バグラチオン
Bagration,Peter Ivanovich(1765-1812)、大公。
※Bagration,Piotrとの表記もあり

長谷川哲也『ナポレオン -獅子の時代-』少年画報社 アウステルリッツ会戦前夜、初登場時。長谷川哲也『ナポレオン -獅子の時代-』少年画報社 指鳴らし大好きなバグラチオン将軍。David G.Chandler『Dictionary of the Napoleonic wars』GreenhillBooks バグラチオン将軍の肖像画Dawe, George作、バグラチオンの肖像画。ナポレオン戦争終結後に、ロシア皇帝アレクサンドル一世は戦争中の英雄達の絵を描かせた。

ロシア軍の歴史の中でも有名な将軍、ピョートル=イワノヴィッチ・バグラチオンは伝統あるグルジア貴族の家系に生まれ、1782年にロシア軍に入った。
コーカサスで数年の軍務に就き、1788年、対トルコのオチャコフ(Ochakov)要塞包囲戦に参加。1792年までには大尉に昇進した。
次いで1794年のポーランドでの作戦行動中、バグラチオン少佐の働きはスヴォーロフ将軍の目にとまった。
1799年、そのスヴォーロフ指揮によるスイスとイタリアにおける作戦に少将として参加し、ブレーシア(Brescia)の占領でその名をあげた。
1805年、ウルムでのマック降伏を知ったクトゥーゾフは、ブクスホーデン軍との合流を図り、退却する。
クトゥーゾフを追撃するミュラ元帥のフランス軍を、バグラチオンは11月16日、ホラブルン(Hollabrunn)とシェングラーベン(Schöngraben)で少数(フランス軍の約五分の一)の兵力で足止めした。バグラチオンは手勢の半数を失ったが、クトゥーゾフら主力部隊を合流させることに成功する。
12月2日のアウステルリッツ三帝会戦で、バグラチオン中将はロシア・オーストリア連合軍右翼を率いて、ミュラとランヌが指揮するフランス軍左翼と戦う。
この戦いは連合軍の大敗だったのだが、シェングラーベンの英雄バグラチオン公爵として、彼の名誉は守られていた。
バグラチオンは以後、1807年6月10日のハイルスベルク(Heilsberg)および6月14日のフリートラント(Friedland)の会戦を揺るぎない勇猛さで戦い抜いたが、ロシア軍はフリートラントでフランス軍に決定的敗北を喫する。
同年7月7日のティルジットの和約後は、1808年と1809年のスウェーデンとトルコに対する軍事行動に参加。
1808年のスウェーデン戦では、凍ったフィンランド湾を横断するという大胆な行軍によって、アランド諸島を占領。
また、1809年には、ラッソワ(Rassowa)とタタリツァ(Tataritza)の対トルコの戦いを指揮した。
1812年、ナポレオンのロシア遠征開始。
バグラチオンは西の第二軍団の司令官に任命された。
初期の退却戦(ロシア国内へ大陸軍を誘い込んだ)では、戦わず国土へ侵入されることの恥辱に震えたと言われる。
7月23日、バグラチオンはモギリョフ(Moghilev)でダヴーに破れた。
その後、バルクラーイ・デ・トーリ指揮下の主力軍と合流し、9月7日、ボロディノの戦いで左翼を指揮した。
ロシア軍はボロディノから後退したが、フランス軍にとって決定的勝利とは言えなかった。
バグラチオンはこの戦闘中に足を負傷し、二週間ほど後の9月24日、感染症で死亡した。
軍の内外に大変な人気のあった彼の墓は、一代後のロシア皇帝ニコライ一世(アレクサンドル一世の年の離れた弟)によって、ボロディノの戦場跡に建てられた。

おまけ
第二次世界大戦中、ソ連のスターリン(グルジア出身)は、1944年6月22日のドイツに対する作戦に、バグラチオンの名をつけた。
彼の出生地であるグルジアは1801年にロシアへ併合されたが、現存するその旧グルジア王家もバグラチオン家という。

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