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桑名・柏崎日記を読む






<桑名日記>





女下駄のようで 
2012.5.20 更新





 一日中雨.御蔵を五時頃退ける.帰りに片山に祝いに寄り、夕飯をご馳走になった.七時過ぎに帰宅する.おばば、鐐之助に下駄と鼻緒を買ってきてから銭湯へ出かけ、帰ると鼻緒をすげた.



 前駒(註:前部に歯はなく、後部に一枚の歯)の下駄も買っておいたが“前駒は女下駄のようでイヤらしい”と鐐之助が言ったのでおばば大立腹.“馬のように駆けずりまわる奴は、これでないとじきに歯を欠く.だから買ってきたのだ.何ということを言う.悪い奴だ”と怒る.



 (弘化元年 十一月七日 「桑名日記」)





死て仕合わせとハ





 雨、夕方より西風、曇りになる.御蔵へ出る前に清水新六方へ祝いに寄った.御蔵は五時過ぎに退けたが、帰りに相談ごとがあると言われ、嘉蔵の家へ寄ってから帰宅した.




 御城内番組が精々、死んで父子は仕合わせだ


 このたび、中山金治郎は親の丈野右衛門が御役稽古中に怪我をして死んだため、跡目八石二人扶持をそっくりそのまま頂いて大筒役に仰せつけられた.中山の家ではこれを有り難くお受け致したという.支配頭を目前にしての即死なので、御取り立てよろしく、結構な跡目相続を下されたのだという.誠に、死んで仕合わせとは、丈野右衛門のことだろう.



 病気養生叶わず死んだり、御役稽古と定められた日以外の自分の鍛錬中に即死したのではこれほど結構な跡目相続にはなるまい.ひいき目にみても六石二人扶持、御城内番組が精々だ.死んで父子は仕合わせだ.



 (弘化元年 十一月八日 「桑名日記」)




野山に捨る賢さ




 天気.夕べはかなりの寒さで手水鉢に氷が張った.御蔵を五時過ぎに退けて、同役一同、悔やみに行く.松岡彦之助殿、先日来病床にあったが、養生叶わず昨夜死去された.かねてより御厩掛を仰せつかっていたが、この間、掛を辞職され、一昨日、御厩衆などこれまで世話になった一同に一杯ふるまったという.その節、既に炬燵に寝起きされていたとのことだ.



 昨夕、御蔵より帰る途中、今村が見舞いに寄ると、普通に話を致したとのことで、薬もがぶがぶと飲んでおられた由.そのうち、今村が勝手へ行った間に、容態が急変して相果てたという.



 平らきし 御代に生れし 
    武士の身をば 野山に捨る賢さ


 夕べにでも書いたのだろう.枕元には辞世なども書き遺してあったそうだ.当年、辰六十三歳の由.



 七時頃、新屋敷のおばばさまとおすえさんがお出でになった.みやげにさつまいもを頂く.すぐに茹でて差し上げ、茶を入れ、お茶漬けもすすめた.鐐之助もまだ起きていて嬉しがる.



 おばばに猫火鉢(註:素焼きの小さな炬燵、紙を重ね張りして、あんかにも使用)を買ってくれとねだるので、夕方、矢田町の急須屋へ行って買ってきて、ふのりを煮て置き、銭湯から帰ったら貼ってやるつもりのところへ新屋敷の二人がお出でになった.



 おばば、お二人に失礼して銭湯へ行ってくる.その間.鐐之助が私の猫火鉢貼りの邪魔をするには困る.半分ほど貼ってから土風呂(?)で乾す.それより灰を入れ、半分より上を貼り終わる.ふたも貼る.おばばさまたちは十時頃お帰りになった.



 今日の分.中田鉄三郎の倅桂治、宮本作助殿勤番につき若党に頼まれ十五日出立すると挨拶に来た.とろろ汁にて夕食をふるまう.木村弥五平の妻、昨夜御出産、男子出生の由.祝いに寄る.



 (弘化元年 十一月十日 「桑名日記」)



*大筒役の勤務中の事故死.跡目相続、八石二人扶持そっくりそのまま息子に下された.死んで仕合わせとはこのことだと平太夫は書く.武家社会、とりわけ下級武士の厳しさを、思わず吐露したような平太夫の書きぶりだ.一方の死も、別の意味で価値ある死のように思えるのだが、平太夫の感想はない.






