| 会期:平成15年11月27日(木)〜平成15年12月1日(月)5日間 |
|
● シンポジウム「沖縄語の中の沖縄」
|
|
2003年11月27日(木)午後2時〜4時30分
沖縄コンベンションセンター会議棟1
|
プログラム
1.ゆんたくひんたく: 2.主催者代表挨拶: 3.沖縄語への思い: 4.沖縄の心: 休憩(10分) 5.沖縄語と日本語: 6.質疑応答: (合計105分 休憩時間10分を含む) |
|
|
|
● 生涯学習体験広場 チムドンドン体験コーナー
|
|
2003年11月29日(土)〜11月30日(日) |
沖縄は他府県とは異なり、独特の文化を持っています。言語、風俗、習慣、芸能など各分野で興味溢れる様相を見せています。 1.読み聞かせ 2.琉球かるた遊び 3.うちなー語を学ぼう 4.昔人ぬじんぶん |
|
|
|
● 沖縄語(うちなーぐち)の歩み(配布パンフレットより)
|
沖縄は琉球とも呼ばれ、沖縄県は琉球列島の大部分を占めている。琉球列島は、北から順に、奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島の4つの群島からなる列島である。これは、かつて、薩摩が琉球入りをする17世紀初頭以前、琉球王国が支配していた地域と一致する。
北東のはしの奄美大島の北端から南西のはし、台湾にもっとも近い与那国島までの弧の長さは、約1千Kmであって、その長さは、日本列島のほぼ3/1に相当する。陸地の合計面積は、日本の総面積の1パーセント弱でしかなく、また、この列島に住む人々の人口も、日本の総人口の1パーセント強にすぎない。しかも、今日、その人口のすべてが、方言を話せるわけではない。明治の廃藩と琉球処分以降の義務教育の普及、そして、強力におし進められた標準語普及と「方言撲滅」の政策の結果、今日では、若い世代を中心に、これを話すことのできない人々が増え続けている。 沖縄県における方言的な差異はたいへん大きく、その差異の程度は、青森から鹿児島までの本土方言内部の差異のそれに匹敵すると言っても決して過言ではない。沖縄県内の琉球方言は、沖縄諸島と宮古諸島を隔てる海が大きな境界線となって、北と南に分かれる。そして、北と南の間では、ほとんど通じない。琉球列島のうちの最大の島である沖縄本島の中部と南部とは、列島の中で、歴史的にも人口のもっとも稠密な地域であり、近世の琉球列島の歴史は、この地域を中心にして展開するが、その中の、首里の方言が、琉球王国の首都の方言として、もっとも代表的な方言として現在にいたっている。首里方言を含む沖縄本島とその周辺離島で話される方言が「うちなーぐち(沖縄語)」である。 15世紀に首里に城を築き、琉球列島全体に支配をのばした王朝は、支配者みずからが、東南アジア各地、中国、日本などとの貿易を行い、それを、列島の中の競争者を排除して独占していくことによって成立していった海洋国家、貿易国家である。日本本土に戦乱が続いて政治的安定が欠けている間に、中国への朝貢と日本への中継貿易によって、首里の都と宮廷の繁栄がもたらされたのである。 この、薩摩の支配以前の、17世紀初頭まで時代は、しばしば古琉球の時代と呼ばれ、ことに、15世紀末から16世紀前半の第2尚氏王朝の尚真王の時代を中心に、仮名文字と漢字が導入され、さまざまな文化、文物が、中国、日本本土、東南アジア各地から移入され、国家の支配機構と王城とが整備され、多くの寺院が建てられて、この古代的な小国家が繁栄のピークを築いた時代として知られている。 薩摩の島津氏は、かねてからこの琉球王国の中国への朝貢貿易の利益に目をつけていたが、日本本土で幕藩体制が成立して政治的安定が訪れると、1609年、琉球王国に対し、武力による侵攻を行った。