沢渡通信 「 霧ヶ峰 沢渡 通信 ・ 皆さまからの便り 」
スペース報告復活第4回霧ヶ峰山の会 (PDF:148kb)スペーススペーススペース山の便りスペース

スペース■ 皆さまからの便りスペース【 新企画 】
NO.5 スペース霧ヶ峰とヒュッテ・ジャヴェルスペース霧ヶ峯【ヒュッテ・ジャヴェル】NEWアイコン 高田太久吉さんスペース2012.2
NO.4 スペース霧が峰によせて 上野真一郎さんスペース2011.5
NO.3 スペース霧ケ峰、ジャヴェル、そして私スペース 沢田裕広さんスペース2010.4
NO.2 スペース霧ガ峰春秋スペース 伊藤万吉さんスペース2010.1
NO.1 スペース孫たちの霧ヶ峰 川上嘉彦さんスペース2009.8

霧ヶ峰とヒュッテ・ジャヴェル
高田太久吉(たかだたくよし)さんスペース2012.2
車山の中腹に友人と相談して小さな山小屋を建てたのは1980年代初めのことである。それ以前は、毎年夏になると、リュックに本を詰めて乗鞍岳の長野県側にある番所にでかけ、農家の一部屋に間借りし、夏の間本を読んで過ごした。

しかし、大学院を終えて東京の大学で教鞭を執るようになり、結婚して子供ができると、農家に間借りというわけにはいかなくなった。二夏ほどは東北の湯治場で過ごしたこともあったが、やがて親友の一人が車山の別荘地の情報を持ち込んできたので、相談のうえ山小屋を建てることにした。

こうして、車山が私の新しい夏の居場所になった。やがて、夏だけではなく、四季を通じて車山を訪れる様になり、スキー場から、乗越し、車山湿原、喋々深山や二つの耳を経て八島にいたる霧ヶ峰高原が、私の散歩道になった。高原はほぼ全体が草の海に覆われ、草木は四季折々の花をつけ、花には色鮮やかな喋が集い、上空にはいつもさわやかな風が吹きわたっている。

冬ともなれば、草の海は一面の雪野原に変わり、広大な空間を隔てて八ケ岳、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、浅間の峰々が、巨大な白い額縁のように視界の周縁を飾っている。広々とした稜線からおりて、先ほどまで郭公の声が聞こえていた深い林のなかに踏み入ると、そこは木漏れ日だけの静寂の世界で、自分と自然との距離が一挙に近づいた不思議な感覚に襲われる。

私は社会科学を専門にしており詩人ではないが、一人で霧ヶ峰を逍遥しながら、高原を走りすぎる風の行方にアルプスの山稜を眺め、草の海を思いがけない速さで渡ってゆく雲の影を追っていると、霧ヶ峰を縦横に歩いてこの広大な自然を謳歌したかつての詩人たちの感慨の一端が感じ取れる気がしてくる。

しかし、現在の私にとって霧ヶ峰は、単なる高原の散歩道ではない。霧ヶ峰を私にとって他に代え難い特別な場所にしているのは、ヒュッテ・ジャヴェルとそのオーナーである高橋保夫・早智子さんご夫妻の存在である。

四季を通じて霧ヶ峰を歩くようになったある年の夏、八島からの帰路に沢渡りで小さな標識を目にした私は、しばしの休息と一杯のコーヒーを求めて水沿いの小道を上り、ジャヴェルの玄関に足を踏み入れた。それが高橋さんご夫妻との最初の出会いであった。

小屋の前には清流が心地よい音をたてて流れ、スイスのシャレーを思わせる小屋のテラスには赤い花が置かれていた。以来、ヒュッテ周辺の静かなたたずまいとご夫妻のあたたかな人柄に魅かれて、八島周辺を訪れるたびにジャヴェルに立ち寄るようになった。

その都度、保夫さんからは、霧ヶ峰の草花や地史、山行やスキー、若かりし頃のドイツ滞在、南極越冬、小屋を訪れた登山家や文人達にまつわる貴重な話し、さらに父君から受け継いだ由緒ある山小屋を管理する楽しみと苦労を伺った。

特に、外が雪に覆われてトレッカーの気配も消えた冬の午後に、大きなまきストーブの傍で話し込んでいると、思わず時が過ぎるのを忘れてしまった。そんな折の保夫さんの話しぶりからは、霧ヶ峰とジャヴェルへの深い思いと愛着がしみじみと感じられた。

