●名和晃平展 CELL
●2002.4.28
●ノマルエディション/プロジェクト・スペース

★★★★☆

海岸通りギャラリーCASO(大阪)で行われた現代美術ギャラリーの見本市、「Art in CASO」で、ある一連の作品シリーズが目についた。かなり大規模なイベントで、なおかつ人出も多かったので、個々の作品をゆっくり鑑賞する状況にはなかったにもかかわらず、強く印象に残った。聞くと、深江橋のノマルエディション/プロジェクト・スペースでいま、個展を開催中とのことで、さっそく出かけたのが本展。

名和氏のその作品シリーズは「ピクセル(PixCell)シリーズ」と言うとのこと。さまざまなモノを小さなガラス粒でびっしりと覆ったものである。作品の説明をしてしまえば、それで終わりなのだが、実際に目にすると、実に不思議な印象を受ける。インパクトも強い。最初CASOで見て、ギョッとしたのは、コブラや鴨(のはく製)を覆ったもの。コブラは鎌首をもたげたところで、ガラス粒によって凍結されたようにも見える。鴨も、そのまま置いてあれば何と言うこともないのだろうが、全身にガラス粒を身にまとった結果、“クリスタルグース”とでも呼ぶべきオブジェと化している。個展会場のほうでは、バナナ、ウズラ卵、カニ、クワガタといった小物から、羊やイノシシなどの大きめの動物まで、あらゆるモノがガラス粒で“パック”されていた。それらが居並ぶさまは、一種異様。カニなど、形態が特徴的なので、相当目を引く。電球などの非生物も、ガラス粒の餌食になっていた。

パッと見た目には、鳥なら鳥の、果物なら果物のかたちをしたガラス粒の集まりに見える。しかし、ガラス粒の集まりの内部には実物が潜んでいるので、得体の知れない感じが漂う。ガラス粒は、よく見ると、細かいものからやや大きめのものまで、いくつか種類があり、単調な印象にならないよう慎重に配されている。名和氏自身、「表面のマチエールにこだわる」と語るが、ガラス粒の並べ方を見ていると「なるほど」と納得できる。名和氏によると、ガラス粒の一つひとつは細胞である。だから、ピクセルシリーズは細胞が極大化し、視認できるようになったモノたちとも言えそうである。ガラス粒は、中にある実体の色を反映するので、一粒一粒、色合いが異なる。それが「ピクセル(画素)」と呼ぶ理由でもある。また、ツブツブの感触からは、草間彌生氏の作品も連想させる。

ガラス粒は一つひとつ、手作業で貼り付けられている(もっとも、それしか方法はあるまいが)。その手間たるや恐るべきものがある。今回の「Art in CASO」に出品するため、名和氏は半年前からピクセルのオブジェたちをつくり続け、最後の2週間くらいはギャラリーに泊まり込んで制作したという。「サラリーマンの人なら働いているときと休みとで、オンとオフに分かれますよね。でも僕はずっとオンなんです。寝ているときでも夢が題材になりますし、いつも作品を追い求めていたいんです」と、気負ったふうもなく、サラリと言ってのける。ものすごいのめり込み方である。その超根気があればこそ生み出される作品なのであろう。

名和氏は、ピクセルシリーズに限らず創作の基本テーマとして、「人間が人間たる本質は何なのか?」という問いかけをもっていると言う。人間は動物の一種でありながら、他の動物とは異なる。また、地球上には植物もあれば鉱物もある。人体でも、骨や歯は鉱物に近い。そうした、他の存在と人間を隔てている決定的なものは何か──それを名和氏は問い続けている。ピクセルシリーズのオブジェたちは、内部の実体が動物であれ、植物であれ、あるいは鉱物であれ、ひとたびガラス粒に包まれたら、動物でも植物でも鉱物でもない第4の存在になってしまったかのように思えてくる。そんな新種の物体をつくる行為は、動物・植物・鉱物といったモノの既存の垣根を越える行為でもある。そして、第4の存在から逆に振り返れば、どこで動物・植物・鉱物の違いが生じるのか見えてくるかもしれない。

「個々の作品には、メッセージや主張はありません」と言いながらも、名和氏はピクセルのオブジェたちをつくりながら、「物質存在の差異はどこに生まれるのか」、そしてその延長として「人間とは、なぜ人間なのか?」という問いを発し、答えを探究しているのだろうなと思った。ガラス粒のピクセルのオブジェたちは、無言でその答えのヒントを提示しているようにも見えてきた。何とも不思議な見応えを感じさせる作品群ではあった。