九 州 地 方
私は九州に生まれ育ち、現在も住んでいる。従って九州に大変な愛着を持っている。仕事も電電公社生活37年のうち熊本県に22年、福岡県に9年、長崎県に3年、鹿児島県に3年、すべて九州内の勤務であった。若いころ九州電気通信局に10数年も勤務していたので、仕事上九州管内の事情に詳しくなり、九州各県にも何回となく出張している。また管理者になり北九州の戸畑に3年、福岡市に6年、佐世保市に3年、鹿児島市に3年など九州各地を転勤して回り、その思い出も多い。九州は故郷であり育ててくれた土地である。
九州については他の地区のように何年の何月何日にどこに行ってどうした、というふうな旅行記スタイルでは書きにくいので、県別に地区別に私との関係を述べていくこととする。なお沖縄県については通信局勤務中はまだ本土復帰前で関係が薄かったので旅行記スタイルで書くこととする。
福 岡 県 面積 4911キロ 人口 502万人
福岡県は人口502万、九州では最も人口の多い県で、全九州の34%を占めている。また経済力は特に高く、金融、卸し、情報、政治、工業生産高など、どれを取っても断然トップである。総合的な経済力では九州の半分近くを占めているのではないかと思う。特に福岡都市圏の発展は目覚ましく人口は急速に増加している。それに引き換え福岡県以外の九州各県は元気がなく、横這いか減少している。福岡県内でも北九州市や筑豊地区、大牟田地区などは元気がないようだ。福岡市の目覚ましい発展はよいが、九州内での福岡一極集中局が余りに急速に進むのも考えもので、均衡ある発展が望ましい。福岡県の一般論が若干長くなったが本論に戻る。
私に取っては福岡県は熊本県に次ぎ長く住んだ県で大変懐かしい所である。また通信局計画部時代には自動局や自動即時のことをやっていたので、福岡県との関係が特に深く、仕事の7割り程度が北九州と福岡の仕事で、この両都市にはよく出張した。そして戸畑電報電話局に3年、福岡市外電話局に3年、福岡通信部に3年勤務し、35歳から44歳まで人生の最も充実した働き甲斐のある年代に福岡県に合計9年間も住んでいたので、福岡県は第二の故郷ともいえるところである。また福岡市や北九州市以外の福岡県内も福岡通信部に勤務していたので、仕事上県内をくまなく廻り、殆どの市町村に行っている。福岡県内のことを述べるのに便宜上、北九州地区、福岡地区、その他の地区、に分けて記述することとする。
北九州地区
昭和11年、父と和人兄と3人で宮島見物に行ったが、途中で八幡に寄った。既に八幡製鉄所に勤めていた長兄の共輝が門田合宿所に住んでいた。ここから八幡駅に行くのときタクシーに乗ったが、このときの情景が今でも忘れられない。日は暮れ夜となり雨が降っていた。タクシーのワイパーが動き雨を払っている。ただそれだけのことだが、何故か印象に残っている。当時は車やタクシーは極端に少なく、人力車がまだあった頃で、私などがタクシーに乗るのは本当に珍しいことだった。だからワイパーの動く様子を見て感心したのであろう。60数年も前のまだ小学生の頃の思い出である。このころは鹿児島本線の黒崎、八幡、枝光などを汽車で通ると製鉄所などの工場で作業する火が直接見えていた。特に夜間は鮮明で工業地帯の真ん中を通っているようで、さすが日本の四大工業地帯だなあーと感心していた。
時代は
昭和25、6年のことになる。当時、私は九州通信局、計画部、市内電話課、都市係という職場で、自動電話局の増設計画などを担当していた。このころは九州の自動局は小倉、福岡東、久留米、大牟田、延岡のみで、福岡県に集中していた。やがて宮崎が改式し、次に戸畑と若松が27年に改式して、互地間は自動即時となった。このようなことで北九州にも度々出張していた。出張の宿泊先は戸畑にいた共輝兄の家を利用していた。出張旅費は浮くし、御馳走はあるし、汽車は二等車(今のグリー車)旅費が出て、実際は三等で行き、宿泊料は甲地といって九州では北九州と福岡のみは高かった。そのようなことで出張すれば旅費が相当余り、よい小使銭になっていた。昭和28年4月22日私達は結婚し、5月に2人で戸畑にいる共輝兄と宇部にいる典生兄に結婚の挨拶方々その周辺を見て回った。日誌はなく詳細は分からないが写真がある。これで推測すれば5月13日に熊本を発ち、その日は戸畑の共輝兄宅で歓待を受け一泊している。翌日は門司の和布刈(めかり)に行き、関門海峡を眺め門司港の船などを見て新婚気分を味あい、若松にも渡り洞海湾を眺めている。家内が阿蘇の出身だから海の景色、それも港とか工業地帯の海など、阿蘇とは趣の異なる所に案内したのだろう。いずれにしても楽しい新婚のときで、写真を見れば2人とも実に若い。我々にもこんな若いときがあったのだ。50年前の新婚時代のことだった。
14日は従兄弟の除野(よけの)彰弘さんが是非自分の家に泊まれとのことで、八幡の桃園の製鉄のアパートに泊まった。彰弘さんは結婚などで大変お世話になった伯父の次男で、東大を出てこの時は八幡製鉄に勤めていた。当時は戦後復興から高度成長期に移るときで八幡製鉄も増産体制で景気上昇の時だった。八幡製鉄も福利厚生施設として、当時としては珍しい鉄筋4階のアパート群をずらりと建て、その様子は実に壮観で目をみはるものがあり、八幡製鉄の実力を垣間見る思いがした。15日は宮島見物に向かった。
