館報バックナンバー

市立小樽文学館報

●自伝的スケッチ19
変化と冒険
一九八〇〜一九九〇
…………………………………………………菱川善夫

●小樽花園映劇・看板貼りの時代…………下田修一
●平成十七年度事業報告・十八年度予定事業
●書き込みに見る多喜二と同時代…………亀井秀雄
第29号 平成18年3月31日

自伝的スケッチ19
変化と冒険
一九八〇〜一九九〇

菱川善夫

一九八〇年代は、私にとって変化の多い年であったが、同時に、私自身の批評の軌道が確定したのも、一九八〇年に入ってのことである。そのことは、一九八〇年に、三冊の評論集が相ついで刊行になった点をあげるなら、諒解してもらえるだろう。
書名をもって示すなら、『飢餓の充足\\現代短歌・状況と課題』(桜楓社'80・3)、『現代短歌人と作品』(桜楓社'80・5)、『歌のありか』(現代歌人文庫、国文社'80・6)の三冊である。『飢餓の充足』は状況論、『人と作品』は作家論、『歌のありか』は短歌史論だが、状況論、作家論、短歌史論が、二等辺三角形のように緊密に結びついているのが、私の批評のフィールドということになる。
この形は、ここで初めてできあがったわけではない。が、八〇年の三月から六月まで、四ヶ月の間に三冊の本が集中的に刊行されたことで、私の批評のスタイルは、より鮮明に浮かびあがったと言ってよい。
このことが、ほかの批評家との異質性や、短歌批評の特殊性について考えるきっかけにもなった。たとえば上田三四二には状況論のたぐいがない。篠弘には作家論がとぼしい。それぞれに理由のあるところだが、しかし短歌史の問題を、共通して批評軸の核心に据えている点では一致している。そのことについて、私は「なぜ短歌批評か!?困難な特殊性に耐え」(「読書・北海道」'80・8・15)の中で、結社中心の技術批評や短歌史を叩きこわし、「自己の文学理念に照らして、文学としての短歌の歴史をとらえなおさないことには、短歌批評は一歩も前に進むことができない。短歌の批評家が、短歌史にこだわる根本の理由もそこにあるけれど、その困難な特殊性に耐えることができなければ、短歌の批評家としては失格である」と書いたが、こう断言するまでには、四半世紀の時間が必要であった。
この三冊の本の中で、想い出の多いのが国文社の『歌のありか』である。これは『鑑賞中城ふみ子の秀歌』(短歌新聞社、'77・5)につぐ書きおろしで、近藤芳美、宮柊二などの戦後派歌人と、それにつづく塚本邦雄、岡井隆、寺山修司、春日井建など、前衛歌人の作品を分析し、現代短歌の現代短歌たる拠点をあきらかにしたものだが、学生を念頭において書いたためか、ゼミで使用されることの多い一冊となった。国学院大学出身の若手歌人が、私たちはこの本を〈歌のあかり〉と呼んでいました、と言ってくれたけれど、どうやら難解な作品を読みとくための暗夜の灯台役を果すことにはなったようだ。
国文社の現代歌人文庫は、当時福島泰樹が企画に参加していたので、本の巻頭におく写真をとるために、福島泰樹の案内で、写真家の武田花さんといっしょに銀座を歩いた。被写体となって銀座を歩くのは面はゆかったが、たくさんの場面の中で、結局宿泊したホテルのレストラン前の椅子に腰をかけ、明るい光線に浮かびあがるメニューに目をやっている一枚が使われることになった。この縁で、季刊「月光」7号('90・3)が私のインタビューの特集を組んだ時、同じく武田花さんの撮影になるもう一枚\\腕を組んで銀座の空を見上げている写真が採用され、さらにそれが『菱川善夫評論集成』(沖積舎、'90・9)の巻頭写真にも使われて評判を呼んだけれど、『歌のありか』は、そんな幸運をもたらしてもくれた。
そしてもう一つ、銀座の工事現場にさしかかった時のことである。一人の男が、工事現場の塀を背に、ぼうぜんとして腕を垂れたまま地面を見つづけていたが、われわれが近づいて、ふっと顔をあげた時の、その凄まじい苦悩の表情を忘れることはできない。世界の闇を全部呑みこんで人間の顔にしたような、恐るべき迫力がそこには充満していた。「見ましたか、今の」と、福島泰樹が思わず声をかけたほどである。目の前に電話ボックスがあったから、男は金のことで連絡をとり、絶望にうちひしがれていたのかもしれない。膨張する巨大都市の中心部でであったその顔は、高度経済成長の暗面を突きつけるのに十分だった。以来、一九八〇年という時代を思い浮かべる時、どこからともなくその顔があらわれてくるけれど、私の意識の深層で、〈無名者〉の存在が次第に厚味を増していったのも、こうした経験と無縁ではない。
ともあれ、一九八〇年は、この三冊の本とともに幕をあけた。札幌では、友人の近藤潤一や北の会のメンバーが世話人となって、「菱川善夫出版記念会」を、九月六日、北海道会館で開いてくれた。東京からは桜楓社の今井肇、黒ワイシャツを着こんだ福島泰樹が駆けつけてくれたけれど、集った顔ぶれが一番多彩だったのは、この出版記念会である。それもそのはず、私の交流の場が変化し、文学以外にも広がっていたからである。
その変化の中で、第一にあげねばならないのが、いけ花作家とのであいである。いけ花は伝統的に〈流派〉が重んじられてきたが、作家個人の〈個性〉を尊重する個展に切りかえるべきだ、と提案する中森花器店の店主、中森敏夫のすすめで、五人のいけばな作家による「いけばな5つの個展」が開催されることになった。作家は池上理圃(専正池坊)、佐々木秋放(草月流)、佐野翠俊(池坊)、島田晴風(和風会)、横井景(小原流)の五人。第一回展('78)は、八木保次の抽象絵画と組んでの発表であったが、第二回目に企画されたのが、「花と歌との出会い」である。私の選んだ現代短歌百首の中から、それぞれ心に響く一首をえらび、いけ花を通して、その心象世界を表現するという試みである。さて彼らは、いかなる作品に目をとめたであろうか。

池上理圃
今や激流、万の孤独の矢を受けてしぶく波頭となりしたてがみ 佐佐木幸綱
佐佐木秋放
ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて
岡井隆
佐野翠俊
天蓋のいづべかはげしくとよもして結晶遂げし雪かきらめく 坪川美智子
島田晴風
ひとり生きひとり死にゆく夢の荒野はがねの匂ひなすまで凍れ 管野美知子
横井景
アラン・バリエール唄ふ「ラメール」わが知らぬ青く輝く潮よ匂ひ来水口幾代

