●「連続と侵犯」
● 2003.2.8
● 国立国際美術館

★★★★

なかなか刺激的な展覧会だった。東京国立近代美術館からの巡回展で、ベテラン格の作家と若手の作家の競演という図式にもなっていた。だから、年代別に見比べてみるという楽しみ方も一興かも。見ておく値打ちのある企画だと思う一方、見応えのある作品と、あまりよいとは思えない作品の差が激しい面もあったように思う。また、ほかにも気になる点が残ったのはちょっぴり残念。おもしろかったのでレポートがすごく長くなってしまったのはお許しのほど(いつもか!?)。つまみ食い読みしてください。


● 高嶺 格 『God Bless America』 ★★★★★

「たかみね・ただす」と読む(むずかしい名前の読み方だ)。映像作品はすぐれたものが必ずしも多くないけれども、これはとてもよかった。真っ赤なリビングルームのセットの中で、作家と作家のパートナーが、クレイ・アニメーション(粘土細工のアニメ)を制作しながら生活する様子を固定カメラのビデオでコマ撮りしたもの。粘土のオブジェは、2トンもある巨大な「顔」。作家はそこで18日間にわたって生活しながら、顔のオブジェに手を加え続ける。18日間の営みは、8分間程度に短縮されている。


一つの画面の中に、そもそもの主題である粘土オブジェのアニメと、その周りで展開される作家の生活ぶりの両方が映し出されるので、構造としては2元的。作家が粘土オブジェに手を入れると(つまり、粘土のアニメーションが動くと)、「ゴッド、ブレース、アメーリカ」と甲高い声でオブジェが歌う。作家が粘土オブジェを放っていて、食事をしたり、寝たりしているときは、オブジェは歌わず、静止している。


粘土オブジェの歌う「ゴッド、ブレース、アメーリカ」は、少々ピント外れな感じもあって、そこはかとなく笑いを誘う。このあたり、何とはなしにアメリカをからかっているようでもあり、風刺精神が垣間見える。しかし、作品には説教臭さはまったくない。最初のうちは、作家が粘土に手を入れ、粘土のアニメが動き出すと、そのあいだだけオブジェが歌うように見える。ところが、それが何度も繰り返されていくと、だんだん、オブジェが歌えば作家は粘土に手を入れなくてはならないような感じもしてくる。つまり、オブジェは歌うことで作家に作業を要求するように見えてくるのである。作家とオブジェの主客関係は、どちらが主で、どちらが客がわからなくなってくる。


作家にとっては、粘土オブジェのアニメをつくることは創造作業であるのと同時に、生きていく糧を得るための「労働」でもある。つくっているのか、つくらされているのか、次第にあいまいになる様子は、人にとっての「労働」というものの性質を表現しているようでもある。


作家とパートナーの生活ぶりは、生そのものが映し出される。オブジェを二人で修正したり、休憩したり、ソファに座って本を読んだり、食事をしたり、友だちが遊びにきたり、ミニパーティーを催したり、夜二人でじゃれあったり、セックスしたり(ほんとうにしているらしい。もっともコマ撮りなのでよくわからないが)、睡眠をとったり。そして朝がきたら再び粘土オブジェと格闘する……そんな営みを映像は延々と伝え続ける。そこには、人が生きていくということの本質が描かれているよう。働き、食い、遊び、寝る。人生とはそういうことなのだと、淡々と流れる映像は黙示する。


さらに、映像を映写している空間は、映像の中のセットと同様に真っ赤に塗られている。つまり、映像の「中」と「外」はつながっていて、決して別モノではないのだよという作家のメッセージが伝わってくる。作家とパートナーが映像の中で営んだ様子は、そのまま、いま映像を見ている観客にも当てはまるのだ、ということだろう。


粘土のオブジェがどんどん変わっていく姿自体も独創的でおもしろいし、他方、ただおもしろいだけではなく、上記のようにさまざまなことも考えさせる。しかも、単純に見ているだけで楽しい。制作にあたって作家がかけた手間ヒマと熱情もハンパではない。秀逸といっていい作品だと思った。世界水準に達していると思う。クレイ・アニメの着想に、ヤン・シュバンクマイエルの影響があるかもしれないが、それでもフルマークをつけてあげたい! ガランとしたギャラリーの中で、この作品を上映している部屋だけは観客がギッシリ。それだけ「引力」があるということだろう。
(映像表現を志している人は、見ておかれたほうがいいかと)


● ロン・ミュエク 『大きな赤ん坊 #3』 ★★★★☆

赤ん坊をそのまんま精緻に巨大化させた作品。よだれや鼻水まで超リアルにつくってある。赤ん坊が大きくなっただけで、こんなにも違和感を感じるものかと驚く。頭がこれほど大きいのかとか、手や足ってこんなにムチムチしているのかなどと、変な新生物のようにも見える。大人の身体バランスとはずいぶんと違うものなのである。


