●第2回福岡アジア美術トリエンナーレ2002
●2002.6.8
●福岡アジア美術館
★★★★☆
<総論編>
| 遅まきながら出かけた福岡トリエンナーレ。開催地が福岡なので出費がかさむこともあって、なかなか足を向けられなかったのだが、やはり見ておこうと“決心”して行ってみた。で、その決心は報われた。 福岡トリエンナーレには、アジアの21の国と地域から37のアーティストが参加。規模的には、横浜トリエンナーレに比べるとかなり小ぶりになるけれど、アジアという枠組でくくられているので、テイストは個性的。大規模で雑駁なものよりも、小粒でもピリリとした企画のほうがインパクトが強いことだってあるかもしれない。大会テーマは「Imagined Workshop・語る手 結ぶ手」。当初は「コラボレーション」というテーマが検討されたようだが、「コラボレーション」という言葉ではわからない人もいるだろうとの配慮から「Imagined Workshop(想像された工房)」という英語と「語る手 結ぶ手」という日本語の組み合わせとなったそうである。配慮そのものは大賛成だが、最終的に英語と日本語の組み合わせとなったのは、配慮が必ずしも生かされていないと思う。シンプルに1つの語にしてもらったほうがわかりやすかった。 と、ちょっと注文をつけたものの、全体的には満足度が高かった。美術館の展覧会で「ホスピタリティ」とか「親しみやすさ」といった言葉を思い出したのは、ほんとうに久しぶりな気がする。日本では、だいたいどこでも「入るな」「触るな」「写真を撮るな」の3拍子がそろっている。もはやそれが「当たり前」という感覚に“洗脳”されているほどだが、福岡トリエンナーレは、そんな「当たり前」を払拭してくれた。むしろ、「ここで写真を撮ってください」「ここをのぞいてみてください」「触ってみてください」とすすめられ、その結果、こちらの緊張感が解かれ、ずいぶんリラックスした気分で作品たちと向き合うことができた。少しの(ではないか)違いで、雰囲気はかなり異なるものだと改めて感じた次第。逆に、いつもはけっこう緊張していることになるのだなと自覚しもした。 さらに一歩進んで、観客の参加を積極的に求めるものもいくつかあった。柳幸典氏の作品や、スッティー・クッナーウィチャーヤノン氏(タイ)の作品などで、いずれも楽しみながら参加できるシカケになっていた。おかげで参加者は、「現代美術って、おもしろいじゃないか」と感じることができる。このような、現代美術へのイージーアプローチの姿勢には、大いに共感を覚える。日本の現代美術界には、まだまだ難解な理屈と見ただけではわからない作品を居丈高に提示する向きも少なくないから、「誰にでも楽しめる」という視点は、とても大切ではないかと思った。また、美術館の人たちの応対もよかった。ただ監視のために座っているだけではなく、いったいどれが作品かわからないでとまどっていると(須田悦弘氏の作品)、「これなんですよ〜」と押しつけがましくない範囲で教えてくれたり。ささやかなことではあるが、「もてなし」を感じるひとコマであった。 作品自体については、東南アジアを中心とした国々の、素朴で、テーマが見ている者にもわかり、しかも遊び心をもったものが総じてよかった。たとえ政治的なシリアスなテーマを扱っている作品でも、肩の力を抜きながら鑑賞できる工夫がしてあったりもした。これまでの欧米中心の現代美術とは一線を画するエスニックな世界が見られ、アジアンアートは現代美術のブレイクスルーとなりそうな期待をもたせた。このあたりにこそ「アジアトリエンナーレ」を開催する意義があろう。それに対して、従来路線で理屈からアプローチしているらしい作品は、こうした多種雑多なアートのルツボの中では、頭でっかちな面ばかりが目立ち、小粒でつまらない。韓国、日本の作品に見られたかと思う。また、いい印象を抱いた作品の根本には、「愛」も感じた。もちろん、男女の愛だけではなく、広く自然や動物、あるいは社会や人類全体への愛である。広義の愛が常に意識されているように思われるのである。 いまや、タイ、台湾、インド、バングラデッシュといった経済的には途上国とされる国や地域の美術が、アメリカやオセアニア、ヨーロッパで注目を集める時代である。人まねばかりではなく、自らにすり込まれた感性と考え方をベースに、何を表現したいのかを自分なりに明確にして、作品づくりするほうが、結局、グローバルな視点からは評価される気がする。つまり、わかったようなわからないような作品は、一昔前ならまだしも、現在ではもう通用しないという予感である。 (長くなってしまいましたので、各論は別項目とします) |