昭和35年1月、戸畑電報電話局の試験課長になり、初の管理職として戸畑に赴任した。社宅は「戸畑市天神町2丁目33」という所で天神町の商店街にも近く、便利の良い住宅地で、家は木造平屋建で庭もあり日当たりも良く、恵まれた環境だった。偶然にも長兄の共輝宅とは歩いて5分と近く、何かとお世話になり大変心強かった。熊本時代とは異なり、我々夫婦は親から完全に独立したので、家具や生活用品を整えねばならず、当時三種の神器といわれていたテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫なども次々に購入していった。また家具類なども新しいものが多くなったので、まるで新婚家庭のようになった。
娘の美智子もここで幼稚園に入園し、小学校に入学した。熊本弁丸出しが北九州弁に早変りし、その変わりようには驚いた。このように我々家族にとっても変革期で、思い出多い良い時代だった。この頃は高度成長期で、北九州は鉄鋼景気を謳歌していた。戸畑には戸畑市の全面積の半分を占めるという広大な埋立地に、我国最初の日産1500トンの最新式熔鉱炉4基を始め、各種の優秀設備をもつ八幡製鉄(今の新日本製鉄)の戸畑製造所が完成して活気に溢れていた。また海にかかる巨大な若戸大橋が昭和37年9月に完成し、そして5市が合併して百万都市北九州市が昭和38年2月に誕生した。
戸畑にいた3年間に北九州の各地の名所旧跡や公園などに家族と共に行っている。主なところを列挙すれば、
若松の高塔山公園。 ここは洞海湾と北九州工業地帯を見下ろす景色の良いところ。
八幡の高炉台公園。 眺めも良く電車の便もよいので娘を連れて何回か遊びに行った。
帆柱山。 八幡の町の後方にある500メートルほどの山でケーブルカーもある。山上にはNHKや各民放のテレビ塔があり、北九州工業地帯が一望に見えるところ。熊本などから来客があればよく案内していた。
河内水源地。 八幡製鉄の工業貯水地で帆柱山の裏側にあり桜も奇麗で、北九州にしては緑の多い所で、帆柱山から下りてきたこともあった。
金比羅公園。 戸畑の南部にある小高い山で鉢巻状に上り道があり、歩いて登るにはちょうど良いところ。戸畑、小倉、八幡の境目にあって眺めもよく、到津遊園地にも近い。
到津遊園地。 小倉の西部にある動物園兼遊園地で数回子供連れて遊びに行った。
小倉城。 細川忠興が築城した南蛮風の城で、戦後再築されたもの。小倉のシンボルになっており、小倉の祇園太鼓の競演会などもここでやっている。なお細川家は忠興の子、忠利のときに小倉から熊本に大大名となって移っている。
和布刈(めかり)公園。 門司の突端にあり、関門海峡の一番狭いところで眺めの良いところで、和布刈神社がある。この海峡は船の往来が多いところだが潮の流れは速い。源平が最後に戦った壇ノ浦の古戦場でもある。対岸の下関との間には関門国道トンネルがある。その後、高速道の九州自動車道と中国自動車道を結ぶ関門橋が出来、ここの和布刈パーキングエリアからの関門橋と関門海峡の眺めは大変良い。
若戸大橋。 若松と戸畑を結ぶ洞海湾に架かる橋で、私が戸畑に赴任したころ、巨大な橋脚が姿を現していた。やがて高さ85メートルの主塔が出来て、ケーブルが渡され橋が出来上がっていった。橋の開通1ヵ月前に橋の下部に添架された電話ケーブルを見る機会があり、橋の下にある点検用の狭い通路を歩いた。ここから海を見れば遮るものは何もない。海面まで42メートルもあり、身のすくむ思いがした。開通は昭和37年9月26日で4日後の30日の日曜、家族と共に見に行ったら、大変な人出で車道の車は勿論、歩道も見物人で溢れんばかりの賑いだった。この時までは高速道の関門橋も瀬戸大橋もまだない時代で、若戸大橋は日本で初めて海に架かる巨大な吊橋だった。
次に祭りについて少し述べる。戸畑の
提灯山笠が勇壮で面白い。昼もあるが夜が有名だ。12段309個の提灯を積み重ねた提灯大山笠が3基あるが、これをそれぞれ若者20人ぐらいで担いで、はやしながら競争して回るもので、スリルもあり見ごたえのある祭りである。提灯に火が入っているので、これが交錯する有様はさながら動く光のピラミットといったところで壮観だ。歴史の浅い戸畑の町でこのような伝統ある祭りがあるのは不思議な思いがした。小倉の
祇園太鼓も勇ましくて賑やかで良い。無法松でも名高いこの祭りは小倉人の意気をしめす伝統の祭りである。魚町の狭いアーケードの中をガチャガチャ鳴らしながら通る様は普通は喧しくて耐えられないことだが、祭りのときは違う。人々は喜々としてこれを見ている。また太鼓をたたく人は無我の境地で威勢良くたたいている。伝統の祭りは良いものである。起業祭、八幡製鉄のお祭りで八幡や戸畑では大きい行事であり、八幡では多くの出店や見世物小屋もでて賑わう。一企業の行事が町のお祭りになっている。やはり製鉄の町である。
次に私がいた頃の北九州5市の町の様子や現在の傾向などについて簡記する。
戸畑はデパートもなく、浅生通りには商店街はあったが大きなものではない。私の家の近くの天神町や三六(さんろく)の商店街もたいしたものではなかった。現在は製鉄の合理化で人口も減り、西鉄電車もなくなり寂しくなったようだ。
若松もたいしたものはなかった。当時、町のメインストリートに引込線があり、貨車が通っているのには驚いた。若松は石炭の積み出し港だったので、石炭の斜陽化で当時から元気がなかった。
