● エミール・ガレ展
● 2003.9.8
● 美術館「えき」KYOTO

★★★

エミール・ガレ没後100年記念という本展。なんといってもガレ作品の中核をなすガラス器から陶器、あるいは珍しく家具などの展示もあった。しかしながら、若干低めの評価としたのは、本展をもって、ガレの片鱗にはふれられても、真髄にふれられるとは思えなかったからである。


ガレ作品の真骨頂は、器から立ち上る「なまめかしさ」とでもいえばいいような表現性ではないかと思う。半ば朽ちたバラや衰えたトンボ、にゅろにゅろとしたオタマジャクシなどがガラスの表面を取り巻き、まとわりつく。とてもガラスとは思えない有機的な視感触。そこから生まれる、まがまがしいまでの「なまめかしさ」こそ、ガレのガレたるゆえんだと私は思う。


それからすると、本展の展示作品には、残念ながら物足りない思いが残った。というのは、とくにランプ類に顕著だったと察するのだが、ガレ作品というより、ガレ工房の品と見えるものが多かったからだ。ガレ工房品は、なるほどガレ個人の作品同様、植物や昆虫、魚などがあしらわれてはいる。が、それらのデザインは洗練され、整理された意匠となってしまっており、ガレ作品のような「妖気」は感じられない。整ったデザイン、完成度のあるデザインといえるのかもしれないが、「くせ」がなく、規格品的な印象である。そこには決してガレの真髄を感じ取ることはできない。


ガレならではの「なまめかしさ」は、集団合議制的な制作ではなく、やはり一人の人間の徹底した美意識に基づいた制作でなければ、なかなか生み出されないという格好の事例となっているように思われる。「万人のため」のデザインは往々にして誰にも訴求せず、「一人のため」のデザインのほうがかえって一人ひとりの心に深く浸透し、結果的に大きな訴求力をもつ場合がある。要するに、無難なものは、無難な力しか持ち得ないということだろう。工房作品は、図らずもそのことを教えてくれている気がする。


本展の展示では、個々の作品の説明板に、それがガレ個人の作品なのか、ガレ工房の作品なのかは一切明示されてはいなかった。どちらともいえないグレーのものもあるだろうが、まったく表示しないのは不親切だと思った。勘ぐれば、工房作だということを伏せているようにもとれる。もし、そうなら、それは不作為の詐欺的行為だし、そこまで考えていなかったとしたら、美術館としての力量不足である。個人的には、本展の観覧者には、これでガレの魅力を知ったとは思ってもらいたくない気持ちが残った。


信州、諏訪湖畔に、諏訪北澤美術館というところがある。ガレの真髄にふれるには、ここを訪れるとよいかと思う。あるとき、「エミール・ガレ展」を催すことになったヴィクトリア&アルバート美術館の学芸員が視察にきて、コレクションを目の当たりにするや、言葉を失ったというエピソードがある。世界的なガレのコレクションが見られる美術館である(ガレ個人作か、工房作かも明示してある)。きっと、『ひとよ茸ランプ』と出合った瞬間、脳天から衝撃を受けることだろう。

 

(10月19日まで)