五人の選出の目もしたたかだが、この現代短歌を起爆剤とした彼らの作品は、それ以上に鮮烈な印象を与えた。歌は情念の花、認識の花と言ってよいが、花もまた言語にほかならぬことを、それらの作品はみごとに主張していた。この個展は、一九七九年一月に、さっぽろ東急百貨店九階画廊で開かれたが、それを契機に、いけ花作家との交流は、現在に至るまで続いている。必然的にそれが、日本文化への理解をひろげたことは言うまでもない。
二つめの変化は何か。これも一九七九年に始まるが、北海道と沖縄をつなぐ「ゆいまある」の結成にかかわっている。この会は、辺境からの日本の文化を照り返そうとするもくろみでつくられたが、アイヌについては知っていても、沖縄についてはほとんど知らない。まずその理解を深めるために、映像民族学者の北村皆雄の作品「神屋原の馬」('72)と「アカマタの秋」('74)を上映し、沖縄出身の宮良高弘(札幌大学教授)の講演「沖縄の祭りと神々の世界」を聞く会を、札幌市教育文化会館の四階講堂で立ちあげた。五月十二日のことである。
この第一回に引きつづき、第二回は北海道に視点を移し、アイヌ舞曲に積極的に取り組んでいる作曲家、木村雅信の演奏会を開催することにした。「三台のピアノによる交霊\\アイヌの素材による舞曲集全20曲」と題し、一九八〇年の五月十日に札幌市民文化会館でおこなった。木村雅信は、これで札幌市民芸術賞を受賞したが、単なるアイヌ音楽の復原ではない点が高く評価されたためである。第一部は、釧路、静内、十勝地方の「ウポポ」七曲に、「リムセ」三曲。第二部は、「熊送り」や「トガリネズミのユーカラ」、「呪文安産の祈り=v、「ヤイシャマネナ抒情歌=vなど十曲、あわせて二十曲の演奏である。木村雅信は、「解説」の中で、「アイヌの人々の持つ、世界観・人間観の正しさから得た感動のようなものをつづったものである」と書いているが、「感動のようなもの」とは、あきらかにそこに、作曲者自身の創造力が加わっていることを語っている。たとえば「呪文安産の祈り=vにおける不安とおそれが、両手でピアノを持ちあげるのではないかと思われる激しいリズムとなって表現されたけれど、それはいかなる言葉にも増して、アイヌの「世界観」を肉感的に訴えてくるものであった。民族音楽という限界を超え、作曲者自身の魂の原型を、いやおうなしに納得させたと言ってよい。
この木村雅信の演奏を最後に、中森敏夫、柴橋伴夫と始めた「ゆいまある」は短命のうちに終息したけれど、しかし私の中で、問題意識は、そのままくすぶりつづけることになった。一九八七年一月号の「短歌研究」に執筆した「アイヌ叙事詩ユーカラを読む」も、その余熱の中で書いたものである。
三つめの変化としてあげねばならないのが、朝日カルチャー教室を母胎とする雑誌「花づな」の刊行である。教室そのものは一九七八年に開講されたが、雑誌の創刊は一九八〇年に始まる。すでに「現代短歌・北の会」を通して、専門歌人の保守性に失望していた私は、無名の歌人の上に、新しい感受性の開花を試みようと狙っていた。「冒険的大衆歌人論」(「短歌」'83・10)にその意図が語られているが、大衆歌人を、結社の予備軍としてとらえるのではなく、人間論や文化論を掌中に収めて、前衛の根拠を問いなおすことのできる危険な存在に育てあげる\\それが私の〈冒険的〉な大衆歌人の未来像であった。雑誌の上にその片鱗があらわれるのは、第五号からである。
第5号('84・11)
特集場所
第6号('86・12)
短歌劇「犬」(中勘助原作)
第7号('88・1)
前登志夫の宇宙+アイヌ神謡集を歌う
第8号('89・2)
特集いま、抵抗を考える
第9号('90・4)
特集山中智恵子インタビュー「千年の孤独」
第10号('92・7)
特集平井弘
号を重ねるごとに、アカデミックな色彩が濃くなっているけれど、自分を超える大きな存在との格闘なしに、自己変革などできるものではない。そのための学習であり、実験にほかならないが、その実験の中でも、第6号を、一冊まるごと短歌劇「犬」(一幕三場)でうめつくしたのは、画期的なことだった。内容は、私が「北海道新聞」に書いた「短歌劇『犬』の制作を終えて」('87・1・13)から引用すると次のようになる。
〈神に祈りを捧げるべき苦行僧が、若い娘の肉体の美に狂い、神を捨て、祈りを捨て、犬に変身して夫婦の契りを結び、肉欲をみたそうとする物語である。しかも娘は、彼女を犯し、子供をみごもらせた異教徒の青年隊長に強い憧れを抱きつづけている。嫉妬のあまり、僧は呪法によってジェラルを殺害するが、それを知って、娘犬もまた僧犬を噛み殺してしまう。醜いもの、奇怪なものが渦巻き、これが、あの「銀の匙」の作者かと疑われるような、おそろしい内容である。〉
内容はおそろしいが、しかし人間を最後に救うものは何なのか、その問いを求めて煩悶しながら、個人の自覚にめざめていく過程を重ねて劇化するのが目的だった。そのため制作者の個人名はすべて消し去ることにした。小さな〈私〉を消すことで、実質的に大きな〈私〉を獲得するためである。舞台の上での上演の機会には恵まれなかったが、しかし一九九〇年に刊行になった『菱川善夫評論集成』(沖積舎)の出版記念会が、センチュリーローヤルホテルでおこなわれた('90・11・30)時、北海学園大学の私のゼミ学生によって、朗読劇の形で上演に持ちこむことができた。まだ人文学部が開設される前で、経済学部と法学部の学生を対象に、私は「シェークスピアの四大悲劇を読む」というテーマでゼミを開いていたので、演劇部の学生が多く集っていた。その学生に窮地を救われたのはありがたいことだった。
この祝賀会の前の一九八八年一月には、詩人の高橋秀明、俳人の西川徹郎と組んで、現代詩、短歌、俳句を横断するシンポジウム「SCRAMBLE'88ジャンルの越境・ジャンルの侵犯\\詩表現の根拠を問う」を開催したことも見逃すわけにはいかない。それは自らの表現行為を危うくさせるような境界的なところに身を置いて詩の問題を問う試みだったが、それには六十二頁におよぶ重厚な「討議資料一覧」が付され、それだけでも、八〇年代の詩の現状が浮かびあがる仕組みになっていた。参考までに収録作品名をあげてみよう。
@自由詩
吉本隆明「喩法論」('84福武書店『マス・イメージ論』より)
神山睦美「透明という演技」('83砂子屋書房『陰画としての基層』より)
ねじめ正一詩集『いきなり、愛の実況放送』より「愛人公園」('85思潮社)
藤井貞和詩集『日本の詩はどこにあるか』より「狼」と跋('82砂子屋書房)
稲川方人詩集『封印』より一部抜粋('85思潮社)
A短歌
阿木津英歌集『天の鴉片』('84不識書院)より
三枝昂之歌集『塔と季節の物語』('86雁書館)より「春塵記」と「覚書」
永田和宏歌集『やぐるま』('86雁書館)より「身体論」
福島泰樹『別離』\\中也断章・短歌熱唱コンサート・カセット歌集('84思潮社)より「別離」
岡井隆&佐々木幹郎組詩「中国の馬」(「短歌研究」'86・11)
B俳句
河原枇杷男句集『蝶座』('87序曲発行所)より
宮入聖句集『黒彦』('86冬青社)より
永田耕衣『俳句集成而今』('85沖積舎)より
坪内稔典句集『猫の木』('87沖積舎)より
仁平勝『詩的ナショナリズム』('86富岡書店)より「虚構としての定型」
作品選出は、それぞれ世話人の三人でおこなったため、個人的偏向もないわけではない。しかしこのリストは、いまでも八〇年代の詩的状況を考えようとするとき、必須の資料となるだろう。その問題性は、ここから現在まで、詩がどのように歩いてきたかを問うなら、判然とするはずだ。実際の討議は、近藤潤一(俳句)、佐々木宏(俳句)、高橋愁(短歌)、佐藤博(短歌)、笠井嗣夫(詩)、高橋秀明(詩)の間で問題が提起され、必ずしも資料が有効に活用されたわけではないが、そのことと、資料の自立的価値とは別個の問題である。
この「スクランブル'88」は、思いがけない余波を招いた。「北海道新聞」が「詩型を超えて問う」のタイトルで、四回にわたって特集を計画したからである。パネラーの高橋愁('88・2・2)、西川徹郎('88・2・3)、笠井嗣夫('88・2・4)、司会の菱川善夫('88・2・5)がそれぞれ筆を執った。これによって、「無自覚なジャンルへの妥協」(高橋愁)を排し、「言葉に生を賭けるものだけに可能な孤独の輝き」(笠井嗣夫)が、「出席者の一人一人の内面の深みに灼熱の火種のように埋められた」(西川徹郎)過程を、再度確認することができた。
また「読書・北海道」にも、高橋秀明が「日本のオイデプースたち」('88・2・15)と題して報告を書き、それに笠井嗣夫が反論を寄せるという形で、場外乱闘編とも呼ぶべき応酬がかわされて話題をまいた。さらに意味性による価値系列を排除し、〈無〉の創造に俳句の根拠を置こうとする近藤潤一も、三回にわたって「現代俳句と〈無〉」を「北海道新聞」('88・4・4〜6)に発表し、近代の盲目的な自我信仰に、鋭いメスを投げつけた。その点でこの「スクランブル」は、八〇年代にとどまらぬ根源的な問を喚起したと言ってよい。
変化と言えば、「北海道新聞」に「歌の海」のコラム('81・1・5〜'82・4・15)を担当したことも貴重な経験となった。事実のひしめきあっている新聞の中で、心眼に目薬を差すような歌をいかにして立ちあがらせるか、という試みは十分に刺激的だった。さいわい好評を得て、これも八五年には、不識書院からしょうしゃな形の本にしてまとめることができた。
八〇年代の終わりをしめくくったのは『私という剣\\前衛の文学論』('89・10)である。「冒険的大衆歌人論」を枕に、前衛短歌の言語実験を、言語の関係性から分析した「言語実験論」で結んだが、全体に流れている文化への攻撃力は、書名の上にも尾を引いている。
そして翌九〇年に、『菱川善夫評論集成』('90・9沖積舎)が刊行になって、私の批評の歴史に一つの決着がつくこととなった。十一月三十日に、センチュリーローヤルホテルで祝賀会が開かれたが、祝宴の前に、シンポジウムをとりいれたのも、「スクランブル'88」の活力が、まだ波打っていたことを語っているだろう。「批評の現在\\菱川善夫を読む」(提案者=細井剛・西川徹郎・神谷忠孝・司会=近藤潤一)で始まり、祝宴の部では、先に触れた短歌劇「犬」が、森崎博之、田村幸恵、山口幸恵、圓山竜生の四人の学生によって上演され、雰囲気を盛りあげてくれた。が、この時、発起人に名を連ねた近藤潤一も、小笠原克も、祝辞をいただいた高野斗志美も、すでにこの世の人ではない。それだけに彼らと豪華な精神的ラインダンスを組めたことを、感謝せずにはいられない。しかり、ラインダンス幻想に賭ける情熱なくして、何の批評であろう。一九八〇年代は、身をもってそれを体験できた至福の十年間であった。

〈二〇〇六年三月四日〉

今回の稿をもって本シリーズの幕を閉じさせていただきます。長い間御支援いただきました玉川薫氏ほか関係の各位に心から篤く御礼申しあげます。


1999年1月、第2回いけばな5つの個展会場、右から二人目、菱川善夫

花づな第6号

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小樽花園映劇・看板貼りの時代

下田修一

ホラー映画ブームの80年代、映画館のスピーカーから悲鳴が流れていた。恐怖で顔をゆがめるヒロインの看板を、女学生たちが指さしながら、楽しそうに通り過ぎていく。
単館(シネコンに対して)の映画館は、小屋全体で映画を盛り上げていた。
封切の映画館は、新作を一ヶ月ごとに公開していった。その興行を成功させるべく様々な宣伝が行われた。公開の一ヶ月前から繰り広げられる宣伝活動の主力は、何といっても看板やポスターを人通りの多い場所に貼りだすことだった。

◆看板貼り◆
82年の花園映劇では、活動屋気質で気っ風の良い支配人代理の栄転があり、経理上がりの新しい支配人がやってきたところだった。
新支配人は、「市内の全ての通りに、看板やポスターを貼る!」と宣言して、開拓した場所を地図に即した。看板の数は、それ迄の25枚から100枚に増えた。タクシーの運転手が「どこへ行っても花劇の看板がある」と言う程になった。

