カンナで削り、竹串に附けてくれます。白くて柔らかい、砂糖の飴を、職人さんが客と冗談を交わしながら手際よく延ばしてゆき、ついに絹糸ほども細くしてしまった手並みには、感嘆させられました。その糸飴をくるくると巻いてお菓子にするのですが、ふんわりとして口当たりがよく、上品な甘みで、もとは王宮でしか食べられないものだったということです。仁寺洞は広くて、1時間や2時間ではとうてい見切れません。適当なところで切り上げ、金君とビールを飲み、金君は石焼きビビンバ、私は冷麺を取ったのですが、日本の冷麺の感覚で注文したところ、真っ赤な唐辛子のタレがたっぷりとかけてあります。私がためらっているのを見て、金君は「私、辛い物が好きですから」と、石焼きビビンバと交換してくれました。ビールは淡泊な味わいで、喉ごしがよく、この好青年としばらくおしゃべりして、9時半ころホテルの前で別れました。
翌日の23日は朝、6時にホテルを出ました。仁川空港から千歳に向かう便は9時発なのですが、国際便ですから1時間半前にはチェックインをしなければなりませんし、ホテルから仁川空港までのリムジンバスも1時間半は見なければならなかったからです。恐縮したことに、こんなに朝早い出発にもかかわらず、金君が送りにきてくれました。
早朝のソウルは、お釈迦さまの誕生日を祝うため、龍や蓮の花を形取った、巨大で精巧な作りの風船が広場に据えられ、ゆったりと風に揺られていました。
館長からのメッセージNO.7(2001年4月6日)
小樽文学館では、次のような読書講座「小林多喜二を読みなおす」を開きます。
(前期)・小説の読み方
5月19日(土) 中島敦『山月記』
6月16日(土) 夏目漱石『坊ちゃん』
7月21日(土) 夏目漱石『二百十日』
8月18日(土) 夏目漱石『野分』
9月22日(土) 宮沢賢治『注文の多い料理店』
[趣旨]
小説の読み方は、構造主義が導入されて以来、この四半世紀の間に、コペルニクス的な、ほとんど革命的な転換を遂げてきました。
異化作用、表層と深層、通時的と共時的、語り手、作者の死、テクストの空所、間テクスト性、ノイズ、多声的、言説、脱構築などの用語が、現在の文学研究や評論のなかでは、ごく当たり前のように使われています。
ところで皆さんは、これらの用語が持つ概念を消化した形で、小説を楽しんでいらっしゃるでしょうか。もしそうならば、大変に失礼な問いかけをしたことになり、私の非礼をお詫びいたします。
ただ、私の見るところ、北海道の研究者や評論家の多くは、相変わらず旧来の主題論的、作家論的な読み方や、状況反映論的な分析に固執して、現代的な方法から取り残されている状態です。残念ながら現在の北海道の研究と評論は日本でも最もレベルの低い状態に足踏みしていると言わざるをえません。
皆さんのなかにはこの指摘に驚き、次のように反論する人もいらっしゃるかもしれません。〈いや、むしろ北海道の研究者や評論家こそが、全国に先駆けて地域文学の掘り起こしと歴史的な整理に着手し、独自に文学全集を編集・刊行して、各地方の文学運動の呼び水の役割を果たしてきたのではないか〉と。
たしかに30年ほど前の北海道はそれだけの活力と理論水準を持っていました。
しかしそれから数年後、それらの事業を推進した理論がかえって拘束に転化して、読者の読みを管理するような硬直化の傾向を生み、新しい理論と方法に対応する柔軟性を失ってしまいました。
この硬直を解きほぐし、読者の主体性を回復する、どんな方法があるだろうか。その問題を皆さんと一緒に考えながら、小林多喜二を新しく読み直す。それがこの講座の趣旨なのですが、その準備として上記のようなプログラムを組み、皆さんもよく知っている作者や作品を取り上げて、まず現代的な文学理論の考え方を紹介することにしました。
しかしもちろん、初めに挙げたような概念を公式的に解説するつもりはありません。
それらの概念は文学創造における読者の役割を高めるために編み出された概念であって、ですから、もしそれらの概念にとらわれてしまうとすれば、かえって反対の結果を招くことになってしまうでしょう。私が意図しているのはそういうことではなくて、これらの概念を知ったうえで、皆さんそれぞれの方法を工夫してもらいたいのです。そしてこの予備的な作業の後に、10月からは
(後期)・小林多喜二を読む
というテーマで、5回、小林多喜二の初期の短編を読んでゆきたいと考えています。取り上げる作品と日時は、追ってご連絡致します。皆さんのお出をお待ちしています。
館長からのメッセージNO.6(2001年3月27日)
3月17日(土)に行った講演
「海外で日本文学はどのように研究されているか」全文
すでに新聞や小樽文学舎のホームページなどで、皆さんご存知のように、二月一二日、韓国の木浦大学校の総長はじめ三人の先生方が、小樽文学舎から贈った図書のお礼に小樽までお出下さいました。
じつを言いますと、このことを企画した私たち文学館の職員には、幾つか不安がなかったわけではありません。一つには、この企画の趣旨を小樽文学舎の会員や市民の皆さんに理解していただけるかどうか、二つには木浦大学校に対する〈善意〉の一方的な押しつけになってしまうのではないか、という不安です。
特に二つ目の場合は、たとえば私自身がまだ大学の教員であって、そこへ三〇〇〇冊を超える図書が外国からどっと届いたとすれば、それを整理し、登録をして、大学の内外の人たちが利用できる状態にすることは大変な作業です。さらにそれを配架する場所を確保するまでにも、さまざまな立場の人と交渉しなければなりません。そういう煩わしい手続きを木浦大学校の先生に強いて、迷惑を及ぼしてしまうのではないか、という懸念がありました。
しかしそれだけではありません。文学というものはけっしてイデオロギー的に無色透明で、中立的なものではなく、必ず何らかの形でイデオロギー性を帯びていています。しかも、それにかかわる人の立場や、その人を取り巻く社会的な状況によって二重、三重にイデオロギー的な作用を生んでしまう。その点を考えた時、これだけ大量な図書を贈るということは、必ずしも文学研究の資料として送るというだけに止まらない意味を派生させてしまうのではないか。そういう不安が、私たちにありました。
幸い、図書を寄贈することについて、小樽の市民だけでなく、幅広い地域の皆さんの理解と協力を得ることができました。また、木浦大学校の先生方は、この図書を民間レベルで生まれた市民の自発的な友好のメッセージとして受け止めたい、という、繊細で成熟した理解によって、喜んで受け取って下さった。私はこのことを企画した人間の一人として、いずれの皆さんに対しても心から感謝を申し上げ、この事業の一つの締めくくりとして、私なりの経験を通して理解した海外における日本文学の状況を報告し、そのなかで今回の行事がどんな意味を持っているかを、一緒に考えたいと思います。
いま私は、「自分なりの経験を通して」と言いました。私が日本文学の研究者として訪れたのはドイツ、アメリカ、台湾、オーストラリア、韓国だけで、その他、留学生との接触を通しておぼろげながら見当がつくのは、さらに中国、イギリス、ポーランド、スロバキアだけです。それ以外の地域に関してはほとんど全く知りません。「自分なりの経験」と言ったのは、そのことをまずお断りしておきたかったからですが、もう一つ、自分の経験をどう語るかについて出来るだけ意識的でありたいためです。
私は一九九五年に、アメリカのコーネル大学に客員教授として招かれ、ニューヨーク州のイサカという大学町に滞在していました。その年の一〇月、ドイツのベルリンで開かれた「アイデンティティとカノン――超文化的な観点からの日本の近代化考察――」というシンポジュウムに参加したことがあります。「アイデンティティとカノン(Identity
and Canon)」というのは、この場合、日本語に直すならば「自己同一性と規範」ということなのですが、これだけではまだ分かりにくいかもしれません。要するに日本人が自分を日本人と意識したり、そのように振る舞ったりする仕方と、そのなかに見出される規範という意味です。数年前、テレビのコマーシャルのなかに、日本の国籍を取ったプロ・サッカー選手が、どんぶりを持って、日本人らしい若者を「日本人ならばお茶漬けやろが」と追いかけてゆくという、非常に逆説的なコマーシャルがありました。そんなふうに、日本人ならばこうすべきだとか、こうするはずだとかいう言い方に現れてくる規範意識、あるいはお茶漬けを食べながら「ああ、俺は日本人だな」と感じたりする――そんなことを一々実感している人はそんなに沢山いないでしょうが――そういう形で自分を日本人として自己確認してしまう意識、それが日本の近代においてどのように形成されたのかというのが、その時のシンポジュウムのテーマだったわけです。
このシンポジュウムで発表したのはドイツ、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、そして日本の日本研究者だったのですが、大変特徴的だったのは、発表者の半数近くの人がしきりにインヴェンテッド・トラディション(Invented
Tradition)という言葉を発していたことです。「インヴェンテッド・トラディション」という言葉も、これまた耳慣れない言葉かもしれません。日本語に直せば「発明された伝統」とか「でっち上げられた伝統」とかいう意味です。たとえば私たちが正月の元旦に神社の参拝に出かけたり、お年始の挨拶廻りをしたりする風習は、ずっと古くから行われてきた伝統のように見えるけれども、じつは明治時代に作られた「日本人の伝統」にすぎない、ということです。もちろん神社の参拝や年始の挨拶という風習やしきたりは、それ以前になかったわけではありません。しかし、ある限られた地域や階級の人たちの風習やしきたりを、日本における固有の伝統として意味づけ、日本列島に住む人たちの年中行事の一つに仕立ててゆく。それは明らかに明治時代に入ってからのことで、見方を変えれば、明治政府はそういう形で日本列島に住む人たちを「国民」として統合していったことになります。
このような見方によって日本の近代化を国民国家の形成過程と捉える研究は、現在の歴史研究の主流となっていて、ベルリンに集まった日本学の研究者もそういう流れのなかで発言していたわけです。
これが現在、海外における日本研究の主要な傾向と言えるわけですが、先ほど私が「自分の経験を語る」ことの難しさを言ったのは、このことではありません。むしろ次のようなことがあったからです。
そのシンポジュウムにはコーネル大学の教授や、客員研究者の資格でコーネル大学に来ていた日本の研究者も参加していて、終わった翌日、市内を観光して帰ったいったのですが、私たち家族はせっかくベルリンへ来たのだからと、もう一日残ることにしました。というのは、それより八年ほど前の、一九八七年、私はドイツのミュンヘン大学の客員教授に招かれ、この時もやはり家族と一緒にミュンヘンに滞在したことがあったからです。ミュンヘンは森鴎外の『うたかたの記』という小説の舞台となったところです。ベルリンはあの有名な『舞姫』の舞台ですから、当然行ってみたい気持ちはありました。しかし当時のドイツはまだ東西に別れていて、ベルリンの東側には容易に入ることはできない。私はドイツ語はからっきし駄目で、そのくせ図々しくもドイツに住んでいたわけですが、ミュンヘンの知人が心配して、「東ドイツは旅行者の行動にはきびしい眼を光らせている。もしうっかりと行動規制に引っかかるようなことをして、警官に呼び止めたれた場合、亀井さんの語学力ではとても切り抜けられない」と忠告をしてくれました。それでベルリン行きは諦めてしまったのですが、一九九五年には既にベルリンの壁は崩壊していて、幸いベルリンのどこへでも出かけられる状況になっていました。
そんなわけで、私たちは長年の夢をかなえるため、一日余裕を取ることにしたわけです。
