カルトー
Carteaux,Jean Francois(1751-1813)

ジャン・フランソワ・カルトーは、フランス革命中に数多く存在した、相応の軍事知識を持たずに高位に昇った将軍の一人である。
カルトーは1751年1月31日、オート・ソーヌ(Haute-Saone)県グーヘナン(Gouhenans)に生まれた。
旧制度下、1776年から1779年まで歩兵および竜騎兵としての軍務についた後、壁画家になった。
特にルイ16世の絵を描き、1792年7月15日には、国王から聖ルイ十字勲章(the
Cross of the Order of Saint Louis)を授かっている。
1789年には、ラファイエットの副官を務め、その後さまざまな幕僚職につき、大佐まで昇進。
1793年7月にプロヴァンスの反乱を鎮圧し、旅団長に昇進し、8月25日に連邦主義者からマルセイユを奪還、同月、師団長に昇進した。
同年9月、彼は、南フランスで、連邦主義者および王党派に手引きされたイギリス・スペイン軍が占拠していた、トゥーロンの反乱に対する司令官に任命された。
カルトーはこの三ヶ月余りで三階級昇進したわけだが、この手のスピード昇進は、革命期にはよくあったことである。
逆に、一度の敗戦で軍職を剥奪され、裁判で死刑を宣告されることも少なくなかった。
9月7日、オリウールの村での小競り合いで、彼の砲兵指揮官ドマルタン大尉が重傷を負うと、カルトーは派遣議員サリセティとガスパランに「才能の豊かな傑出した人物」を送るように要求した。
サリセティが推薦した砲兵将校ボナパルト大尉は、トゥーロンを直接叩くのではなく、岬から敵艦隊を砲撃し撤退に追い込むという自分の作戦案の有効性を訴えたが、カルトーにはまったく理解できず、その軍事知識の欠如が明らかになった。
ブーリエンヌは、カルトーは軍事に関してなにもわかっていない素人だったと記しており、カルトー夫人でさえ、「彼(ボナパルト)の好きにやらせなさい、彼の方があなたより軍事に詳しく、あなたの助言などまったく必要としないのですから」と、ボナパルトの側に立っている。
ボナパルトは自らの作戦案の詳細を添え、無能なカルトーの更迭を繰り返し政府に要求した。
10月23日、カルトーはイタリア方面軍へ転任させられ、今度は直ぐにアルプス方面軍へ遷された。
そこで彼は軍職を剥奪され、裁判にかけられ、投獄された(1793年12月から翌年8月まで)が、幸運にもギロチンや銃殺はまぬがれた。
テルミドールのクーデター後釈放され、1794年11月、シェルブール沿岸のオッシュ麾下の軍に統合、共和暦4年ヴァンデミエール13日(1795年10月5日)の王党派の蜂起の際に、国民公会側としてわずかに関与した。
ボナパルトの統領政府時代には1801年から1804年まで全国宝くじの管理運営を任せられ、以後も1804年から翌年までのピオンビーノ公国(Principality
of Piombino,1803-1805)の総督など、いくつかの公職につく。
1805年にはフランスに戻り、1810年を最後に全ての公職から退き、1813年4月12日にパリで死去した。
ナポレオンはセント・ヘレナで彼をこのように評している。
"inconceivable ignorance"
「ぶっちゃけありえないくらいの馬鹿だった」(超訳:管理人)

カルトーの描いたルイ16世
現在もヴェルサイユに展示されている