看板の仕事部屋は中2階にあって(日活時は、守衛の仮眠室)、コンクリートの床は花劇を示す黄色い塗料がこびりついていた。
(市内の各映画館は、それぞれの看板に決めた色を塗って貼りに出た。戦国時代の旗のようなものだった。)
看板の種類は幾つかあって、普通のベニヤ1枚もの(木造家屋に釘で打ちつける)、ベニヤに足をつけたもの(釘を使えない家用)、ベニヤにワクをつけたもの(高い位置に取りつける)などがあった。
看板貼りは4コースに分けられ、丸2日かかった。軽トラックの荷台のワクに大看板を縛りつけ、予告テープを音が割れるほど流しながら走り回った。
貼った場所は、十字街やバス停、夏は海水浴場など。今では料亭となった祝津の古い番屋や、龍徳寺の正門の両脇(これは半日で無くなった)など、首を傾げる場所もあった。
セクシーな美女、ファラ・フォーセット・メジャーズの水着の看板(「サンバーン」)は、夕方に板壁に釘で打ちつけたのに、翌早朝には、カッター・ナイフで切りとられ盗まれていた。どんなにヒットするかと思ったが、封切ってみると散々な入りだった。

回収してきた看板は、ポスターを鉄のへらで削ぎ、手でむしりとる。幾重にも過去のポスターが剥がれないまま残っているので、へらの入れ方で、一年前のポスターの一部分が顔を出したりする。この可愛いお臍は、「セーラー服と機関銃」の薬師丸ひろ子、詰め襟の学生服は「ビーバップ・ハイスクール」といった具合で面白い。剥がれて出てくる偶然の色や形のミスマッチも、ちょっとしたポップ・アートだ。

◆ステ看◆
一番小さい看板で、ポスターと下ビラをベニヤに貼ったもの。「捨てても良い看板」という意味だが、映画が終わると必死に拾った。
板塀に釘で打ちつけるものと、看板に穴を開け、針金や紐を通して電柱にとりつけるものがあった。後者を「電ステ」と名付けた。
電ステは無敵の機動力を発揮した。壁が無用、電柱があれば何処でも可能だ。国道沿いや学校の門前などに素早く巻きつけた。
でも問題はあった。電柱の持ち主に貼る許可を得ていないこと(他の看板、ポスターは招待券を渡して許可を得ている)と、街頭での広告ビラ貼り禁止条例だった。だから人知れずに貼るのがコツだ。
正月映画の宣伝に、朝里のスキー場から街中へ電ステ移動していたある日のことだった。お昼を過ぎた頃に小樽駅前にさしかかり、「1枚欲しいな」と支配人が言った。長崎屋前で看板を電柱に引っかけたところで巡査に見つかってしまった。現行犯で交番で調書をとられた。巡査は名刺を見て「支配人がこんな仕事をするの」と驚いた。こちらが驚いたのは、今まで貼った場所を地図に書かされて、全て回収せよという命令だった。解放されたぼくらは、国道沿いの数枚だけを外して、命からがら逃げ帰った。

◆ポスター街貼り◆
当時、街貼りをしていたのは、東宝スカラ座、東映と花劇で、日活は風紀上できず、中劇はあえてしなかった。ルールは一つだけあった。他の映画館の近辺には貼らないことで、違反したらクレームがつき、ポスターはすぐ剥がされた。
ぼくはこの仕事を気に入っていた。映写室に閉じ籠もるより、一人気ままに風に吹かれて行くのが好きだった。ポスターの縁をガムテープで止めると、額に入ったようにポスターは輝いた。
ある時、ログハウス風の料亭の丸太壁に、ポスターを4枚並べて貼っていた。一ヶ月後貼り替えに行くと、ポスターは消えていて貼っていた跡に、新しい窓が出現していた。店にはそれまで窓がなく、明かり取りを探していたのだろう。
真冬日にかじかんだ手でポスターを貼る。店主が「ラーメン食べていきなさい」「ぱんじゅう熱いうちに食べなよ」と暖かい声がかかった。働いていた映画館が閉じた今でも、ぼくはポスターを貼った店で食事をし、生活用品を買う。
単館を制覇したシネコンは、ビルの奥で画一化された姿で増殖している。かつての看板ポスター貼りに代わって、無機質で便利なTVスポットのCMが全盛で、体に悪い。

(詩人)

企画展「小樽・映画館の時代」より花園映画劇場の売店(絵・下田修一氏)

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平成十七年度事業報告・十八年度事業計画

平成17年度実施したおもな事業
特別展「生誕百年記念伊藤整展」6月18日〜8月28日
講演会・シンポジウム「よみがえる伊藤整」6月18日・19日
曾根博義、ウィリアム・タイラー、伊藤礼、横手一彦、結城洋一郎、アン・シェリフ、紅野謙介、亀井秀雄各氏

関連講座(亀井秀雄館長)「『チャタレイ夫人の恋人』を読む」5月28日
「『チャタレイ裁判』とはどんな裁判だったのか」6月11日
企画展「『チャタレイ』異聞─海賊版からカストリまで」9月3日〜10月30日
文学散歩「文学碑めぐり」7月5日
連続講座「『本』のよもやま話」
「古本屋のゆくえ」(須賀章雅氏)5月7日
「『本』とノーマライゼーション」大塚稜子氏
7月16日
「図書館と本」野口陽一氏 9月17日
「書き込みに見る多喜二との同時代性」 亀井秀雄館長 11月23日
「印刷本の起源」石塚晴通氏 1月21日
「時刻表の話」渡辺真吾氏 3月25日
企画展「小樽論・2\まち見て歩き」 11月3日〜1月29日
企画展「小樽・映画館の時代」
2月2日〜4月2日
関連講座「映画館と私」下田修一氏
2月11日
特別講座ジブリアニメーションの世界
「あなたの知らないジブリアニメーション『てにをは』事始め」石曽根正勝氏
12月17日
「『風の谷のナウシカ』の世界」亀井秀雄館長
12月24日

平成18年度おもな事業計画(案)
企画展「小樽・文学館物語」
7月1日〜9月3日
特別展「並木凡平と口語短歌」
9月9日〜11月26日
連続講座「本」のよもやま話
「絶版マンガ本の話」 5月27日
「古本の値段」 7月22日
「地域からの本作り」 9月16日
「自分史を作る」 11月18日
文学散歩
忍路・蘭島・余市文学散歩 5月31日
室蘭文学散歩 7月5日



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書き込みに見る多喜二と同時代

市立小樽文学館長 亀井秀雄

I資料の紹介
今日(二〇〇五年十一月二十三日)は、複数の人の書き込みが見られる、阿部次郎の『合本三太郎の日記』を、小樽文学館の新資料として紹介したいと思います。
この本は樽見英樹さんという、中央省庁の大臣官房をなさっている方が、昨年(二〇〇四年)、〈父の手許にあったものだが、もともとは小林多喜二のものだったと聞いている〉と、小樽文学館にご寄贈下さったものです。生憎、私はお目にかかることができなかったのですが、樽見さんがメモを添えて下さっています。それによれば、樽見さんのお父上が江別市に住むTさんから頂戴し、その際、Tさんから「この本は、多喜二が小樽高商に行っていたとき買ったもの。/Tさんは旧姓佐藤和江という人からもらった。(佐藤和江さんは教員と結婚して現在日高に住んでいるらしい)/多喜二の姉が朝里に居て(豆腐屋。夫は教員とか)、そこで佐藤さんは養女のようなことでいたらしい。この姉を通して多喜二のお母さんから佐藤さんがもらった。」という意味の説明を受けたようです。

これは大変に貴重な情報なのですが、文学館としては裏づけを取る必要があり、(旧姓)佐藤和江さんにお話をうかがったところ、樽見さんのメモにある人々の繋がりはおおむね間違いなく、江別市在住のTさんも御存知とのことでした。ただ、『合本三太郎の日記』のことはご記憶にないそうです。

そうしますと、文学館としては別な裏づけが必要になるわけですが、この『合本三太郎の日記』にはかなり大量の書き込みが見られる。ただその書き込みは、書体や内容から判断して、明らかに二人の手になるもので、一人は福○利○という人です。――もちろんこの人はフルネームで自分の名前を書いていますが、書き込み内容に他人のプライバシーにかかわる点もあり、万一の場合に配慮して、半分を伏せ字としておきました。――この人は、平仮名の「な」に、「奈」の草体を用い、「と」に「登」の草体を使うなどの特徴を持ち、また、書き込みの末尾に「六、廿九」や「七月三日」など、日づけを附しており、その点で割合に簡単に書き手を同定することができます。量的には、むしろこの人の書き込みのほうが多いと言えるでしょう。

しかし、もう一人は自分の名前を書いていない。ただ、小樽文学館には、小林多喜二が書き込みをした、George Eliotの"Silas Marner" (GINN AND COMPANY, 1898)や、ストリンドベルヒ原作、阿部次郎・江馬修共訳の『赤い部屋』(新潮社、大正五年一月。多喜二旧所蔵本は大正十年七月刊)があり、特に前者の場合、第三章の半ばまで、逐語訳的な語釈が、詳細に書き込まれています。おそらく英語の勉強が主眼だったのでしょう。
ただ、ごく稀ですが、「experienced ヨクワカル」というような感想を書き込んでいました。この感想は、'a village which showed at once the summits of its social life, and told the practical eyes that there was no great park and manor house in the vicinity, but that were several chiefs in Raveloe who could farm badly quite at their ease, drawing enough money from their bad farming, in those war time, to live in a rollicking fashion, and keep a jolly Christmas, Whitsun, and Easter tide.' (「ひと目で、この村の社交生活のおもだった人々がどんな連中であるかわかるし、また、目のきく人には、この近隣には宏大な荘園のついた豪族の屋敷こそないが、村には、へたな畑仕事をしても、いたって気楽に暮らしてゆける旦那衆が何人かいて、戦時のありがたさには、できのわるい農作物からも十分な収入をせしめて、飲めや歌えやのくらしをしたり、降誕祭や聖霊降臨節や復活祭を陽気に祝っている、ということが見てとれる」。工藤好美・淀川郁子訳)という箇所の、"the practical eyes"という語句の上に書かれていました。彼は小樽における金持ち階層の様子を重ね合わせながら、「自分もそんな情景をよく眼にしている。分かるなあ」と、強い共感を覚えたのかもしれません。
また、この本の裏表紙の内側に、「凡庸なことを入念に手際よく書くより、異常なことを下手に書いてくれると面白い。――前田河廣一郎――」と書いている。そういう書き込み癖や、書体と、『合本三太郎の日記』の書き込みと大変よく似ていました。
それによって、この書き込みは小林多喜二の手になるものと判断したわけですが、特にその決め手となったのは、『合本三太郎の日記』の「自ら疑ふ」の章、三九九頁に"Roku's love story"という書き込みがあったことです。
御存知の方も多いと思いますが、小林多喜二は『ロクの恋物語――Z・W兄に』という小説を、小樽高等商業学校の『交友会々誌』第三〇号(大正十二年十月)に発表しています。もちろん小林多喜二以外の人が、彼の小説を読んで、その印象を基に書き込んだ可能性は否定できません。ただ、もしそうならば、その人は他人の小説のタイトルを変えて、英語書きしたことになる。常識的に考えて、普通そういうことはしないのではないか。自分の作品であればこそ、多喜二は英語書きをしたのだ。そう考えて、この書き込みを多喜二のものと判断した次第です。