私たちの泊まったホテルは旧の西ベルリンの、豊かで賑やかな地区にありましたけれど、少し行ったところに、第二次世界戦争で連合軍がベルリンを攻撃した時に破壊した、大きな教会がそのまま残っていました。日本で言えば、広島の原爆ドームに当たるでしょう。そこでは、私より年輩のお婆さんやお爺さんが涙を流しながら祈りを捧げていて、私も思わず涙がこぼれそうになりました。また、その教会の周辺には、戦争や戦災で手や足を失った人たちが物乞いをし、妻はショックを受けて、午後はホテルで休んでいることにしました。そのため、『舞姫』の冒頭に出てくるブランデンブルグ門を見に、私と娘の二人で出かけ、地下鉄で旧東ベルリン地区に入ったわけです。ブランデンブルグ門の東ベルリン側の大通りをウンテル・デン・リンデンと言い、確かにドイツ帝国時代の偉容を偲ばせる壮大な建造物が残っていました。しかし、長年手入れをしなかったためでしょう、建物はうす汚れて荒廃感を漂わせ、通る人もほとんどいない。西ベルリン地区の建物がさまざまにデコレーションを凝らし、人出も多く、沸き返るというほどではないにしても、それなりに活力が感じられる。それとはきわめて対照的に、排他的で陰鬱な雰囲気に閉ざされていて、東ドイツの社会主義体制がいかに抑圧的で、市民から豊かさを奪っていたか、否応なしに実感させられてしまったほどです。
私と娘は何だか怖いような感じで、急いでブランデンブルグ門に向かったところ、そこでも胸を衝かれるような光景に出会ってしまいました。ブランデンブルグ門の両側の歩道に露天商が店を開いています。売っているのはもとベルリンの壁だったというコンクリートの破片であったり、勲章であったりして、それは日本の敗戦直後の光景を思わせるものでした。売られている勲章は、おそらく旧東ドイツのものだけではない。旧ソ連の枠組みが崩壊した後、体制変革が起こった東欧圏の国々のものも混じっていたようです。売っているのはアラブ系、ギリシャ系の顔立ちをした人たちが多く、体制変革が起こった国々を廻って安く買い叩いて来たのでしょう、変に陽気な調子で観光客に呼びかけているのですが、かえって私などは背筋が寒くなってしまい、とても手に取ってみる気は起こりませんでした。
これらの勲章を手放した人たちは、文字通り身体を張って国家に奉仕し、勲章を誇りにして、なにがしかの年金を貰っていたでしょう。ところが、体制の変化の結果、その誇りを失い、年金を当てにすることができなくなり、自分の人生の意味が分からなくなってしまう。それを思うと、胸が痛み、また涙がこぼれそうになりました。
私たちは普段、一九九〇年前後の世界情勢の変化のことを、ベルリンの壁が崩壊して、東西ドイツが一つになり、ソ連とアメリカとを両極とする冷戦構造が終結したと、そう表現しているわけです。しかし、ああいう光景を見ると、端的に言って、あれは社会主義国家の経済的な敗北、敗戦だった。私はそう思わざるをえませんでした。旧東ベルリン地区の荒涼とした荒廃感は、ドイツ統一後、都市繁栄のエネルギーを西ベルリン地区に奪われて、いっそう強まっていったのかも知れません。
そういう情景を見た翌日の、一〇月一五日、この日は妻も加わってシャルロッテンブルグ宮殿を見、昼飯を食べにホテル近くの繁華街にもどったところ、また異様な光景にぶつかってしまいました。黒いバイクに乗って、黒い革のジャンパーとズボンを着た集団が、奇声を挙げるでもなく、横に四人並んだ隊列を組み、もの凄いスピードで大通りを走って行く。それがまた途方もない数で、私は妻や娘が引き留めるのも構わず、車道に出て、彼らが来る方向を眺めてみたところ、遙かに遠くから切れ目なく走ってきます。もちろん信号は無視し、近くに警察の車が止まっていたのですが、彼らを阻止するでもなく見送っています。歩道の市民も歓声を挙げるどころではない、表情を殺して、黙って見ていました。
この日は日曜日で、ひょっとしたら何かのイヴェントがあったのかもしれませんが、とうてい楽しい行事のデモンストレーションとは思えません。およそ三〇分、ですから、おそらく何千、あるいは万を超える数のバイクの集団が、全員黒づくめの隊列を組んで目の前を走り抜けてゆく。その光景は、異様な迫力がありました。これがネオナチというものかしら、と私は思い、そう思って見ると、ヒットラーがまだ政権を取る前、彼の私兵とも言うべきナチ党員が隊列を組んで行進する光景も、こんなふうに威圧的だったのだろうと、実感的に想像させられてしまいました。
これが私の経験です。ところが、コーネル大学にもどって、この経験を知人に話したところ、彼は「ショックだなあ」と言ったきり、しばらく黙ってしまいました。というのは、私たちより一日早くベルリンからもどったコーネル大学の教授や、日本の客員研究者は、「ベルリンは文化の香りが高く、東ベルリン地区の再建も着々と進んでいる様子だった」と印象を語ったらしいのです。
これには私も驚きました。彼らは黒づくめのバイクの集団を見ていない。私のほうは見ている。その違いが、印象の違いを生んでいるのかもしれません。ただ、ブランデンブルグ門へ行った時には、彼らと偶然に出会い、彼らはベルリンの壁だったというコンクリートの欠片をお土産に買っていました。ですから、私たちと彼らとは、同じ日に、同じ光景を共有しているはずなのですが、おそらく勲章に関する反応が違ったのでしょう。経験というのはそれほど多様なのです。
そのことを心に留めながら、もう少しベルリンでの経験にふれておきますと、東西の冷戦構造という言葉を、経済システムの戦争と言い換えるならば、言うまでもなく日本は西側の一員、いわばアメリカの有力なパートナーとして、勝ち組に属していたわけです。
それと直ぐに結びつけるのは危険なのですが、大変に象徴的だったのは、このシンポジュウムで用いられたのが英語と日本語だったことです。ベルリン自由大学のスタッフと日本の日独センターとが共同し、ベルリンで開いた学会で、使用を認められたのはドイツ語ではなく、英語と日本語だったとはどういうことでしょうか。英語圏の国からの参加者が多く、フランスやイタリアからも参加して、発表と討論には英語のほうが便利だからだ、と一応はそう考えることができます。
他方、日本語が欧米の国際学会で使用されたのは、私の知る限り、これが最初とまでは言えないにしても、非常に早い、しかも例外的なことだったのではないかと思います。
私がミュンヘンにいた時、日独協会という組織がバイエルン州の政治家や経済人と、日本の政治家を招いて、「技術国家・日本」というシンポジュウムを開きました。私はミュンヘン大学の教授に教えられてそれを聞きに行き、さすがにこの時はドイツ語と日本語の同時通訳で討論が進められたのですが、バイエルンの代表の一人が日本の経済成長のすごさを認めつつも、「しかし日本が強いというよりは、我々のほうが、サッカーで言えば、自分のゴールにボールを蹴り込んでしまうミスを犯して、それで日本に得点を与えてしまったのだ」などと発言していました。この人が言う、自分のゴールにボールを蹴り込むとは、ヨーロッパの諸国が税関を設け、輸出入税をかけて、物資や人の流通を停滞させていることを指し、この古い体制のために日本に遅れを取ってしまったのだ、というわけです。
このような議論から現在のEU、つまりヨーロッパ連合の結束が促進されたのかもしれません。もしそうならば、EUを作らざるをえなかった一つの要因に、日本の経済成長というプレッシャーがあったことになり、状況論的に見れば、このような動向と日本語のステイタスの上昇とは決して無関係ではなかった、と言えそうです。
ただし私は、だからと言って日本語がメジャーな言語になったと言いたいわけではありません。――というより、本来メジャーな言語とかマイナーな言語とかいう区別があってはならないのですが――むしろ今言いたいのは、一方で日本語が以上のように扱われる状況が生まれ、世界的に日本語を学ぶ人口も増えているのですが、他方、二、三〇年前まで、日本語のステイタスはきわめて低かったし、現在も日本語を学ぶ人たちに難しい立場を強いてしまっている面があることです。
その一例として、James A. Fujiiさんの場合を挙げてみましょう。フジイさんは現在、アメリカ西海岸で最も人気の高い、UCLAという大学の、アーバイン校で日本文学を教えていますが、私が彼を知ったのは、もう一五年ほど前の、一九八六年にシカゴ大学から講演に招かれた時で、当時彼は徳田秋声研究の博士論文を書いている、シカゴ大学の大学院生でした。私は徳田秋声についてはほとんど知識がなかったので、役に立つような助言は出来なかったのですが、いろんな話をしている時、フジイさんがこんな印象的な体験を語ってくれました。
その内容を間接話法的に紹介しますと、フジイさんはアメリカで言う、Japanese-American、つまり日系二世のアメリカ市民です。日系人は現在でもマイノリティの位置に置かれ、また、フジイさんが文学研究に志した一九七〇年代、日本文学はアメリカではマイナーなジャンルでしかありませんでした。英語が依然として主流を占めているアメリカでは、やはりヨーロッパ語圏の文学がメジャーな研究ジャンルだったこと、その事情は想像がつくと思います。
そういう状況のなかでフジイさんはあえて日本文学を専攻したわけですが、欧米の文学を専攻するヨーロッパ系アメリカ人の人たちからは、「君は日系人で、日本語にも不自由しないから、まだ専攻する学生の少ない日本文学を選んだのだろう。それは安易な選択ではないか」などと言われたそうです。ところが、日本に留学してみると、今度は日本人から「英語で育った君に日本語の微妙なニュアンスが分かるかね」などと、疑わしそうな眼を向けられてしまう。いわばアメリカにおいても日本においても疎外された立場に立たされてしまったわけです。
私にとって、これは、晴天の霹靂のような言葉でした。
私はその直前に『二葉亭四迷』(一九八六年五月)という明治の文学者の伝記を出版したばかりでした。ご存知の人も多いと思いますが、二葉亭四迷は外国語学校でロシア語を学び、その語学力は現在も高く評価されています。しかし当時、ロシア語は学問に必要な言語とは認められず、東京大学のカリキュラムには入れられていませんでした。国立大学のなかにロシア語ロシア文学の講座が作られたのは、じつは戦後、北海道大学の文学部が初めてだったのです。その意味で、ロシア語は学問の言語としては長い間ステイタスの低い、マイナーな位置におかれてきたわけです。そういう言語を選んだ結果、二葉亭四迷のように、初めから学者コースの門を閉ざされてしまった人間が、その後どのような人生を歩まなければならなかったか。それが、『二葉亭四迷』という伝記を書いた時のテーマです。それに、私は、日本語や日本文学研究がアメリカでは必ずしもメジャーでないことは承知していました。欧米において中国学(Shinology)は長い伝統を持っていますが、日本学(Japanology)の歴史はまだまだ日が浅いことも知っていました。
ですから、アメリカで日本語を学び、日本文学を研究することの難しさを予想できないではなかったのですが、フジイさんのように日系人のポジションの問題には思い至っていませんでした。フジイさんの言葉はそういう私の眼を開いてくれたわけです。
たしかに日本人のなかには、自分が日本人だという理由だけで、日本語の微妙なニュアンスが分かっていると思いこんでいる人たちが多い。
一方、私たちがコーネル大学にいた時、妻が病気になって、エンドウさんという日系二世のお医者さんに診て貰っていたのですが、エンドウさんは日本語を全く話すことができません。一九四一年に日本とアメリカとの戦争が始まった時、アメリカ政府は日系アメリカ人を収容所に隔離するなど、日系人に対する差別と迫害があったことは、皆さんもご存知のことと思います。エンドウさんのご両親はそれ以来、家庭のなかでも日本語を話すことを止めてしまい、そういう環境のなかに生まれたエンドウさんは日本語を知らずに育ったのだそうです。そういうことがあり、また、Toyotomi
Morimoto という人が一九九七年に出した、"Japanese Americans and Cultural
Continuity"(日系アメリカ人と文化継承)という研究によりますと、もともとアメリカへ移民した日本人のなかには、祖国の言葉と文化を忘れてはならないと考え、日本人学校を作り、日本から日本語の教科書を取り寄せ、のちには自分たちで日本語の教科書を作ったりした人たちがいました。しかしその反面、自分の子供が将来アメリカで高い社会的ステイタスを手に入れるためには、早くからアメリカ社会に溶け込ませたほうがいいという意見を持って、子供をアメリカの学校にだけ通わせることを選んだ人たちも多かった、ということです。その意味では日本語はアメリカではステイタスの低い、マイノリティの言語であり、状況次第では隔離され、迫害されかねない言語でもあったわけです。
