第3回 府中ビエンナーレ

府中市美術館

10.21〜12.24

★★☆

 

副題に「美と価値 ポストバブル世代の7人」とあるように、本展は、30〜40歳の若手作家7人の作品を通して、バブル崩壊以降の「美術の共通の価値基盤を失った」(フライヤーより)時代において、改めて美とは何か、美の価値とはどういうかたちでありえるのか、を問おうとするもの。


府中市美術館は、以前より現代アートにも力を入れている印象を持っていた。館長の本江邦夫氏がVOCA展の実行委員に名を連ねており、論客としても知られているからだ。なので、ビエンナーレという祝祭的なイベントで、どんな作品との出会いが待っているのか、いささか期待をもって鑑賞に赴いた。


だが結論的なことからいえば、本展は決して充足感をもたらすものではなかった。平日の日中ではあったが、館内はガランとして盛り上がりに欠け、「ビエンナーレ」の大きなポスターがかえって空しく見える状況だった。とはいえ、ただ「つまらなかった」「面白くなかった」と批判するのみに終始するつもりにもなれない。むしろ、小規模美術館における展覧会づくりの難しさに、改めて思いをいたさないではいられなかった。


窪田美樹氏のコーナーには、大きな縦長の長方形をした透明ビニールシートが吊るされていた。一見それだけかと思ったが、よく見れば、ビニールシートにうっすらと何かの模様が浮かんでいる。「透視」と名づけられたシリーズで、実は、ビニールシートに接着剤で女性の顔などが描かれ、色彩のない絵が、文字通り透明なイメージとして中空に現わされていた。不完全な視覚とでもいうような不思議な視印象である。


松井茂氏の作品は、いっぷう変わっていた。壁に貼られた巨大な紙に、ひたすら数字が整然と並べられている。いったい何かと思ったが、数字は何らかのルールによって配されており、対称性や秩序は見出せるのだけれど、配列のルール自体がどういうものかまではわからない。松井氏の肩書きは美術家ではなく詩人で、実は、数字のルールは氏の詩であり、したがって数字の配列は、詩を数字によって視覚化したもの、というからくりである。興味深い試みだとは思ったが、詩を解読しようとまでは思えず、また美や美の価値を問うとする「作品」への昇華という点でも不足を感じた。


森本太郎氏は、以前、東京オペラシティアートギャラリーでも紹介されていた作家である。パンジーなどの花や人の顔などシンプルな絵柄が、まるで等高線を思わせる輪郭線で描かれ、明快な色の絵の具で着色されている。その着色のしかたが独特で、等高線の部分は絵の具が1ミリほど盛り上げられてあり、等高線がいわば高さ1ミリの壁となっている。そして、等高線に囲まれた“同じ高さの部分”が、緑、橙、赤、黄などで均一に色づけられる。その結果、微妙な曲線をなす等高線と階調をもたない色面の均一性とによって、手作業ともデジタル作業ともつかない中間的な印象をもたらす。


そのように、いくばくかの面白味を感じさせる作品もあったのだけれど、総じて小ぢんまりとした印象であったり、どこで見たことのある気がするものであったりし、ビエンナーレ全体としては物足りなさが残った。今回のビエンナーレに選抜された作家は、多少なりとも美術館に縁が近い人たちのようで、府中市に住んでいたことがあるとか、近隣の三多摩エリアの美大で学んだとか、そういった人たちが選ばれていた。そのため、作家のピックアップにあたって地域性が一つの制約になった面があると想像され、それがビエンナーレ自体の制約につながった面があるように思われる。


それにもまして、本展の盛り上がりを欠いた原因は、私は作家の人数にあると思う。それなりの展示スペースがあって、「ビエンナーレ」とうたっているのに、7人という人数は如何せん少なすぎる。これがもし、20人ほども集められていれば、展覧会の様相はもっと変わっていたのではないだろうか。それは、京都府が毎年行なっている新鋭選抜展や、それこそ本江館長が携わっているVOCA展などのことを考えれば、明らかなように思う。


7人という人数に絞られたのには予算的な制約もあっただろうし、その他、さまざまな制約が取り巻くなかで、小規模美術館がいかにして刺激的な企画を実現させていくか、それは言うは易し、されど行なうは難し、で、部外者の私が勝手に好きなことをいうのは心苦しい思いがする。が、あえて“愛のムチ”を振るって厳しい評価とさせてもらったのは、ぜひ、当館の今後の健闘を祈りたいからである。

(11/21)