ただし、福○利○という人物と小林多喜二との関係は、残念ながらよく分りませんでした。所有関係で言えば、多喜二所有の本が樽見さんに渡る過程で、福○利○氏の手を経たとは考えにくい。おそらく多喜二が手に入れる以前に、福○利○氏が所有していたものと思われますが、多喜二がその人から譲り受けたのか、その人が古本屋に売ったものを多喜二が購入したのか、判断の手がかりは見つかりませんでした。
そういう曖昧さが残るのですが、しかし見方を変えれば、これほどはっきりと一冊の本が複数の人の手に渡り、書き込みがなされた様子を伝えている本も珍しい。私たちが重要視したのもその点であって、小林多喜二を含む同時代の人がどのように『合本三太郎の日記』というテクストを受け取り、享受していたか、その拡がりが見えてくる。そういう貴重な資料として大切に保存し、研究に供したいと考えています。

II『三太郎の日記』について
さてそれでは、『合本三太郎の日記』はどんなテクストで、どんな話題性を持っていたか。その前にまず阿部次郎について簡単に紹介しておきますと、彼は明治三十七年に東京帝国大学文科大学哲学科に入学して、四十年七月に卒業し、四十二年に夏目漱石の知遇を得て、漱石が主宰する『朝日新聞』の「朝日文芸欄」に執筆するようになり、自然主義批判の評論などを書いて注目されるようになりました。そして明治四十四年十月、「朝日文芸欄」が廃止になって以降は、読売新聞の客員となり、また大正二年には慶応大学の講師となって、翌年の大正三年四月、東雲堂から『三太郎の日記』を出版しました。
これは青田三太郎という虚構の人物の日記や随想の形式を借りて、阿部次郎自身の恋愛や芸術、人生などに関する思索を書き綴ったもので、大変に好評だったことから、更に翌年の大正四年三月、今度は岩波書店より『三太郎の日記第弐』を出しました。
ところで、この「三太郎」という名前ですが、東京の人たちは以前から、女中のことを「おさん」と呼び、丁稚や小僧を「三太郎」と呼ぶ習慣を持っていました。その意味で「三太郎」は相手を軽んじた、蔑称のニュアンスを帯びていたのですが、なぜ阿部次郎がそういう名前を選んだのか。彼が文筆の道に入った頃は、自分を超人の高所に置いて、世俗の凡人を痛烈に批判する、一種の天才主義が流行っていました。たぶん彼はそういう風潮に対するアンチテーゼとして、敢えて凡人の代名詞みたいな名前を主人公に与え、地に足のついた自己省察を開始する方法を選んだのでしょう。その自己省察には、極めて意識的な「自己翻弄(Selbst-Ironie)」が大量に含まれており、そこに天才主義に対する強烈な批判を読み取ることができるからです。
夏目漱石はこの名前を嫌い、変更を求めたようです。だが、阿部次郎はそれに従いませんでした。このテクストは、もし漱石の『三四郎』(『朝日新聞』明治四十一年九〜十二月)の主人公が、率直に内的生活を書き綴ったとすれば、こうもあろうか、と想像的に描いてみた。そんな趣きがないでもありません。漱石はその点に何かひっかかるものを感じ、しかし阿部次郎としては、そうであればこそ譲ることができなかったのだろうと思います。

ともあれ、如何に生きるか、如何に自分の人生を意義あるものにするか、にかかわる形而上的な問題を、阿部次郎は、肩肘張った論文形式に囚われず、日記、随想、対話、口語自由詩など多様なスタイルで書き、当時の若い読書人の共感を呼んで、大きな売行きを示しました。
大正期にはしばしばフリー・シンキング(free thinking)とか、フリー・シンカー(free thinker)とかいうことが言われ、もともとこれは宗門の権威に拘束されず、宗教の問題を合理的な仕方で考察することや、そういう立場の人を指す言葉でした。日本ではもう少し幅広い意味に使われ、特定の観念体系に依存することなく、自分の身辺や社会的な事象を、自分の実感に即して考察することを指したわけですが、『三太郎の日記』はそういう傾向を促し、またそういう風潮によって歓迎されたと言えるでしょう。
彼は大正七年六月、『三太郎の日記』と『三太郎の日記 第弐』を合わせ、更に『第弐』以後に書いたものを含めた『合本三太郎の日記』を、岩波書店から出しました。これがまた大変によく読まれて、いわゆる大正教養主義を代表する著作となり、当時から戦後に至るまで、岩波書店の経営を支えるほどのロングセラーとなったわけです。

ちなみに、いま紹介している『合本三太郎の日記』の奥付は、「大正七年五月一日八版発行」となっています。『合本三太郎の日記』の初版は、「大正七年六月一日印刷/大正七年六月三日発行」ですから、その第八版が「大正七年五月」というのは可笑しい。おそらく誤植と思われます。定価のほうも「金壱円八十銭」と印刷してあり、その上に「改正定価弐円五十銭」というゴム印が押してありました。
岩波書店がいかに慌しく、増刷に追われていたか、その混乱ぶりが伝わってくるようです。

III阿部次郎の人格主義
ところで、この阿部次郎は人格主義を説いた倫理学者として一般には知られていますが、それでは、彼がいう「人格主義」とはどういうものなのか。この点をもう少し説明しておきますと、それはドイツの哲学者テオドール・リップス(Theodor Lipps)に由来すると言っていいでしょう。
彼はリップスの思想を、『倫理学の根本問題』(岩波書店、大正五年五月)で紹介しています。ただ、読者にとってはなはだ迷惑なのは、どこまでがリップスの思想で、どこからが阿部次郎の敷衍なのか、よく分からない。その意味で、扱いのむずかしいテクストなのですが、差し当たりここでは、阿部次郎の思想として扱うことにしますと、彼は、私たちが何事かを行おうとする根本的な動機、またはその目標は「自己の満足(Befriedigung)」にある、と考えました。
私たちが自分の欲望や願望を満たすために何事かをすること。それが「自己の満足」のためであることは言うまでもありませんが、例えば子供が深い川にはまり、溺れているのを見て、自分の危険も顧みずに飛び込んで助けたとしましょう。これは利己主義(Egoisumus)を捨てて、子供を助けるという利他主義(Altuismus)を選んだことになるわけですが、しかし彼によれば、子供を助け、両親に感謝されるという満足感を動機に含んでいる。そうである以上、「自己の満足」であることに変りはない、というわけです。
ただし彼の補足説明によれば、この場合の「満足」は、いわゆる利己的な「自己満足」ではない。なぜなら、川に飛び込む目標は、子供の命を無事に助けることや、両親の喜びという「幸福」にあるからです。ですから、その結果得られる自分の満足は、他人の幸福にために計り、他人の満足に「分関」することによって得られる「同歓(Mitfreude)」の満足だ、ということになる。
彼自身の言葉を借りて言えば、「利己主義と利他主義との対立は自己の満足を目標とするとせざるとに存するにあらずして、その満足の性質の差異に存するのである」というわけです。

この例からも分るように、阿部次郎は、「あれかこれか(Entweder-Oder)」という二者択一の問題にぶつかった場合、そのいずれかを切り捨てるのではなく、「あれもこれも(Sowohl-als auch)」の形で対立物の両立を図り、両者の新たな可能性を引き出す論理展開を志向していました。その志向の由ってくる所以を、彼は、自分の弁証的な性質(dialektische Natur)と説明し、自分自身をSynthesist(総合者)と呼んでいます。
彼は対話形式の論文を好みました。多分それは自分のなかにある「主」と「客」を戦わせるためですが、必ずしもヘーゲルの弁証法のように対立物の止揚(aufheben)を意図してのことではない。むしろ対立を対立として残したまま、相手の批判を媒介に自己の存在根拠を再構築し、しかも相手の存在理由を容認してゆく。そういう弁証法を彼が意図していたことを、記憶に止めて置いてください。

さて、そこで改めて、彼がいう「人格主義」とはどういうことか。彼は以上のような利己主義と利他主義の他に、第三の場合として、「自己に対する尊敬」を失わないために、あらゆる利益と享楽とを捨てたり、自己を犠牲にしたりするというケースを提出してきます。このような自己抑制、あるいは自己犠牲が求めるところは、自己の人格の向上に満足を見出すことにあり、必ずしも他人の満足を計るものではない。その意味では利他主義と異なる。
彼はこんなふうに推論を進め、「利己主義」の再定義を試みました。それによれば、利他主義と共存し得る「利己主義」とは、自己の人格の向上に「満足」を見出し、人格価値(Pers嗜lichkeitswert)に重きを置くことにほかなりません。
それに対して、一般に言うところの「利己的(な動機)」とは、人格価値の存在を求める意志なくして、物的価値の存在を目標とすることであり、いわば物的価値感情(Dingwertgef殄l)に囚われてしまうことだったわけです。