そういう状況のなかでフジイさんのご両親は家庭のなかで日本語を維持し、それだけが理由でなかったにしても、フジイさんはあえて日本文学の研究を選んだ。それは非常に強い目的意識を伴った主体的な選択であったはずなのです。それをホワイト・アメリカン、つまり白人系アメリカ人が安易な選択であるかのように批判し、日本人は日本語のニュアンスなどということを言い出す。フジイさんの立場に立ってみれば、これは偏見と差別以外の何物でもない、と言わざるをえないでしょう。
その意味で言語というものは社会的な葛藤から自由であるはずがなく、まさしく社会的葛藤の一部であって、ある言語を選ぶこと、あるいは選ばされることはその葛藤を引き受けること、または葛藤を蒙ってしまうことでもあるわけです。しかしフジイさんの優れたところは、そういう自分の難しい立場を単に嘆き節で終わらせることなく、それを積極的に自分の研究方法に組み替えていったことにあります。彼は一九九三年に、"Complicit
Fictions"(小説の共犯)という大変に刺激的で、これまた眼の覚めるような鋭い指摘に満ちた研究書を出しましたが、その序章でこんな意味のことを言っています。
この本はジェームズ・フジイという、日系アメリカ人を連想させる名前によって特徴づけられている。この名前は、読者に、果たしてこの本は信頼できる日本人の知識をきちんと伝達してくれるかどうか疑わしいという印象を生みかねない。他方、白人の男性の署名を持つ著書は、それだけでもう一般的には、首尾一貫した厳格さを守っていると評価されがちなのだが、この本はそういう効果を期待できない。またこの名前のおかげで、私は、自分の失われたルーツを回顧的に懐かしんだり、個人的なアイデンティティを回復したいがためにこの本を書いたのだ、という読者の予断を受けることになるかもしれない。このように、いろんな意味で、この著書はJapanese-Americanの書いた本だという表示から逃れることはできないのだ。この国では、人種という偏見のため黒人はその生き方を制約されている。たとえそれほどの悪意を蒙らないとしても、このJapanese-American、つまり日本人でアメリカ人という、二つのナショナリティをハイフンで結んだ、そのつなぎ目が露見して、おかしな印象さえ与える立場は、日本学というスタンプを押して排除してしまう政治力学が働くや、きびしい立場へと逆転してしまうのである。
フジイさんは自分の立場の難しさを伝えようと、きわめて屈折に富んだ言い方をしていて、直訳したらかえって分かりにくくなってしまう。そこで私は以上のように意訳してみたわけですが、それでもまだ分かりにくいかもしれません。ですから、もう少し補足しますと、フジイさんはここで、男性の白人の署名を持った著作にこだわっています。それはなぜか。
近代の学問は主にヨーロッパに起源を持ち、ヨーロッパで磨き上げられてきたという伝統があるため、その伝統のなかで学んだヨーロッパ人の、特に男性は、自分たちこそ客観的・科学的で、公平中立な判断が可能な主体なのだ、と自負し、自分たちの言語以上にそれにふさわしい言語はない、と思いこんできた。そのなかに必ずしも女性が含まれていないのは、女性は特別に学問的な修練を積んでも、そういう客観的・科学的で、公平中立は認識の主体となることは容易でない、という観念があったからです。ましてヨーロッパ以外の地域の人間がそういう主体となることは、人種的・言語的・文化的な制約のためにいっそう難しい。
とすれば、次のように言わざるをえないでしょう。もちろんヨーロッパに起源を持つ学問の伝統がすごい厚みを持っていること、これは否定できません。しかしまた、その学問が世界のなかで最も普遍性が高いもののように位置づけられて来た理由は、ヨーロッパの列強がその経済力と軍事力と政治システムによってヨーロッパ以外の地域を植民地化し、政治的・経済的・文化的に支配してきた歴史と無関係ではないこと、これもまた否定できない事実です。その点から見れば、ヨーロッパの学問の科学性や、中立的・客観的な認識方法というものは、実は、一方では、そのような支配の過程で培われ、他方では、その支配を支えるものでもあったことになります。
ところが、このような経緯によって形成された学問のなかで育った研究者は、以上のような経緯をほとんど無意識的に前提としたまま自分の学問の優位性を自負し、またそれ以外の地域の人たちもそれに従ってきてしまった。
フジイさんのなかにはそのことに対する強い批判があったと思われます。そうであればこそ彼は、以上のような意味でのヨーロッパ中心主義に支えられ、ヨーロッパ中心主義を強化してきた学問のなかで育ち、みずからの普遍性を自負する、科学的・客観的・公平中立的な認識主体を、「超越的主体(Transcendental
Subject)」と呼び、それに対するJapanese-Americanの立場を鮮明に表明したわけです。これはすごい勇気の要ることだったと思います。
またこのことから、フジイさんの日本人研究者に対するこだわりもお分かりのことと思います。谷崎潤一郎の『文章読本』(一九三四年)を見ますと、もともと日本語は論理的ではないけれども、その代わり非常に繊細なニュアンスに富んでいる、という考えに基づいて、日本民族は芸術的な感受性に恵まれているのだなどと主張しています。それ以来、川端康成、中村真一郎、三島由紀夫、丸谷才一、井上ひさしなど、ずいぶん沢山の文学者が『文章読本』を書いて、『文章読本』という日本語論・日本文化論のジャンルが出来上がっているほどなのですが、井上ひさしを除いて、みんな同じようなことを言っている。しかし谷崎潤一郎の『文章読本』を少し丁寧に検討して見れば、日本人の虚栄心をくすぐる、この種の日本語論は結局、ヨーロッパ言語、というよりも〈ヨーロッパ言語は論理的なのだ〉という固定観念を前提として生まれてきたものだったことは明らかです。その意味で日本人の民族的特性などというものは、もしそれを主体性と呼ぶとすれば、ヨーロッパ中心主義、フジイさんの言葉を借りて言えば「超越的主体」を基準として、それとの違いとして見つけ出した、いわば派生的な主体でしかありません。
特に問題なのは、このような民族論に含まれる言語決定論的な考え方です。ヨーロッパの言語が論理的だという見方自体があやしいものでしかないのですが、それを無批判に受け入れて、日本語は論理的でないけれども、簡潔な言い方のなかで沢山のことを暗示する象徴性や情緒性に富んでいるのだ、という思い込みから、日本民族論などというものをinventする、発明してしまう。
その種の自己発見というやつが、どんなに危ないものなのか。そのことは、比較する対象がヨーロッパ言語ではなく、他のアジアの言語やアフリカの言語だった場合、どんな特徴を発明することになるかを想像して見れば、すぐに理解できるでしょう。私たちは自分を何かと比較することによって自分の特徴を見出すわけですが、逆に言えば、このように発見した〈自分〉というものは比較した対象に制約され、時には囚われてしまっている。その点を十分に自覚していないと、滑稽な自己錯覚に落ち込んでしまいかねない。
ところが、近代の日本においては、比較対象に選んだヨーロッパ的なものを、あたかも普遍的なものであるかのように思い込んでしまったため、それとの比較を通して見出した自分たちの特徴を、日本民族に普遍的な本質だと決めてしまったわけです。しかも他方、これまでの日本人の多くは、特に日本の知識人は、アジアやアフリカの人たちに対する場合、自分を、あのヨーロッパ中心主義から生まれた普遍主義の側に置いて、まるで自分のほうが「超越的主体」であるかのように、優越した立場から眺めるという過ちを犯してしまいました。そういう日本人の自己認識がどれほど錯覚と矛盾に満ちているか。それをテーマとして、もう一五年ほど前の一九八六年に、オーストラリアのPeter
N. Daleという人が"The Myth of Japanese Uniqueness"(日本人の独自性という神話)
を書いています。そんなふうに、日本人の日本語論や日本文化論は、すでに手の内を見抜かれてしまっている、というのが、最近の海外における日本学の現状です。
ともあれ、ジェームズ・フジイさんの批判意識は以上のような日本人の、自国の言語や文学に関する優越感にまで及んでいて、ですから、日本で生まれ育った日本人が、もうそれだけの理由で日本語表現の微妙なニュアンスは自分たちにしか分からないと思い込んでいる時、その人たちが気づかない側面を見事にとらえた研究を成し遂げてしまったわけです。
このことと関連して思い出すのは、一九九四年に、ハーバード大学で開かれた「明治学会」に参加した時の経験です。ハーバード大学は長年、日本の大使をしていたライシャワーを生んだ大学で、アメリカで最も日本学の長い歴史を持つところなのですが、ここに丸善という出版社が、明治に出版された全ての書物のマイクロフィルムを寄付しました。これは大変に貴重な資料で、現在アメリカで明治関係の研究をしている人たちは、休みに入ると早速ハーバード大学まで出かけて、必要な文献をマイクロフィルムから印刷して来るという有様です。私たちにとっても日本で文献を探すよりは、ハーバード大学に行ったほうが、確実に見つけることができるほどだ、と言っても過言ではありません。一時期、アメリカの日本学はシカゴ大学やコロンビア大学が非常によい成果を挙げて、ハーバード大学はやや霞んでいたのですが、これでまたハーバード大学が日本学のメッカに返り咲いたとさえ言えるでしょう。
ともあれ、そういう大変な財産が届いた記念にハーバード大学が「明治研究」の国際学会を開催し、私は「明治文学と感性の変革」というテーマを依頼されたのですが、ここでお話したいのは私の発表にかかわる経験ではありません。
この学会で私にとって大変に印象深かったのは、オープニングのシンポジュウムで、日本から参加した歴史学者が――この人は日本における民衆史を開拓した歴史家としてよく知られています――「私たちの明治研究にこんなに沢山の外国の人たちが関心を持って下さって、大変嬉しく思います」という意味の挨拶をしたところ、さぁーと白けた空気が会場に流れたことです。その印象があまり強かったので、私は「記号のしぐさ」という短いエッセイを『群像』(一九九四年八月号)という雑誌に書きました。ここではある程度その繰り返しになりますが、たしかにその歴史学者は日本学がまだまだマイナーな状態だった時期にアメリカへ出かけ、いわば啓蒙家的な役割を果たしてきた人ですから、それから二〇年ほど経って、「明治学会」のために大きなホテルを一つ借り切ってしまうほど日本学が盛んになった現状を喜び、思わず先のような言葉を発してしまったのにちがいありません。ところが、それが若い世代の反発を招いてしまった。要するにそれは、日本人が日本の明治時代を「私たちの」と呼んだことに対する反感だったと言っていいでしょう。
英語圏におけるフジイさんの世代の日本研究者はさまざなな民族性を負った人たちがいて、いわゆる白人であっても、あのヨーロッパ中心主義に対する批判から日本学を志した人も多い。もし私たちがフジイさんやその人たちに向かって、「私たちの」文学に関心を持って下さってありがとうなどと挨拶をしたとすれば、これはもう鈍感を通り越して、身勝手な思い上がりでしかありません。このことは後にふれる韓国の皆さんに対しても同様です。
ともあれ先の印象は必ずしも私だけのものではなく、食事の時に一緒した人たちも似たような感想を語っていました。そこではいろんな意見が出ましたが、おおむね次のような点では一致していたように思います。
それはどのような意見だったかと言いますと、〈アメリカにとって日本の歴史はアメリカ史の重要な一部分であり、また、日本にとってもアメリカ史は日本史の重要な一部分ではないか〉ということです。