こうして、薩摩は、慶長戦争以後、2世紀半以上にわたって、奄美を直接支配し、存続させた琉球王国を間接支配したが、琉球列島の言語とその伝統的な文化とは、大きな破壊を受けずに明治時代にいたることになる。それゆえ沖縄語は琉球王国の歴史を反映させて、古琉球の時代から薩摩支配以降の変則的な日中両国に従属する時代をとおして、日本語と中国語の両方から、文化的な語彙を借用語として語彙の中にとりこむこととなった。また、この列島での国家の形成は、文字と文章語の必要を生み出したが、まず、本土の仮名文字と和文とが習得され、王家の辞令や碑文が仮名文字でしるされるようになった。 漢文は、中国式に直読する方式と日本本土式に訓読する方式が入った。中国式に直読する方式は、主として中国から帰化して那覇市内の一画に住みついた人々とその子孫により用いられた。日本本土の訓読する方式は、本土からの帰化僧、本土で学んだ知識人によって用いられた。そして、漢文は、主として史書、中国への外交文書、教養人の漢詩の詩作などに用いられた。漢字仮名まじり文は、漢文書き下し体などの和文の公用文や、琉球語による歌謡類、琉歌、組踊りなどの表記、本土の文芸を模倣した和文などの表記に用いられた。なお琉歌とは、本土における和歌と同様に、沖縄において一般化した8・8・8・6の音数律をもつ定型短詩である。組踊りとは、1719年以降、中国からの冊封使を接待する目的で創作され、宮廷で士族男子によって上演された楽劇であって、そのせりふは、8・8調の韻文からなり、また随所に、琉歌が挿入されて歌われる。本土の能、歌舞伎などの大きな影響を受けて成立したものであるが、その言語も韻律も沖縄固有のものである。しかし、こうして沖縄語が表記されるのは、人名、地名などの固有名詞のほかは、このような文芸的なものに限られており、沖縄語が散文の文章として書かれることはなかった。つまり、沖縄語は、みずからの文章語を発達させるにはいたらなかった。 明治維新後、琉球王国は、1872年(明治5年)に、いったん琉球藩となってから、本土にやや遅れて1879年(明治12年)、廃藩置県を迎える。そして、明治政府の沖縄を日本語化する政策がはじまる。それ以後、今日までの間、ほぼ1世紀の時間をかけて、標準語の普及とは逆に琉球方言の衰退が進行して、現在にいたるわけである。第2次大戦前は、方言の蔑視と圧力をともなった、学校ぐるみ、そして、村ぐるみの標準語励行運動がおし進められ、その傾向は戦後にも受け継がれている。方言を話した児童、生徒が、罰として首にかけさせられた方言札は有名である。 最近の沖縄ブームを反映して、言語を含め、琉球列島の伝統的な文化に対する見直し、尊重の気運が起こり、方言に対する愛着心が増して、方言の衰退、滅亡を危惧する声が高まっている。こうして、琉球方言は、ラジオ、テレビのディスクジョッキーなどで語られることも多く、方言ニュースなどは、特に老人たちに人気が高く、沖縄民謡や、沖縄芝居もそうである。しかし、それにもかかわらず、琉球方言は、全体的にみたとき、衰退の方向にあることは変わっていない。 2000年10月に創設された「沖縄方言普及協議会」は、かな表記法や漢字かな混じり文の標準化を推し進め、それに基づいて方言教本を制作し、方言新聞の発行や、うちなーぐちを教える講師養成講座の開設、実際に児童生徒にうちなーぐちを教えたりして、方言普及活動に力を注いでいる。 一日も早く、沖縄県民が一丸となって、ふるさとのことばの大切さを唱え、教育行政に積極的に働きかけ、学校に方言教育が導入されることを念願している。それと同時に、あるいはそれ以上に大事なことは、大人が子供たちに方言で話しかけることである。日常生活の中では、地位の方言が主役を務める日が近い将来くることを願わずにはいられない。 参考資料:言語学大辞典第4巻(1992 三省堂) |
