パオリ
Paoli,Pascal(1725-1807)、コルシカ独立運動指導者。
※Pasqualeとの表記もあり
若き日のナポレオンにとっての英雄であり、コルシカ独立運動の象徴でもあるパスカル・パオリは、ジャシント(Giacinto)・パオリの末子として、1725年4月6日、コルシカ島モロザリア(Morosaglia)に生まれた。
コルシカは13世紀末からジェノヴァの支配下に置かれており、パオリの父は、1729年からの独立運動における指導者の一人だった。
パオリの愛国者としての性格は、父の「祖国コルシカの役に立つ人間となれ」という教育方針の影響を強く受けて形成されたと思われる。
1735年1月8日、コルシカ評議会が独立宣言を行う。
1739年、フランス軍の介入により、一家は亡命を余儀なくされ、パオリは亡命先ナポリで士官学校に入り、その後任官すると、コルシカの亡命者達で編制された連隊を率いた。
コルシカの独立運動は徐々に組織化され、ガフォリ(Gaffori,Gian
pietro 1704-1753)を指導者として戦いを続けていたが、1753年、ガフォリはジェノヴァの放った刺客に暗殺される。
独立運動は複数の指導者によって受け継がれたが、パオリの兄クレメンテ(Clemente)の提案を受け、1755年7月15日、評議会はかつての運動を担ったジャシントの子であり、ナポリで軍事教育を受けたパスカル・パオリを指導者として迎えることを決定し、彼を中心に結束の強化を図った。
同年11月、1735年の憲法を修正し、民主主義国であることを宣言する。
パオリは最高評議会議長と軍の最高司令官を兼任し、統治機構の整備に腐心した。パオリがコルシカ全体を掌握したのは、1763年だと言われる。
コルシカは独自の政府、軍隊、通貨、司法機関を持ち、ジェノヴァ領有下にありながら、事実上二重政権のもとにおかれるようになった。
1764年8月31日、コルシカ出身の軍医ビュタフォコがルソーに手紙を書き、コルシカ憲法の草案を依頼したが、この執筆が終る前、1768年3月15日、ヴェルサイユ条約により、ジェノヴァはコルシカの施政権を200万リーヴルでフランスに売り渡した(後にジェノヴァ政府自体が消滅するので、フランスはコルシカの領有権を持つようになる)。
パオリはフランスに反抗したが、1769年5月9日、ポンテ=ノヴォの戦い(総司令官であるパオリは戦場に姿を現さなかった)に敗れ、6月13日、クレメンテや側近と共に二隻のフリゲート艦に守られイギリスに亡命。他の指導者達(数百人)もイギリスやイタリアに逃れた。
6月16日、評議会が正式に降伏を決定し、コルシカは名実ともにフランスの支配下におかれることとなった。
ルソー、ボズウェル、ヴォルテールらにより、コルシカはヨーロッパ知識人の注目の的となっていて、その独立運動の象徴であるパオリはイギリスに着くと国王に招かれるなど歓迎され、以後ロンドンで暮らした。
1789年、フランス革命が勃発すると、国民議会で「自由のために戦ったのちに島の征服の結果亡命した者」の帰国を認めるというミラボーの動議が承認され、パオリの帰国も可能となった。
12月の県設置令の制定により、コルシカ島はコルシカ県として革命フランスの一部となり、翌年7月にパオリの帰国は実現する。
9月、パオリはコルシカ県行政府首長に選出され、また国民衛兵隊総司令官に任命された。
だが、フランス国内でも混乱を生じた国有財産売却と僧侶基本法の実施をめぐって、コルシカ内の社会的対立が強まっていく。
これはこの二つの政策の支持者(受益者)、すなわちフランス派と、コルシカの伝統的生活に固執する島民大衆の対立といってよい。
1793年1月21日、ルイ十六世が処刑されると、王制擁護者であったパオリは怒りで身を震わせたといわれる。
革命フランスは国民開放の名の下に、国土防衛から領土拡大の戦争に向かっていたが、パオリはこの頃すでに、山岳派と執行評議会から非協力的とみなされていた。
税収入を国庫に納入していないこと、国民衛兵義勇軍を本土に送っていないことなどが理由として挙げられるが、2月23日、サルディニア攻略失敗がその不信を決定づけた。
ナポレオンの弟リュシアンが政治クラブ「共和国協会」でパオリ弾劾の演説を行い、この協会はパオリ即時罷免の請願書を国民公会に送った。
4月2日、エスキュディエ議員の動議に基づき公会はこれを取り上げ、パオリ逮捕令を出した。
逮捕令取り消しを求める交渉中に武力衝突が発生。
フランス軍との戦闘が開始されると、パオリはイギリスに支援を求め、ネルソン艦隊がバスティアやカルヴィを制圧。
1794年6月15日、コルシカ評議会はイギリス王ジョージ三世にコルシカの主権を委譲することを決定。イギリス・コルシカ王国となる。
副王ギルバート・エリオット卿により統治されるこの体制は二年ほど続いたが、パオリ自身は1795年10月にコルシカを退去させられていた。
1796年10月、コルシカは再びフランスの領有下におかれる。
パオリは再びロンドンに赴き、その「迫害された美徳のための最も安全で最も尊き避難所」で、合計47年に及ぶ亡命生活の最後を年金をもらいながら暮らし、1807年2月5日に死去した。
遺体はセント・パンクラス(St-Pancrace)の墓地に埋葬されたが、1889年、故郷コルシカ島のモロザリアに改葬された。
コルシカは現在もフランス領であり、フランス名コルス(Corse)島として、オート・コルス県(首都バスティア)と、コルス・デュ・シュド県(首都アジャクシオ)に分けられていて、独立を目指す過激派のテロが続いている。