八幡の中央区は以前は繁華街だったらしいが、当時から少しさびれ、八幡の繁華街は黒崎に変わりつつあった。現在は黒崎にデパートなども出来て益々その感が強くなった。今は八幡地区の製鉄所は旧式になり老朽化して一部取り壊され、その跡にスペースワールドという大きな遊園施設が出来て、大きく変貌している。
小倉は北九州の中心として栄え、当時から買い物に行くなら小倉にという傾向が強かった。ここには井筒屋という大きなデパートがあり、魚町という商店街もあり、人出も多かった。私達家族も小倉にはよく行ったが、ここに行けば都会に出て来たような気がしていた。私が去った後、小倉駅は新しい場所に移り、新幹線も開通し新駅の駅前も整備され、デパートやホテルも進出した。北方方面に行くモノレールも小倉駅始発となった。そして駅前は北九州を代表する街となった。北九州に占める小倉の地位は年々向上し、北九州の経済は小倉に集中したような感じがする。
門司は戦前貿易港として栄えていたが、戦後はその地位を失い、関門トンネルの開通で鉄道の起点という優位もなくなった。従って昔日の面影はないようだ。最近のニュースでは昔の建物を整備して、レトロの町として売り込んでいるようだ。
以上が北九州の当時の状況と最近の様子である。北九州を昭和37年に去った後も、共輝兄が小倉北区に居ることもあり、その後も行くことがある。最近は高速道路も出来て熊本との間も車で二時間で行けるようになった。また市内には都市高速道路やモノレールも出来た。朝日、毎日、読売の中央三紙の西部本社もあり、製鉄などの工業施設はリストラなどで従業員は減少したが健全で、百万都市としての地位を確保している。最近周辺地区の宮田や苅田にトヨダ、日産の自動車工場が進出したことは明るいニュースとして期待がもてそうだ。
福岡地区
福岡市は九州の中枢都市として急速に伸んできた。昭和20年代までは人口も40万そこそこで熊本、長崎、鹿児島などより少し多い程度だったが、現在では人口も142万、福岡都市圏では240万という大都市に変身し、熊本、鹿児島とは二倍以上、長崎とは3倍以上の差をつけた。特に情報、金融、卸し、出版などの経済力は抜群で、全国企業の九州支店も福岡に集中するようになった。発展の原因は九州の北部に位置し、東京大阪に近く九州を統括するに便利という地の利を得ていること。空港、新幹線、高速道路、地下鉄、都市高速道路、港湾など大量高速交通時代を迎え、これらを逸速く導入整備したこと。情報通信なども九州の要として早くから整備したことなどであろう。日本経済の成長に伴い福岡市は着々として九州の中枢都市として基盤を強化していった。
私が福岡に最初に行ったのは戦前の旧制中学時代で、家庭教師だった五高生と友人の三人で行ったが、具体的な行動はよく覚えていない。戦後になって逓信局に就職し工事課にいた昭和23年頃、福岡の電話増設工事で10日間ほど出張した。西公園の鳥居の脇にある木造2階建ての旅館に泊まっていたが、仕事を終えた夕方から夜にかけ、2階から町の様子を見ながら皆とガヤガヤ話していたことなどを思い出す。まだ23歳のボンボンの頃で宿泊出張などは珍しかったので、先輩や同僚と酒を飲みながら話すことが楽しみで、公私ともに色々な経験と知識を得ていった。そのころの福岡は戦災の復旧は一応は済み、どうにか見られる町並にはなっていたが、今のビルばかりの町ではなく、ビルは天神や呉服町などに焼け残こったビルが一っ二っあった程度だった。川端通り商店街などはあったが、新天町商店街はあったかどうかはっきり覚えない。
通信局の計画部に移り
昭和25年から自動局担当となって福岡に出張することが多くなった。この頃は町も復興から成長へ移るころで電話も増えていった。私と福岡との関係を述べると、どうしても当時の電話のことを述べることになる。土居町にあった福岡東局(局番3)は以前から自動局で、工事局もここにあった。中洲には福岡西局があり共電式市内台と市外台があった。昭和25年に西局(局番2)が自動改式して、中洲の局には市外台が置かれた。電話の増設などで仕事も増え、福岡電気通信部も出来て福岡に出張する機会が益々多くなった。中洲の市外台も後では中局(天神)のビルに移った。その後、土居町にあった福岡東局は馬出(まえだし)に出来た電話分局が東局となったので土居町局と局名を変えた。なお25年には1万5千ぐらいだった福岡の電話も年々増加の一途をたどり現在では80万(携帯電話を除く)ぐらいになっいると思う。この間電話分局も西新、博多、南、平尾、香椎、姪の浜、七隈など続々と誕生し、市外電話局も天神に誕生した。福岡の電話の歴史を書くと限りがないので、この辺で止めて、次に移る。私達は
昭和28年4月結婚し、2人で北九州、宮島、広島、岩国、宇部と旅行した後、5月18日に福岡に立ち寄っり、東公園、西公園、大濠公園、中洲、天神を見物した。当時の写真を見ると、東公園では亀山上皇や日蓮上人の銅像の前で写真を撮り、元冦の昔を思い、西公園では博多湾を見て、海岸まで下りている。今ではこの付近の海岸は埋め立てられ、都市高速道なども走り、すっかり変わっているが当時は西公園の下はすぐ海だった。中洲も天神もビルの様子が今と違い貧弱だ。ただ天神の岩田屋は今と変わらない。この旅行には三脚とセルフタイマーを持って行ったんであろう、二人で仲よく写っているものが多い。この写真を見れば2人とも若く、私も頭髪ふさふさ黒々のハンサムボーイである。今では髪の薄い白髪の七十六歳(平成11年現在)の老人になってしまった。このような若い時代もあったのかと改めて思う。昭和35年から37年まで戸畑にいたが、
