| 展覧会名の「オリエンティティ」とは、「オリエント」(あるいは「オリエンタル」)と「アイデンティティ」をミックスした造語。つまり、いまの時代における東洋(人)としての自己の主体性を問い直そうということである。参加した作家は、何らかのかたちで韓国のナショナリティと関係する人たち。韓国生まれだけれどヨーロッパへ養子にやられたり、幼いときに家族とともにアメリカへ移住したり、日本で生まれ育った在日韓国人だったり。さまざまなパターンで、母国・韓国と他の国(あるいは地域)との狭間で揺らいできた経歴をもつ。グローバリズムの進展とともに、ますます際立つテーマではある。
企画コンセプトが明快で時宜を得ており、かつ、現代美術に“強い”韓国系ということで期待が高まった。が、残念ながら、実際の展覧会を見て、ガッカリした。ガッカリの理由の第一は、企画趣旨を踏まえた作品が少なかったこと。村上隆の影響を受けたような絵画作品やほとんど訳がわからない映像などばかりで、作者はほんとうに企画コンセプトを知っているのかとさえ疑念を抱かずにはいられないものが多かった。
ガッカリの理由の第二は、作品自体の魅力のなさ。と切り捨ててしまっては申し訳ないが、どのようなものであれ、アートにはまずは作品としての“引力”が必要である。しかし、本展では、ほとんどがアーティスティックインプレッションにおいて平凡なレベルにとどまっていた。企画テーマはちゃんと押さえてあっても、作品のレベルが低いのが残念だったものがいくつかあった。あるいは、もうちょっと厳しくいえば、作者は「よくできた」と思っているのか、同作風の作品をいくつも制作しているが自己満足にすぎないようなものが目立った。それをもって個性とするには、まだまだ探究が不足していると感じた。ひと言でいえば、総じて作品性が弱いということになる。
ということで、「やっぱり京都芸術センターだな」と、ついイジワルに思ってしまいたくなった。ただ、そのなかでジェイン・ジン・カイセン氏のビデオ映像作品は興味深いものがあった。
●ジェイン・ジン・カイセン (タイトルをメモし忘れました) ★★★★
ビデオ映像作品。鏡が2枚、一辺だけを接させ、屏風のように鋭角にセットしてある。2枚の鏡でつくられた屏風のコーナーの内側をのぞくと、鏡のなかに向かい側の鏡が映り、無限連続の鏡が見える。コーナーにしてあるので鏡の像は円を描いている。
そのコーナーに全裸の作者が入り込む。無限に続く鏡一枚一枚に映り出される無限の作者。どれが実物で、どれが虚像が判別できない。彼女はナイフを取り出し、腕を(ほんとうに)傷つける。傷からは血が流れ出る(このあたり、アブラモヴィッチの影響か)。そして、鏡に体をこすりつけるようにして懊悩する。
自分は韓国人なのか、そうでないのか。そうでないとしたら何人なのか。鏡に映る自分の数だけ、重層するナショナリティ。傷をつけて痛みを通してでなければ、自己の存在を確認できない不確か感……。そんな作者の思いがパフォーマンスを通して伝わってくる。きっと彼女の答えは、簡単には見つからないだろう。が、まさに「オリエンティティ」を追求する姿がそこにはある。そして追求するプロセス自体が意味あることだと感じた。
PS
余談だが、フライヤー(パンフレット)の文字が小さすぎて読みにくい、というより、これでは読めない(とくに中高年の方にこれを読めというのはムリ)。8級もないかもしれず、かつ明朝体。しかも行間狭くびっしりと記されているので、非常に不親切である。「読んでもらうため」という意識はまったくないといわざるを得ない。まずはこうしたところから、来訪者に楽しんでもらうための努力をしてもらいたいと切に願う。
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