●塩田千春新作展 不確かな日常
●2002.9.10
●ケンジタキギャラリー/東京

★★★★

会場に入ると、「ムッ」とした異常な湿気がまとわりついてくる。それもそのはず、シャワーが出しっぱなしになっているので、室内中に水蒸気が充満しているのだ。横浜トリエンナーレで巨大な泥のドレスをシャワーで洗い流すインスタレーションを世に問い、注目を集めた塩田氏は、この新作でもシャワーを用いていた。


4m四方ほどの白タイルの浅いプールに、朽ちて汚れたベッドが一つ置かれている。白タイルのプールも(泥で?)汚れ、かなり古いふうにしつらえてある。いわゆる、エージング、「古び」の技術だ。ベッドはボロボロで、スプリングもむきだし。そのベッドのちょうど頭の位置の上へシャワーが設けられ、際限なく水が流されている。決してきれいではなく、洗練されているわけでもないインスタレーション。文字通り、泥臭く、退廃的な空気を漂わせる。だが、不快さはない。むしろ、不思議に心惹かれるものがある。


塩田氏は、横浜トリエンナーレでもそうだったように、「洗い流す」ことに関心を抱いているという。「洗い流す」とは洗浄であり、汚れを取り去り、汚れる前の状態に戻す作業だ。塩田氏は、本個展の開催にあたって、「私は、とくに幸福でも不幸でもない毎日を送っている。そんな、うつうつとした日々を送っていると、ほかの人と会話さえも持ちたくなくなってくる。そして、うっくつがこうじてくると、ついには自分と日常を壊したくなってくる。作品のアイデアが動き始めるのは、そんなときだ」(内容要約)という文章を寄せ、その文章が「今回の展覧会に関連しているような気がする」と語っている。


横浜トリエンナーレでは巨大な泥のドレスを「洗浄」し、本個展では朽ち果てたベッドを「洗浄」する塩田氏。私は、いつ終わるともなくシャワーがベッドを洗い続けるのを見るうちに、ふと、この「洗浄」は「再生」ではないかという気がしてきた。思いついたイメージを図示すると、このようになるであろうか。

 新品→(汚れていく)─→使い古し─→(さらに汚れる)→廃棄物寸前
  ↑                                   ↓
 復活←(生まれ変わる)←─再生←──(汚れが落ちる)←─洗浄

このインスタレーションは(横浜トリエンナーレの泥のドレスも)、上図の「洗浄」の過程を示していて、塩田氏は「洗浄」される直前の「廃棄物寸前」のような存在に自分を感じているのではないだろうか。つまり、泥のドレスも朽ちたベッドも塩田氏自身なのだ。とするならば、この再生に向けた「洗浄」は、再び生まれ変わるための、塩田氏の痛切な祈りであり希望である。だが、その祈りなり希望が叶うかどうかはわからない。仮に叶ったとしても、気の遠くなる時間がかかる──そういったコンテキストで本作を眺め直すと、永遠とも思えるシャワーの放水に、深い意味があるように見えてくるのである。


美術作品は、必ずしも美しくある必要はない、ということを、このインスタレーションは示してくれているかと思う。と同時に、美しくない作品でも見る者の心を揺さぶるのは、こういうものだとも示している。とても興味を引かれた個展であった。

●ケンジタキギャラリーのホームページ
http://www2.odn.ne.jp/kenjitaki/pages/intro1_j.html

●塩田千春氏の公式ホームページ
http://www.hotcola.com/chiharu/index.html

●gaden.comでの紹介ページ
http://www.gaden.com/info/2002/020910/0910.htm

●T@Gの「美術遊覧」での紹介ページ
http://www.hi-ho.ne.jp/gallery/art/new/01.html