私は、ジャヴェルの変わらないたたずまいと高橋さんご夫妻の末長いご健在を心から祈念しているが、正直を言えば、それはジャヴェルが私にとっていつまでも特別な場所であり続けてほしいという密かな利己心に発しているのである。
「中央大学名誉教授」
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霧が峰によせて
上野真一郎さんスペース2011.5
 昨年の秋のことです。霧が峰高原の北側にある本沢に林道が造られました。そこは、あの田部重治が昭和5年に歩いて紀行『峠と高原』にも記したコースです。その林道が造られる以前、私は、何度かその美しい渓に足を運んでいました。

霧が峰には、ビーナスラインが造られる以前に、下から高原に歩いて上がる道が行く筋もありました。それらの道の多くは、今では歩く人も稀になり廃れていますが、そんな廃道の中でも秀逸なのが、この本沢道でした。

入り口の男女倉の集落には、そこだけ時の流れが止まったかのように、田部重治も見たかもしれない茅葺屋根の農家が朽ち果てる寸前に一棟だけ残っています。途中の林道の傍らのモミの木の下には、山ノ神の石祠が立っています。唐松の林を抜けてくれば、足元には、ササバギンランの清楚なお花が咲き、季節が巡れば、滲み出た流れにクリンソウの群落が花々を咲き誇らせていました。

笹薮に、道形が隠れてしまった箇所もありましたが、概ね、昔日の道形が見て取れるくらいに残された廃道でした。道は、登り歩めば、やがて美しいミズナラや白樺の闊葉樹の明るい林に入りました。その辺りが、最もこの廃道の美しい場所でした。私は、しばしばこの林で腰を下ろしこの渓を楽しみました。新緑の頃、紅葉の頃の美しさは、とても素晴らしいものでした。

そして、さらに進めばモミとカラマツの植林に入り道形が消える頃、薄暗い森の上に、明るい高原の一部が輝きを届けてくれています。その森の終わりには、季節には、イチヨウランが数株、目立たない花を咲かせて迎えてくれています。しかし、林道が造られて、その渓の様相は一変し、がさつな悲しい景色になりました。

積雪期なら少しはましかと思い、冬のある日に、XCスキーで滑り込んでみれば、やはりあの優しい斜面はなくなり、角ばった路肩ののり面が、どうしようもなく悲しさを感じさせました。もう、あの美しい渓の小道は、永遠に無くなってしまったのです。霧が峰は、ビーナスラインの開通に次いで、再び、そのかけがえのない宝を失ったのです。

しかし、高原には、いまもひとつ、とても大切な宝があります。それは、ヒュッテジャベルです。もし、この山小屋がなかったのなら、霧が峰の魅力は、半減してしまうことでしょう。私が、この谷間の山小屋の存在に気がついたのは、随分昔のことです。まだ、登山用品の専門店に就職して間もない頃でした。

学生時代のように、時間をかけての雪山登山もままならず、それではと、覚えたてのスキーでも使って、簡単に雪山を楽しめる場所はないかと探したところ、見つけたのが、この霧ヶ峰高原でした。車山スキー場からリフトで上がり車山を越えて、反対側の未知の高原に滑り込んで行ったのです。

深い雪に膝ほど埋もれ、滑り込んだ高原のあまりの美しさに目を見張りました。人を容易に寄せ付けない険しいアルプスの雪の山々とは、また異なる、何とも言えないたおやかな雪景色に、日本にもこんな美しい場所があるのかと感嘆しました。その折に、ふと谷間を見ると小屋があることに気が付いたのです。

しかし、そのころの私には、ただただその広い高原をスキーで滑り、登り、歩き回ることに気が行ってしまい、その山小屋への興味は、それ以上のものにはなりませんでした。月日が流れ、多くの山々を巡り、年齢を重ねて、あることを切欠として、山岳ガイドと言う職につきました。この仕事では、自分が山の頂に立つことが目的でもなく、その頂きに立つことが喜びでもありません。

山慣れぬお客様に、美しい山の自然に巡り合ってもらうこと、そして、お客様が喜びを感じることが目的となったのです。そのような職につき、お客様を案内する時に、頭の片隅に、若い頃見た深い雪の中に埋もれていた谷間の山小屋が、なぜか蘇ってきたのです。そして、初めての宿泊以来、四季を通じてこの麗しい山小屋に訪れることは、私の定番のコースとなったのです。
Die beste Gebirgshutte
社団法人日本山岳ガイド協会理事
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霧ケ峰、ジャヴェル、そして私
沢田裕広さんスペース2010.4
 四季を通して霧ケ峰に出かけるようになったのはいつの頃からだったろうか。奥多摩の山々を自らのフィールドとして歩き回っていた頃に仕事の帰りによく立ち寄る本屋で「アルプ」を見つけた。ちょっと贅沢に上質紙を使い、中身といえば山のことばかりである。