よく知られているように、江戸時代の嘉永年間にペリー提督が艦隊を率いて、徳川幕府に開国を求め、それ以来、日本とアメリカは極めて密接な、それこそ四年近くも戦争をしてしまうほど抜き差しのならぬ関係にまで至り、その戦争の決着がついた後、アメリカは日本を占領し、ある意味でその状態は現在も尾を引きずっている。それだけでなく、日本の経済的な動向はアメリカの政策決定に重要な影響を及ぼし、またその逆でもあるという関係が続いています。とすれば、アメリカの歴史は日本の歴史の一部分であり、逆に、日本の歴史はアメリカの歴史の一部分だと見るべきでしょう。その見方に立てば、日本の明治という時代は、日本人だけが「私たちの」歴史と呼ぶべきものではないはずです。
もう一つの点は、〈明治の文献、特に明治前半の文献は特別な修練を積まなければなかなか読めないし、ましてニュアンスを味わい分けるのは極めて難しい。その意味で明治の文献は現在の日本の若い世代からも、日本以外の地域で日本学を始める人からも、ほとんどおなじ距離にあると言っていいのではないか〉ということです。もちろん日本に生まれ、日本語を使って育った人のほうが明治の文献になじみやすい。知識を増やす機会にも恵まれている。このこと自体は否定できません。しかしだからと言って、日本で生まれ育った人間でさえあれば明治の文献がよく分かる、というわけではない。いま東京大学で日本文化の教授をしているRobert
Campbellさんは、昨年の春まで国文学研究資料館で研究をしていましたが、文献学のエキスパートが揃っている研究所のなかでも、キャンベルさんほど幕末から明治にかけての漢文や漢詩の知識を持ち、よく理解できる人はいないのではないかと、一目置かれていたそうです。これはキャンベルさんの能力が非常に高いことの証明でもありますが、また視点を変えれば、日本人だからよく分かるのだなどという思いこみに特別な根拠があるわけではないことの証明でもありうるでしょう。さらにまたその視点を拡げて行けば、現在の若い世代にとって大正時代の文学、いや、昭和三〇年代までの文学も同様になじみがなく、分かりにくいものになっているのではないでしょうか。
先ほど私は、言語は社会的な葛藤の一部であり、時には社会的な葛藤を生み出してしまうことがある、という意味のことを言いました。このことを踏まえて、これまで紹介した経験を整理して言えば、現在の文学研究が明らかにすべきことは、ある文学テクストがどのように社会的な葛藤を言語的に反映しているか、あるいは社会的な葛藤をかもし出そうとしているか、ということであり、事実その方向に進んでいると言うことができます。他方また、文学テクストのなかには、社会的葛藤は解決が可能であり、だから本来的に解決不可能な葛藤などはこの世に存在しないのだと思わせるものも沢山あります。そう思わせるために、作者はどんな仕組みとイデオロギーを用いているのか、それを明らかにすべきであり、またその方向に進んでいます。
いま私は「社会的葛藤など実際には存在しないかのように見せかける仕組み」と言いました。この時私の念頭にあったのはseamlessという言葉です。フジイさんの論文を紹介する際に私は「首尾一貫した厳格さ」という訳し方をしましたが、もともとフジイさんが使っていたのは、seamless
rigorという言葉でした。seamlessという言葉は一般には女性のストッキングの種類を言い表すのに用いられて、皆さんおなじみのことと思います。seamというのは縫い目とか裂け目とか傷あととかいう意味で、ですからseamlessとは、縫い目が見えない、裂け目がないということを意味し、二〇年ほど前にFredric
Jamesonというアメリカの文学理論家が『政治的無意識』("The Political Unconscious"、一九八一年)という評論で用いて以来、
文学研究や思想史研究などでよく使われています。
どんな時にそれを使うかと言いますと、〈日本は日本人という単一民族で構成されている国家なのだ〉などという発言があった場合、その身勝手なイデオロギー性を指摘するためです。なぜなら、この日本列島にはいわゆる日本人だけでなく、日本に帰化したり、無理やり日本に帰属させられたりした人たちが住んでいるはずなのですが、単一民族という言葉がそういう事実を覆い隠し、その人たちの生活感情の裂け目や、内的・外的な傷あとなどないかのように見せかける働きをしてしまうからにほかなりません。
言語は社会的な葛藤の一部だ、と私が言うのもおなじ観点からであって、この場合の「葛藤」が必ずしも社会的なトラブルだけを意味するわけでなく、さまざまな事情で日本に住むことになった人たちが日本語にかかわろうとした時、心のうちにこだわりを覚えたとすれば、その内的な葛藤も含まれます。ジェームズ・フジイさんのJapa
nese-Americanのように、ただのAmericanではなく、Japaneseとのつなぎ目(または裂け目、seam)がハイフンによって明示されてしまう、そういう社会的なポジションを負った人が、日本語にかかわり、改めて自分と英語とのかかわりを反省してみれば、いずれの言語にも何らかのこだわりを覚えないではいられないでしょう。その意味で、人は誰でも、自分の民族性や、両親の社会的地位や、性差や地域性などを背負って言語とかかわらざるをえません。そして社会的な裂け目を言語的葛藤として表出し、あるいは内的な言語の葛藤を通して社会的な裂け目や傷あとに気づく、という経験を積んでいるはずです。
もちろん無理やり日本に帰属させられた人たちと、日本で生まれ育って自分の民族性をまるで自明の自然状態であるかのように受け入れてきた来た人たちとでは、日本語とのかかわり方はほとんど決定的に異なります。そのことをしっかりと確認した上で、しかし視点を変えて言えば、自分が日本人であることを当たり前のことのように思って生きている人が、ある場面で何かを言おうとして、現在の社会的ポジションと自分の性差との間に一種の裂け目を覚えたとすれば、その人はやはり内的な葛藤を抱えていることになる。また、ある社会的集団と接して、そのグループが自分たちの帰属意識をお互いに確認し合うために使っている言葉づかいを口にしようとして、ふとこだわりを覚えたとすれば、その瞬間その人の意識のなかに、自分のポジションが顕在化して来たことになります。あるいは、自分と異なるポジションから日本語とかかわっている人と会話をしようとして、自分が日本語を話すことにある種のためらいや反省を覚えたとすれば、その時その人は日本語に対する自分のポジションを客観化し、それと同時に、日本語という言語の社会的なポジションを発見するきっかけをつかんだのだ、と言えるわけです。
二〇世紀後半の文学論や社会理論に非常に大きな影響を与えたMikhail Bakhtinというロシアの思想家が、どのような言葉もイデオロギー的な葛藤を含んでしまい、だから首尾一貫した・矛盾のない、つまりseamlessな自我というものはありえないのだ、という意味のことを言っていました。それは以上のようなことを指していたのだ、と見ることができます。
そのような形で自分のポジションや言語的な葛藤を自覚すること、それこそが自分とは異なるポジションや葛藤を持っている人を理解する、重要な基盤なのではないでしょうか。
いまここで、皆がもてはやしてくれそうな日本人のイメージに完全に自己同化し、自分の言語的な葛藤を切り捨てて文字通り教科書的な日本語しか話さない、そういうseamlessな人間を想像して見て下さい。社会が柔軟性を失って、硬直化してしまった時、えてしてそういうタイプの人間が跋扈しはじめるわけですが、本質的に自己保身的な、その種の人間が危険なのは、自分と異なる形で民族性や言語とかかわっている人たちを理解するきっかけを持たず、いや、みずからそのきっかけを否定し、だからまた自分と異なるポジションの人たちのあり方をも否定してしまい、そして自分とおなじタイプになることを強制しはじめるからです。
そんなわけで私は、日本に帰化したサッカー選手に「日本人ならお茶漬けやろが」などと言わせるコマーシャルはどうもいただけない、と思っています。ハワイ出身の関取が、横綱昇進の報告に来た使者に対して、「「日本人の心を心として」でしたか、とにかくそういう言葉と共に、「横綱の名を汚さないようにいっそう精進することを誓います」と挨拶をする映像を見たことがあります。ああいうことを言わせるのはよくないと思います。あるいはそれは親方が教えた台詞ではなく、彼自身が考えた言葉だったかもしれません。もしそうだとしても、ああいう形で自分を日本人に同一化させる言葉を言わせてしまう制度の体質というものは怖い。もしニューヨーク・メッツに移った新庄選手が何か大きなタイトルを取った表彰式で、「アメリカ人の心を心として」などと言ったとすれば、皆さん、いろんな意味で、ぎょっとしてしまうのではないでしょうか。
さて、話が少し抽象的になり、時間もだいぶ経ってしまいました。話題がいつ木浦大学校のことにもどるのか、気を揉んでいる方もいらっしゃると思いますが、私の話の趣旨はもうお分かりいただけていることと思います。
日本という国家は明治・大正・昭和を通じて、じつに多くの民族に不当で、過酷な運命を強いてきました。金時鐘さんは韓国から日本に渡って、日本語で詩を書いている人ですが、一九八六年に出した『「在日」のはざまで』という著書によれば、植民地の朝鮮で――「朝鮮」という言葉にこだわりを感ずる人もいらっしゃると思いますが、そしてそこにその人のポジションがあるわけですが、ここでは金時鐘さんが使っていたままに使わせてもらいます――日本は戦争中、凶暴なまでの日本語教育を行っています。日本の国民学校に相当する「普通学校」では日本語が「国語」として教えられ、生徒が朝鮮語を話したりすることがないように、生徒同士に摘発を行わせ、摘発された回数の多い生徒には体罰を与える。摘発した数の多い生徒に、摘発された生徒を殴らせる、という非道いことまでやったそうです。そういう教育――というより、もはやこれは教育とは呼べない、非道な強制ですが――が行われる状況のなかで、金時鐘さんのお母さんは日本語を全く知らず、お父さんのほうは日本文学や日本語翻訳のヨーロッパ文学の全集を揃え、朝日新聞や毎日新聞を取り寄せ、そしてご自身は流暢な日本語文を書くことができるにもかかわらず、家庭のなかで日本語は一切語らない。町へ出る際には周衣という外套のような朝鮮服を着て外出し、たぶんそれを辱めようとしてでしょう、青年隊の若者が噴霧器で墨を吹きかける。その姿を見て、金さんは「体がちぢむ」思いだった、と言います。日本は植民地支配をしながら、それをse
amlessな状態に取り繕うために、そういうむごい裂け目を作り、傷あとを残してしまった。この金さんの経験は一面ではフジイさんやエンドウさんの経験と共通し、しかしさらに過酷なものだったと言えるでしょう。
金さん自身は「国語」の学習に熱心な生徒であり、またそのように努力して「親を超えなければ「日本人」にはなれない」とまで思い詰めていた。そうであればこそ金さんは、すでに一七歳という青春期を迎えた、一九四五年八月に、日本が敗戦し、朝鮮が解放されて、今度はその「国語」が否定されるという状況に直面して、呆然自失するほかありませんでした。それがどれほどすさまじい精神的な混乱をもたらしたか、想像してみて下さい。金さんは「まるではぐれ犬のように」ひとり築港の突堤にたたずんで、「何日も涙を流して」いましたが、その時口を衝いて出てくるのは「海征かば」とか「児島高徳の歌」とかいう日本の歌ばかりだった、と言います。金さんはこの回想に続けて「教育とはおそろしいものです」と言っていますが、本当に教育とはおそろしい。「国語」も小学唱歌も、そして敢えて言えば金さんのお父さんの書斎に並んでいた日本文学も、それほど少年の内面に入り込んで、考え方ばかりでなく、感性までも支配してしまうものなのです。
その内面化がどれほどのものであったか、金さんはこのように回想しています。
