ルクレール
Leclerc,Charles Victor Emmanuel(1772-1802)


シャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレールは1772年、ポントワーズ(Pontoise)に生まれた。
1791年、彼はセーヌ・エ・オワーズ(Seine-et-Oise)県の歩兵大隊に志願兵として参加し、同年中尉に選出され、次の年に騎兵科に転任するまで、ライン下流で軍務に就いた。
1793年、イタリアで昇進し、ラポワプ(Lapoype)将軍指揮下の師団で参謀長となり、ナポレオン・ボナパルトと巡り合うトゥーロン攻略戦まではその任にあった。
トゥーロン以後は、アルデンヌ、アルプス、そしてもう一度イタリアへ赴き、ボナパルトのイタリア遠征に参加。カスティリョーネ(Castiglione)およびリヴォリ(Rivoli)で戦う。
この間の働きで有能な軍人であることを証明し、また資産家(小麦粉商人の跡取り)であることから、ポリーヌ・ボナパルトの結婚相手としてボナパルト家に認められるようになる。
1797年4月に彼はレオーベン(Leoben)予備交渉の協定正文と戦利品(鹵獲したオーストリアの軍旗)をパリへ運ぶ任を与えられた。
ルクレールは、同年5月、旅団長に昇進。6月14日にポリーヌ・ボナパルトと結婚し、ナポレオンの義弟となった。
イタリアで臨時の参謀長としてわずかな期間務めた後、1798年のはじめにはローマで勤務した。
11月、アイルランド遠征軍の参謀長に任命され、次いでイギリス遠征軍で同じポストに就いた。
1799年8月26日に、彼は師団長になり、さらにブリュメールのクーデタで彼の義兄(ナポレオン)の成功を助けた。
その後フランス西部でブリュヌ、ラインでルクルブ(Lecourbe)の下で勤め、モロー指揮下のライン軍へ移された。
この頃激しい落馬をし、一時的に彼の軍歴は中断された。しかしオシュスタッド(Hochstadt)の戦いに回復が間に合い、中央軍団の第二師団の指揮をとった。
1801年3月に、彼は、ポルトガルに対抗するスペインを援助するために派遣された軍団を指揮した。しかし10月に別の任務のためパリへ呼び戻された。
そこで、彼は12月14日にブレストから航海に出る、サント・ドミンゴ遠征軍の最高司令官に任命された。
(パオリのコルシカ同様、ハイチも自由フランスの一員となりながら、分離を企図しイギリスに接近していた)
ポリーヌと彼らの子供(Dermide(1798-1804))を同伴した約二万のフランス軍は1802年2月、ハイチに上陸した。
6月7日、ルクレールの腹心ブリュネ将軍は夕餐の場で、引退していた元黒人奴隷のハイチ指導者トゥサン(Toussaint l'Ouverture)を拘束し、フランスの監獄へ送った(翌年獄死)。
フランス側の予想に反し、指導者を失いながらもハイチの抵抗運動は激化(奴隷制復活を察知されたため)。
その最中、ルクレールは1802年11月2日、黄熱病により死去した。
ポリーヌとの間に生まれた子も、1804年にイタリアで死亡した。

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