彼はこのような考え方に基づいて、当時急速に社会問題化してきた資本家と労働者の対立の問題にコミットしてゆきました。その代表的な論文が「人生批評の原理としての人格主義的見地」(『中央公論』大正十年一月号)です。これもまた以上の流れに即してアレンジしながら紹介しますと、彼は資本家と労働者との双方に対して、自己の物的価値感情を克服し、人格価値の追求に赴くことを求めました。
彼の見るところ、現在の労働者が悲惨なのは、自分の人格価値を追及する自覚や動機を奪われてしまっているからにほかなりません。また彼の見るところ、現在の資本家が批判されなければならないのは、彼等が物的価値感情に囚われてしまっているからです。更に彼の判断によれば、資本家が資本や労働手段を占有している、その所有権の根拠は、それらを相続したとか、自分の才覚によって獲得したとかにあるのではない。そうではなくて、彼等の所有権の人格主義的根拠は、あくまでも人格価値を尊重する立場に立って、それらを正当に使用し得る能力を備えているか否か、にかかっている。彼はそう主張していました。
別な言い方をすれば、彼は資本家にも労働者にも「同歓(Mitfreude)」の原理を期待し、いわば「同歓」に基づく社会の建設を構想していたと言えるでしょう。

IV竹内仁の批判
阿部次郎は、以上のような社会問題に関する発言の面でも多くの読者の信頼を得ていたのですが、しかし思いがけなく厳しい批判に直面させられることになりました。
批判したのは、竹内仁という、東京帝国大学の倫理学科に籍を置く大学生で、阿部次郎の著書に教えられながら、リップスの研究に取り組んでいました。つまり大学の学科だけでなく、専攻の面でも、阿部次郎の後輩になるわけですが、勉強を重ねているうちに、彼は阿部次郎のリップス理解に疑問を抱いていたのでしょう。まず「リップスの人格主義に就て――阿部次郎氏のそれを批判する前に―」(『我等』大正十一年二月)という論文で、周到に自分なりのリップス理解を構築し、次に「阿部次郎氏の人格主義を難ず」(『新潮』同前)で、ほとんど逐条審議的に阿部の論理的欠陥を衝いてゆきました。

今日初めに紹介した資料の二人が、どのように『合本三太郎の日記』を読んでいたか。それを検討するのが今日の目的ですが、彼等の同世代がどのように阿部次郎に対していたか。少し遠回りになりますが、その点を一つ確かめておきたいと思います。
それと言うのも、竹内仁が描いたリップスの思想は、阿部次郎が描いたそれとは、まるで月とスッポンほども異なっていたからです。

竹内仁の描くリップスは、こんなことを言っていました。人間の本然の性情に基づくあらゆる動機は、それ自身としては決して悪と言うことはできない、と。
例えば私たちが、単なる肉慾の満足を求めて、春をひさぐ女性のところへ行ったとします。一般にこれは好ましくない、悪いこととされているわけですが、リップスによれば、異性との肉体的結合に対する欲望そのものが悪いためではない。それが悪いのは、それ以外の、それと対抗すべきより高き道徳的意欲を欠いている、あるいは高い道徳的意欲が薄弱だからだ。彼はそう考えました。およそこの世において「悪」と呼ばれるべきものは、このような人性の積極的内容の欠如と薄弱の以外にはない、というわけです。
その点を踏まえて、竹内仁は次のように言っていました。「その内面に於て有るべきものを欠き強かるべきものの弱い人格のみが、悪の名に値する。繰り返して言ふ、人格を構成するあらゆる内面的要素は皆即自善である、その或る要素の欠如若くは薄弱によつて惹起されたるその要素相互間の無秩序と混乱と――従つてその人格全体の不統一――が、始めて、悪と呼ばれ得るのである。かくて人性に根ざせるあらゆる努力、要求、欲望、約言すれば一切の根本動機――即ち人格を構成する内面的要素――相互間の秩序を、心情と謂ふ」。

このような理論の運び方は、江戸時代の儒学者・荻生徂徠の性・情の論と驚くほど似ていますが、それはともかく、この程度の紹介だけでも、阿部次郎の描くリップスと、竹内仁の描くリップスの違いがよくお分かりのことと思います。この違いは、民衆の暴力的行為に関する評価の面では、決定的に対立することになります。
いま、民衆が道徳的必然性によって、道徳的により高い存在の状態に達しようとし、ところが何らかの暴力がこの進展を妨げている、と仮定しよう。そのような場合、民衆の意欲は道徳的活力に比例して増大し、そして遂には暴力をもって、その不道徳なる暴力を転覆するより他はなくなるだろう。あるいはまた民衆の一般的道徳的存在条件が、何らかの暴力によって阻まれていると仮定しよう。この場合、暴力によって設けられた障壁を突破するには、暴力を行使するより他に取るべき手段がないならば、この手段として用いられる暴力は道徳的である。
リップスは更に、正当防衛の観念を援用しながら、もしそれが民衆にとって道徳上の正当防衛であるならば、革命も辞すべきではない。というよりはむしろ、革命は民衆の権利であると同時に義務でなければならない、と説いていました。この革命観は、あくまでも民衆が道徳的により高い状態に達しようとする意欲を前提にしていましたが、ともあれ彼はこういう形で、革命に伴う暴力と倫理、または「暴力の倫理学」とも言うべき問題を提出していたわけです。

竹内仁はこのようなリップスによって、阿部次郎のリップスを批判したわけですが、しかし他方、彼はリップスその人にも批判の矢を放たずにはいられませんでした。
というのは、先ほど紹介した阿部次郎のリップスからも分かるように、リップスは、「物的価値は人格価値に従属する。それ故に物的価値――財貨――は各人の人格価値に準拠して各人の所有に帰すべきである」と考えていたからです。この考え方からすれば、来るべき理想社会においては当然、人それぞれの人格価値に従って社会的な富を配分することになる。だがしかし、と竹内仁はここで立ち止まってしまいました。そのためには、私たちは先ず人それぞれの人格価値を測定しなければならないわけですが、一体どのようにして人格価値を測定することが出来るだろうか。もちろんそのような価値を計る客観的な基準があるはずがありません。それだけでなく、どうやらリップスは、ブルジョア階級から、自分の人格は自分の所有する財貨に値しないと考える人間が出てくることを期待している気配だが、そんなお人よしがブルジョア階級にいるはずがない。竹内仁はその点を指摘し、リップスの理論を「この種の空虚なる理想主義的経済観は現在の制度を動かす力を欠く点に於て無価値である」と一蹴してしまいました。
彼は以上のように、一面ではリップスの革命観を受け継ぎ、他面ではその経済観の限界を批判し、その上で阿部次郎の批判に取りかかったわけです。

阿部次郎が、もし正面からこの批判を受け止めたとすれば、大正時代の後期を代表する稔りある論争が展開されたでしょう。しかし残念ながら、そうなりませんでした。
というのは、阿部次郎はこの批判を受けた直後の、大正十一年五月、文部省の在外研究員として美学研究のためヨーロッパに留学するわけですが、その準備に慌しい時期、辛うじて「竹内仁氏に答ふ」(『改造』大正十一年三月号)という反論を書き、日本を離れなければならなかったからです。
そのため、彼の反論は次のような形式論理による、揚げ足取り以上のものとはなり得ませんでした。「茲にABCの三人が一緒に歩いて来て三つに岐れてゐる路に出会したとしませう。Aは右に行かうといふ。Bは真直に行けといふ。Cは左に行くといふ。CがAに向つて、Bもそちらに行つちやいけないといふぢやないかと云ふことはあるかもしれません。併しそれはBがCに味方してゐるといふ証拠にはなりません、CがBの言葉を利用しようとしたといふ事実の証明になるに過ぎません。Bの本意はAもCも間違つてゐるといふのです。従つてCがBの言葉を利用したからと言つて、AがBをもCの仲間と見るのはひがみです」。
何だか持って回ったような言い方ですが、文中における「右」をプロレタリア解放の運動、「左」はブルジョア階級を支持する立場と解釈し、Bのところに阿部次郎と置いてみれば、彼の言わんとするところがよく分かるでしょう。

他方、竹内仁は「再び阿部次郎氏に」(『新潮』大正十一年四月号)という批判を書きましたが、それからおよそ半年後の十一月十日に、許婚の両親を刺殺して、自分も首を吊って自殺してしまい、東京帝国大学生の殺人と自殺事件として、これは社会に大きな衝撃を与えました。
なぜこのような過激で、自己破滅的な行動に走ったのか。一般には、彼がまだハイティーンの許婚に肉体の関係を迫って、許婚に拒まれ、それだけでなく、彼女の両親が婚約の解消を示唆したためだ、と言われています。彼は、明治末から大正を通して活躍した、文芸評論家・片上伸(天弦)の弟で、巷間じつは片上伸の隠し子なのではないかと囁かれるほど年齢が離れていたのですが、二人ともエキセントリックなところがあったそうです。
そういう要因もあったでしょうが、それに加えて、リップス学徒として、「人間の本然の性情に基づくあらゆる動機は、一つとしてそれ自身悪と呼ばれるべきではない」という思想の、性急な実行慾が重なったのではないか、と思われます。

V福○利○の書き込み
以上は最も厳しい読者の例だったと言えますが、さてそれでは、小樽の二人はどうであったか。二人はまだ批判的に読むところまでは行っていなかったようです。
もっとも、福○利○の場合は、テクスト奥付の前頁の余白に、「我れ我れをゐらしと思ふ人の為めにゐらくならん/大正九年七月一日/朝鮮行の□□」と書いており、おそらく竹内仁の批判が始まる以前の読者だったのでしょう。
もう一つ、この人の書き込みの特徴は、『合本三太郎の日記』の第壱と第弐に集中し、しかも各章の終わりの余白に、次のような随想詩形式で「想い」を書き綴っていたことです。

