ブクスホーデン
Buxhowden,Friedrich Wilhelm(1750-1811)、陸軍元帥、伯爵。
※ブックスヘウデン、ビグソーデンなどの表記もあり。
フリードリヒ=ヴィルヘルム・ブクスホーデンはエストニア系ドイツ人。
女帝エカテリーナの非嫡出の娘と結婚した。
ロシア軍に入り、1793〜1795年のポーランド分割の際、スヴォーロフ将軍(Suvarov、この功で元帥となり、1799年の対フランス戦で大元帥)の麾下で頭角を現し、この後、ロシアの州知事にもなった。
第三次対仏大同盟結成後の1805年、元帥(中将の説あり)、伯爵となっていたブクスホーデンは、アウステルリッツの三帝会戦において、ドクトロフ(Dochtorov)、ランジェロン(Langeron)らの率いる三つの縦隊を主とした約45,000人(兵数は諸説あり)の兵を指揮し、ロシア・オーストリア連合軍左翼に位置した。
オーストリア参謀長ヴァイローテル(Weirother)の立案した作戦通り、ブクスホーデン軍は、ダヴー(Davout)元帥率いる手薄なフランス軍右翼、第V軍団(約10,000人、落伍者多数の強行軍で、前日に到着したばかり)を攻撃した。
大兵力の機動が困難な沼沢地の利を生かし、ダヴーは数倍のブクスホーデン軍の攻勢を受けながら、前線を良く支えた。
ブクスホーデン軍は、引きつれた多数の召使や手荷物、猟犬などの列が戦闘部隊の行動を阻害し、まったく行動に精彩を欠いた。
やがてブラッツェン高地を奪取したフランス軍、スルト元帥の第W軍団は、次いでブクスホーデン軍を攻撃。
ブクスホーデン軍はフランスの二軍団とザッチャン湖によって、包囲される形となり、壊滅的打撃を受けた。
『ナポレオン -獅子の時代-』では文字通りのド派手な散り様を見せたブクスホーデンだが、史実では辛うじて戦場を離脱した。
連合軍の損失(その大半はブクスホーデン軍のものである)は戦死15,000〜16,000人、捕虜12,000〜20,000人、実質戦力の三分の一を失った。
一方のフランス軍は約1,300人の戦死、約7,000人の戦傷者、捕虜は1,000人以下だとされている。
ブクスホーデンは、第四次対仏大同盟の際、1806年にベニグゼン(Bennigsen)の支援に派遣され、そのロシア第二軍を指揮した。
が、1807年解任され、反目していたベニグゼンに指揮権を移されてしまった。
次いで1808〜1809年の対スウェーデン戦に参加。
1809年9月17日のフレデリックスハム(Fredrikshavn)条約で、スウェーデンは、ロシアによるフィンランドおよびアランド(Aland)島の併合を認めた。
ブクスホーデンは、このフィンランド統治を組織する仕事を与えられ、これが彼の経歴の最後を飾った。