36年の正月には八幡製鉄にいた共輝兄が運転手付きの乗用車で宮地嶽神社、筥崎宮、太宰府天満宮の三社参りに行くから、ついて来ないかと言われ、幼稚園の娘を連れて参拝した。翌年は家内と小学1年生の娘を連れて3人で三社参りをして、天神の岩田屋などにも寄った。3つのお宮とも歴史のある由緒あるお宮で、正月に三社参りをすることは博多の人達の年中行事のようになっているようだ。正月は初参りの人が特に多く、満足にお参りも出来ないほどの賑ぎかさだった。西新町の北、百道(ももち)に電電公社の会館があって、ここの北側は、もう海岸の砂浜になっていた。なおこの会館はその後、渡辺通りに移り今はない。この付近の変わりようは大変なもので、海は大きく埋め立てられ、都市高速道が走り、インターチェンジが出来て、博覧会が開かれ、その後、福岡ドームが出来て36階建ての大きなホテルが出来るなど大変革を見せている地区である。戸畑にいたとき家内と娘と会館に泊まり、翌日は海水浴を楽しんだことがある。今はその海も遥か沖合にしかない。35年前のことが夢のようだ。
昭和38年5月、福岡市外電話局の試験課長になり福岡に転勤した。そして41年には福岡通信部の調査課長になり44年までいたので都合6年間、福岡に住むようになった。福岡は私の転勤生活のうちで一番長くいたところで、思い出も多い。最初の社宅は西鉄急行電車の井尻駅から東南に徒歩7分の借り上げ社宅で、周辺はまだ田圃が多く、蛙の合唱が喧しい程だった。公営の水道もなくポンプで汲み上げていたが、鉄分が多く砂で漉して使っていた。
1年したら公社のアパートが井尻駅の西に出来て移った。ここも周辺に農地があり、春にはれんげの花が咲くなど、のどかな田園風景が残っていた。ここは福岡市に合併されるまでは日佐(おさ)村で、娘の通った日佐小学校付近は農協などもあり、昔の農村風景が色濃く残っていた。村の中心に役場、小学校、農業倉庫などの集落があり、付近は一面の田圃が広がっているというのは典型的な農村風景であるが、このような情景を彷彿とさせるものがあった。それが都市化の波がよせ、アパートなども建ち、家が立ち並ぶ町となっていた。10数年前この付近に行ったら、アパートなどビルも多くなり更に都市化が進んでいた。現在ではビルも高層化して、すっかり変わっていることだろう。ここに5年間もいたので、家内も同じアパートの奥さん達とも仲よくなり、一緒に博多の町にも行っていたようだ。あれから30年以上経った今でも、そのときのメンバーと付き合いが続いている。なおアパートは鉄筋2階建ての3棟あり全部で40所帯程度で、裏には独身寮もあった。
福岡は気候も良く、台風など天災地変も少なく住みよい町で、町の規模も東京や大阪などのように大都市の煩わしさはなく、単なる地方都市でもなく、適当な規模の都会的センスのある町である。またプロ野球や大相撲九州場所もあり、音楽会や美術展などもあり、娯楽面も文化面にも恵まれ、ショッピングもデパートや商店街なども多く、都会的雰囲気も楽しめる町である。福岡時代は仕事的にも家庭的にも割と恵まれた頃で、ここでの6年間は私にとって生活に張りがあり、楽しみもあった良い時代であった。
昭和44年に福岡を去ってから、早や30年の歳月が流れた。この間、福岡は新幹線が開通し、地下鉄が出来て、都市高速道も出来るなど、物凄い発展を遂げた。今や東京首都圏、大阪近畿圏、名古屋中京圏に次ぐ堂々たる大都市の風格を備える都市となった。これからも九州の中心都市として益々発展するだろう。
福岡に居たとき多くの所に行ったが主な所を列挙してみよう。なお当時のことを主に書くが現在のことも付け加える
太宰府天満宮……学問の神様、菅原道真を祭る歴史の大変古い由緒あるお宮で、参詣人の多いことも九州一である。梅の名所としても名高く、境内には6000本といわれる梅の木があり、2月から3月にかけて梅見の人と合格祈願の人で賑わう。拝殿の前には管公を慕って京都から飛んできたという飛び梅がある。私達は福岡の6年間の元日には毎年お参りしていた。元日は大変な人出で歩くことも出来ないような混みようで、特に太鼓橋付近は多かった。ここの名物「梅ヶ枝餅」が好きでよく買って食べていた。天満宮には家内の母など熊本からのお客が来ると、よく案内していたので今までに20回はお参りしたと思う。娘の美智子も私たち夫婦と正月などに、良く参拝に来ていたが、30年もたった今でも、子供(私からは孫)の高校や大学の合格祈願に熊本からわざわざ来ているようだ。天満宮の右に石庭や苔の美しい光明寺という古い寺があるが、この庭を見ると何故か心なごむものがあった。天満宮の手前に観世音寺と都府楼跡がある。
太宰府の今昔。左は昭和39年元日の初詣風景、私39歳、家内34歳、娘10歳。右は平成8年4月29日。同じ場所で、娘の娘、つまり孫の紗代16歳。お宮は変わらなくても、33年たち時代は確実に変わり、私たち時代から娘の時代へ、そして孫の時代へ変わりつつある。なお右の写真で、私と孫2人の歩く後姿も見える。