例一(頁三九、「人生と抽象」末尾の余白)
恋を知れる若き男、

女性に対する慾望熾んなるも

恋するほどの落付きは我有せず
(十年六、十四、夜)
恋すれば妻にする迄で戦はば勝つ迄で
アアこんな熱が望しい
俺は今迄で見た女知った女に対して征服せんとする意志を持った事が無い。
六、十八

例二(頁二三八、「形影の問答」末尾の余白)
俺の真剣になって働ける時
うれしいのは
神に愛されてると思ふからだ
俺が働かな時
なんだか不安なのは
神に嫌はれさうだと思ふからだ
七月五日、武者、

彼はこのように、日づけを持つ随想詩を、全部で二五編近く書いていますが、その内容は必ずしもテクストの内容と関係しない。例二の末尾の「七月五日、武者、」における「武者」は、武者小路実篤を指していたと思われます。つまりこの「詩」は、実篤の詩集から取ったか、あるいは実篤の書いたものに触発されたものと考えられるわけですが、そうしますと、どうやらこの人は『合本三太郎の日記』を、随想・随感を詩形式で述懐する、一種の日記帳として使っていたらしい。その意味で大変に珍しい使い方だったと言えます。
では、テクストの表現と全く無関係に書きつけていたのか、と言いますと、必ずしもそうではありません。例二が書き込まれた、「形影の問答」という章は、次のような短詩によって結ばれていました。

鏡の多い部屋が俺を苦しめる。
今ゐる部屋がいいのか、
他のもつと暗い部屋がいいのか、
今の俺には本当のことがわからない。
鏡の多い部屋が、
今俺を苦しめてゐる。
(大正三年五月二十八日)

阿部次郎はこのような随想詩を随所に織り交ぜていました。それだけでなく、彼の散文には一種のリズムを内包したものがあり、それをセンテンス毎に改行したり、また少し長いセンテンスは二行、三行に行別けしてみますと、そのまま随想詩や思想詩になる。ニーチェの表現方法に倣ったかもしれませんが、彼の愛読者は特に意識しないまま、そういうところにも魅力を感じていたのだろうと思います。
福○利○はそういう表現形式に惹かれたのでしょう。また、「欲望」や「意志」は『合本三太郎の日記』の書き手が好んで使う言葉であり、「影の人」は女性を描く時のキーワードの一つでした。
福○利○の書き込みにも、「わが身のうしろに我れと同じく我が身体をもとむる異性は誰ぞ?」(「我れの影に入る謎の女の為に」頁三一)、「心何処に有る/影の女が通る時/心は、おさげの中に」(「心」頁一〇六)という具合に、「影の人」「謎の女」が頻出してきます。
以上のような点で、これらの書き込みは、まさに『合本三太郎の日記』なしには起こり得ない書き込みだった、と見ることができます。

VI吉田瞬三の場合
さて、これは私個人の勝手な連想によることですが、少し寄り道をして、『瞬三遺稿集』という本を紹介させていただきたいと思います。
この本は、市民の皆さんが小樽文學舎に寄贈して下さった本のなかに入っていました。どちらかと言うと端本扱いを受け、いろんな雑本と一緒に箱に詰められて、埃というより、砂がべったりとついていました。ひょっとしたら長年、物置の隅にでも放って置かれていたのかもしれません。砂を払ってみたところ、昭和二年に小樽で出版されています。
念のため、何人かの人に吉田瞬三(春三)のことを訊いてみたのですが、どなたも心当たりはありませんでした。もう八十年近くも以前に、二十歳前後で亡くなった人のことですから、それもやむを得ないでしょう。

この遺稿集に収められた文章の書き手は、本名を吉田春三と言います。内容から判断するに、彼は旧制の庁立小樽中学校を卒業して、慶応大学や早稲田大学の受験に失敗し、一年後の昭和二年に東京の文化学院に入っています。画家を志望していたのですが、気の毒なことに、病を得て、昭和二年七月に亡くなりました。
家族や知人達は彼の人柄を愛し、その才能を惜しんだのでしょう、絵画については、札幌で「瞬三遺作展覧会」を開いたようです。さらに、吉田達衛(東京市外笹塚一〇一五)と吉田庚子郎(小樽市緑町二ノ二)が編集人兼発行人となって、絵画の写真版六点のほか、創作や詩、短歌、随筆、美術批評などを収めた、『瞬三遺稿集』(昭和二年十月、非売品)を、小樽の正明堂印刷所(小樽市稲穂町西八丁目)から出版しました。小樽中学校の校長・江原玄次郎、担任の末岡明治のほか、石井柏亭が「序」を寄せています。

この若者は、小樽中学校では伊藤整より数年下の後輩に当るわけで、在学中の大正十三年に、表現意欲が一挙に開花したらしく、絵画ばかりでなく、小説や詩を書き、また、「朝刊たつた一枚を/しつかり握つて転居する/病軽るき日」、「みちばたの椿のつぼみ/一つとり/そつと抱けり病快き日」(大正十三年三月)のように、当時の小樽で盛んに行われていた口語短歌を詠むなど、その表現活動は多様なジャンルにわたっていました。
それだけでなく、絵画の面では大月源二の絵に共感を覚え、中村善策と親しい交流があり、鷹松喜之介(本名は高木陸奥男。一般には菊岡久利の名で知られている)というアナーキストとも交際があった。東京に出てから、「新しき村」の展覧会を見て、「此の日私には武者小路実篤といふ人が、今まで自分が感じてゐた人より以上にえらい人のやうに思はれた」(『感じたまま思つたまゝの記』一九二七・六・九)と、実篤を発見しています。
そして、自分が絵を描くことの意味について、「北海道の土工部屋や百姓家や出面取りや白首屋や積取人夫の家々に我々の描いた絵の必要があるのだらうかと、――結局我々の描いた絵は上野の立派な美術館の壁に飾られたり、博物館の中に蔵されたり、金持ちの応接間に掛けられたり、御令嬢の書斎に飾られることになりはしないだらうか、(未来に於ては)その為に我々は絵を描くのだらうか」(小林剛宛書簡、大正十五年十月三十日)と悩んでいました。
その意味で、吉田春三という若者の表現領域と、関心の拡がりは、小林多喜二や伊藤整以上に広く、当時の小樽の美術や文学の動向を全般的に反映していたように思われます。

別な見方をすれば、大正末から昭和初期の小樽における文学活動を語る場合、つい私たちは、伊藤整が加わった『青空』(大正十年七月〜未詳)や、小林多喜二が加わった『クラルテ』(大正十三年四月〜十五年三月)などを中心化してしまう。また、これらの人たちの表現だけが突出していたかのように扱ってしまう。
しかし、例えば大正十三年という時点を選び、福○利○や、吉田瞬三などの同世代と並置してみて、初めて小樽というトポスの全体的な動向や表現水位と、彼等それぞれの特徴や位置が見えてくるのではないか。
そういう視点で次の詩をみるならば、この吉田瞬三という青年の表現が高い水準にあったことが分かります。

意気地のない人間
親が子を
一人前に育てる
それりや天然の人情だ
犬でも猫でも皆んな同じだ
然し畜生の方は余程意気地がある
大きくなつてしまへば
親だの子だのと
七面倒臭いことを言つてない
いつまでも何時までも
親だの何んのと
育てた恩を忘れずに覚えてゐるのは、
意気地のない
人間ばかりだ。
一九二四、四、一

悪徳の谷底
アゝ荒み切つた此の心
真白だと称する壁の上に
汚ない
様々な汚点を見るよりも
投げ捨てられたボロ片に
美しい
縫ひ取りの残りを発見して
喜ぶのもいい。
悪徳の谷底には美しい
人情の花と
香ばしい涙の果実が却つて
沢山に
摘み集められるかも知れない。

希望
屈せず進め
屈せず進め
汝に
天才の素質あり
大なる
胸中に
燃え上がらんとするものあり

汝の
芸術を放光せよ
一九二四、五、二〇

VII多喜二(推定)の書き込み
その上で、多喜二(推定)の書き込みに眼を転じてみましょう。彼の書き込みは『合本三太郎の日記』第参の「自ら疑ふ」と「"Ivan's Nightmare"」、及び、付録「山の手の秋」に集中しています。
彼がこの本を手にした時期は、「山の手の秋」の書き込みに、「俺の今の気持だ。(一九二四、四)」とあり、大正十三年のころと考えていいでしょう。とするならば、竹内仁の阿部次郎批判と、殺人・自殺という事件の後になるわけですが、多喜二の読み方にそれが反映された様子は見えません。阿部次郎に対する彼の関心はそれとはさほど関係ないところにあったようです。

ただし、阿部次郎の人格主義に関心がなかったわけではなく、「自ら疑ふ」の「僕は時として自分の弱点を――他人に見せるためではなしに自分一人の心底から――嘲弄せずにはゐられないやうな心持になる。さうしてこの嘲弄によつて、この弱点以上に立つ何等かの積極的なものの生きて動くことを感ずる。」という箇所に、it's trueと共感していました。更に、「さうして自分の衷にいゝものゝ身動きを感じた時には、何等かの形でこれを記録せずにはゐられない。世間との関係に就いて云へば、自分を高めたもの、清めたものが他人に害をなす理由がない、と云ふのが自分の書いたものを江湖に放つときの自分の信仰だ。」という箇所に、「功利的人格主義」と書き込んでいました。
この「功利的」は、おそらく「打算的」という否定的な意味ではなく、「社会に利をもたらす」とか、「社会に功ある」とか、そういう肯定的な意味だっただろうと思います。多喜二は阿部の人格主義をそう理解していたらしく、その点では竹内仁とはかなり隔たったところにいたことになります。

