| 幼いころ、母はよくわたしに戦争のことを話してくれました。それはとても悲しい出来事で、人が死んで行くさまの残酷さを感じました。母は涙しながら語り、何度もくり返し話してくれました。戦争を知らないわたしは、母といっしょに目を赤くしながら聞いていました。母の体験は、沖縄戦に巻き込まれた住民がたどった、悲惨な出来事の一つだったのです。 母は、娘のわたしから見ても、めんどうみがよく、明るい性格の持ち主です。人に気まずい思いをさせることのない母のふだんの言動からは、過去につらい体験をしてきた様子をうかがい知ることはできません。他人に体験を話すことから来る〈はね返り〉の言葉を恐れ、思いを内に秘め、ひかえめに生活する母は、どこにでもいる沖縄戦を体験した「ウチナー(沖縄)の母」です。つらい思いを忘れたいがために、必死で働きつづけて生きてきたのでしょう。 そんな母の体験を、戦争を知らないわたしはどう受けとめたらよいのか……。沖縄戦が終わって50年以上が過ぎた今、母の思いを心の中にしまっておくか、それとも再び同じ体験をする子どもたちがないように、母の記録を事実として残しておくか、迷った時期がありました。 そんなとき偶然に、杖をつきゆっくり公園を歩いて緑をながめている老夫婦に出会いました。「沖縄戦の図」「原爆の図」を描いた丸木位里・俊夫妻でした。とまらないときの流れを感じました。日々、小学校で子どもを教えるものとして、県民の四人に一人が亡くなった沖縄戦の事実を知るにつれ、そのなかを生き抜いた母の体験を子どもたちに伝え残すことは、とても大切なことだと思いました。やはり事実の記録を残すことにしました。母もわかってくれました。 絵本『つるちゃん』は、このような思いの中から生まれました。 戦場を逃げまどう家族のとまどい、人の死に直面し、情報のない日々と、押し寄せる恐怖の中で、考える余地もなく、母・つるちゃんが見てきたものはどんなものだったのでしょうか。 つるちゃんは1936(昭和11)年6月、沖縄島のまんなかにある中城村(なかぐすくそん)の和宇慶(わうけ)に生まれました。一歳のときに日中戦争が始まり、太平洋戦争が始まったのは五歳のときでした。つるちゃんがさとうきび畑やいも畑に行って、おいしい「じゅうしぃ(沖縄風のぞうすい)」をたべながら、父ちゃんのかつぐ天秤にのっていたころ、遠い南の島では、もう戦争が始まっていました。しかしつるちゃんは、何も知りませんでした。 戦争がだんだん沖縄に近づいてきたと感じたのは、日本軍の飛行場建設が始まった1943(昭和18)年の夏のころです。正常な授業はできなくなり、学童疎開も始まって、1944(昭和19)年8月22日には、学童疎開船・対馬(つしま)丸が沈没しました。中城にあった二つの国民学校でも学童疎開(そかい)がありました。でも、つるちゃんは疎開船には乗らず、10月10日の那覇大空襲を見たのです。つるちゃん一家は戦争に備えるため、山の斜面に壕を掘ったり、食糧を蓄えたりしていました。 そして1945(昭和20)年3月23日に空爆が始まり、翌日には海からの艦砲射撃も加わり、26日、アメリカ軍は慶良間(けらま)諸島に上陸、とうとう4月1日には北谷(ちゃたん)・読谷(よみたん)海岸から沖縄島に上陸したのです。沖縄戦のはじまりです。 アメリカ軍は、4月2日から3日にかけて中城方面までやって来ました。それからおよそ20日間、つるちゃんたちの隠れている中城一帯は、まさに戦場となったのです。つるちゃん一家も、山道を南へ南へと逃げたのです。 5月末、やっとたどりついた南風原(はえばる)の陸軍病院壕でつるちゃんたちが見たものは、重傷病兵と入口近くに縮こまるようにかくれる住民たちの姿でした。首里(しゅり)の軍司令部・球(たま)部隊はすでに摩文仁(まぶに)へ後退していたのです。 家族が次々と亡くなる中、つるちゃんたちはなおも日本兵の後を追うように、南へと逃げたのです。もし日本兵と離れて、東よりの知念半島側に逃げていたら、と今でも悔やまれます。 米須(こめす)をぬけ、喜屋武(きゃん)をさまよい、摩文仁あたりの海岸へ降りてガマ(小穴)にかくれたときは、日本軍の組織的抵抗が終わったとされる6月23日をすぎていました。 