大筒木筒諸道具運ひ有之候 
2012.4.20 更新





 朝から雪が吹っかけ寒さが一段と厳しくなった.今日は三木流の棒火矢ならびに合図やぐらの稽古が町屋河原で予定されていた.小使いの佐兵衛が立ち寄った折、大筒、木筒など諸道具は安永村まで運んであるとの話だったが、だんだん雪が大ぶりになったので、稽古は中止になった.



 昼頃、三木の使用人が米札を持参した.米は残らず安永村庄屋宅へ預けて下さるように、との申し出だった.今日は米の出荷が少なく、御扶持蔵の米運びは早々と終了し、わしも早く退けたが、御詰蔵の方は明日「米方御触れ」が出るとのことで、元帳の整理などがあり、退けたのは五時過ぎと遅かったが、早々と終わった者もいた.



 御蔵から帰りがけに立ち寄るよう岩瀬柾兵衛から手紙があった.おそらく何らかの「呼ばれ」だろうと判断し、ろうそくを持って出かけると、果たして先客があり「七日待夜」の法事だという.



 “ようこそお出で下された.何も無いがどうぞ召し上がって下され”と座敷へ引きずり上げられ、馳走になった.七時頃、関川和尚、黒沢林左衛門、佐藤左太夫が一緒に帰った.



 「百取りむし、二百取りむし」などと、思いもかけぬ踊りに声のかかるのには参った.平治が大根を持参して「ふろふき」をこしらえた.今年はいずこも大根の種まきが十四、五日も遅れたが、雨がよく降って、菜や大根が豊富で安値だそうだ.



 (弘化元年 十一月四日 「桑名日記」)





夜ハ行くなと留めたれど





 天気.御蔵へ出勤.一時頃までに御蔵は終い、残らず稽古の見物に江場より泉村通りへと出かけた.途中で五本火矢撃ちが済んだ.好い天気だが、風が冷たい.鐐之助も見物に来ていて、“こっちへ来なへ、来なへ”と無理にわしを連れて行く.矢田河原に仲間が十四,五人いた.終わりの棒火矢と横火矢の三本はずっと近くで見ることができた.




 棒火矢



 五発とが当たり、いずれも上出来だった.昼の稽古は横矢で終わったので、帰ってきた.鐐之助は、安永村までは一緒だったが、いつのまにか居なくなり、先に家へ帰っていた.



 今夜、片山のおせいの祝言なので、おばばは手伝いがてら昼前から出かけて行った.わしも呼ばれているが、留守番が居ないので出かけられない.均平、長太夫も呼ばれて行った.



 おなかは、留守居の代わり矢田町南側の心やすき家へ火矢見物に出かけた.鐐之助は夜は駄目だと言っても言うこときかない.結局、着物を沢山着せ、留五郎と一緒に行かせた.若手が留守居にきてくれる話しもあったのだが、皆、火矢見物に出かけた.わしは仕方が無く、片山へも行かず、二階へ上がり、日記を書きながら火矢見物だ.



 隣の熊市、家の中からは見えないと門の外へ立ち“おじいさ、見えるかえ?”という.“見えるからここへ来て見やれ”というと、喜んで二階へ上がってきて、火鉢に当たりながら見ている.中田桂治もやって来た.“河原へ行って見るよりも暖かくて、至極よい見物だった”と、終わるとすぐ帰った.九時頃だった.



 二階のものをすべて下へ運び、しばらく炬燵に当たっていたが、鐐之助が帰ってこない.佐藤まで聞きに行ったが未だ帰らないという.家へ戻りしばらく待っているとようやく帰ってきた.留五郎が送ってきた.鋳八も来てしばらく話をしてから帰った.



 
十二時前、おなかが明王院のかか衆に送られて帰ってきた.今夜の夜回り、岩田と一緒の当番だが、おなかが帰るとまず一度目をまわり、十二時過ぎにおばばが片山から帰ると二度目をまわり、当番を隣へ送ってから床に就いた.



 (弘化元年 十一月六日 「桑名日記」)



*冠婚葬祭はもちろん、実にこまめに御城下を歩いて、義理を欠かさぬ平太夫だが、まめであるのも確かだが、それ以上に出歩き、人と接するのが大好きなのだ.火矢見物に取り残された嘆きをくり返し書いている.しかし、隣の熊市など子どもたちと居ながらにして火矢稽古を見物してご機嫌を直し深夜の「夜回り当番」を難なく果たしている.ぐっすりと眠れたに違いない.









