●いま、話そう──日韓現代美術展
●2002.9.7
●国立国際美術館

★★★★

2002年日韓国民交流年の記念事業で、日本と韓国の女性作家12人による展覧会。5月〜7月にかけては、韓国国立現代美術館でも開催されたものである。日韓の作家が順不同で展示してあったが、とくに違和感は感じなかった。ということは、日韓両国の社会がハード、ソフトともに似たような状況にあり、現代美術もまた共通する感覚で捉えられることの証と言えるかもしれない。余談だが、こんな話を聞いたことがある。ある韓国人が念願かなって日本へ旅行することになった。ところが、いざ日本に到着し、街を歩いても、あまり嬉しくないという。どうしてかと聞くと、「せっかく外国へきたというのに、そんな感じが全然しないから」。同感。

韓国は、厳密に言えば、まだ朝鮮戦争の休戦状態のまま。北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国とは政治的には、いまも“戦時”である。しかし、本展に出品された、若い作家の手になる作品からは、もはや政治の匂いは感じられない。私的な関心事がテーマとなっている作品ばかり。実質的に韓国は終戦しているのであり、“政治の季節”を脱しているということが、こうした美術作品を通しても垣間見ることができる。だからこそ、日本人の作品と並べ置かれても、違和感が生じないのだろう。

この展覧会は、「コラボレーション」であり「コンペティション」ではないのだが、もし、日韓の作品群に優劣をつけるとすれば、韓国側の圧勝だったと思う。ありていに言えば、日本側の作品は力が弱かったり、わけがわからなかったり、中には不愉快になるものもあった。それに対して韓国側の作品はそれなりにメッセージが伝わってくるものが多かったし、何よりも作品としての魅力、完成度が高かった。以下、個々の作家について、“ミシュラン”しながらふれておきたい(順不同)。

●キム・ユソン(☆☆☆☆☆)

今回の展覧会で出色の出来を示したのが、彼女の作品。古地図のような作品もあったが、よかったのは、バラ色とピンクの中間色のような、フェミニンでやさしく、穏やかで鮮やかな色彩世界が広がる絵。かなりの大きさで、タテ1m80cm、ヨコも1m20cmぐらい以上あった気がする。画面全体がローズピンクで塗り込められた中、細かいラデンの破片のようなもので小さな波状の模様が繰り返し描かれている。タイトルは『命二つの中にいきたる桜かな』。題名通り、画面を見つめていると、まさに桜吹雪の乱舞の中にいるような感覚に陥り、めまいと陶酔を覚える。さらには、桜が散るときのはかなささえも感じられてくるのである。


タイトルの俳句は、松尾芭蕉が『野ざらし紀行』で詠んだ句。画中にも小さく日本語でこの句が書かれている。韓国人のキム氏が、日本文化の典型の一つである芭蕉の俳句を題材にし、しかもこれまた日本人の心情に深く寄りそう桜と桜の心を描く──その試みは見事に成功を収め、日本人である私が見ても、何の矛盾もなく受け入れられるものとなっていた。日韓交流という展覧会の企画趣旨をもっともよく反映した作品とも言えるだろう。また本作は、そうしたメッセージ性を抜きにしても、素晴らしいイマージュを楽しめた。最近、自分の作品にはメッセージはないとうそぶく若手作家が多いが、それなら、このキム氏の作品のようなイマージュなりインパクトを見る者に感じさせてもらいたいものである。


なお、古地図の作品を仔細に眺めていると、ソウルのところが「京都」と書かれていた(「京城」ではない)。昔は、ソウルを「京都」と表記したのだろうか。

● 岩城直美(☆☆☆)

今回は、岩城氏には少々不利な展示であったかもしれない。と言うのは、見る順番が、先述のキム・ユソン氏の次になっていたからである。岩城氏と言えば、グレーが基調。ローズピンクの華やかなキム氏の世界を見たあとでは、いかんせん暗さが必要以上に際立ち、ふと「なぜ、こうまで暗くないといけないの?」と問いたくなってしまうのだ。


それはさて置くと、今回もまさに岩城ワールドといった作品が展示されてはいた。グレーの風景の中に大きな四角い家が別のグレーの厚塗りで描かれている(『House』)。しかし、個展ではなく、こうした複数の作家とのコラボレーションにおいては、作品の“弱さ”が否定できない気がする。もともと外に向けて強くアピールするタイプの作風ではないので仕方ないのかもしれないが、もう一つ原因があるとすれば、作品を通して鑑賞者に伝えるものが、ただ作家の感覚世界の表出だけであって、具体的なメッセージは何もないという点だろう。そのことは、おそらく今後も岩城氏にとって一つの課題となるような気がする。なお、岩城氏の作品は、やはり大きいもののほうがいいと感じた。

