● 星野 曉──黒陶 出現する形象
● 2002.1.14
● 滋賀県立近代美術館

★★★★

<総論>

不明にして、これまで星野曉(ほしの・さとる)氏は知らなかったが、草間彌生氏や戸谷成雄氏らと相通じるものを感じると同時に、彼らと同等の評価がされてもおかしくないない人では、と思った。「黒陶」という陶器の一種を素材にしてつくられた、さまざまなオブジェたち。黒陶とは瓦みたいなものと考えたらいいらしい。おもしろい作品群だった。

 

初期は四角い薄い陶板が積み重なったようなスッキリした作風だったが、近年、星野氏が取り組み続けているのは、むしろスッキリしていない作品。主役は、高さが1m半〜2mほどある黒陶でできた鈍黒い円柱状のモノ(幾何学的にきっちりしたようなものではない)。その表面全体には、指で押し付けて模様づけられた細かいくぼみがびっしりと張り付いている。オブジェが置かれた背景の壁にも、同じ材質の細かい切片が、まるで投げつけたかのように広がっている。切片の一つひとつには、やはり指で押したくぼみがある。

 

このくぼみは、作家が道具をまったく使わず、完全な手作業でこしらえたものだそうである。そのせいもあってか、黒陶という無機質の素材にもかかわらず、受ける印象は有機的。また固いものだが、柔らかな印象も受ける。泥粘土みたいな感じも受ける。田んぼの泥の中には、無数のバクテリアなどの微小生物が存在しているが、それと同じように、これらのオブジェの中にも無数の微小静物が潜んでいるようにも思われた。

 

ちょっと抽象的な言い方になってしまうが、黒陶のオブジェには、何かしら“本質”的なものが備わっているという感じがした。何の本質かと言うと、それは生命の本質、事物の存在の本質。あるいは、“原始”。そうした連想を呼ぶのは、一つには模様となっているくぼみが星野氏の手でつくられたということ、もう一つには素材である黒陶は土であるということ、が関係しているように思われる。土という母なる地球の一部を材料としてあることに、安堵を抱くのである。人は年をとるにしたがって、土いじりしたりするというのも、同じ力学が作用しているのだろう。

 

鈍黒一色というインパクトのある作品は、私的には適度に洗練されたものとして好ましかった。洗練されすぎたものの場合、白々しさみたいな感じを受けることがあるが、星野氏の作品にはそれは感じなかった。トータルの印象としては、冒頭でもふれたように、草間彌生氏や戸谷成雄氏の作品に共通するものがあったと思う。いずれも細かい模様のリフレインによって不思議な生命感が付与されている。

 

「原始」を思わせるものには、「本質」を感じるのは当然なのかもしれない。少し話が変わるが、人間の免疫機構にNK細胞というものがある。これは、マクロファージやリンパ球など、さまざまある免疫のしくみの中でも、もっとも原始的なものだという。しかし、このNK細胞が実は免疫力としては最強なのだそうだ。つまり、何億年という生命の歴史を経ても淘汰されず、今日まで生き残ってきただけの力があるということ。

 

その話を、黒陶のオブジェを眺めていて思い出した。もっとも原始的なNK細胞が最強であるのと同じように、原始をまとった黒陶のオブジェに、生命の本質を見た気がした。これまで何となく、「原始」に「本質」を感じてきた理由も、わかった。

<各論>

◎ 『古代緑地1』

今回の展覧会の中では、この「古代緑地」のシリーズがもっとも印象的だった。黒陶でできた円柱に、“緑地”のネーミングもないのだが、むしろそこに作者の思想が垣間見られて、おもしろい。かつて、スタンリー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』で原始の人類世界を描いたシーンがオーバーラップする。人間も含めた原始の原野では、この作品が醸し出す種類の力が支配していたのではないかな、とふと思わされた。

 

◎ 『森を出て草原に立つ』

作品のスタイルからして、戸谷成雄氏と共通するものがある。『古代緑地』では単発的に立っていた黒陶の柱が、ここでは林立している。その結果、黒陶の森が出現している。『古代緑地』のサブテーマが「集中」だとしたら、こちらは「分散」か?