私には童謡、子どものとき唄ったわらべうたがありません。誰しもが至純に思い起こされるべき、幼い日の歌がないのです。あるのは押しつけられた日本の歌ばかりです。それも押しつけられる歌とはつゆ知らずに唄った歌でしたので、無心に唄う幼い日まで失くしてしまった「歌」なのです。あり余る朝鮮の風土の中で、ほほもめげよとばかり声張り上げて唄った歌は、皆が皆、文部省選定の唱歌ばかりです。「夕焼け小焼け」と唄うとき、かさぶたのような藁屋根の向こうに、鎮守の森を歌ごころで被せて唄っていたのです。それだけに歌の情景とはほど遠い朝鮮の風土は、私の心からずんずん離れていかざるをえなかったのでした。
このように、小学唱歌に盛り込まれた抒情が、自分が生きている現実の風土を疎外してしまう。そういう作用を及ぼすことを念頭に置きながら、文学はけっしてイデオロギー的に無色透明なものではありえないと言ったのですが、金さんは日本の近代小説に関してもこのように言っています。
それ(フランスの自然主義)が日本に移入されて来ますと、日本特有の自然観にくらがえして、日本的「自然主義」文学となってしまっている。これは田山花袋の書いたものなどを見ればよく分かることですが、芸術というのは、特に小説というのは、あるがままのことを書くことなんだ、いかにも自然のように書き取ることだというふうに言っております。そればかりか小説家は文学以外の雑音などにまどわされてはならず、あるがままの状態をあるがままに受け入れ書き取ることが小説の「神髄」に通じることである、と言っている人もいるくらい、日本の自然主義小説の大前提は、現実容認にあるのです。いささかも変えられるべきものに現実≠ェあってはならないわけですから、社会の動きに文学者や芸術家が関わるということは、もってのほかということになります。
このような考え方は、日本の自然主義文学の根幹を成している思想のように私には思えます。そのような日本の美学は、植民地下の少年として育った私に、生まれたときから自然≠フように私の生育をくるみこんでいたものであります。これはそのまま朝鮮の近代文学の断層をも成していまして、今に至るまで一定の影響を朝鮮人の精神史に及ぼしている美意識ともなっているものです。
金さんのこの自然主義文学の理解にはある種の時代的な制約が見られ、現在の視点からは訂正の必要があるように思われますが、もちろん私がこの言葉を引用したのはそれを指摘するためではありません。私たちがこの言葉から読み落としてならない点は、一つには、自然に想いを託す日本的な抒情とか美意識とかいうものは、単にinvented
traditionなどいういう生やさしいものではなく、内面化を強いるtraditionともなりうるということです。もう一つは金さんがそのことに気がついて、日本的な抒情や美意識というものを批判し、克服するモティーフを持って詩人としての活動を持続してきているということです。それは日本語表現による日本語そのものとの葛藤や、日本の文学ジャンルに対する批評にほかなりません。おそらく金さんにとっては、そういうポジションを取り続けることが、かつて心から「日本人」になろうとし、そして朝鮮の解放後、ご両親を韓国に残して日本へ渡ってきたことに対する償いであり、責任の取り方だったのでしょう。言うまでもなくそれもまた日本語の文学なのであり、フジイさんのようなポジションから日本語や日本文学にかかわった人たちのほうが、むしろそういう文学に鋭い感受性と理解力を見せていること、これも見落としてはならないことだろうと思います。
現在ではほとんど忘れられた事実ですが、かつて大日本帝国の政府は、帝国を多民族国家・多言語国家ととらえ、その上で日本語を帝国内に通用する「国家語」として位置づけて来ました。そして戦争が拡大するにつれて、一方では軍事占領をした地域にこの「国家語」を持ち込み、他方では植民地の言語を否定して「国家語」に一元化してしまおうとして、いわば日本語をアジアのメジャーな言語の位置に押し上げる野心を抱いたわけですが、敗戦とともに一挙にマイナーな位置に転落してしまいました。しかし、そのような強制がさまざまなポジションから日本語にかかわる人たちを生んだ事実、これが消えるはずはありません。ばかりでなく、一九七〇年代からの急速な経済成長に伴って日本語の地位も上がり、以前とは異なる形ですが、再び、いやそれ以上の拡がりをもって、さまざまなポジションから日本語にかかわる人たちを生み、それが日本語のあり方に影響を及ぼしつつあります。それを別な面から見れば、国内的にも多言語状況が生まれてきたということであって、これは一つの言語がメジャー化した時、必ず発生する状況なのです。このことは英語圏の状況を見ればもっとよく分かります。
ところが、日本の自称文学者はそういう経緯を無視した形で「日本語の混乱」を憂えたり、「美しい日本語を守れ」などと言っている。つまりseamlessな日本語がありうることを前提として、自分も、自分以外の人たちもそれとseamlessな関係に持ってゆきたいらしいのですが、じつはそういう発想が日本語のニュアンスなどと言い出す「日本人」を生んでしまうわけです。この身勝手な「日本人」中心主義が、他のポジションから日本語にかかわっている人たちの理解を妨げているのだ、と言わなければならないでしょう。
最近一〇年ほどの間に、日本の研究者のなかでも、日本が植民地支配をした地域の文学の研究が盛んとなり、資料の掘り起こしなどに大きな成果を挙げて来ました。私もそれはきわめて大切なことだと思うのですが、しかし時として、なんてこの人たちは鈍感なのだろうと苛立ってしまう。というのは、その研究者は日本の植民地支配への反省と批判の言葉をそつなく織り交ぜ、植民地支配をした国家権力を糾弾してみせたりしているのですが、にもかかわらず、依然として自分の文学観を無反省のままに温存し、それこそ超越的な立場で旧植民地の作品を論評したりしているからです。視点を変えて言えば、ジャンルを植民するとはどういうことか、唱歌や和歌や小説などを植民するとはどういうことか、という問題意識が欠けている。そういう問題意識と視点を欠落したまま、自分の評価基準で測っている。自分と日本文学との関係は基本的なところでseamlessなのだという前提に立っていて、そのため自分のポジションが見えていないわけです。
先日小樽までお出下さった木浦大学校の許錫教授に、「明治時代における韓国移住日本人の文学活動についての調査研究」(一九九三年)という貴重な研究があります。許先生は、明治期に日本人が韓国へ大量に移住し、日本語新聞を発行し、そこに新聞小説が掲載され、じきにハングル小説が現れてくる経緯を詳細に辿っています。それでは、これは日本文学史なのだろうか、それとも韓国文学史なのか。そういう問いを立ててみれば直ぐ分かるように、これは日本文学史の重要な一部であると共に、韓国文学史の重要な一部でもあるわけです。
先ほど私は日本とアメリカはお互いにその歴史の重要な部分を共有しているのだ、という意味のことを言いました。おなじ見方をすれば、日本と韓国はそれとは比較にならないくらい不可分な関係を持ち、特に近代においては、あたかも日本が超越的な主体であるかのごとく振る舞って従属を強いてきました。それだけではなく、金時鐘さんの例で分かるように、その主体性をまるごと否定するようなことをやってきました。そうである以上、韓国の歴史は日本の歴史を抜きには書き得ないはずですし、日本の歴史は韓国の歴史を抜きに書きえないはずです。
いま現在起こっている歴史教科書の問題もそういう見方でとらえなければならないと思います。日の丸、君が代というinvented
traditionを再び国旗や国歌として制度化したり、「侵略」という言葉を「進出」と言い換えた歴史書が学校教育のなかに持ち込まれることに、韓国や中国が非常に強い危惧の念を感じないではいられない理由は、もうこれ以上説明する必要はないでしょう。
ただ、私に一つ理解できないのは、この問題に関する日本の歴史家や社会学者、特に韓国や中国からの懸念を十分に理由のあることと受け取っている歴史家や社会学者の態度です。この人たちは西尾幹二の『国民の歴史』や、問題を指摘された歴史教科書を、時代に逆行するものとして批判し、ある種の敵意をもって話題にしながら、自分たちの仲間意識というか党派的結束というか、とにかくそんなものを強調し合う発言を繰り返すだけで、一向に歴史の枠組みを変える発想転換に踏み出そうとしていない。日本史という一国史の枠組みのなかで、いじましいイデオロギー争いをして、事柄を矮小化してしまっている。これは彼らもまた歴史を時間的な縦軸だけで考え、時間を輪切りにしながら空間的にとらえることに思い及んでいないからだ、と私は思います。
歴史を輪切りにして空間化するなんてことは、出来ない相談だと思われるかもしれません。しかしいま一八五〇年代の西洋列強に対する東アジアの対応、というようなテーマを立てて、空間的な横軸の視点を導入して見れば、アジア各地域における近代化の多様性、その差異と同一性の状況が新しく見えてくるはずです。もちろんそのなかには西洋の列強の圧力を蒙らず、またほとんど全く反応しなかった地域も広く分布していたはずですが、それはその地域が遅れていたとか進んでいたとかということではなくて、政治地理学的にそれが可能だったということであって、そのように捉えてみることによって初めて、現在の国家的な枠組みを超えた新しい枠組みで共通条件を見出すことが可能となる。現在私たちが日本国家という枠組みでとらえてしまいがちな、一八六〇年代の薩摩と津軽とを例に取ってみた場合、この二つの地域がおなじ政治状況に巻き込まれていたなどと考えるのはきわめてナンセンスなことです。薩摩を上海と、津軽を沿海州と関連させたほうがずっとよく世界的な位置をとらえることができるのではないでしょうか。
おなじような方法的な視点をもって、一八八〇年代における東アジアの国家編成とロシア、一八九〇年代の東アジアにおける国家権力の分布とその構造、一九〇〇年代における東アジアの人口移動、一九一〇年代における国家と革命、一九三〇年代におけるアジアの戦争、というようなテーマを立てて、共時的・空間的な歴史記述を行うことが、いまこそ必要なのだと考えます。以上は思いつくままに政治史的なテーマを挙げてみたにすぎませんが、もちろん経済史、文化史、文学史、そして言語史的にさえそれが可能だし、また必要なことだと言えるでしょう。
私の娘が大学院の学生だった時、韓国と中国からの留学生のチューターになったことがあり、初めは日本の文学を中心に説明したのですが、二人とも何だか腑に落ちない顔をしている。そこで、娘なりに韓国の歴史と文学、中国の歴史と文学を勉強し、一種の三国対照年表のようなものを作って説明したところ、にわかに二人も興味を持ち始め、自分もまた同じような準備をして来て知識を交換し、非常に勉強になったということです。方法的に見れば、これはまだ比較研究的なナイーヴな段階でしかありません。現在問われているような問題に対応してゆくためには、それをもう一歩進めて、お互いの歴史がそれぞれ重要な一部分であることを認識し、その上で事態を倫理的な側面からとらえて問題化するにはどういう手続きが必要か、またその過程でどのように国家のレベル、集団のレベル、個人のレベル、世代の関係を腑分けし、腑分けしたレベルの関係をどうとらえてゆくか、という方法の追求が必要となるでしょう。ところが、現在の日本の歴史家は娘たちのナイーヴな段階にさえ及んでいない。
ここでもう一度許先生の研究にもどるならば、それは貴重な日本文学史であり、ですからけっして日本文学の周辺史などと言うべきものではありません。これまで日本で書かれた明治文学史の多くは、北村透谷や森鴎外、樋口一葉、夏目漱石、島崎藤村などをメイン・キャラクターとするメロドラマ的な物語を基本にしてきました。しかし私が昨年出した『明治文学史』をお読み下されば分かるように、文学史というのは何時もそういう人たちに主役を割り当てなければならないメロドラマである必要はありません。私がそう考えている人間だからという面もあるかもしれませんが、許先生の研究は以上のような文学者とは全く違う人たちが担った日本文学史であると共に韓国文学史であり、しかも中国文学史とすぐにでも対話が可能な文学史となっていること、そこにこの研究の重要な意義がある、と私は受け取っています。