● サニー・キム(☆☆☆☆)

写真をベースに、作家独自の感覚で着色した作品。日本でも、このところよく見かける手法だ。その写真は、作家の母親の女学生時代のもので、制服を着て、友だちと笑い、遊ぶ様子が写されている。だから、懐かしい、レトロなイメージが伝わってくる。そうした写真に、淡いブルーやピンクなどパステル調の彩色をほどこすことによって、少女的な雰囲気が加味され、古さとモダンさがないまぜとなった作品に仕上がっている。

● パク・ファヨン(☆☆☆☆)

『元気?』というタイトルの映像作品。映像作品は、出来不出来が激しいというか、あまり「いいなあ!」と思わせる作品と出合うことが少ないのだが、これはよかった。パンフレットにある通り、「開発途中と思われる都市郊外を作家本人が歩きながら、地面に転がっている割れた鏡やガラスの破片、瓶の蓋などを拾い集める光景と、その彼女が徐々に分断された身体を携えて部屋に戻ると、母から電話がかかってくる、という二つの場面から構成」されている。つまり、何かの探し物をしながら生活するうちに(しかし、宝物は手に入らない)、体がバラバラになった作家を、母親からの電話が再生させるという筋書きである。都市生活の孤独あるいは矛盾と、母子の絆や家族愛をさりげなく語る。母親の「元気?」のひと言の持つ力である。


映像的にもすぐれており、体がバラバラになるところの処理や、探し物をして歩くパートの謎めいた演出は見る者を引き込む力があった。長さもちょうどよく、よく練ってつくられた作品と感じた。いろいろなことを考えさせる要素を備えていた。

● 坂上チユキ(☆☆☆☆)

例によって、余人をもってなしえない、超細密画である。草間彌生氏を連想させる絵の数々は、その繊細さによって、見る者を驚嘆させる。とても人の手によって描かれているとは信じがたい。まるでLSI級のペイズリー様の模様が生命体のように描かれたさまを、パンフレットが「息をのむ精巧さ」と評するのは、決して誇張ではない。


坂上氏は、誰から頼まれるまでもなく、こうした絵を年2〜3点のペースで描いていると聞いたことがある。頼まれ仕事ではムリな、自発的でなければ描けない絵ということかもしれない。

● ウ・スノク(☆☆☆)

映像作品。画面に次々とさまざまな色が映し出されてゆく。一つの色から次の色へ、そしてさらに次の色へと、グラデーション的に移行していく。色の数は、160。色から色へ移行するときは、二つの色が微妙に混じり、第3の色が瞬間的に生じる。タイトルの『光の前の光、光の後の光』の通りの展開が繰り広げられるのである。見る者の関心が純粋に色に集中するよう、どうやらアウトフォーカスでピントを調整してあるみたいだ。ピンボケだと、たとえフィルムのキズでもかたちあるものは画面には現われないですむからだろう。映像版マーク・ロスコ的な雰囲気が醸し出される中、純粋な色の作用を経験することになる、いわば色彩心理学の実験とも言える作品である。

● ブブ・ド・ラ・マドレーヌ(☆☆☆)

これも映像作品。二つの画面の作品からなる。タイトルは『甘い生活』。右側画面の作品が流れているあいだは、左側がBGV的な絵を流し、左側が上映されているときは右側がBGVとなるというしかけで展開される。エンドレスだったので、右側作品と左側作品、どちらが先かはわからない。輪廻を表わしているのだろうか。


右側では、作家本人とおぼしき女性が全裸で夜の海の波打ち際で怪しげに波とたわむれる。左側は線画のイラストによるアニメーション。花束をもった女性が街を歩き、カフェにたたずみ、花束の置き所を探しているよう。大切な人を失った、手向けの花束みたいだ。最終的にはセーヌ川に花束は投げられ、次第に遠くへ流れてゆく。右と左の二つの作品で、生と死、あるいは表と裏といった概念を表わしているのだろうか。同じリズムの二つの音楽が効果的だった。両方見るとかなりの時間がかかるが、カフェを意識した椅子が置かれてあったのはうれしい配慮。何が言いたいのかは必ずしもよくわからなかったが、いろいろ考えさせられたし、それなりに楽しい時間を過ごすことができた。

好感を抱いた作品とは逆に、疑問もしくは不快感を持たされたものもあったので、「KARAKUCHI」としては、それらについても触れておきたい。

● 木村友紀(☆)

『あなたは何が怖い?』という映像作品は、意味不明。植木鉢にうごめく虫の塊をクローズアップで撮ったり、(あまりよく覚えていないが)要するに気持ち悪い、気色悪いシーンを次々と映し出す。それらのどれに「怖い?」と感じるかということなのだろうか。


