ドイツ写真の現在
かわりゆく「現実」と向かいあうために
東京国立近代美術館

10.25〜12.18

★★★★

 

近年、国際的に高く評価されているというドイツ現代写真の動向を紹介する展覧会。いったい、いまのドイツではどのような作品が撮られ、かの国のアートシーンをリードしているのかを知る貴重な機会なので、かなり期待値を高くもって見ることになった。いちおう「★★★★」としたが、思ったほどのボリュームではなかったので、ほんとうは「★★★☆」との中間あたりとしたいところである。


今回展でピックアップされたアーティストは、

・ ベルント&ヒラ・ベッシャー
・ ミヒャエル・シュミット
・ アンドレアス・グルスキー
・ トーマス・デマンド
・ ヴォルフガング・ティルマンス
・ ハンス=クリスティアン・シンク
・ ハイディ・シュペッカー
・ ロレッタ・ルックス
・ ベアテ・グーチョウ
・ リカルダ・ロッガン

の諸氏。彼らがほんとうに「ドイツ現代写真」を代表する存在なのかどうか、私にはわからないが、見たところ、(もちろん)それぞれ個性をもつ写真家だが、彼らに通底する“ドイツの個性”とでもいうべきものも感じられた。それは、ドイツと聞いて想起するイメージにほぼそったもので、そういう意味で予定調和すぎるほど。


女性的というより男性的、感性的というより理性的、混沌ではなく整然、柔らかさよりも硬さ、甘美さではなく厳格さ、アトランダムではなく規則的、ゆるゆるではなくきっちり……そんなドイツらしいといえばドイツらしい印象はしっかりとあった。なので、「現代写真」といえども、ドイツの伝統あるいはDNAを確実に受け継いでいるといえそうである。こうした作品を見ていたら、ドイツとフランスが隣国だという事実が不思議に思えてくるほどだ。とくに強いインパクトを受けた作家は、以下の人たち。


●アンドレアス・グルスキー

暮らしのなかに潜む幾何学的な造形を、鋭利に切り取って提示するのがこの人の特徴。長方形に区切られた牧場が果てしなく続く光景、広大な空間におびただしい数のコンピュータ端末の列が幾重にも図形的に並ぶ香港証券取引所、何層も平行に重なったフロアを断面的に見ることができる駅(↑写真)。ふつうなら見過ごすかもしれない景色を敏感にかぎ分けて、秩序性を見出し、作品に仕立て上げる。「目」のいい写真家である。と同時に、どんなものにも、それを支配する法則が存在している――逆にいえば、すべてのものは何らかの法則に支配されているという信仰を抱いているかのようにも見える。


●トーマス・デマンド

空港のX線検査場、会議室のような部屋、ビル内の廊下、バスルーム……デマンドが撮るのは変哲のない場所ばかりである。だが、その様子はどこかおかしい。不自然というか現実感がないというか。それもそのはず、彼が撮影した空間は、すべて紙で自分がつくった原寸大の模型。そのため、無機的で整然としすぎているのだ。模型空間はまた、コンピュータグラフィックなどのバーチャルな世界をリアルに現出させたもののようにも見える。アーティストは、PCの世界に耽溺する現代人に「あんたらの住む世界を実在化したら、こんなふうになるんだよ」と見る者に問うているようにも思える。


●ロレッタ・ルックス

子どもを主人公にした作品ばかりを撮っている。だが、そこに写っている子どもたちは、いわゆる子どもらしく笑ったり遊んだりはしていない。感情を感じさせない無表情で、ある子はブリキの太鼓を叩き、ある子は窓の外を眺める。カメラ目線で見る者を凝視する子もいる。すべてのものが静止しているようで、子どもが写っているにもかかわらず生命感もない。彼らは決して不幸ではなさそうだが、さりとて幸福とも思えない。また、彼らが存在すること自体が快とも不快ともつかない。どうにも名状しがたいものがある。あらゆるものがステレオタイプに判じられなくなりつつある現在の様相を際立たせた作風で、まさにカッティングエッジ。

                    *

仕事柄、日本の若手の写真作品を見ることも多いが、このドイツの写真家たちとの決定的な違いは、「哲学」の有無である。日本人は見た目で撮り、ドイツ人は見た目+哲学で撮っているといえる。(哲学の)有無という言い方が極端であれば、多寡あるいは深浅と言い換えてもよい。とにかく本展のドイツ人写真家たちは自分の作品を生み出すのに、作品を通して主張したいこと、世に問いたいことを自分なりにしっかりとじっくりと考えていることがうかがえる。それゆえ、より見る者を作品に近づけ、おのずといろいろと考えさせるのだろう。


他方、日本人若手の写真作品の多くは、たしかにセンスは悪くない。クールであったり、ほのぼのとしていたり、爽やかだったり、あるいは静かだったり。シャーベットのように舌触りがよく、穏やかなイメージが伝わる作品をよく見かける。しかし、作品を通して、何かを考えさせられることは稀だ。いいにしろ悪いにしろ、見たまま、である。そこが作品の「深さ」の違いとなって如実に現われる。


私は、見た目オンリーの作品を否定はしない。だが、あまりにも無頓着に哲学を放擲する若手が多すぎる。哲学なしで勝負するのであれば、並外れた見た目が求められるが、その覚悟もない。ただ単に自分がカッコイイと思う絵を撮っているにすぎない人があとを絶たない。哲学なき表現――これは写真に限らず、絵画、彫刻、あるいは文学、音楽にいたるまで、いまの日本全体にも当てはまるように思え、それはこの国の未来にふと不安を感じる刹那でもある。


美術館内には若い人たちの姿が目立ったが、彼らの目にはいったいどのように映っているのだろうと、そちらのほうも気になった。

(11/14)

<巡回展>
●2006年1月6日〜2月12日……京都国立近代美術館
●3月12日〜5月7日……丸亀市猪弦一郎現代美術館