私たちは許先生のような人たちがいる大学に図書を贈ったわけです。許先生はたぶん私より一〇歳近く若く、さらに一〇歳以上若い申先生がいて、そのほかにも何人かの先生がいて、大学院生や学部学生がいる。金時鐘さんの次の世代、または孫の世代とも言うべき、その人たちの日本語や日本文学にかかわるポジションはけっして一様ではない。日本語や日本文化が強制されることはなくなり、むしろ忌避される時代が来て、一方では金時鐘さんの世代の記憶を受け継ぎながら、他方、それにもかかわらず、何らかの自発的な動機をもって――時には、おそらく、金時鐘さんの世代の記憶にも自分なりのポジションを取りつつ――日本語や日本文化にかかわることを選んだ人たちです。その動機は、この半世紀の間に、韓国における日本語や日本文化の評価が大きく変化してきた現実と対応して、極めて多様な、アメリカやドイツに較べてもはるかに多様化されているのではないか、と思われます。
そういう多様なポジションから日本の文学を読み解き、その読みを通して自分のポジションを見出し、また自分以外の人のポジションをお互いに理解し合う。その過程で私たちの読み方や評価の仕方の問題点も明らかになってくる。そのような形での対話が生まれるきっかけになってくれるならば、それが図書を贈ったことの一番の意義だと言えるのではないか、と私は思います。
私がまだ北大の教師をしていた時、韓国からの留学生で、太宰治の、特に戦争中の作品を研究している人がいました。この人は私が指導教官ではなかったのですが、修士論文を読んだりしますと、明らかに行き詰まっている。なぜなら、太宰治の芸術的抵抗なんてことを研究テーマにしているからです。
芸術的抵抗というのは、戦後の一時期、日本文学研究の一種のキーワードとして非常によく使われていました。それはドイツ軍占領下のフランスにおいて、ナチス・ドイツに抵抗し、これと戦った人たちの、いわゆる抵抗文学が数多く紹介されたからです。実際に日本では抵抗文学と呼びうるものはほとんどありません。にもかかわらず、日本の研究者は何とかして抵抗文学に相当するものを探し出そうとして、日本の文学者のなかにも消極的ながら侵略戦争に抵抗した人たちがいたのではないか、という視点、というよりは願望によって、戦争下の文学の読み直しを試みてきました。そしてその結果、戦争の動向と積極的には同調せず、孤立を貫いた作家を見つけ出して、〈この文学者は芸術的良心を守り通したのだ〉と評価したり、作家の日記や書簡や回想記などから反時代的な言動の痕跡を探し出して、〈彼は一見戦争に協力的な書き方をしていたけれど、内心はむしろ批判的だったのだ〉と評価したりする、そういう論文を、数多く生産してきました。
私自身は、しかしこの種の傾向には早くから批判的な見方をしてきました。なぜなら、このような評価の仕方には、当時の読者に対する責任を問う観点が欠けていたからです。当時の読者が接していたのは、きわめて戦争協力的なテーマや表現だけであって、作者の秘められた〈良心〉や内的な〈意図〉など知りようがなかったはずです。そういう人たちの読書体験を視野に入れない芸術的抵抗論など意味がありません。それに、もし芸術的抵抗を論ずるのならば、〈良心〉や〈意図〉の問題でなく、文学的な方法とその達成を問題にすべきでしょう。
おまけに、芸術的抵抗なんてテーマがそれなりにアクチュアルな意味を持っていたのは一九七〇年頃までであって、一九九〇年代にはもはや黴の生えたテーマでしかなくなっている。にもかかわらず、その留学生の指導教官はそんなテーマを与えて、行き詰まりに気がついていない。そんなわけで私は、つい見かねて、〈芸術的抵抗というような評価の仕方自体が、日本人だけに通用する、身勝手な仲間ぼめでしかない。戦争中の文学の研究は、そういう戦後的な評価に対する批判的な視点を持ちながら、戦中と戦後とを総体的に検討しなければならないのではないか。それと併せて、日本の植民地支配の時代から解放後の韓国の文学をとらえ直してみる時、事柄の両面が見えてくるのではないか〉という意味の助言したことがあります。どうやらそれは留学生にとってタイミングのいい助言だったらしく、その研究の視野と方法は一挙に拡がり、非常にいい成果を挙げてくれました。
私は手柄話をしたいがために、このことを言っているのではありません。私の助言自体が、韓国から留学したその人のポジションを私なりに理解することから生まれたものであること、言葉を換えれば、その留学生のポジションが私に改めてそういう批判的視点の可能性を教えてくれたのだ、と言いたかったからです。
木浦大学校に日本語日本文学研究の博士課程が出来たということは、先生方それぞれのポジションからの研究が日本語日本文学の評価を高めてくれたということにほかなりません。ですから、私たちが図書のを贈ることは、私たちが日本文学を読むような読み方を期待するということではなくて、それぞれのポジションから私たちには見えなかったものをとらえることで、対話の可能性を拡げてもらう、そのことに少しでも役に立つことができれば、という願いを託することです。日本における日本文学研究の状況は、日本の研究者が自分たちにだけ通用する仲間うちの読み方を後生大事に守り、また、外国へ教えに出かけてゆく研究者も、自分たちの読み方を、「指導」という名目で押しつけにゆく意識から抜け出すことができない。そのため、外国における日本文学研究が拓いたラディカルな視点や方法から取り残されかかっている状態です。これは依然として日本文学研究を日本中心主義的にしか考えられない体質が残っているためですが、私たちが行なったことは、そういう体質に囲い込まれない、別な関係を拓く一つの試みだと言えるでしょう。
そして私個人としては、昨年は韓国の学会のシンポジュウムに参加し、また今年もそうさせてもらう予定ですが、幸い大学から離れたおかげでそういう体質に足を引っ張られることなく、また、どういう意味でも制度的な「指導」の肩書きを身にまとうことなく、いわば自前の研究者として対話に参加できることになり、そういう条件を作って下さった小樽文学舎と市民の皆さん、そして小樽文学館に感謝しています。
(以上は小樽文学館で行った「講演」を文章化したものであるが、「講演」では用意していた原稿の一部分をカットした。それを復元するとともに、言葉の足らなかったところを補った)
館長からのメッセージNO.5(2001年2月25日)
去る2月12日、韓国の国立木浦大学校から、魯珍栄総長と、日語日文学科の許錫教授、申寅燮副教授の3人が小樽を訪問されました。
先にもお知らせしたように、これは、小樽文学舎が研究用の資料として3400冊ほどの図書を贈ったことに対する返礼として、遠路も厭わず、わざわざお運び下さったものです。
同日の午前11時、小樽文学館に、小樽文学舎の皆さん、国際ソロプチミストの会員をはじめボランティアでお手伝い下さった皆さん、市民、韓国からの留学生など、総勢60名ほどに人達がお集り下さり、小樽市の教育委員会や文学館の職員ともども、韓国からのお客様をお迎えしました。
なごやかなうちにも厳粛な雰囲気のなかで、魯珍栄総長より感謝牌と記念品が小樽文学舎の石橋幹雄会長と、小樽文学館に贈呈され、小樽文学舎からは、小樽在住の世界的な版画家・一原有徳さんの作品を2点、差し上げました。
このような民間レベルでの友好関係が結ばれるに至るまでに、皆さんの終始変らぬ、暖かい御支援を賜わりましたこと、仲介役を勤めた私からも心から感謝申し上げます。
「民間レベル」という言葉は、魯総長も石橋会長も共におっしゃっていた言葉で、私が迎えに行った車のなかでも、魯総長は「小樽市民の皆さんの自発的な贈り物であればこそ、私たちは大変に意義あることとして、非常に嬉しく受け止め、日本文学研究と日本理解に生かしてゆきたい」という意味のことを言われていました。これは、「文学」というものが、まさに人と人との心のつながりのなかで生きてゆく文化ジャンルであることを、見事に言い当てた言葉と言えるでしょう。
「民間レベル」の交流ということは、あらゆる友好関係の基礎になければならないものですが、特に文学は民間レベルの交流のなかで生き、そうであればこそ民間レベルの交流を担って行き得る文化的媒体であるわけです。
石橋会長も同じ思いであっただろうと思います。
このように結ばれた交流の芽を、大切に育ててゆきたいと思います。
ここで念のために木浦大学校を簡単に紹介しておきましょう。
木浦大学校は韓国の西南端の拠点都市である木浦市にあり、6つの単科大学と、大学院(修士課程44学科、博士課程24学科)、経営行政大学院(10専攻)、教育大学院(17専攻)、産業技術大学院(9専攻)のほか、24の研究所・研究センター、図書館と博物館をはじめとする16の付属機関を持つ、極めて大規模な総合大学です。そのなかの人文科学大学は語文学群と、東北アジア学部、歴史文化学部、教育学科、倫理教育科、音楽科、美術学科とから成り、日語日文学科は東北アジア学部の属します。この度お贈りした図書は、日語日文学科の先生や学生が使いやすいように、図書館の別室を人文科学大学の中に設置したい、とのことでした。
木浦市は古代から韓国─日本─中国を結ぶ海上交流の拠点であったため、古い文化伝統をしのばせる建築物が沢山あります。広大なキャンパスのなかに、近代的な校舎が立ち並ぶ木浦大学校の構内にも、儒教が重んじられた時代の、美しい反り(そり)を持つ瓦屋根の建築物が残り、学問の歴史的な厚みを感じさせてくれます。
近くには海水浴場、寺院、博物館、国立木浦海洋博物館があり、私が中へ入ったのは国立木浦海洋博物館だけでしたが、遣唐使、遣隋使の時代に海難事故で沈没した船の復元や、搭載していた器物類が豊富に展示され、近代的な国家の枠組みなどなかった時代、いかに人と文物の交流が積極的に行われていたかを、実感的に思い描くことができます。
ぜひ一度お訪ねすることをお勧めします。
当日は、記念品の交換ののち、小樽文学館と美術館を案内し、昼食後は旧日本郵船の建物や小樽博物館を廻りました。いずれも学芸員のかたが熱心に説明して下さり、韓国のお客様は大変興味を惹かれたようです。あいにくこの日は、日中でも零下10度という、今冬で一番の冷え込みでしたが、「雪明りの路」のイヴェントの運河や、雪のトンネルの中の幻想的な光景を楽しんでいました。小樽からどんな印象を受けられたか、機会があったらお伺いして、皆さんにお知らせ致します。
なお、今回の交流を私たちなりにどう捉えてゆくか、視野をもう少し拡げて、「海外で日本文学はどう研究されているか」という講演を、3月17日(土)午後2時から、小樽文学館で行います。お聞きいただければ幸いです。
館長からのメッセージNO.4(2001年2月3日)
3月17日の講演「海外で日本文学はどのように研究されているか」で話したいこと
私は1987年にドイツのミュンヘン大学で、客員教授として日本の現代文学を教え、また1995年から96年にかけてアメリカのコーネル大学で明治文学の講義を行ってきました。
長期滞在の経験はこれだけですが、ミュンヘン大学時代はハイデルベルグ大学に招かれたことがあり、コーネル大学時代はフロリダ州立大学やコロンビア大学で講演をし、ベルリンまで出かけて日独シンポジュウムに参加してきました。
その他、講演や学会発表で、アメリカのシカゴ大学、ハーバード大学、ワシントン州立大学、ハワイ(この時の学会はハワイ大学ではなく、ホテルで行いました)へ行き、そしてコーネル大学には客員教授として以外にも2度訪れています。オーストラリアでは国立キャンベラ大学とクイーンズランド大学、台湾の国立台湾大学、韓国では国立木浦大学と慶北大学を訪れ、ソウルで開かれた日韓交流シンポジュウムにも参加しました。
ミュンヘン大学にいた時、筑波大学の教授が(多分文部省から科研費を貰って)ヨーロッパにおける日本研究の状況の調査にやってきたことがあります。そういう専門家(?)に較べれば、私の見聞はごく限られたものでしかありません。しかし一般に日本の大学で教師をしている/していた人間のなかでは、必ずしも経験の少ないほうではないだろうと思います。
そういう経験を踏まえながら、3月の「海外で日本文学はどのように研究されているか」という講演では、まずJames A.