観世音寺は1200年以上の前のお寺で、太宰府華やかな頃は七堂伽藍を有する大寺院で、梵鐘は創建当時のもので国宝。境内の収蔵庫には大きな由緒ある仏像が10体ほど並んで昔の太宰府文化のあとを忍ばせている。都府楼跡は昔の太宰府政庁の跡で、これらの建物の礎石がたくさんあり、今は公園化され広場になっている。この付近には家族と何回も来ている。まだ小学生だった娘に「太宰府は1000年以上前に九州を治める大和朝廷の役所があった所で、九州の政治の中心だった所だよ」など歴史の説明して、遊ばしていた。娘は元気よくこの付近を飛び回っていた。今は更に公園化が進み奇麗になっているそうだ。
筥崎宮など……筥崎宮は東区にある古いお宮で敵国降伏の額がある。楼門は桃山時代、本殿と拝殿は室町の建物だそうだ。1月3日に行われる「玉せせり」は有名で、私も1回見たが、褌一っの青年達が玉を頭上で奪い合うという伝統ある勇ましい行事で、見ているだけで熱気が伝わってくる。なお福岡にはこの外、香椎宮、宮地嶽神社、宗像大社という大変古い由緒あるお宮がある。いずれも何回もお参りしているが詳細は省略する。
西公園など
……西公園は桜の名所としても有名、私も福岡にいたときは家族と花見に行っていた。海岸の小高い丘だが、現在は埋め立てられて海岸線も遠くになり、すっかり変わってしまった。公園といえば東公園や大濠公園がある。東公園には県庁が、大濠公園にはNHKがきたようだが、これらが出来てからは、まだ行ってはいない。香椎にはチューリップなど四季の花が奇麗な香椎花園あった。ここも家族連れで何回か行った。福岡城址と平和台球場……黒田52万石の福岡城があったところで、そこに平和台球場と平和台競技場があった。私が福岡にいたとき平和台球場で西鉄のゲームを10回ほど見た。稲尾や中西もいた強い時代で優勝したゲームも見た。その年の最終ゲームの近鉄戦で勝ち、優勝を決めた時で、そのときの熱烈な西鉄ファンの興奮度は最高に達した。私も多くの観衆と共にその興奮に酔った。ナイトゲームは明るくて誠に奇麗、初夏の宵などは適当な風もあり、照明に照らされたグランドは絵のように美しかった。野球が終わると観客は一斉に西鉄の電停の方に行く、終わる頃は市内電車が10台近くも続いてやってくる。タイミングのよい配車計画にいつも感心していた。今はこの路面電車もなく、プロ野球の球場も福岡ドームに変わった。変わったと言えばライオンズは関東に移り西武ライオンズとなり、福岡にはホークスがきた。福岡ダイエーホークスとなり、ホームグランドは新装なった福岡ドームになった。平成6年に、この開閉自由な屋根をもつ福岡ドームを見学に行った。大きいことと設備の良さに感心した。ここは埋立地で周辺も広く、隣には36階建ての大きなホテルも建った。
大相撲九州場所……福岡市外局にいたときは、局のすぐそばにある天神のスポーッセンターで開かれていた。場所中はこの前に多くの幟が立つ、通勤のときこれを見ながら通っていた。局のレク経費で2回ほど九州本場所を見に行った。わりと良い席で大相撲の雰囲気を味わうことが出来た。熊本出身の栃光という大関がいたが、力がいると白い体がピンク色に染まっていたのが印象的だった。
志賀島と海の中道など……博多湾に防波堤みたいに突き出ているところが海の中道で、その先端に志賀島がある。志賀島は「漢倭奴国王」の金印が発見されたことで有名な島で、景色が大変良いところである。国民休暇村などもあり、通信部時代ここで施設部門の課長会議を開いたたこともあり、熊本から家内の母が来たときには案内し、さざえを食べた記憶がある。また夏には家族と共に海水浴を楽しんだ場所でもある。海の中道は細長く伸びた白砂青松の砂浜で狭いところは右も左も海で、天の橋立に似ているところがある。西戸崎には米軍のキャンプ(駐留軍基地)があって、特別電話局もあった。昭和41年、車の免許を取ってすぐ、車に慣れるため、通信部の運転のベテランを助手席に座ってもらい運転したが、この付近の速度制限の表示板はキロでなくマイルで表示してあった。米軍がいたためだろうが奇異に感じた。
能古島……博多湾の島で、姪の浜から船で行く。夏同じアパートの家族と私の家族でこの島に海水浴に行った。その日は夏の全国高校野球で三池高校が全国優勝したときで、テレビを見ながら興奮したことを思い出す。
生之松原……姪の浜の西にある海岸で、砂浜に枝振りのよい松がたくさんあるところで、私の好きなところである。免許を取って初めてレンターカーを借りて、家族を乗せ唐津までドライブした。そのときここで休憩した記憶がある。なお車を買ったのは2年先の43年だった。またゴルフ場の名は忘れたが、昭和43年、初めてゴルフのプレーをしたのがこの付近のゴルフ場だった。生まれて初めてのゴルフで130も打たいた。今から30年近く前のことになる。ゴルフのスコアーは一番安定していたのが53年ごろで102程度、今は老齢化して120も打たくようになった。
篠栗……福岡から筑豊の飯塚に行く途中にある町で、ここには四国88箇所に似た篠栗霊場巡りがある。白装束、管笠、金剛杖の巡礼姿でお寺を巡る人も見かける。同じアパートに熱心な人がおり、薦められてここにお参りした。勿論平服でハイキング気取りで参加、一番札所の南蔵院始めに4っか5っの寺にお参りしたが、一っは相当山の中の寺だった。奥の院だったかも知れない。春や秋の天気の良いときは、のどかで良いものである。
博多の祭り……博多どんたくと、博多祇園山笠が有名である。
