
The Milk Maid
45.4cm×40.6cm
Rijksmuseum, Amsterdam
異色のバロック絵画? 巷間、フェルメールは「静謐の画家」といわれます。確かに作品は鑑賞する者に静かな印象を与えるものが多く、登場人物も、たいてい1人か、せいぜい2、3人です。1人の場合は女性が多く、そして寡黙。じっと静かに編み物をしていたり、手紙を読んでいたりするだけのさりげない日常のひとコマにすぎません。描かれている場所も小さな部屋の中──これが大雑把にいったフェルメール作品の特徴だと思います。 フェルメールが生きた17世紀は、美術史的には一般にバロックの時代といわれます。バロックとは、もともと「歪んだ真珠」という意味のポルトガル語で、その語義が示す通り、バロック絵画の特徴はまさに真珠がねじれるが如き人物の大げさな身振りや劇的な表現にあります。つまり、仰々しく主張の強い様式なわけです。それは、ルネサンスの秩序だった美のかたちに飽き足らなくなった結果生まれた、いわば“時代の必然”がもたらした様式です。また、バロック時代には、まだまだ絵の価値には厳然とした序列があり、もっとも尊いのは宗教画、神話画、歴史画で、それらに続いて肖像画、風俗画、風景画とされました。 したがって、フェルメールがよく描いた日常の風景すなわち風俗画は、伝統的な絵画の序列からすると、どちらかといえば価値の劣る部類だったことになります。構図的にもフェルメール作品は劇的なものとは無縁の静けさです。したがって、フェルメールの絵は、いわば異色のバロック絵画ともいえそうなのです(ただし、この傾向は17世紀オランダ絵画全般にいえることですが)。 |
描かれている要素 この『牛乳を注ぐ女』もそうした典型的なフェルメール作品です。画面の中央で、メイドらしき女性が机の上のミルクポットにミルクを注いでいます(メイドではなく、フェルメールの妻であったカタリーナ・ボルネスだという説もありますが)。 ミルクは今日のようなサラサラとしたものではなく、いくぶんトロリとしたもののように見えます。メイドの服の色は、上着が山吹色でスカートが赤、腰のところで巻いたエプロンらしきものが青色です。机の上にはミルクポットのほか、籠に入ったパン、籠の外に置かれたパン、水差しみたいなものがあります。またテーブルクロスがなかばずり落ちそうに引っ掛かってもいます。 場所は、フェルメール作品でお馴染みの場所、すなわち向かって左側に窓のある小さな部屋です。窓からはそれほど強くない光が差し込み、何となく部屋に明るさを供給しています。窓に続く壁には、籐製と見える四角いバスケットがかけられており、正面奥は一面の古い白壁となっています。左側のバスケットの近くに銅か何かでできた薬缶のようなものがかけられています。数本釘が打ちつけてあるのも見えます。床に置かれているのは、寒いオランダの冬に使われた足ごたつだそうです。 『牛乳を注ぐ女』の要素を説明すると、だいたい以上のようになります。
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絵画鑑賞の2つのアプローチ このように本作は、一見、何の変哲もない風俗画に見えます。ところが、その鑑賞となると話は意外な奥行きを見せるように思います。 私たちが絵画鑑賞を学ぶ際、頼みの綱となるのは美術評論家たちの解説です。一昔前まで、この『牛乳を注ぐ女』に付されていた解説は、だいたい次のようなものでした。「静寂があたりを支配し、流れつづけるミルクだけがあたかも永遠の時を刻んでいるかのようだ」。エッセイみたいな解説ですね。これはこれで本作の一つの味わいを伝えてくれますが、他方、あくまでも印象の次元に留まり、どこか物足りない気がしないでもないように思われるのですが、『牛乳を注ぐ女』はエッセイのような鑑賞で十分なのでしょうか。 絵画の鑑賞には、いわずもがなですが、少なくとも2つの側面があります。1つは見たまま感じたままに鑑賞する方法です。言葉を変えれば感性で見る見方です。「なんだかホッとする絵だな」「激しい、エネルギッシュな絵だ」「きれいな絵だな」といった自分の感覚、好き嫌いの感覚、いわば右脳で見る見方です。さきほどのエッセイのような鑑賞はこちらの部類に属するといってよいでしょう。 これに対して左脳で見るともいうべき鑑賞のしかたもありますね。論理的に、絵に描かれていることが何を意味するのか解読するように見る見方も、ときには必要です。なぜかというと、もともと絵画は美の表現だけが役割ではなかったからです。絵画は何らかの思想や意味を伝える手段でもありました(たとえば、文字の読めない人にキリスト教の教えを説く、とか)。むしろ、ルネサンス以降、印象派ぐらいまではそれがふつうで、見たまま感じたままだけでは決して作品の真の意味を理解することができないのでした。 見抜く鍵はイコノグラフィー(伝統的図像)やイコノロジー(図像解釈学)と言われる一種の約束事にあります。たとえば赤い服に青色の上着を着た女性は聖母マリアであるとか、果物は性的な歓びや誘惑を表わすとかいったものです。つまり、ルールにしたがって絵の中に“仕掛け”が潜ませてあり、その仕掛けを発見し、読み解きながら鑑賞するのです。 仕掛けを見抜くためには、当然ながら約束事についての知識が求められます。そこで、鑑賞者がどれだけ知識をもっているかが、かつて王侯貴族たちの社交の場で競われました。平たくいえば、上流階級のインテリ遊びの種ともなっていたわけです。 |