Fujiiさんの経験と、ハーバード大学の学会で私が見聞したことを紹介しながら、「海外において日本文学を研究する人たちにとって〈日本文学〉とは何か」という問題について報告したいと考えます。くわしいことはその時お話しすることにして、ごく簡単に紹介しておきますと、Fu
jiiさんは日系二世のアメリカ市民で、私は1986年にシカゴ大学で知り合いになりました。当時彼は徳田秋声を研究テーマにする大学院生でしたが、現在はアメリカ西海岸で最も評価の高い、UCLAという大学の、アーバイン校で日本文学を教え、1993年には'Complicit
Fictions'(小説の共犯)という大変に刺激的で、優れた研究書を出しています。
しかし、ここに至るまで――そして多分現在においても――Fujiiさんの立場は二重、三重に屈折を強いられるものだったようです。というのは、日系のアメリカ市民は現在でもマイノリティの位置に置かれ、またFujiiさんが文学研究に志した1970年代、日本文学はアメリカではマイナーなジャンルでしかなかったからです。英語が依然として主流を占めているアメリカでは、やはりヨーロッパ語圏の文学がメジャーな研究ジャンルだった、その事情は想像がつくと思います。そういう状況のなかでFujiiさんはあえて日本文学を専攻したわけですが、欧米の文学を専攻するヨーロッパ系アメリカ人の人たちからは、「君は日系で、日本語にも不自由しないから、まだ専攻する学生の少ない日本文学を選んで、早く頭角を現わそうというつもりらしいが、それは安易な選択ではないか」などと言われたそうです。ところが、日本に留学してみると、今度は日本人から「英語で育った君に日本語の微妙なニュアンスが分かるかね」などと、疑わしそうな眼を向けられてしまう。いわばアメリカにおいても日本においても疎外された立場に立たされてしまったわけです。Fujiiさんの研究はこういう二重の偏見にさらされ、それをはね除けて行くだけの理論を作り出さなければなりませんでした。当然彼の日本文学を見る見方は〈日本人〉の見方と異ならざるをえません。それを〈日本人〉がどう受け止め、評価してゆくか。ここに日本人による日本文学研究の重要な課題があります。
ちなみに「英語で育った君に日本語の微妙なニュアンスが分かるかね」という発言について言えば、その背景には、日本人の〈日本語は大変むずかしい、特殊な言語であり、日本文化は世界でも独特なものだ〉といった勝手な思い込みが潜んでいるかもしれません。そこから、日本語のニュアンスは日本人でなければ分かるはずがない、といった自惚れが生まれてくるわけです。じつはそういう思い込み自体に日本人の問題があるのではないか。それをテーマとして、オーストラリアの国立大学のPeter N. Daleさんが'The Myth of Japanese Uniqueness"(日本人の独自性という神話、1986)を書いているほど、いわば日本人の日本文化論や日本文学研究は手の内を見抜かれてしまっている。そんなふうに海外からの眼にさらされているのが、現状です。
ところで、Fujiiさんに出会ってからおよそ10年後の、1994年に、私はハーバード大学で開かれた、「明治」に関する国際学会に参加しました。
この時大変に印象深かったのは、オープニングのシンポジュウムで、日本から参加した歴史学者が――この人は日本における民衆史を開拓した歴史家としてよく知られています――「私たちの明治研究にこんなにたくさんの外国の人たちが関心を持ってくださって、大変嬉しく思います」という意味の挨拶をしたところ、さぁーと白けた空気が会場に流れたことです。詳細は3月にお話ししますが、要するに日本人が日本の明治時代を「私たちの」と呼んだことに対する反感だったと言っていいでしょう。
この頃は日本の経済力と国際的な地位の「向上」に伴って、「明治」という個別的なテーマで、ハーバード大学が国際学会を主催するほど、日本研究はメジャーな学問になってきました。それだけに、いつまでも日本人が先占権を持っているかのごとく、日本研究を囲い込んでいる発想に反発が生まれてしまったわけです。
日本研究は日本人研究者の「私たち」に先占権があるというものではありません。Fujiiさんの研究に対して、日本人が「私たち」の文学に関心を持って下さってありがとうなどと挨拶をしたとすれば、それはどんなに身勝手な、思い上がりであることか、よくお分かりのことと思います。
以上はアメリカにおける1、2の事例にすぎませんが、この程度の紹介からも想像できるように、日本文学の研究にはそれぞれの国における研究主体のナショナリテイやエスニシティや言語や、そして日本人・日本語・日本文学のステイタスの問題が複雑にからんでいます。
韓国や台湾における研究は、日本の植民地支配という歴史的な記憶が伴い、アメリカとはまた異なる状況や条件が重層化されているはずです。私はアメリカの場合に較べて、韓国や台湾における研究状況については極くわずかな知見しかありませんが、できるだけそこへも眼を配ってゆく形でお話ししたいと考えています。
韓国では今年の4月に「21世紀の日本文学研究」をテーマとするシンポジュウムが開かれるそうです。それに対するメッセージともなりうるような内容を、と心がけています。
私は1996年にアメリカから帰った時、北大文学部の日本文化論講座を核として、海外の日本文学研究の情報収集と発信の拠点を作りたいと考えていました。しかし、帰国早々、大学院改革の委員長に選ばれ、またその仕事との関連で10に近い委員会の委員長や委員をしなければならなくなって、ついに断念せざるをえなくなりました。それだけでなく、日本文化論講座の同僚の反応が極めて鈍く、基本的な構想を紹介したところ、まず返ってきた返事は「それをやっても私たちの負担は増えないでしょうね」という言葉でした。たしかに考えてみれば、現在の北大の日本文化論講座の教員にはそういう役割を果たしてゆくだけのキャパシティがありません。私がいる間に基本的な条件だけは作り、その後を同僚に託す、という考えも捨て去らざるをえませんでした。
ところが、思いがけないことに、小樽文学館の仕事を手伝うことになって、まず韓国の木浦大学との交流の道が開け、この新しい条件に即した形で、一度消えかけた可能性が蘇ってきました。大変ありがたいことだと感謝しています。
館長からのメッセージNO.3(2001年1月24日)
「韓国・国立木浦大学校 魯珍栄総長御一行を迎えて」(1月24日記者レクチュア資料全文)
小樽文學舎が韓国の国立木浦大学校に図書を寄贈したことへの返礼として、魯珍栄総長ほか2名の先生が小樽にお出になり、「感謝状」の贈呈を行います。
1)来訪される方々(3名)
国立木浦大学校(Mokpo National University)総長 魯珍栄(ノ ヂンヨン)法学博士
同大学校 人文科学大学 日語日文学科 企画研究室長 許 錫(Heo Suk)教授
同大学校 人文科学大学 日語日文学科日語日文学科長 申 寅燮(Shin Inseop)副教授
2)「感謝状」贈呈式の日時、場所
日時:2001年2月12日(月)、午前11時より場所:市立小樽文学館2階
3)贈呈式の式次第
司会・亀井秀雄小樽文学館長通訳・申寅燮木浦大学校副教授
1.木浦大学校 魯珍栄総長の挨拶
2.木浦大学校 魯珍栄総長より、小樽文學舎 石橋幹雄会長へ「感謝状」の贈呈
3.小樽文學舎 石橋幹雄会長の挨拶
4.小樽文學舎 石橋幹雄会長より、木浦大学校 魯珍栄総長へ記念品の贈呈
出席者
小樽文學舎会員
文学館審議会委員
教育委員会
国際ソロプチミスト小樽支部会員
ボランティアの市民
小樽文学館職員(贈呈式終了後、文学館・美術館を案内)
4)小樽文學舎より寄贈した図書は、日本文学関係図書およそ3300冊(別紙参照)2000年12月14日に発送し、2001年1月2日に木浦大学校に着いた。
5)経緯
1. もともと市立小樽文学館は、小樽市民の有志が、小樽ゆかりの文学者の資料が散逸してしまうのを心配して設立期成会を発足させ、資料の収集と保管に当たると共に、小樽市に働きかけて作った文化施設である。
2. 設立期成会を母体として文学館の支援団体小樽文學舎が昭和61年に発足した。
3. 小樽文學舎では文学館の資金的援助の一環として古書バザールを随時行ってきた。販売する古書は、バザー用にということで市民の方々から無償で提供されたものである。
4. バザールで得た収入は小樽文學舎の会計に入れ、小樽文學舎と協議の上で資料の購入費に充ててきた。小笠原克前館長はこの活動を積極的に行い、小林多喜二の書簡など極めて貴重な資料を購入することができた。
5. しかし、提供された図書のうち、文学全集や叢書の類は必ずしも市民の求めるところとはならず、大量の図書が文学館内にストックされるに至った。
6. 昨年の6月に館長となった亀井が、文学館員と相談した結果、文学館内に死蔵して置くよりは研究資料等に活用してもらえるところに寄付してはどうか、という結論となった。一般に外国の大学では日本文学研究の基礎資料が不足している実情を踏まえて、外国の大学の知人の意向を確かめてみることにし、まず韓国の国立木浦大学校の申寅燮副教授と連絡を取った。申寅燮副教授はかつて北大の文学部に留学して、当時北大の教授だった亀井の指導を受け、『有島武郎研究』によって博士の学位を得た。
7. 申寅燮副教授から、喜んで寄付を受けたい旨の返事があった。国立木浦大学校の人文科学大学では学部に「日語日文学科」を設けてから日が浅く、昨年、大学院博士課程を設置したばかりだったので、寄付の問い合わせは極めてタイミングがよかったのであろう。
8. 小樽文学館は以上の経過を小樽文學舎に報告し、その理解を得て、木浦大学校へ図書を寄付する準備に取りかかり、文学館審議会の承認を得た。