どんたくはシャモジを叩きながら町を練る歩く古くからのお祭りで、5月3・4日に行われる。私が福岡にいたころは町々に舞台がかかり手踊りや博多にわかの面を付けたにわかなどがあっていたが、最近はパレードなどもあり年々派手になっているようだ。ゴールデンウィークとも重なり大変な賑いで、人出も200万ともいわれ5月の連休期間では、毎年日本一の人出を記録しているようだ。祇園山笠は7月1日から15日までの櫛田神社のお祭りで、高さ6メートルもある大きな飾り山笠が福博の町に10数個も出現する。表は武者絵、裏は漫画の主人公といったところが主流で見事なものである。これは見せる山笠であるが、引き出す山笠がある。祭りのハイライトは15日の早暁行われる「追い山笠」である。私も1回見に行った。朝4時に起きて櫛田神社に行く。空の白みかけた午前4時59分、赤褌に揃いのはっぴ姿の若者が一番山笠を担って櫛田神社に勢いよく駆け込む。男の意気というか、その勇壮さは見たものでないと分からない。神社で「祝いめでた」を歌って、また早朝の町に駆けて行く。勇ましい祭りである。毎年テレビの中継があっている。
天神……福岡博多の繁華街と言えば天神、中洲、それに博多駅周辺を言うようだ。中でも天神が繁華街としてのイメージが強い。3年間勤務した福岡市外電話局は天神2丁目にあり、天神の中心地の岩田屋や西鉄大牟田線の福岡(天神)駅からも歩いて5分と近かった。この電車で通勤していたので天神は我が庭みたいなものだった。当時から西鉄の駅周辺は九州一の岩田屋デパートがあり、駅の地下は西鉄商店街で飲食店や商店があり、隣は新天街商店街とショッピングの中心地だった。またこの天神周辺にはビルも多く、ビジネス街でもあり、九州一賑やかな街だった。
私のいたのは昭和38年から40年だから、それから30数年の歳月が流れた。福岡は大きくなり、天神も益々充実してきた。現在では地下鉄や大規模な地下街も出来て、大きいビルが幾つも建った。三越や大丸デパートが進出し、アミューズメントビルなども建ち、名実共に九州一の繁華街となった。かもめ族やありあけ族(長崎や熊本から福岡に行くJR特急の愛称名をかもめとかありあけという)という若者が九州各地から集まり、ショッピングに娯楽に都会気分を楽しんでいるようだ。最近はこの方面に行ってないので、戸惑うだろう。
私がいた天神の電電ビル(当時は福岡都市管理部、福岡市外電話局、中電話局、中央電報局、電話中継所、無線中継所、電信施設所などがあった)も、その一部、電報局などがあった北館が取り壊されて、その跡に岩田屋デパートのZ館などが入るビルが建った。世の中も変わるものである。
中洲……中洲は九州一の歓楽街である。この真ん中に福岡通信部があった。このような飲屋街に通信部があるのは奇異に感ぜられるが事実である。この局の歴史を簡記すれば、明治31年にこの地に電話交換局が設置され、明治43年に磁石複式になり、大正12年に共電改式になった。昭和12年に東分局が自動改式され、昭和25年に西局も自動改式になり、ここは市外台が置かれた。この市外台も昭和33年に天神に移り、この後に福岡通信部がきたわけである。その通信部も昭和42年6月に博多駅近くの庁舎に移った。このようにここは福岡の電話発祥の地であり、明治、大正、昭和と3代にわたり福岡の電話の推移を見守ってきた地である。その後ここはどう使われたか余りよく知らない。中洲の局の説明が長くなったが元に戻す。
私が通信部にきたのが昭和41年1月で通信部が博多駅近くに移ったのが42年6月だから中洲には僅か1年半しか勤務してない。元々共電式電話局の建物だから事務室には向いていない。天井が高かったり低かったり、段差があったり小部屋が多かったりで各課の配列は良くなかった。
この付近は博多のネオン街で多くのバーやキャバレーそれにパチンコ屋、映画館などが並ぶ九州一の歓楽街である。夕方になると飲屋の女性が薄着で厚化粧する姿が見えるなど艶ぼい雰囲気があった。映画館はそのころ、既に落ち目になっていたが、まだ通信部の周辺には数軒の映画館があり派手な看板などを出していた。中洲の飲屋は一般に高級で料金が高い。我々は常日頃はこのようなところは敬遠していたが、忘年会や送別会などには華やかな中洲の町に繰り出して楽しんでいた。通勤は中洲から天神まで歩き、西鉄急行電車に乗っていたので、福岡博多の一番よいところを歩いていたことになる。
通信部に移ってから自動車の運転免除をとり、自ら通信部のライトバンを運転することがあった。繁華街の真ん中で道もゴチャゴチャしており、路面電車の中洲の電停も近く、通信部の門も駐車場も狭く、運転には大変気を使かった。免許取り立ての新米運転手がよくこのような、ややこしい所を運転したものだと、今でも思っている。この経験が運転技術向上に役に立ったのは事実である。
博多駅周辺……中洲や天神の町には歴史があるが、ここは新しい町である。旧博多駅は昭和30年頃までは今の駅より数百メートル北西にあった。現在の駅付近は比恵とか堅粕とかいう地名で呼んでいたと思うが、田や畑の多い地帯だった。それが駅の移転と共に、急速に発展した。博多口の方は駅前に大きいビジネスビルが幾つも建ち、一等地になった。博多口に比し寂しかった筑紫口の方でも最近は新幹線の開通などで、ホテルなどのビルも幾つも建ち、8階建てぐらいのビル街となってしまった。ここが40数年前までは田や畑だったとはとても思えない。博多口の方は更に堂々とした10階建てぐらいの大きいビルばかりで、福岡博多の玄関口にふさわしい所となった。最近は地下鉄も出来、地下商店街も大きくなり充実した。ショッピングにグルメに、旅行者は土産物や飲食に利用している。このように博多駅周辺は大変革した。
