●「<現代美術へのいざない>アフター・イメージ ──残像」展
● 2002.1.12.
● 国立国際美術館
★★★★
<総論>
| 人間の見るものは、すべて記憶の中の残像と照らし合わせられることによって、初めて意味をもつイメージとして理解される。ただし、その際に時間的な「ずれ」や記憶の「ずれ」によって微妙に意味が変化することがある。そのさまざまを探究してみよう──そんな趣旨で開かれた企画展。
現代美術と接して改めて思うのは、近代までの美術に比べて、より一般の生活に近づいているということ。たとえば、今日では、どこまでが純粋美術でどこまでがデザインかは明確ではない。それは言いかえれば、純粋美術がデザイン化し、日常生活に溶け込みつつあることを意味する。だから、美術館の作品を見て「あ、これなんか部屋にあったらいいナ」と思う頻度は、近代までの美術に比べて格段に高い。
となると、やはり現代美術は高尚なものとして捉えるべきではないだろう。身近なものとして向き合い、うまくすれば自分の暮らしに「採り入れられる」ものとして接するのが正解のように思える。そうしたスタイルは、生活の文化化にも寄与する。そして、生活の文化化こそがモダンアートの功績ではないだろうか。起源がデュシャンのレディメイド・シリーズだとされることがあるのも、決して偶然ではない。
その一方で、現代美術自体が一般人を遠ざけるようなあり方になっている面が否定できないのは残念な事実。あらかじめ、その作家の思想や主張を知っているのでない限り、いったい何を表現しようとしているのかわからないオブジェが、しかも「無題」として提示されたりした日には、とりつくシマがない。作家側も、美術館側も、もっと一般への普及という視点を大切にしてもらいたいものだ。
つらつらとそんなことを考えさせる展覧会であったがトータルとしては、なかなか面白かった。企画趣旨に多少、牽強付会なものを感じないでもなく、また全体を通して必ずしも企画テーマが効いているとは思えなかったが、現代美術の秀作をまとめて鑑賞できる機会とはなった。 |
<各論>
| ◎
柳 幸典『ワンダリング・ポジション−モノモリウム・ミニマス1』 今回の中では秀逸。4m×4m半ほどの大きな紙の上に、赤い細い線で一筆書きのように模様とも抽象画ともつかないものが描かれている。いったい何かと思うが、実はアリの這ったあとをなぞったもの。だからタイトルが「ワンダリング・ポジション」。アリの歩みを追いつづけるという作業は、相当の根気というか執念が必要だったろうと想像させる。柳氏と言えばアリは、もはや欠かせない“アイテム”。今回もうまく活用している。
もし、この作品が単なる描画であれば興趣は半減しただろう。アリという“人知”を超えたものが描いた軌跡であるからこそ、観る者の興味は増幅される。それは、いったいどうしてなのかと考えると、「計算されていない」ということに集約される気がする。いまやわれわれの周りには、消費者心理をとことん計算し尽くした商品・サービスがあふれている。典型的なのがTDLやTDS、あるいはUSJ。どうすれば客は喜ぶかを徹底的に研究し、演出している。
その成果は、もちろん大したもので、行けばやはりおもしろい。けれど、一方で、計算され尽くした演出・サービスのあざとさに辟易する気持ち、自分まで計算に取り込まれるのはゴメンだという気持ちが残るのも事実である。映画『マトリックス』の発想も同根のものと言えるだろう。
それに対して、柳氏のこの作品は、作者本人でさえもどうなるかわからないという“予定不調和性”をはらんでいる。それによって、「計算」という枠を壊すことに成功している。計算され尽くしたものにつきまとう閉塞感を打破し、一服の清涼感を感じさせるのである。
「どうなるのかわからない」ということでは、たとえばポロックのアクションペインティングやパフォーマンスアートなど、これまでにもさまざまなかたちで作品が提示されてきた。しかし、柳氏の作品はそれらとも微妙に違う。従来の「どうなるのかわからない」では、偶然性を引き起こすのは、あくまでも作家であった。あるいは、まったくの物理的偶然。
しかもアリ自身には何らの計算もないし、報酬もない──。この一連のロジックに、鑑賞者は暗黙のうちにも、人為的なあざとさを超えたすがすがしさを感じ取り、作品を素直に受け入れることができる。同時に、人間の恣意の限界に対するブレイクスルーともなっている。ふだんは一顧だにしないアリが人間を超えた離れ業をやってのけているのは、強烈なアイロニーとも言えそうだ。
もう一つ、本作に限らず、柳氏の作品が“骨太”なのは、やはり背景に作家独自の思想が確たるものとして存在するからであることも指摘しておきたい。たとえ、見ただけでは、その詳しい内容を知ることはできなくても、「しっかりとした考えのうえにつくられているらしい」と感じられるだけでも、作品の「力」は高まるものである。現代アートの多くの作家たちは、その点が希薄で弱い。柳氏は一線を画している、ひと味違うぞと思わせる所以であろう。
◎
デイヴィッド・ホックニー 『英国大使館での昼食──1983年2月16日、東京#15』
◎
北辻良央 『作品(ゴッホ<オーヴェールの教会>より)』ほか
◎
福田美蘭 『静物』
最初にこの作品を見たとき、ドキッとした。題材は見なれた絵のものであっても、文字通り視点を変えると全然違う見え方をする──そんな当たり前だが、なかなか気づきにくいことを、福田氏はサラリと(かどうかはわからないが)やってのけている。このあたりのウィットは父親譲りということか(父親はトリックアートの福田繁雄氏)。
以前、何かの本で、いま私たちが見ている星座を何百万年かのちに見るとこうなるであろうという想像図を見たことがある。星は運動しているのでかたちが著しく変わってしまうのである。この『静物』を見ていて、ふとそんなことを思い出した。
『静物』の隣には、『陶器』と題された作品も展示されていた。これもまた、例のスルバランの『ボデゴン』に倣ったものである。こんどは、視点自体はスルバランと同じである。ところが、左から二つ目のアイテムにモザイクがかかっているのである。モザイクがかけられた結果、さまざまな問題性が喚起されているように思える。本来、見えるはずのものが見えなくなる。しかも完全に消えるということとも違う。ボンヤリとは見えるが、はっきりとしない。4つのアイテムのうち1つがそんな状態になっただけで、絵はずいぶんと印象を変える。確実な存在と思っているものでも、実はけっこうモロく、危ういものだと思わせる。
また、モザイクというのは、アダルトビデオによく使われることから、どうも私には“卑猥な消し方”といった空気が感じられた。厳粛なキリスト教徒であったスルバランが描いた作品にアダルトビデオの猥雑さがふりかけられた──そう考えたら、ここでもまた、絵のイメージがごろっと変わってしまうからおもしろい。もっとも、この点は福田氏が意図したかどうかは定かではないが。
そういった理屈はともあれ、とにかくおもしろい作品である。まずは素直に驚き、楽しんでいいのではないだろうか。 |