つるちゃんと親戚のねーねー(養女に行った実の姉)が捕虜になり、宜野座に移されたのは、夏。一週間後にねーねーは亡くなり、気がつくとつるちゃんは、ひとりぼっちでした。さとうきび畑も楽しかった思い出も、何もかも消えてしまいました。 これがつるちゃんの見てきた忘れられない出来事、沖縄戦だったのです。 絵本の文章は、母に何度も確かめました。「春も近づく陽気な2月……」のように、季節の流れは沖縄です。1945(昭和20)年にも春夏秋冬の季節はあり、大自然が引き起こす蒸し暑さは、戦場にいた人々にとって一層つらいものだったに違いありません。 絵もいろいろ迷いました。服の色、土の変わりようなど、どんな色をぬればいいのか、そして残酷さ。わたしは「記録」することを大切に思いながらも、「絵本」であることを考えました。読む子どもたちが目をそらすほどの残酷な描写はないと思います。 母のいまの明るさとやさしさは、黄色と緑。ふたつの口では見られないほどの出来事を見てしまったという恐怖感は、「片目」であらわしました。母の思いとは別に、絵に込めたわたしの想いがあります。 こうして出来上がったのが、絵本『つるちゃん』です。 機会があるたびに、わたしは『つるちゃん』の読みきかせをしています。あるときお年寄りの方が、「わんも、アンニーヤタン(わたしも、そうだった)」と涙声で話してくださいました。断片的だった記憶が、鋭くよみがえったのかもしれません。 戦中、戦後を生きたつるちゃんがずっと感じていたのは、ひとりぼっちのさみしさ、つらさでした。いじめや仲間はずれが間題になっている現在、ひとりぼっちのさみしさを感じている子どもが多いと思います。きっと、つるちゃんのさみしさを共感してもらえているのではないか、と教室で読みきかせをすると思うのです。 絵本『つるちゃん』が、東京から出版されるにあたって、いろいろな方々のご協力をいただきました。東京の小学校で同じ教員をしている牛島貞満さんをはじめ、《絵本『つるちゃん』を出版する会》のみなさんに、お礼を申しあげます。牛島さんがおっしゃっていた「ぼくらができること…、それは沖縄のメッセージを東京から発信すること」という言葉が、とても印象に残っています。そして沖縄関係のすぐれた本を多く出版している高文研に、東京からの《発信》元を引き受けていただけたことも、うれしく思います。 この絵本が沖縄戦について語り合えるきっかけとなり、永遠の平和を願うメッセージ絵本として、多くの人々の心に響くことを願っております。 1997年3月3日 ひな祭りの日に 金城明美 金城明美(きんじょう・あけみ) l961年、沖縄県北中城村でつるちゃんの長女とし て生まれる。普天間高校をへて、沖縄女子短期大 学・児童教育科を卒業後、教員生活に入る。 西表島の上原小学校、勝連町立平敷屋小学校から 現在、中城村立中城小学校に勤務する。 「つるちゃん」の読みきかせをOHPを使って小 学生やPTAだけでなく、養護学校や専門学校 生・高校生などにも行なっている。場所も宜野湾 市の佐喜眞美術館や、北中城村の文化財・中村家住 宅などを利用したこともある。 沖縄県ミニバスケットボール連盟理事。 現住所 沖縄県中頭郡北中城村安谷屋218-1(〒901‐23) 沖縄での間い合わせ先-文正堂 Tel 098(956)3510 FAX 098(956)2828 おきなわ・メッセージ 絵本 つるちゃん ●1997年4月20日・・・第1刷発行 文・絵/金城明美 発行/絵本『つるちやん』を出版する会 東京都世田谷区下馬2-26-15-203(〒l54) 牛島貞満気付 Tel・FAX 03(3795)4632 振替00190-5-353509 発売/株式会社高文研 東京都千代田区猿楽町2-1-8(〒l01) Tel 03(3295)3415 FAX 03(3295)3417 印刷・製本/精文堂印刷株式会社 |
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