昭和42・3年の博多駅東の福岡通信部時代のことに戻る。通信部は博多駅の筑紫口から200メートルばかりの博多電話局の5階にあった。この頃までは現在のようにビルも立て混んでなく、ポッリポッリと建っていた。まだ新幹線もない頃で窓から駅のホームが見えていた。通勤は駅横のバスセンターから乗降し駅を突っ切っていたので、地下商店街は通勤順路になっていた。たまにはここで課員と一杯やるなど博多駅周辺は思い出の多い所である。新幹線で本州方面へ旅行したとき、博多駅で乗り換えるが、駅内外の発展変貌ぶりには驚くほどである。
筑後地区
筑後地区とは久留米、大牟田、柳川、大川、瀬高、筑後、八女、田主丸などの地区を指す。電話の帯域上では久留米中心局エリヤで、福岡県南部になる。この地方は久留米や大牟田などの都市もあるが、広々とした筑後平野に豊かな農村風景が展開し、そこに市や町が点在するという構図になっている。若いころ関係のあった大牟田から話を進める。
大牟田は戦災で潰滅的打撃を受けていた。終戦まもない昭和21年終わりから23年にかけ、大牟田の電話の復旧工事に従事した。逓信局の工事課にいたころで、熊本から通って復旧工事をした。大牟田の町は空襲のため、無残に焼け見渡す限りの焼け野原で、熊本の戦災より酷どかった。この焼跡に電柱を立てケーブルを引き、ようやく建ち出したバラックに電話を一軒一軒つけていった。自動車も殆ど無いときで、大八車を押しての作業で大変だった。工事の終わるころは100ぐらいだった電話も1000ぐらいまで復旧した。現在では大牟田の町も奇麗になり、自動車は町にあふれ、電話も数万となり各所帯に普及した。隔世の思いがする。今の大牟田は基幹産業の石炭が斜陽化し活気がないようだが、そのころは敗戦のショックはあっても、炭鉱や工場の労働者は多かった。汽車も長洲あたりから通勤者で一杯になっていた。ある工場から甘味料のサッカリンを貰ったことがある。まだ砂糖も不足していた頃で久し振りに甘いものにありつけると嬉しかったことが思いだす。当時はまだ物不足、食糧不足の時代だった。
久留米は筑後地方の商業の中心地で、絣とつつじで知られる町である。また有馬21万石の城下町で、市内には石橋文化センター、水天宮、高良神社などがある。終戦後しばらくは石炭景気の大牟田の方が人口も多かったが、今は逆転し久留米が多く、名実共に筑後地方を代表する都市となった。
久留米に最初に行ったのは計画部に移ってすぐの昭和24年、御井町の電話加入区域を久留米に合併する問題で調査に2人で行った。今では電話の加入区域などは問題でないが、そのころは料金で格差があるなどで合併が強く望まれていた。御井町は久留米の市内でその先の善導寺も久留米市内だ。それから数カ月して御井町の区域は合併された。
久留米は自動局で計画部時代に数回出張し、福岡通信部のときは管内だから当然何回も出張している。JRの久留米駅と西鉄の久留米駅は離れれている。西鉄の駅の方が賑ぎやかで電話局もこちらに近い。久留米は筑後地方の中心都市だが福岡と近いので福岡への通勤者も多い。久留米の北12キロに小郡という町があるが、通信部にいたとき大規模な宅地造成があるということで電話の発達調査をした記憶がある。最近ではすっかりベッドタウン化し人口も増え市に昇格した。通勤者は近い久留米より2倍以上離れている福岡に通勤する人が多い。福岡の経済の肥大化によるものだろう。この付近は福岡や久留米の都市化現象の影響を受けているが、浮羽郡や八女郡方面はまだ農村的色彩が強い。原鶴温泉は筑後川に面した大きな温泉地で、福岡市外局にいたころから数回利用している。俗化しているが福岡県では数少ない温泉地である。
田主丸、吉井方面は豊かな農村地帯で植木、ぶどう、柿などの産地としても知られている。秋にこの方面に行ったとき黄色に色づいた見事な銀杏の木があった。農村の「里の秋」を連想するような長閑な平和な光景に、しばし感傷的になったことを思い出す。八女から黒木、矢部と進むと山間部になり、ダムなどもある。福岡県にもこのような山間部もあるのだと認識を新たにした。
柳川は北原白州の生誕の地で川下りが有名である。うなぎのせいろ蒸しも名物で、退職後娘夫婦一家と柳川を見物してこれを食べた。大川は筑後川で木材を集めタンスなどの家具製造の盛んなところだが、今も木工業の町である。佐世保にいたころ、熊本にマイカーで帰るとき、大川や柳川を通っていたが、柳川では渋滞に巻き込まれることが多かった。城島は酒醸造の町で造り酒屋がある。三潴や大木は田園農村地帯で、私が通信部にいたとき自動改式した。計画部にいたとき、瀬高、柳川、大川、大牟田の市外帯域上の集中局をどこにするか迷ったが、諸般の事情から瀬高になったが問題のある決定だった。
再び久留米に戻る。
石橋文化センターは総合文化施設で石橋コレクションの絵画や彫刻を集めた美術館があり、庭園もあり池もある。退職してから娘夫婦一家とここを訪れたが、雰囲気もよく気持ちの良いところだった。久留米には筑後川に面して格式のある水天宮があり、また寺町という由緒あるお寺が幾つもあるところがある。城下町特有の町割りの名残だろう。平成6年9月18日、郷土史の荒木さん主催の久留米地区歴史探訪のバスツアーに日帰りで参加して、善導寺や高良神社などに行った。