左脳で見ることも必要? このように、絵画鑑賞には右脳系と左脳系があるということができます。そして、ほんとうに作品の意味するところを理解するには、両者を駆使して初めて可能になる、ということになります(とりわけ印象派以前の絵はそういえます)。 右脳で感覚的に絵を見ることも決して悪いとは思いませんが、そこにプラスして左脳で論理的に見ることも、なかなか興味深いものがあります。それまではわからなかった画家の意図が見えてきたり、絵が伝えるメッセージを受け取ったりすることができるようになります。これにハマると、まるで推理小説を読むかのような面白さを味わえます。 この観点からすれば、先に述べたようなエッセイのような解説だけでは物足りないかもしれない、という思いが生じてくるのではないでしょうか。フェルメールの時代、もちろん絵画はあらゆるイコノロジーを踏まえて描かれました。フェルメールも例外ではなく、それどころか、彼の『絵画芸術』はイコノロジーの宝庫として、ことあるごとにイコノロジー解説のサンプルとして利用されるぐらいです。となると、『牛乳を注ぐ女』も、感覚的に味わうのもよいのですが、それに加えて左脳的に解読を試みてみることも決して無意味ではないように思えます。 |
穏やかに、安心して見ることができる絵 では、『牛乳を注ぐ女』を右脳と左脳の両方を働かせて鑑賞することに挑戦してみましょう。 まず問題となるのは絵の主役である女性がいったい何者かということです。この女性をただのメイドだと決めつけて、ほんとうによいのでしょうか? よく見ればこの女性、ずいぶん大柄ではないでしょうか。『牛乳を注ぐ女』は、フェルメールの作品のなかでも私の好きなベストスリーに入ります。偶然か必然か、フェルメールを愛する多くの人もベストスリーに数えます。いったい、それはどうしてなのでしょうか。私は、一つには、この絵の醸し出す雰囲気があると思います。その雰囲気とは、フェルメール独特の静謐感もさることながら、その静謐感の底に漂う一種の「安心感」とでもいうようなものではないかという気がします。 あたかも母の胎内に抱かれるが如き安堵が感じられることによって、私たちは、本作に穏やかで落ち着いた心持ちで向き合うことができるように思われます。それがこの作品の基本的な性格を決定づけているように私には感じられます。そして、その安心感をもたらす源泉は、この大柄な女性の描き方にあるように思います。 フェルメール作品に登場する女性は、どちらかといえば小柄でか弱い印象を与えるタイプのほうが多いですが、本作のメイドはそのなかにあって異彩を放っています。がっしりした体躯で、多少のことには動じない。そんな強さを感じさせながらも、一方では、あらゆることを寡黙に許してくれそう──そんな人となりを、この女性像から私は感じます。 |
メイドは聖母マリア? 次に、彼女の着ている服に目を向けてみますと、服の色が気になります。スカートは赤、エプロンは青ですが、この組み合わせは先ほどちらっとふれた通り、西洋絵画においては「聖母マリア」を意味する聖なるカラーアンサンブルです(ちなみに赤は「愛」、青は「信仰」を表わすとされます)。 そういう目で見れば、ほかにも、聖母マリアに通じるものを見出すことができそうです。たとえば、机の上のパン。パンは図像学ではキリストの肉体を意味します。そして、メイドが注いでいるミルクは豊かな糧の象徴です。したがって、この絵は、「キリストの母なるマリアが、生きていくための糧を人々に与えているところ」と読み取ることもできるように思います。もし、この解釈を採用すると、メイドは何と聖母マリアということになります。ちなみに、フェルメールはキリスト教徒でした。 しかし、フェルメールはキリスト教徒ではありましたが、いわゆる宗教画を描いたことはあまりありません。30数点しか残っていない彼の作品を見渡すと、多くは風俗画です。フェルメールの明らかな宗教画は、画業人生の初期に描かれたきりです。 |