9. 当初は500冊程度の寄付を考えていたが、この間、複数の新聞がこの事業を記事にしてくれたおかげで、主旨に賛同する方々からの寄贈が相次ぎ、最終的には3300余の図書を寄付することができた。(送料は木浦大学校負担)
10. 図書の選別や箱詰め等の作業に際しては、国際ソロプチミスト小樽支部の方々をはじめ、多くの市民がボランティアで協力して下さった。
11. 図書は2001年1月2日に木浦大学校へ着き、申寅燮副教授からの礼状によれば、韓国の全国紙1社と地方紙5社が記事にし、また、図書の整理がある程度進んだ時点でテレビ局が取材に来る予定だ、という。
(参考:申寅燮副教授からのメールの抜粋)
「図書館の分館として「小樽文学舎」館を文学部の中に作ってほしいと、総長に頼みましたところ、肯定的な返事がありました。その部屋を大学院生に管理させれば、利用率も上がり、図書の整理作業も難なく進むのではないか、と存じます」(2000年12月17日)
「うちの総長も大変喜んで、ぜひ先生や小樽文学舎の皆様にお礼を申し上げたい、とおっしゃいます。それで、ご相談でございますが、図書が届くのを見て、うちの総長が小樽文学館で、先生や小樽文学舎の方々にお会いしたいとおっしゃいます」(2000年12月31日)
「本が届いてから、こちらの地域のマスコミが関心を見せてくれ、取り上げていまして、それらを纏めて後で翻訳つきでお送り致したいと存じます。周囲からもすばらしいという評価を得ています。どうもありがとうございました」(2001年1月8日)
「小樽文学舎の寄贈関連新聞記事を調べましたら、全国紙1社、地方紙5社が今日まで、記事を載せていました。テレビの方では図書の整理がある程度進んだら撮りにくる予定だと、大学広報担当者が言いました。大学の競争力が問われる今、ありがたいことと存じます。新聞記事の方は後で纏めてお送り致します」(2001年1月9日)
――亀井秀雄 記――
主要寄贈図書
名著復刻全集・近代文学館(明治前期篇)1セット
名著復刻全集・近代文学館(明治後期篇)1セット
名著復刻全集・近代文学館(大正期篇)1セット
名著復刻全集・近代文学館(昭和期篇)1セット
新選名著復刻全集・近代文学館1セット精選名著復刻全集・近代文学館1セット
日本名作自選文学館1セット
その他、児童文学関係の復刻全集が2セット
芦花全集、鴎外全集、芥川龍之介全集、永井荷風選集、その他、数種類の個人全集
新潮日本文学辞典(新潮社)、日本近代文学大辞典(講談社)、日本文法大辞典(明治書院)など
新潮社・日本古典文学アルバム 1セット、新潮社・日本文学アルバム 1セットなど
日本の文学(中央公論社)角川昭和文学全集(角川書店)現代日本文学全集(筑摩書房)現代の文学(河出書房)
世界の文学(中央公論社)世界文学全集(新潮社)世界文学全集(河出書房)
『展望』:昭和40年、41年、42年、43年、44年、45年、46年、47年、48年、49年(5月号欠)、50年、51年
『新潮』:昭和31年(2月号欠)、32年、33年、34年(4月号欠)、35年(6月号欠)、36年、37年、38年(2月号欠)、39年、40年、41年、42年、43年、44年、45年(8、9月号欠)、46年、47年、48年、49年、50年、51年(12月号欠)、52年、53年(7月号欠)、54年、55年、56年(6月号欠)、57年、58年(5月号欠)、59年、60年(7月号欠)
『文学界』:昭和35年(4、10月号欠)、36年(1、2、12月号欠)、37年(3月号欠)、38年(5月号欠)、39年、40年、41年、42年、43年、44年、45年(6、12月号欠)、56年、57年、48年、49年(7月号欠)、50年、51年(12月号欠)、52年、53年、54年、55年、56年、57年、58年
『海』:1972年、73年、74年(3月号欠)、75年、76年(12月号欠)、77年、78年(7月号欠)、79年、80年、81年、82年(10月号欠)83年(2、3月号欠)
『群像』:1970年、71年(9月号欠)、72年(1月号欠)、73年、74年(1、6月号欠)、75年(5、7、9月号欠)、76年(4、12月号欠)、77年、78年(6、7月号欠)、79年(4、11、12月号欠)、80年、81年(4月号欠)、82年(1月号欠)、83年、84年、85年(6、9月号欠)、86年、87年(11月号欠)、88年、89年、90年
『文芸』:1968年、69年(2月号欠)、70年、71年、72年、73年(11月号欠)、74年、75年(7月号欠)、75年(7月号)、77年、78年、79年、80年(6月号欠)、81年(7月号欠)、82年、83年(12月号欠)、84年(11、12月号欠)、85年、87年、88年(春、夏号欠)、89年
館長からのメッセージNO.2(2000年11月11日)
「韓国の大学へ図書を贈る」意義について
韓国の高等学校では、日本語を外国語として教えている高校も多いと聞いています。おそらくそういう背景のおかげでしょう、大学でも日本語の教育・研究が盛んで、優れた成果を挙げています。
しかし、それに較べて、日本文学・文化の教育・研究がやや遅れを取っていることは否めません。
もちろん、日本の大学へ留学したことのある若手研究者が増え、着々とレベルを上げつつあるのですが、全体的にはまだ欧米の日本学の水準に達していない、というのが、偽らざる現状です。研究者の意欲はあり、学生も熱心なのですが、教育・研究の一番の基礎となる図書が不足しているためです。私は先月、幾つかの韓国の大学を訪れ、研究室を見せてもらったのですが、文学作品は文庫本で読み、先生が留学した折に購入した図書で補っている有様でした。
系統的な文学研究を行うには、古典大系や近現代の文学全集、個人全集、文芸雑誌や研究誌のバックナンバー、初版本等が揃っていなくてはなりません。歴史資料や思想史・文化史関係の図書も必要です。ところが、そのような基礎的な図書さえも整備されていない状況でした。日本の古書店で揃えてもらおうとしても、なかなか揃わず、また、かりに揃っても、日本では本の価格が高くて、容易に手が出ない。整備が進まないのは、そういう条件もからんでいるからです。
そのような状況に対して、私たちなりにお手伝いできることはないか。そう考えて、小樽文学舎・小樽文学館にストックされている図書を贈ることにしました。
もともとこの図書は、市民の皆さんから寄贈していただいたものです。寄贈をお願いした趣旨は、寄贈図書の古書市を開いて、市民の皆さんに買っていただき、そのお金を小樽文学館の資料購入に充てる、ということでした。ご存じのように、これまで数回、小樽文学館で古書市を開き、そのお金で、小樽ゆかりの文学者の貴重な資料を求めることができました。皆さんのご協力に感謝しています。
ただ、全集や雑誌などは人気がないらしく、数回の古書市にもかかわらず、かなりの量の本が残っています。というより、その間にも寄贈があり、むしろストックは増えつつあります。書物は死蔵されていては、何の価値も生みません。それを是非とも必要とする人の手に渡ってこそ価値が現われて来ます。
これを、緊急に図書を必要としている韓国の大学へ贈って、活用してもらおう。そう考えて、まず木浦大学に打診してみたところ、喜んで頂戴したいという返事が返って来ました。木浦大学では「小樽文学舎寄贈図書」として登録し、韓国全国の大学における日本文学研究者に利用できる体制を作ってゆきたい、との意向でした。
私は今月もう一度、韓国の韓日文化交流政策諮問委員会という政府機関から招かれ、シンポジュウムに参加してきました。その折にも、単に歴史研究の分野だけでなく、文学や文化の共同研究が話題となっていました。環太平洋的な視野と、東アジアへの視野との接点たりうる、日本の役割が、強く期待されています。
そのような共同研究が十分な成果を挙げるためには、日本の大学にも早急に韓国語・韓国文学(あるいは朝鮮語・朝鮮文学)の講座を設けることが必要でしょう。しかし、昨年まで北海道大学で大学院改革の仕事をしてきた私の経験から判断して、それにはまだしばらく時間がかかりそうです。文部省は教官定員を増やす改革案は受けつけなかったからです。
しかし、今回の韓国の大学との交渉を通して、私たちは私たちなりのやり方で交流を深め、相互理解を進めてゆく端緒をつかむことが出来たように思います。私たちが贈る図書等によって研究者が育ち、小樽で文学講演を行うこともありうるでしょう。文部省レベル、大学レベルでやれないことを、私たちが先駆けて、実現してしまうことも、夢ではありません。
そういう夢を抱きつつ、図書の寄贈は今回だけでなく、今後も継続してゆきたいと考えています。皆さんのご理解と、ご協力をお願い致します。
館長からのメッセージNO.1(2000年10月12日)
10月16日から23日にかけて、韓国を訪ねてきます。国立木浦大学校・人文科学大学・日語日文学科の博士課程開設を記念する学術フォーラムに招待され、17日の大学院フォーラムと、18日の学術シンポジュウム「東アジアにおける近代」に参加します。さらに、21日の韓国日語日文学会(於、大邱)で、講演を行い、22日には、かつて北海道大学文学部の大学院に留学した人たちと旧交を暖め、23日に帰ってきます。
11月3日から7日にかけて、再び韓国を訪ねてきます。これは韓日文化交流政策諮問委員会から招かれ、11月4日に同委員会が主催するシンポジュウム「「過去精算」と21世紀の日韓関係」のパネリストとして発言するためです。
前者の訪韓では、韓国の日本文学研究者と交流を深めると共に、韓国における日本文学研究の情報をできるだけ多く集め、後者の訪韓では今後の日韓文化交流に関する知見を得てきたい、と考えています。