善導寺は久留米市の東部の善導寺にある浄土宗の九州本山で、800年の歴史を有する古くて大きい寺である。堂々とした古い山門があり、広い境内の一角には驚くほど大きい楠の大木があった。高良神社は久留米市の東南部の小高い山にある。大変古いお宮で筑後一の宮であり、社殿は権現造りで厳か。ここからの眺めが素晴らしい。九州自動車道がすぐ下に見える。また筑後川の流れや久留米市街地の眺めが良い。仕事上久留米との関係は深く何10回も来ているのに善導寺や高良神社には行った記憶がない。仕事熱心で直接関係の無いところは行かなかったのだろう。帰りに広川町の石人山古墳と岩戸山古墳と瀬高町の清水寺を見る。古墳は6世紀に大和朝廷と戦った磐井の墓と思われるもの。清水寺は古いお寺で広く、三重塔もあった。これらの存在は今までで知らなかった。
筑豊地区
筑豊地方は炭鉱地帯で石炭の町だった。相次ぐ閉山で今では炭鉱は一鉱も残ってない。私が計画部にいた昭和30年ごろ筑豊に出張したとき、炭鉱からヘッドランプをつけて上がって来る多くの炭鉱マン達の姿を見た。山の男の逞しさを感じた。そして多くの炭鉱住宅を見て、三角形のボタ山も幾つも見た。もうこんな光景はない。筑豊のシンボルだったボタ山は無くなった。あっても円みをおび草が生え、もうボタ山とは言われない。筑豊地区は石炭産業の衰微により一時は人口も激減したが、現在は落ち着き、宮田町にはトヨダ、苅田町には日産の自動車工業がくるなど新しい産業が育ち、様変わりしている。一方山田市などは閉山で人口が減少したままの所もある。
筑豊の代表的町は飯塚、田川、直方の三都市だ。なかでも飯塚が一番の都市で町も奇麗でアーケード街などもある。最近では篠栗線で博多への通勤も便利になった。福岡通信部時代に飯塚に車で行くとき、篠栗の先の八木山峠にくると筑豊地方の景色が一面に広がりボタ山が見えた。この景色を見て筑豊だなぁという実感がわいてきていた。田川は炭鉱町で伊田と後藤寺が合併して出来た市で市役所も電話局もその真ん中にある。JRの駅は伊田と後藤寺のままだったが、最近時刻表を見たら田川伊田、田川後藤寺と駅名が変わっていた。直方は鉄道の機関区などもあった石炭に支えられた古くからの町だ。私の父は鉄道マンだったが、結婚前だから明治時代に直方の機関庫に勤めていたらしい。このころから筑豊炭田の石炭を鉄道や船で若松に輸送していたんだろう。直方になれば遠賀川沿いで博多より北九州が近い。特に折尾や黒崎には近く、黒崎との間には筑豊電鉄で結ばれている。
その他の地区
福岡県でまだ書いてないところがある。福岡の西の前原方面。行橋、築城、椎田、豊前の日豊線沿線。宗像、福間、古賀などの北九州と福岡の中間地点。焼物の里小石原。修験道の英彦山などである。これらを簡単に述べる。
前原は福岡の西にある町で交通も良くなり住宅化が進み人口が増加し市に昇格した。唐津に行くとき通るが、糸島半島の海岸線は芥屋大門を始め景色の良い海岸がある。
行橋から南は農村地帯で築城には自衛隊の航空基地がある。豊前は以前は八屋といっていた町で大分県の中津に近い。通信部にいたとき中津に手動集中された関係で大分通信部所属となり、書類の引き継ぎなどをした。平成五年十一月にマイカーで小倉からこの方面を通り耶馬渓に出て熊本に帰ったが、有料の立派なバイパス道路も出来ていた。
宗像や古賀は北九州と福岡の二大都市に挟まれた位置にあり、両都市に通勤する人達のベッドタウンとなっている。最近福岡の都市化の進展と共に益々その傾向を強めている。この地区には宗像大社や宮地嶽神社など古い由緒あるお宮があり、昔から海運交通の神様などとして信仰を集めている。
焼物、陶器の里として小石原村や宝珠山村などがある。鄙びた山里で、製作中の多くの皿などを干している光景や陶工がロクロを廻す姿を見ることが出来る。山を下りれば大分県の日田も近い。
英彦山は出羽の羽黒山とともに修験道の霊場として栄えた海抜1200メートルの山である。英彦山神宮には年輪を刻む深い杉木立の中、苔むす石畳の参道を進むとやがて銅の鳥居、そして奉幣殿に達する。このような鬱蒼たる杉木立の中、歴史のあるお宮に来れば、信仰心の薄い者でも敬虔な気持にさせられるものがある。ここに来るときの思い出を一っ。免許取り立てで、運転に慣れるためベテランの係長を助手席に座ってもらい私が運転していた。狭い坂道で先方からバスがきた。バスの運転手がもう少し端によれと手で合図しているが、なかなか思うように出来ない。係長が「替わりましょう」と言って運転を替わり楽々と離合してくれた。新米運転手の頃の思い出である。
福岡県には9年間もいて殆どの市町村に行っているので思い出も尽きない。福岡通信部管内だった壱岐、対馬のことを書いてないが、ここは長崎県である。福岡県について、これまで相当の頁数を費やしているが、まだ書き足らない所がありそうだ。例えば甘木、筑後(羽犬塚)平尾台などは抜けている。しかし、長いことが良いとは限らないので、このへんで福岡県は終わることとする。
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