また、赤ん坊の巨大化は、あるべきものが、あるべき大きさに収まっていて、初めて世の中の秩序なり調和が保たれることを改めて認識させてくれる。たかが大きさ、されど大きさ。「サイズ」というものがもつ意味に気づかされた。もっとも、そういった理屈以前に、インパクトがあって、おもしろい作品であることが最大の魅力。赤ん坊が見ているのは何だろうと、思わず視線の先をたどってしまった。


● ロニー・ホーン 『あなたは天気』 ★★★★

一人の少女の顔写真100枚で構成された作品。ほとんど同じ顔写真がズラッと一列に並べられる。人間は機械ではないので、常に何かがゆらぎ、変化する。感情は一定ではないし、体の調子も微妙に変動を続ける。100枚の顔写真は、そういう微細な人間の「ゆらぎ」を目に見えるかたちに浮き彫りにする。また、変化にともなう「時間」も表現しているよう。写真が並んでいる様子も単純にオシャレ。


● 中山ダイスケ 『invisible apples』 ★★★☆

表題作ほか全部で9点出品されていたが、あとは★★★。以前より「毒」が抜け、小粒になった感じがした(やっぱり、鶴田真由と結婚したからか?)。


●ロラン・フレクスナー 『無題』 ★★★☆

『無題』というのが気に食わん。が、小品ながら面白さはあった。紙の上で、インクを混ぜたシャボン玉をふくらませ、割れたとき紙にできるマーブリングのような円形の模様のいろいろを作品としている。偶然性によってできるイメージのさまざまである。だが、それだけといえば、それだけでもあり、物足りない気も。


● キャンディス・ブレイツ 『二人のカレン』『二人のアニー』 ★★☆

カレン・カーペンターが歌っているビデオが二つ対置されている。一方は「わたし(I、my、me)」と歌っている部分ばかりを、もう一方は「あなた(you、your)」ばかりをつなぎ合わせて編集し、両方同時に延々と流し続ける。それが『二人のカレン』。『二人のアニー』は、それのアニー版。作家なりの考えはいろいろとあるのだろうが、それが必ずしも作品の「力」には結実していない。


● 青木 淳 『U bis(国際版)』 ★★☆

白色蛍光灯を天井ではなく床に、真ん中ではなく隅に並べてみせたインスタレーション。まあ、キレイといえばキレイなのだけれど、いかんせん既視感が強く、「まだ、こういうのやってるのか〜」といった印象が強かった。


● イリヤ&エミリア・カバコフ 『墜ちた天使』 ★★☆

タイトルそのままの作品。カバコフということで期待していたのだけれど……。ん〜。妻有での作品がよさそうだったので、こんどもと思ったが。まあ、いいときもあれば、そうでないときもあるということで。


● ジュリアン・オピー 『私たちは魚の中を泳いだ』 ★★

これが作品だということに気づかない人が少なくないのでは? 入口のガラス戸に魚のシールを貼り、水中にいるような音を流している。それで水中世界を演出しようというのだろうが……。魚のシールもキャラクター商品みたいで……。


● 遠藤利克 『欲動─海馬川』『円環へ』 ★

これも、「まだ、ここにとどまっているのか」という作品。巨大な鉄板を向かいあわせに配置し、そこに交流電流を流して、発生するhum音(ブーンという音)でのインスタレーションが『欲動』。難解そう、高尚そうに見せたがる(?)作家の独り善がりが鼻につき、わけがわからない。考える気も起こらない。そもそも「触れると危険ですので絶対にさわらないでください」というようなアブナイ作品をつくるのはどうか。こうした“意味不明的高尚”をウリにする作品からは、もう卒業すれば?という気がする。また、この作品から発するhum音がかなり大きく会場全体に響き、他の作品をスポイルしていた。私がほかの作家だったら、絶対文句をいっているな。遠藤氏は、丸い木の作品のほうがいいように思う。『円環へ』も、別にどうと……。

                     *

展覧会全体としては、いくつかの印象的な作品のおかげで満足感は得られた。が、「連続と侵犯」というタイトルは、いったい何だったんだ?という思いは残る。こういう思わせぶり、抽象的、わかったようなわからないようなコンセプト系タイトルの展覧会は、もうやめにしてはどうか(コンセプト系タイトルがよくないというのではない)。口では「集客に苦しんでいる。もっときてほしい」といいながら、こういう展覧会に仕上げるところに矛盾を感じる。また作品配置にも問題を感じる部分があった。なお、冒頭書いた、ベテランVS若手という観点からは、若手の圧勝だったと思った。