<柏崎日記>






おろく、食一向不給 2012.5.20 更新





 よく晴れて蒸し暑い.昼過ぎから西風となり、家の中が熱をもち、困り入る.出勤し、十二時過ぎに帰宅する.二時頃から学校へ出て、四時前に帰宅した.おろく、また少し熱を出して寝ている.飯を食べぬのには困る.



 桃など果物類は良く食べる.暮れも遅くなってから、お菊、品川のかか衆と真吾を連れて御門先の金比羅へ参詣に行った.




 金比羅大権現 (歴博展示)



 おろくの望みにて「白玉」を買って帰るはずだったが、売り切れたとのことで「今坂饅頭」を買って帰ったが、半分食べるのがやっとという有様だ.真吾はいくらでも食べ、まだまだ欲しいと言うが二個預けて、あとはしまっておいた.



 おろく、夜中に次第に高熱を出し、時々、目が覚めては咳き込み苦しがる.夜になって西風が強くなった.四十日余りの日照り続ですべてが乾き切っている.火災を気遣い、おろくの病気と重なって眠れない.ついに夜中に起きて、行灯を点けた.



 (弘化元年 七月十日 「柏崎日記」)





学校之礼ニ





 薄曇り.昨日同様、西風強く、時々雨が吹きかける.御役所は一時頃に退けた.昨日、御扶持米分、一両二分二厘を内借して受け取ったが、そこから炭の代金一分が引かれていた.



 飛脚が到着して、扶持米の本渡り分を計算したところ、内借分が太過ぎたという.二朱ばかりを持ち出し、本渡り分を調整するのだろうか.



 栗本と川崎から学校の礼にと「あら(註:スズキ目ハタ科の海水魚)」という魚を一匹ずつ頂いた.一本は煮て、一本は味噌に漬けて保存した.おろくはこの魚で大分飯をたべた.



 なにか魚をと考えていたが、この節はまったく魚売りが来ず弱っていた.おろくが大喜びで魚を食べる.暮れてから品川へ用事があり出かけ、七時過ぎに帰ったが、風が強く、甚だ心配だ.



 (弘化元年 十一月十一日 「柏崎日記」)




大地獄、早朝より




 明け方から風は止み、雨になった.次第に大降りなる.甚だ気味の良い降り方だ.四、五十日ぶりで本当の雨降りとなった.今日から御役所も学校も盆休みだ.その代わり「大地獄」の到来だ.



 早朝から掛け取りが押しかけてきた.全部で三十人ほどの商人への支払いを、どうにかこうにか済ませた.お菊はなかなか断り上手で、掛けの十分の一ばかりの支払いで済ませた商人が四、五人もいる.そのほかが半分、あるいは三分の一ばかりだが、皆、承知して帰って行った.



 盆の挨拶に貰ったそうめんや葛粉なども、全部出してしまい、やっと地獄から抜け出し、大安堵した.昼過ぎには雨が止んで、また、風が吹き出したが、もう掛けも火事も心配することはない、気分良好だ.



 新町に、呉服物、瀬戸物、紙類など御陣内に売りに来る商人がいて、近頃は品川やわが家へも気軽に出入りする.わが家では、いずれも掛けが大分貯まっているが、その中の一人、かか衆だが.男女の盆踊り浴衣を仕立てるという.品川の家では先日十枚余りを注文したという.今日の昼過ぎにわが家へ来て、“一枚いかがか”と言う.



 四時過ぎから取りかかって夜の八時頃にできあがった.仕立て、縫い賃は七十文ずつだと言う.結構な内職だ.こうした浴衣が町や村では良く売れると聞いた.白地の大柄な浴衣だ.私は気疲れで六時前に蚊帳の中へ入り、眠り込んでしまった.



 おろくは少しずつ快くなっている.時々遊びに出るが、飯はあまり進まず、軽く盛った一膳だけだ.それも先日もらった魚の味噌漬けのおかげだ.



 この時期、お菊は一昨年も、昨年も寝込んでいた.今年の盆は「病人なし」と喜んでいたらおろくが風邪を引いた.しかし、もう大丈夫だろう.わが家はぴいぴい、がらがらだが、お菊が元気になり、大安心だ.



