![]() 組踊の中の護佐丸(与那覇朝大・画) |
1995年9月30日、地元中城に伝わる組踊(くみおどり)『護佐丸』が、52年ぶりに復活上演されました。城主護佐丸公が阿麻和利(あまわり)の謀略に倒れ、三男亀千代(盛親)が仇を討つという物語に、観客は涙し、喝采を送りました。 中城按司(あじ)護佐丸と勝連按司阿麻和利の争乱は、忠臣護佐丸対逆賊阿麻和利の話として、伝えられていますが、最近の研究では「おくとより上(奄美の島々)」の貿易をめぐる主導権争いの結果とみる説もあります。 かつては、おもろに「きこゑ、中くすく(名高い中城)・・・たくに、おそう中くすく、又、とよむ中くすく(大国を治める中城、又、名にとどろく中城)と謡われるほど貿易によって栄えた中城でした。 1458年に城主護佐丸が滅びて以来深い眠りについた中城城。発掘調査もはじまり、今、琉球史の新たな扉が開かれようとしています。 | |
護佐丸(?〜1458) 中城按司護佐丸盛春。唐名「毛国鼎(もうこくてい)」琉球が三山分立から統一へ向かった頃の智将、名築城家。山田グスク、座喜味城、中城城を築いた。『毛氏先祖由来記』によれば、勝連城主阿麻和利から中山を防御するため、中城の地を賜ったとされる。1458年阿麻和利の攻略によって滅びた。 |
| 1853年に来島したペリー探検隊の一行も現地調査を行い、『要塞の資材は、石灰岩であり、その石造建築は、賞賛すべきものであった。石は・・・非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされているので、漆喰もセメントも何も用いてないが、この工事の耐久性を損なうようにも思わなかった。』と記し、中城城跡のすばらしさを賛えています。 |
![]() ペリー探検隊一行の画家ハイネの絵「西の郭より正門を望む」 |
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