しかも広告がひとつもない、なんともユニークな月刊誌であった。尾崎喜八、串田孫一の名前に出会い、辻まこと、畦地梅太郎の存在を知った。そして尾崎喜八の作品の中にジャヴェルという言葉を見つけたが、同名のヒュッテが霧ケ峰にあろうとは露知らないことであった。

古い記憶が順番にぼんやりしてくる中でも妙に鮮明に覚えていることが幾つかあると思うが、初めて歩いた霧ケ峰もそのひとつである。

高原への第一歩は初夏の和田峠からであった。いつになく歩みが遅かったのは、ザックに詰め込んだ夜行列車の寝不足ではなく、峠に覆いかぶさるように蹲った鷲ヶ峰の大きさのせいだったかもしれない。白く明けてゆく空の下を黙々と辿った山裾の道、飛び出した八島湿原は朝の顔で迎えてくれた。

草の葉に宿った水玉を朝の光が金色に染め、幾つもの池塘は鏡のように輝いていた。湿原の向こうには複雑にうねった緑の丘が幾重にも続いている。朝の斜光を受けた緑の帯は微妙な変化を見せており、これを塗り分けるだけの絵の具はどんな立派な絵の具箱にもきっと見つからないだろう。

春分を過ぎて日脚が長くなり日増しに暖かさが感じられるようになると高原の雪解けが始まる。あちこちに斑模様が生まれ、さながら乳牛の背中を見ているようである。沢沿いの雪を分けて坐禅草が顔を出すのもこの頃である。

やがて、蓮華躑躅が明るい朱色の髪飾りで高原を彩ると夏が始まる。ニッコウキスゲが染め上げた黄金色の高原には生気が漲り、真っ白な積乱雲が力強さを添える。ヤナギランの桃色は一瞬の夢と過ぎ、マツムシソウの薄紫が秋を連れてくる。

朝夕をひんやり感の中で過ごすようになり、ぐるりと高原を取り巻いた山並みが水色を濃くする。透き通った風が高原を亘り、少しの寂しさがそっと後を追う。

書物での机上登山を強いられる時期があった。そしてそれは山に対する考え方を見直す機会でもあった。先人の踏み跡を辿り分厚い古典にもまみえることもできて自分なりに造詣を深められたような気がする。

山や麓の歴史に興味が広がり何がしかの知識を持って出かけるようになると、高さを求めコースタイムを気にすることに頓着しなくなっていた。尾崎喜八と高橋達郎さんとの交遊のこと、その機縁でジャヴェルの名がつけられたことを知ったのもこのときである。

地形図「霧ケ峰(2万5千分図)」を俯瞰して頂きたい、ヒュッテのある沢渡が高原の臍の位置にあることがお分かりになると思う。ヒュッテ・ジャヴェルは霧ケ峰探索には打って付けのベースである。山の書物を読み地形図でポイントを定めて計画を練る。

現地に入ってから仕上げにジャヴェルで高橋さんからアドバイス受ける。通り過ぎるだけでは分からない山の良さを知ったのもここでの経験からである。山菜取りの踏み跡を拾いながら登ったガボッチョには、嘗ては石組みのスキーのジャンプ台があったことを、更にその昔には牧草を搬出する道が茅野へ続いていたことも知ることができた。

歩き疲れてのコーヒーブレイク、雨音を聞きながらのクラシックの小品を楽しむひと時、そして書棚には絶版となって久しい山の名著がぎっしりと詰まっているのである。

3月末の高原はまだ白一色であった。翌朝早起きして車山の肩まで登った。氷点下10度は顔が引きつる感じがするが寒さはそれほどではない。締まった雪に登山靴が鳴る。蓼科山の背後から昇る朝日が雪原にわが身の影をつくる。

待つこと数分、西の空を水色に区切っていた北アルプスの連嶺が桃色の色づき、瞬く間に斜面を駆け下りる。穂高が、槍が、常念が・・・モルゲンロートがやがて白いスカイラインに変わる頃には足長小父さんのような影もいつの間にか足元に蹲ってしまうのである。
「『同人誌、YSO』の同人」
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霧ガ峰春秋
伊藤万吉さんスペース2010.1
春から秋にかけての何度かを私は郷里諏訪を訪れます。 便利になった現在は車を霧ガ峰へと向け、高橋夫妻の守るヒュッテ ジャヴェルへも顔を出します。そして春と秋親しい友を誘ってジャヴェルの音楽会に出かけます。

 子供の頃の霧ガ峰は近くて遠い所でした。 小学生時代の遠足で高原を歩いたのですが、疲れ果てたこと。年輩の教頭先生が体に効くと言ってサンショウウオを丸呑みにした光景だけが記憶に残っています。