ただし、多喜二の書き込みの特徴はその点にはありません。むしろ彼が強く、共感的に反応したのは、悪徳へいざなう悪魔の言葉でした。あるいは妻の友人の女性が自分に寄せる感情を、半ば楽しみながら観察している男の手記でした。
例えば「"Ivan's Nightmare"」という章は、(メフイストの言葉)という副題がついていて、このメフィストがゲーテの『ファウスト』に登場するメフィストフェレスに由来すること、言うまでもありません。このメフィストがイワンに「堕落」を勧めるわけですが、このイワンはドストィエフスキー『カラマゾフの兄弟』におけるイワンではなく、トルストイの民話『イワンの馬鹿』を念頭に置いていたものと思われます。
ともあれ、ここで「お前」と呼びかけられているイワンは、他人を傷つけることを恐れるあまり、自分の行動を慎んでいる。そういう意味での、消極的な道徳家でしかないわけですが、そのイワンに向って、メフィストが次のように、堕落の必要を説いていました。「Experimentの態度でもいゝから、もつと恋愛と歓楽と迷ひとを猟つて見ろ。必然的に其処に墜ちて行くのなら一番いゝが、聡明で冷静に過ぎるお前には中々そんな時期が来さうにもない。構ふものか、Experimentの心持でやつゝけろ。さうして誘惑を捜しに出かけて行け」。
つまり傍観者的な善人の殻を破って、悪徳の誘惑に身を任せてみろ、というわけですが、この箇所に多喜二は、fit Experimentと書いていました。この"fit"は、「おっ!今の俺の気持ちにピッタリだ」とか、「言い得て妙!」とかいう意味合いでしょう。彼は共感が強い時、しばしばこの言葉を使っています。

VIII「山の手の秋」書き込みから見えてくるもの
そのことを一つ押えて、次の「山の手の秋」をご覧下さい。大分長い引用ですが、それは、多喜二の書き込みが最も多く、彼の関心の方向がよく現われてる箇所だからです。なお引用に当っては、多喜二が傍線を引いた箇所には同じく傍線を引き、書き込みの箇所には※印をつけ、書き込みそのものは、その段落の終わりに移しておきました。

Aと云ふ妻を持つてゐる男が、その妻の友Bを心の底で思ふやうになつた。Bは処女であつた。さうして男とAとは結婚以前からの恋仲であつた。彼はその恋をAにも知らせずBにも打明けずに、運命の導くまゝにBと別れてしまつた。……今僕はこの男の心理的過程を自分で考へて見ようと思ふのである。
山口は曾て僕を評して、この男はCaseばかり考へてゐる男だからなあ、と云つた。よし。僕は今このCaseを考へて見よう。心理的哲学的のExperimentierenが何処まで行けるか、それを試して見ようと思ふのである。

男はBに対して征服せむとする意志を持つてゐなかつた。征服するための術策を講ずることもなかつた。※1彼はBに対して少しも誘惑者の態度をとらずに、唯その前に自分の人間を暴露した。Bも亦彼の前にその自然の性格を暴露することを感じた。さうして二人の暴露と暴露とは何の人工をも加へざる相互の親愛を誘つた。彼は自分とBとの間に於いて欠けてゐるものは唯女の側に於ける恋愛の自覚だけであることを知つてゐた。Bは自分では、唯男を尊敬し信愛してゐるだけだと信じてゐた。併し彼女は男の尊敬すべき人格を思ふとうつとりするのであつた。男に対する信愛の感情が昂進して来ると懊悩を感ずるのであつた。Aがゐる前で彼と逢ふと何となく気が張つて、Aがゐない時には特別に安らかな嬉しい心持になるのであつた――男はかう云ふやうなBの心持を熟知してゐた。併し女を誘惑した責任をも、女から誘惑された愚をも感じなかつた。二人は唯その自然の性を以て相接触した。さうして自然の親しみのズンズン深くなつて行くことを経験した。※1inter.
男はBとの関係に於いて従来とは違つた行き方をした。従来彼は一つのことを肯定する前に(若くは肯定すると共に)この肯定と周囲との関係を考へた。この一肯定が当然に齎す可き諸の否定を頭の中に列べて見た。さうしてこれを肯定すればaもbもcもdも否定してしまはければならないのだが、それでいゝかと念を押した。※2従つて彼の肯定は何時もいじけたおどおどしたものになり勝であつた。然るに此度に限つて、彼は唯この肯定の内容にズルズルと引かれて行つた。Bと親しくすることの嬉しさが彼をこの関係に深入させるに十分であつた。彼は暫くの間この一肯定の意味する他の否定をば意識しなかつた。彼は自分に妻のあることも、その妻が久しい間の恋仲であつたことも、Bと親しくすることがAを泣かせることになることも、すべてを忘れて唯Bが懐かしかつた。かう云ふ行き方が出来ようとは彼が今まで自分でも思ひがけないことであつた。彼はこの行き方が出来たことを、宿命の縛から釈き放されたほどにも嬉しいと思つた。※2マルクス流の矛盾の解決としての弁証法はどう働くか。
併し彼の意識がその痛ましい眼を醒す時が漸く来た。彼はAが依然として彼を愛しBを信用してゐながら、男とBとの間に特別な親しみがあることを感じて、腹の底に不安を懐いてゐることを見た。(後略)

「死者は生者にその記憶を残して行く。この記憶を強ひるは死者の権利である。併し死者は生者に新しい印象を与へるわけに行かない。その人格の印象は当人の死と共に永久に固定する。若くは変化の範囲に永久の制限を受ける。死者は生者に向つて従来見せなかつた笑を見せることが出来ない。従来見せなかつた美しさを見せることが出来ない。新しく他人の霊魂に働きかけることが出来るか出来ないか、これが生者と死者とを区別するのである。
第二の女が第一の女をその男から遠けようとするのは、第一の女を男の頭の中で殺すことを要求するのである。今日以後、自分一人で男の霊魂を占領することを要求するのである。この意味に於いてのみ、第二の女の嫉妬は事実上の意義を持つてゐる。
第二第三若くは第十の恋に於いて、男がその恋人に示し得る信実は唯昔の女を死んだ者として取扱ふことである。それ以外のことは人間にとつて出来得べきことではない。彼は昔の女に与へたものをとり返すことが出来ない。彼は昔の女によつて刻み込まれた印象をその胸中に保存して、時々それを眺めて見ることを避けることも出来ない。
第二の恋をする男はその新しい恋人を昔の女と自分の脳中に同居させることを覚悟してかからなければならない」
或時男はかう考へた。

「男の心が第二の女との愛に深入すればするほど、彼の心は益々第一の女に対してPityを感ずるに違ひない。この憐みは第一の女に新しいAttractionを加へるに違ひない。一方第二の女に対しては、男は全然その過去を与へてしまふことが出来ないことに就いて、悔恨の心とすまないと云ふ心と――従つて相手に対して寛容なハンブルな心とを感ずるに違ひない。此の如くにして男の恋愛生活は更に新しいNuanceをとるのである。
紙屋治兵衛は小春と出来てから、却ておさんに対する愛が※3増しはしなかつたらうか。」※3true
或時男はかう考へた。

「或女はその持つてゐる人間の価値によつて或程度まで俺をひきつける。俺はその価値にひかされて或程度までその女に執着する。ある他の女は更にその特別な価値によつて、或方向に、或程度まで、俺をひきつける。俺はその特別な価値にひかされて、特別な意味でその女に執着を感ずる。
凡ての人には浅い又は深い特有の価値がある。落付いて接触することを許されれば、凡ての個性は必ず相応の価値を見せる筈である。さうして二つの個性は必ず相応の愛着を感ずる筈である。 ※4各々がその特別な価値によつて、同時に自分に愛着を起す、今の俺のプロブレムだ。
一人の女を愛して更に他の女を愛することは何故悪いのか。一人の女を忠実に立派に愛しながら、他の女をも忠実に立派に愛することが何故出来ないのか。出来ないと云ふのは人が他人のハートを独占する権利があると仮定するからである。独占する力があるものは固より勝手に独占するがいゝ。全然独占してゐる限り決して他人の侵害に逢ふ訳がないのだから。全然相手のハートを占領してゐなければこそ愛人のハートに空地がある。空地があればこそ之を充すために他の力が働く。ハートを独占する力のないものがハートを独占する権利を要求するのは何の理由によるか。十分に充されぬハートを十分に充たされぬまゝに我慢すべき義務は何処から来るか。※5違ふ。相手の愛の強さとは無関係に、当人の本質的な気持だ。
若し又本当の愛は一人に対してのみ感じ得るものとすれば、それ以外の愛は本当の愛でない筈である。従つて本当の愛を累する力がない筈である。個性と個性とがその深くなり得る限りに於いて深くなつても、何の差支もない筈である。両性の間に限りのない苦悩を蒔く独占の要求と嫉妬よ。汝はその根拠を何処に持つてゐるのか。」
或時男はかう考へた。併し自分自身の心の中に独占の要求と嫉妬との事実があることはどうすることも出来なかつた。

「全然俺のハートを占領して了ふ女にぶつつかるまで、俺には移転の権利がある筈だ。※6全然俺のハートを占領して了ふ女を考へるのは白日の夢にすぎないとすれば、俺は永久に移転の権利がある筈だ。さうして仮令俺のハートを全然占領して了ふ女に出逢つた処で、俺には移転のProbabilityがなくなるだけで、移転の権利がなくなる訳ではない。然るに何故俺は安んじてこの権利を享受することが出来ないのだ。嗚呼それは捨て去る女に対するPityだ、Pityだ。※7俺はこのピテイのためにどれだけ損をしてゐるかわからない。俺は何時までこのピテイの拵へて呉れるNuanceを――この昔馴染の奴さんを――相手にしてゐなければならないのだ。※6俺の今の気持だ。(一九二四、四)。※7fit!!
生命を芽ぐむと共にこれを抑へむとする醜き道徳よ。汝は又一つの得難い経験を逃さうとするのか。」
或時は又男はかうも叫んだ。