 (弘化元年 十一月十二日 「柏崎日記」)



*おろくの病気が快くならない.食べたいモノを十分与えられないのは貧しいせいか.折から郡代と同役の二人から豪勢な魚が二本届いた.陣屋暮らしの妙と言わずしてなんと言おう.おろくはこの魚を食べて快方へ向かう.掛け取りが押しかける年二回の掛け取りシーズン.大地獄だと勝之助は大げさだが、お菊は十分の一で納得させるスゴ腕かか衆.昨年も一昨年も病の床にいた.今年は大地獄ではない、天国だと、勝之助はやっと気づいたようだ.








小使いに為負て送り付申候 2012.4.20 更新






 快晴で甚だ暑い.六時に起き、かまどに火を入れた.髪月代をしている間に飯が炊けた.これを食べて出勤する.八時過ぎから御帳部屋が始まり、御郡代衆から労いの挨拶があり、これが済むと一同引きとる.運八郎が当番を終え、交代に出てくれた.それから、役頭衆、栗本、金子、品川など五、六人が役所へ戻り、十二時前に再び交代して退けた.



 七夕送りは昨夜限りで、今日はどこもひっそりとしている.おろく、今日は大分元気で、一日中よく遊び、熱も下がった様子だ.



 四時過ぎから泊り番に出るが、真吾を連れて行き散々遊ばせてから小使いに背負わせて家へ帰した.宵の内は蒸し暑く、眠れそうもなかったが、夜中になると涼しくなり、綿入れを着て寝た.



 (弘化元年 七月七日 「柏崎日記」)




鬼とも組そふなやつが…




 昨日と同様暑い.本日は年貢の割り当てを確認、集計する日なので、同役総がかりで仕事を進め、三時頃までには終わり、帰宅した.先日獲ってきた泥鰌が少々、未だ活かしてあり、真吾がこれで遊んでいるが、今夕これを食べようと、お菊に話しておいた.お菊は昼過ぎから泥鰌を煮付けて夕飯に出した.



 少しと言っても五合程ある泥鰌なので、品川をまた招き、運八郎には弁当のおかずにと土鍋に一杯を届けた.



 夕飯のとき、“何度食べても堪えられない”と、皆揃って舌鼓を打った.お菊も子どもたちも泥鰌が大好きで、行灯に火を入れる前に全部平らげてしまった.




 私は泥鰌で腹いっぱい…



 それから真吾を連れ、栗本が出張から帰ったので、品川と共に「帰陣祝い」に行く.栗本では酒が出て、酒盛りが始まったが、私は満腹なので断り、飲まなかった.真吾は何処の家へ行ってもはばかりなく大騒ぎをし、きりがない.なだめすかして、ようやく連れ帰ったのは八時過ぎだった.



 おろくがまた熱を出し、医者を呼んだ.医者の話では、最近、このような風邪が流行だという.大事には至らないが、いつまでも熱の引かぬようなことがあれば、瘧(おこり)に変じる事があるという.頑丈な体で、鬼と取っ組み合いでもやりそうなおろくが、今度ばかりは参ったようだ.



 (弘化元年 七月八日 「柏崎日記」)





ろくの見舞いに西瓜持て参り候






 
晴天だが蒸し暑い.四郡の決算なので七時から出勤する.八時から始めて十一時に三島郡、魚沼郡、蒲原郡の勘定が終わる.昼の仕度に家へ戻り、十二時過ぎから刈羽郡を始めて三時頃すべて相済みとなる.



 御納所の決算のため、御払い米を売却したときの価格まで明らかにする故、大分時間がかかってしまったが、四時前に帰宅して学校へ出て、しばらく居てから戻り、行水を遣う.



 おろくは昨日と同様とはいえ、少しは快方に向かっているのだろう.時々お隣へ遊びに行く.子守り娘の父親、ろくの見舞いだと西瓜を持ってきてくれた.



 (弘化元年 七月九日 「柏崎日記」)



*陣屋の「七夕送り」は、陣屋あげての行事なのだろう、郡代を始め上役が無事に終わったと礼を述べる.そのためにわざわざ早朝出勤する.やはり形式を重んじる武士の習いなのだろう.勝之助も“七夕送りは昨夜限り”と気分一新を強調している.また、おろくの病気について“鬼とも取り組みそうなおろくが…”と書いているのが何とも楽しい.















 












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