| 半田 |
「半田」は、狭山池の東一帯の地名です。奈良時代に書かれた日本書紀に「植田」の記述があり、半田(はんだ)はこの植田(はにた)が転化(移り変わること)したのではないかといわれています。
植田の「植」は、赤い色の粘土を意味し、河口や川べりなどに流水の作用で土砂が積み重なってできる沖積層に開かれた水田を示しています。このあたりは、河岸段丘といわれる土質が階段状の地形で一般に地下水位が低く、水田として開発するには、ある程度の技術と労力が必要ですが、この地域はすでに古代から水田として開発されていたことになります。
いずれにしても、1400年前に築造された狭山池に関連して、土地の特性と深く結びついた地名というわけです。 (大阪狭山市「狭山の地名五十話」から) |
|
| 池尻 |
1400年前に築造された日本を代表するため池、狭山池。「池尻」は、そのため池の北側に位置しています。池の尻とは、一般的に池に接した下流部一帯のことをいいます。したがって、「池尻」の地名は、狭山池の築造とともに生まれたと思われますが、実証はありません。平安時代の書物に「河内の氏族、池後臣(いけじりのおみ)」という地方豪族の名が記されています。この池後氏が支配する土地が、のちに「池尻」となったという説もあります。14世紀中ごろ、南北朝時代の動乱期に、南朝方の楠木氏一党が所領していた池尻の地は、しばしば戦いの舞台となりました。
このあたりは、南朝と北朝の両勢力の接点として、重要な意味をもっていたのです。平成の大改修が行われている狭山池は、現在、周辺整備工事が進み、池の周囲をめぐる2.8qの遊歩道「桜回廊」が完成し、市民にとって絶好のウォーキングコースになっています。 |
|
| 金剛 |
「金剛」という地名の由来は、大阪狭山市史・地名編(12巻)にも記載されていません。思うに、南海電鉄高野線金剛駅駅前の地域ということなのでしょう。金剛駅は、今から64年前の昭和12年4月19日に開業しました。この年、南海沿線の2カ所で、四国八十八ヶ所霊場(れいじょう)の「出開帳(でかいちょう)」が催されました。出開帳というのは、弘法大師が開いた四国のお寺に”おへんろさん”としてお参りに行けない人のために、八十八のお寺のご本尊(ほんぞん・仏さまのこと)を出張させて、お参りするものです。高野線の沿線では、当時、一面のススキが原だった今の金剛団地のあたりに、香川・愛媛両県の49ケ寺の仏さまをまつる会場「金剛園」が開設されました。
この出開帳は、大変なにぎわいで、期間中20万人もの参拝客があったそうです。会場「金剛園」前に設けた臨時の駅、金剛駅はいま、1日約4万人が利用し大阪狭山市の主玄関口になっています。 (南海電鉄「南海の駅」から) |
|
| 亀の甲 |
狭山池のほとり、府道森屋狭山線と国道310号線の交差点を『亀の甲』といいます。
昔このあたりは、三方を狭山池やせまい谷、くぼ地でかこまれた台地の上に位置していました。
『亀の甲』の東側に『浦の庄』の交差点がありますが、【浦】というのは、台地にはさまれた谷底の低地、という意味で、水が流れやすく水田に適していましたが、反対に『亀の甲』は、水の便がわるいため干上がっていて水田になりにくく、干ばつのときには、ふきんの耕地が乾燥してヒビわれができ、ちょうどカメの甲らの文様(もんよう)のようになったことから、この名がついたと言われています。
また、昔は狭山池にたくさんのカメが生息していて「カメが甲らを干しにくるところ」という土地の人の言い伝えもあります。いずれにしても、”おめでたい名前”ですね。
(大阪狭山市『狭山の地名五十話』・大阪狭山市史12巻『地名編』より) |
|
| 茱萸木 |
大阪狭山市の南東部、西高野街道ぞいの、南北に細長い地域を『茱萸木(くみのき)』といいます。この地は、今から360年ほど前に開墾されて、『茱萸木新田(くみのきしんでん)』と呼ばれました。江戸時代に書かれた「河内誌」によれば、古来、グミの木がたくさんはえたので村の名前になったとあります。グミの木の種子や根が、漢方薬として効能があったそうです。
ところで『茱萸木』のフリガナが、なぜ『ぐみのき』ではなくて『くみのき』なのでしょうか。
13世紀、鎌倉時代に書かれた国の公文書「太政官符(だじょうかんふ)」によると、このあたりの地名が「佐志久美岡(さしくみのおか)」だと書いてあります。『久美』はグミの和名。当時から、地元の人びとはずっと『くみのき』と称してきたのです。
昭和45年に狭山町は、それまでの『ぐみのき』表示に代えて、地元の伝承をとり入れ正式に『くみのき』と表示することを決定、告示しました。
(大阪狭山市『狭山の地名五十話』・『大阪狭山市史12巻・地名編』から) |
|
今熊
|
三都神社から市立公民館、帝塚山学院大学にかけてを「今熊地区」といいます。「このあたりに、むかしクマが出た!?」いいえ、こたえは熊野三山(和歌山県新宮市の熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の「野」を省略したものです。わが国では、中世(鎌倉時代から室町時代)から平安時代にかけて、熊野三山の信仰が盛んになり、皇室や京の貴族を中心に参拝に訪れました。現在の陶器山の遊歩道のあたりは、天野街道といって、むかしは熊野へおまいりする人たちの幹線道路でした。けれども、はるかに遠い熊野までおまいりに行けない人のために平安時代、今の三都神社あたりに熊野の神様を勧請(神さまの分霊を迎えてまつること)した熊野社が建てられ、「今熊野」として、たくさんの参詣客が、訪れるようになりました。
(大阪狭山市「狭山の地名五十話」から)
|
|
|