本文の論理展開と、多喜二の関心の動きがよくお分かりと思いますが、一つ二つ補足を致しますと、※1のinterは、interestの省略です。彼は時々、「プロレタリアート」を「プロレ」と書く、独特な省略法を使っていました。
つまり多喜二は、一人の男が、彼の妻以外の女性と、お互い率直に自分を「暴露」することで親しみを増してゆく、その(心理的な)プロセスに興味をそそられたわけですが、次の書き込みの「マルクス流の矛盾の解決としての弁証法はどう働くか」は、やや唐突で、ピントはずれの印象は免れがたい。如何にマルクスの弁証法が万能だとしても、一人の男が妻を愛し、しかし妻の友人の女性との親密な感情も捨て難いという、この身勝手な矛盾の解決に、有効に機能するとは思えないからです。
じつを言えば、この書き込みの文字は、他の多喜二の文字と、ごく僅かなのですが、微妙に印象が異っています。しかし福○利○の文字にはアイデンティファイできない。結局、前後の書き込みとの関係で、これも多喜二のものと判断したのですが、ここで、初めに紹介した阿部次郎の弁証法、つまり「あれかこれか」の問題を、「あれもこれも」の立場で統合しようとした、独特な論理を思い出して下さい。
その点を念頭に置いて推論するならば、多分この時期の多喜二は、阿部次郎的な弁証法をベースとしてマルクスの弁証法にアプローチしようとしていたのでしょう。彼は「一人の女を愛して更に他の女を愛することは何故悪いのか」の箇所に傍線を引いて、「各々がその特別な価値によつて、同時に自分に愛着を起す、今の俺のプロブレムだ」と書き込んでいました。また、「全然俺のハートを占領して了ふ女にぶつつかるまで、俺には移転の権利がある筈だ」の傍らには、「俺の今の気持だ。(一九二四、四)」と書いています。
彼もまた複数の女性に関して、「あれかこれか」の選択に苦しみ、「あれもこれも」の欲望を抑えることができなかったのだろうと思います。

ただし、そこから直ぐに、当時の多喜二の女性問題を引き出すことができるかどうか。そのことには慎重でなければなりません。ドストィエフスキーの『罪と罰』の主人公が、金貸しの老婆を殺そうと決意する。一人の読者がその心理的な経緯に共感の傍線を引いたからと言って、その読者が現実に殺人の動機を持っているとは限らないからです。
そういう保留をつけながら読むならば、おそらくこの時期の多喜二は、複数の女性の魅力に抗しがたく惹かれてゆく我が心をもてあまし、いっそメフィストの誘惑に身を任せてしまいたい衝動を強く感ずる。あるいは一人の女性から他の女性へと動いてゆく心を自制しようとする「道徳」に抗い、呪詛し、踏み躙ってしまいたい。そういう「危ない」心理状況にあったように思われます。
そう言えば、初めに言及した多喜二の『ロクの恋物語』という短編、あれは語り手の主人公が必ずしも意図したことではなかったのですが、結果的には一人の純真な少女の心をもてあそび、「堕落」に追いやってしまう物語でした。

IX多喜二における阿部次郎
およそ以上が『合本三太郎の日記』の書き込みから読み取れる事柄ですが、最後に小林多喜二における阿部次郎の意味を簡単に通観して、この報告を終りたいと思います。
大正十三(一九二四)年十一月二十一日、彼は阿部次郎に、自分のストリンドベルヒ論の原稿を送り、併せて阿部次郎の批評を乞う手紙を出しました。彼が阿部次郎を選んだのは、言うまでもなく阿部次郎がストリンドベルヒの『赤い部屋』の訳者だったからで、もし論文として評価できるものならばどこかの雑誌に推薦してもらいたい、という期待もあったようです。もちろんまだ一面識もない、論壇の大家に論文を送りつけるのは、ずいぶん勇気の要ることだったにちがいありません。ただ、彼の小樽高等商業学校時代の先生、大熊信行の例もある。それを気持ちの支えとしながら、思い切って手紙を書いたのだろうと思います。
大熊信行の『文学的回想』(第三文明社、昭和五十二年十一月)によりますと、彼は大正六年、『危機』というタイトルの小説を、阿部次郎に送って、批評を乞うたそうです。おそらく無視されることも覚悟していたでしょうが、思いがけず懇切丁寧な批評が返ってきた。彼は感激し、五十年後の回想記に全文引用できるほど大切に保存してきたわけですが、彼が小樽高商の教授時代、何かの折に、学生の小林多喜二たちにその感動を語った。そういう経緯があって、多喜二は阿部次郎に批評を乞うことを思い立ったのでしょう。

それに対して阿部次郎が返事を書いたかどうか。その点は不明なのですが、たとえ返事がなくても阿部次郎への関心は続き、現存する多喜二の『日記』では三回、阿部次郎に言及しています。一度目では、こんなことを言っていました。

大正十五(一九二六)年六月七日
人はある一つのものを解釈するのに、必ず「白」と云わなければならない。そしたら他の一人は必ず「黒」と云わなければならない。然し誰か「白黒」と云ったら、その人は「妥協」したとか、「折衷者」だとか云われる。
経済上の客観、主観学説に対して、マーシャルが、両者をとり入れ、鋏の両刃に例えたら、外のものはみんな彼をなぐりつけた。学者は真理を発見するために、と云うより、右?左?をきめるためのもの、と云うことが云える。
然し、こういうことに対して阿部次郎氏が「三太郎の日記」の中で、トルストイを論じている「不一致の要求」という興味ある観察をしている。

この時点の多喜二は、明らかに阿部次郎の「あれもこれも」に共鳴し、阿部次郎的な態度を「妥協」とか「折衷」とかと非難する論壇的、学会的な風潮に違和を感じていた。そう言えるだろうと思います。
先ほど紹介した竹内仁は、恐ろしいほど明晰な論理を駆使して、阿部次郎の妥協性や折衷的態度を論難し、リップスその人にも根本的な批判を加えていました。そこから彼は更に進んで、民衆の革命的暴力の道徳的な正当性を説き、労働者聖化にまで走る姿勢を見せていましたが、しかしそれは現実経験を媒介とせずに、論理必然性のみで実行への結論を急ぐ。そういう青年客気の衒気に駆られた、ラジカリズムの危うさを孕んでいました。
それに較べて、この時期の多喜二はあまり歯切れがよくない。もしこの時期、彼が竹内の論文に接したとすれば、もちろん大きな衝撃を受けたでしょうが、それと同時に、強い違和感も覚えたのではないでしょうか。

次に阿部次郎に名前が出てくるのは、昭和二(一九二七)年二月七日の日記ですが、「三太郎の日記」に触発されてわが身を反省し、依然として阿部次郎の影響下にあったことを語っています。しかし、それから三ヶ月後の、次の日記では大分ニュアンスが変っていました。「阿部次郎氏」の「氏」が消えて、フルネームの呼び捨てになったことも、それに関係するかもしれません。

昭和二(一九二七)年五月八日
プレハーノフ「芸術と社会生活」を読む。
「芸術のための芸術」「生活のための芸術」は如何にして生じ、それは如何なるものであるか、耽美、神秘主義の芸術、自我主義――等の文芸は如何なるもので、如何なる没落過程をたどるものか、ということが、「独特に」論じられている。
又興味あることは、芸術の客観的尺度というものを認めている。即ち、「結果が構想に合致すれば!」(形式と観念の合致)そしてこのことは形式は虚偽なる観念と合致出来ない、と云っている。

福本和夫の「唯物史観と中間派史観」を極くあっさりと読んだ。再読してみるつもりである。「唯物史観」は経済史観でない、ということをはっきりつかんだ。「交互作用」の真の概念も。
この次に自分は阿部次郎の「美学」を読んで、今までの美の概念、本質をつかんでみようと思う。その次にルナチャルスキーの芸術論も読んでみたい。

「芸術のための芸術」と「人生のための芸術」の問題は、阿部次郎の大きな課題でした。もちろん多喜二はそれを念頭に置きながら、プレハーノフの論文を読んだはずですが、この日記の書き方を見る限り、すでに彼の関心は「あれかこれか」や「あれもこれも」というところにはなかった。というより、プレハーノフの論文を通して、阿部次郎的な弁証法を離れていったと見るべきかもしれません。
プレハーノフはロシア・マルクス主義を代表する芸術理論家で、芸術に関する観念の社会的・歴史的根拠を問う。つまり当時よく使われた言葉を借りて言えば、ブルジョア的観念の階級的暴露を得意の戦略としていました。その視点によって見るならば、阿部次郎の諸観念のブルジョア的性格や、それが辿るべき「没落の過程」の〈歴史的必然性〉はたちまち明らかだったでしょう。
それと共に彼は、「形式と観念の合致」という芸術評価の「客観的尺度」を学び、改めて今度は阿部次郎の『美学』と取り組むことを思い立ったわけですが、「今までの美の概念、本質をつかんでみようと思う」という言い方をしていました。ここには、阿部次郎の『美学』を前世代の、旧美学の代表と見る意識が働いていたように思われます。

ともあれ、これを最後として、阿部次郎の名は小林多喜二の書くものから消えてゆきます。小林多喜二に、阿部次郎からの卒業があったとすれば、それはこの時期だったと見ることができるでしょう。

(本稿は二〇〇五年十一月二十三日、市立小樽文学館で行った報告を文章化したものである。文章化に当って、『サイラス・マーナー』における小林多喜二の書き込みの具体例を紹介するなど、一、二補足的に加筆した。また、ドイツ語及びドイツ語に由来する語のルビは阿部次郎に従い、ルビのない語はそのままとした。二〇〇六年三月九日)

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