 そして中学生の秋、一人高原にやってきた私は薄紫の凛として上品な花が何故か気に入ってしまい根ごと掘り起こし家に持ち帰りました。家の西、軒端近くに植えましたが根付くことなく枯れてしまいました。そのときは名も知らなかったマツムシソウでした。

 この花を別名輪鋒菊と呼びマツムシソウの由来が旅の僧の持つ、たたき鉦(がね)であることを知ったときはまた驚きました。 霧ガ峰に風変わりな名前のヒュッテがあることはヴィーナスラインができて以降八島湿原や車山を訪れる度に気になる存在として思いつづけていました。

 その思いを決定づけた二冊の本があります。尾崎喜八著「あの頃の私の山」、串田孫一・鳥見迅彦編著「友へ贈る山の詩集」、色あせた二冊の本を読み返しながら、時々の山旅を楽しんできました。

 作品「霧ガ峰紀行」はジャヴェル命名の由来やオーナー高橋達郎氏との友情、そして慕わしい霧ガ峰の自然が美しく行き届いた文章で書かれています。そして終わりに次のように結んでいます。

「それにしてもこの大きな広がりと美しい寂寞との中を、ただ二人行く私たちの姿が何と孤独だろう。三十幾年を試みられ洗いざらされた愛の感情と、日の光や雨のように単純で天然の滋味を持った互いの思いやりと心づかいとー。」 おとずれるジャヴェルでのひとときに書棚の尾崎喜八や霧ヶ峰をはじめとする山の本を開くのも楽しみのひとつです。

 又、ジャヴェルでの宿りの朝、食事前の2時間ほどを蝶々深山や八島湿原まで足を延ばせば霧ガ峰が最も自然な姿を見せて私たちの前にあります。 湿原の南にはすり鉢状に開けた斜面に草に埋もれた土壇を残す旧御射山(もとみさやま)遺跡があります。

鎌倉時代に信濃の武士団が鎌倉武士を招き諏訪社の分社として一大弓技大会を行なった祭りの跡と聞きます。御射山祭りが最も盛んであった頃を伝える歌も残されています。

 尾花ふく穂屋のめぐりの一むらにしばし里あり秋の御射山  金刺盛久(玉葉和歌集)
 信濃なる穂屋の薄もうちなびき御狩の野辺を分くるもろ人  宗良親王

 霧ガ峰が最も華やぐ夏はもとより薄の穂が白く流れる十月の高原は同行した人たちの最も感動した一日でした。 樅の木とウリハダカエデに守られて半世紀余り高橋夫妻の飾らない人柄がこのヒュッテには似合っているようです。
「登山を趣味とし詩歌を愛し、短歌結社『やどりぎ』在籍」
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孫たちの霧ヶ峰
川上嘉彦さんスペース2009.8
「もう自由には登れない。かつて歩きまわった想い出の山へ、愛する家族を画面のなかでつれて行こう。 だから、妻は若く、子供たちは幼い」

これは、数年前にヒュッテ ジャヴェルの「霧ヶ峰 山の會」で紹介されていた、山をこよなく愛した版画家畦地梅太郎の言葉です。

一昨年前に大病を患った私も、「もう山には登れない」と感じはじめていました。そんな折、ヒュッテ ジャヴェルの高橋保夫さんの言葉が、その後の山との付き合いかたのヒントを与えてくれました。

「霧ヶ峰は山頂に達することだけのものではなく、山の空気の中に身を置き、静かに山と向き合い、際限のない自然の奥深さを感じるための場ではないでしょうか。

また、ヒュッテは単に山の一夜を過ごすための宿泊施設というだけではなく、霧ヶ峰を逍遥する人たちが、ともに高原での時間を共有し、それぞれの感性と知識を持ち寄り、自然について語りあい、霧ヶ峰への思いを豊かに膨らませる舞台ではないでしょうか」

そんな言葉のもとに、いまも私の霧ヶ峰やヒュッテ ジャヴェルとの付き合いは続いています。 今年の夏休みに、孫たちを連れて霧ヶ峰を訪れました。

孫たちの世代にも、霧ヶ峰の空気や水や生きものたちを通じて、自然の奥深さを感じてほしいと思っています。彼らは夏の日記帳に霧ヶ峰をどのように描いたのでしょう。

やがて私が霧ヶ峰を訪れることができなくなった後も、孫たちの世代が自然を感じ、語り合う場として、ヒュッテ ジャヴェルの薪ストーブの火が燃え続けていてほしいと思っています。
「原風景文化研究会・主宰・大阪在住」
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