トイレ(?)の落書きを大きく写し続ける場面には、正直言って、嫌気がさした。「藤原紀香のアソコの穴にチン○を突っ込みたい」といった落書きで、いくつもいろいろな字で同じ文が書かれていたから、おそらく、映像を撮るために書いたものだと思う。それを執拗にクローズアップでかなりの時間を費やす。疑問を通り越して、不愉快になってくる。


私は、美術なら何でも許されるというのは大きな勘違いで、傲慢もはなはなだしいと考えている。このような映像は、もし藤原紀香から訴えられてもしかたがないのではないか。それに、藤原紀香は、さきの日韓共催のW杯で日本側のホステスをつとめた人物。それを日韓展でこのようなかたちで取り上げるのは、それ相応の考えと覚悟をもってやっているのだろうなと、問いただしたくなる。私は、この藤原紀香のシーンでガマンできなくなり作品をあとにしたが、いっしょに見ていた人はみなそうしたことを付け加えておく。これでまた、現代美術から遠ざかる人が出てしまったと感じた。最悪の印象だった。


負の感情をテーマにした作品は、けっこうある。アブラモビッチなどはその最右翼だし、死体派と呼ばれる一派もそうである。だが、木村氏の作品には、彼らほどの“煮詰め”は感じられない。単に謎めかしたムードだけで、ただの露悪趣味に思えてしまう。こういうものが“日本代表”として外国で紹介されるのは、カンベンしてほしいと思ってしまった。


今回のような展覧会で常に思うことだが、主催者側は、「なぜこの作家で、なぜこの作品でなければならなかったのか」についてもっと説明するべきである。いわゆる、アカウンタビリティ(説明義務)の問題は、美術界にも当てはまる。それをきちんとできないまま、ほとんど流されるように展覧会を実施するところに、日本の現代美術界がいま一つ訴求力を得られないでいる原因がある。

● 松井智惠(☆☆)

ドローイングはまだしも、ビデオ作品がわけがわからない。『彼女は届く』というタイトルなのだが、床の上に臥せった作家本人が、臥せったまま少しずつ後ずさりする様子をサイドショットで映す。髪を引きずり、髪にはゴムが結ばれ、ゴムの先には植物の根が結わえてある。だから、後ずさりするにつれて、ときどき植物の根がゴムの力で彼女のほうに「ズリッ」と引き寄せられるしかけである。いわば、“引きずり女”である。その“引きずり女”が画面の横から出てきて、反対側へ消えていく。ただ、それだけ。これでは、何のことか、まったく意味不明。


松井智惠と言えば、日本の現代美術界ではそれなりの位置を占める作家と評価されていると言っていいだろう。だが、見てわからないものは、わからない。にもかかわらず、こうして日韓展で選ばれ、展示される。私が、現代美術界はタコツボ的状況にあるというのは、このあたりのこと。つまり、“業界内”の人間にとっては、松井氏のこのような作品は「すばらしい」と思えるのかもしれないが、“業界外”の一般人の目からは、何のことやらさっぱり、なのである。そして、そのことに気づかず、「わからない」という声は「見る眼」がないと一蹴し、「内」の論理だけで作家や作品を評価し、展覧会を企画していく。ために、現代美術はますます不可解なものとして、一般人からは縁の遠いものとなってゆく。今回の松井氏の作品には、まさにその典型・縮図が見られたと思う。会期末の週末だというのに、人けの少ない会場がそのことを如実に物語っていた。

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いろいろと「KARAKUCHI」も書いたが、展覧会全体はそこそこ満足のいくものだった。その満足感は、多分に韓国側の作品に負うところが大きかった。全体的な作風は、冒頭記した通り、日本と韓国でそれほどの差があるとは感じなかったが、細かく見ていくとテーマの捉え方に違いがあることが次第にわかってきた。それは、「孤の日本」と「関係性の韓国」とでも指摘すべき差である。日本の作家の多くは、結局、きわめて孤独な作品のつくり方をしているのに対し、韓国の作家の多くは、他者との関係の中で作品をつくっている。だから、韓国作品には間接的なものであれ、意味やメッセージが備わっており、見る者に伝わってくる。それがひいては作品の説得力となっている。
なお、今回の韓国作品は、5月にCASOで見た作品群とはかなり趣が異なっていた。彼の国の美術のあり方も多様なのだろう。

●国立国際美術館の紹介ページ(期間中しかアップされていないと思いますが)
http://www.nmao.go.jp/tj/1403artist3.html

●神戸新聞の展評
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/cul/028.html