| 豊かさをもたらす母性 ほかのものも見ていきましょう。壁にかかるバスケットに目を移すと、バスケットは樹木の実りである果物を入れるのに使われることから、「豊穣」や「豊富」の意味で描かれる場合があります。「豊かさ」といえば「ミルク」も豊かさを意味するのは先ほど見た通りです。 このバスケットを取り扱う人は誰かと考えると、おそらくはこのメイドでしょう。そして、彼女はいましもミルクを器に注いでいるところです。つまり、バスケットの管理者としてパンや果物を盛るのも彼女であれば、ミルクを食器に満たすのも彼女であるわけです。そのように、改めて考えてみると、この家に「豊かさ」をもたらしているのは、じつは、ほかならぬこのメイドだということに気づかされます。 わざと大柄に、がっしりと描かれたところからくる安心感。聖母マリアを思わせる衣装。ミルクを注ぎ、バスケットに食べ物を盛る者──とつなぎ合わせて考えてみると、この大柄なメイドこそが、人々に「豊かさ」を施してくれる「母性」の象徴であるという解釈ができそうに思えてくるのですが、はてさて、どうでしょうか。 もし、この解釈が許されるとすれば、本作はとてもユニークな作品ということもできそうに思えます。というのは、ルネサンス以来の絵画が伝えてきたこととはまったく異なる、逆のことを主張しているとも読み取れるからです。従来は、豊かさというのは天上から下々に向けて施されるものと相場が決まっていました。ところが、上記の見方を採り入れると、本作では一般市民よりもむしろ下層にわが身をおく人間によってもたらされていて、下働きの女性に尊い母性を見出していることになるからです。すなわち、フェルメールは何気ない風俗画を描いているようでありながら、とんでもない掟破りなことをしている可能性があるのです。 |
絵画史上きわめて独創的な作品 こうした読み取りが正しいかどうか、あるいは支持を得られるかどうかはわかりませんが、私はこのように読みたい誘惑に襲われます。というのは、ここにフェルメールという画家の個性を見出せる(あるいは、見出してみたい)と思うからです。 17世紀オランダ風俗画においては、メイドが絵の主役として描かれること自体は、さほど珍しいことではありませんでした。しかし、メイドが本作のようにポジティブな意味合いで主役を任された例は珍しいのです。たとえば、仕事を怠ける姿であったり、好色な姿であったりして描かれることのほうが圧倒的に多く、つまり、「悪しき例」として引かれるのが一般的でした。ところが、本作の主人公はそれらとは一線を画しているのは一目瞭然です。 したがって、『牛乳を注ぐ女』は17世紀オランダ風俗画においても稀有な作例ということになります。ともすれば軽く見られがちな使用人を主人公に置き、見下すのではなく、同じ人間としての視線を送ったフェルメールの目。フェルメールとは、そんな視線の持ち主だったのでは、と考えてみたい気がするのです。 これは、相当に個人的な願望が混じっている(というか個人的願望そのもの)のですが、あながち見当違いとはいえない気もします。というのは、そうした画家の温かな思いが根底に流れていればこそ、私たちは『牛乳を注ぐ女』を一目見るや、それとは気づかないうちにも、心温まるものを感じ取っているのではないかと思えるからです。 また、フェルメールが市井の人間に目を向けたのは、当時のオランダが置かれていた状況と呼応しているのかもしれません。強大なスペイン帝国の属国として、常に圧力を受け続けていたオランダは、力関係からいえば「下」の存在でした。しかも本国スペインが宗教国家、貴族国家として名誉を誇っていたのに対し、オランダはあくまでも商業国家であり、市民国家でした。フェルメールが“下々”に讃歌を贈る絵を描いたとしても何の不思議もないとも思われる気がします。 |
私の見方・考え方 これらをまとめてみると、次のようなところに落ちつくでしょうか。 すなわち、フェルメールが本作品に込めたものとは、平凡な暮らしのなかに息づく「豊かさ」をもたらす「母性」ヘの讃歌であり、しかも、その豊かさは決して社会の上流階級だけのものではなく、ごくふつうの市民のなかにもあるということ。さらに、この社会を真に支え、真に豊かさを生み出しているのは、スポットライトを浴びる機会はなくとも、真撃に生きているあたりまえの人間なのだということ、といったものではないか、ということです。 加えて、ここにはフェルメールの宗教心や、故国オランダに対する愛郷心みたいなものもそれとなく描き込まれているのかもしれません。あるいはもっと単純に、モデルになったと考えられているタンネケ・エフェルブールという実在のフェルメール家のメイドに対するフェルメールの人間的視線が表わされているのかもしれません。 以上は、もちろん私の考えにすぎません。専門家のなかには、逆にほとんど意味は含まれていないと主張する人もいます。しかし、専門家とて必ずしも万能ではありませんし、意外に解釈の最終局面になると主観丸出しだったりします。それに、作品の“真実”は決して明らかになることはありません。歴史の深い淵に潜んだままです。私たちにできることとは、(専門家の研究も含めて)その“真実”に近づくべく、あれこれと調べ考えるだけにすぎません。 結局、絵画鑑賞は鑑賞者の考えによって、黒とも白とも言える側面があります。ということで、まあ、こうした解釈を開陳させてもらってもいいかな、と思っている次第です。 |