小泉氏は8月15日、靖国神社に首相として公式参拝すると宣言している。靖国神社には極東軍事裁判でA級戦犯とされた14人の位牌が1978年、極秘に合祀され、問題が国際化した(翌年に公表)。中曽根首相が85年に公式参拝を行い中国、韓国などアジア諸国から強い批判を受け、翌年からは中止。それ以後、橋本首相が自分の誕生日に参拝した以外、8月15日の公式参拝は行なわれていない。
小泉氏は、それにもかかわらず、公式参拝を強行するという。憲法20条(信教の自由、国の宗教活動の禁止)では次のように定められている。「国及びその機関は、いかなる宗教活動もしてはならない」と。小泉氏は首相、日本の最高指導者。国の最高指導者が、8月15日という、国民みんなが改めて平和を誓うべき日に、堂々と憲法に違反する行為を強行するという。
政教分離について
憲法に、なぜ「政教分離の原則」が盛り込まれたのか。それを考えてみたい。ご存知のように、靖国神社は、戦前、国家神道の中心に位置し、陸軍省と海軍省が共同で管轄し、国家主義、軍国主義の象徴となっていた。事実上、国教としての地位が与えられ、信仰の強制や他の宗教に対する弾圧が繰返された。いわば戦争を遂行するための神社だ。近所にあるような、「一神社」ではなかった点を押さえておかなくてはならない。
それを精神的支柱として悲惨な戦争に突入し、「天皇陛下の為に死んでこい、天皇、国のために死ぬのは美だ、靖国神社で待っている」といわれ、戦争にかりだされ、多くの若者が尊い命を失った。いつ死んでもかまわない安上がりな兵器として利用された。戦争は自然災害ではありません。戦争の「犠牲」になったのではなく、「国が殺した」といってもいいでしょう。自国民の犠牲だけでなく、アジア諸国に対しても多くの犠牲、また、物的損害を与えた。「慰霊」とはいうが、反省の気持ちが本当にあるのでしょうか。
現在の憲法が、信教の自由を保障するだけでなく、「国家と、いかなる宗教との結びつきも認めない」のは、上記のような悲惨な結果を、二度と繰り返してはならない、繰返さないという深い反省があるからだ。だからこそ、いくつもの裁判で、「首相の公式参拝は憲法に違反する」、「違反の疑いが濃い」と指摘されてきたのである。「公人としてではなく、私人としての参拝だ」という言葉や、記帳名をどうするかなど、形を変えたところで、社会に及ぼす影響に違いはない。
必ずしも靖国崇拝、戦争賛美に結びつくものではない?
靖国崇拝、軍国主義は復活しない、それに結びつくものではないという人もいるが、本当にそういえるでしょうか。
愛媛玉ぐし料訴訟の最高裁判決での補足意見を紹介する。
「もはや国家神道の復活など期待する者もなく、不安はないとも言われている。しかし、歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる」
靖国崇拝、軍国主義が復活する危険性は常に存在しているといってもいいでしょう。靖国神社は、今は、あくまで一宗教法人に過ぎない。国の最高指導者、首相の公式参拝は、その一宗教法人に特別な宗教としての地位を与えようとしているものといってもいいだろう。
これは、「自衛隊は軍隊ではない」といって自衛隊を肥大化させたのと同じだ。もうすぐ「靖国参拝は宗教行為でない」と言い出すのだろう。今、自衛隊への「体験入隊」が日常化している。それと同じように国会議員、地方議員だけでなく、国民みんなも参拝しましょうと言い出す可能性も否定できないだろう。そこにあるのは、感覚の麻痺だ。
小泉氏は、「慰霊であり、戦争、靖国賛美でない」というが、これまで参拝した首相が「戦争賛美、靖国賛美です」と答えた例はない。また、「家族と離れ、戦場に赴いた人々の気持ちを思うと本当に胸がうたれる」、「なぜ戦没者に敬意を表する行為が、これほど批判されなくてはならないのか」と情緒に訴えている。
しかし、靖国参拝は、過去、靖国神社が果たした役割りを考えれば、単なる「墓参り」とは意味が違う。情緒に訴える水準ではなく、また、情緒の次元で考えるべき問題ではない。小泉氏は小泉個人ではなく、国の最高指導者として自分の行動を考えるべきだろう。
アジア諸国に与える影響は?
次に考えなくてはならないのは、国際的な関係である。小泉氏は、参拝にこだわる理由を、「戦死者への敬意」を挙げている。しかし、中国政府の例を見れば、1000人以上の日本人戦犯が早期に釈放され、民族的復讐をしないことを明言し、中国に侵略して、多くの人命と物的損害をもたらした戦争の責任は、ごく少数の軍国主義者だけが負うべきものだとして国民を説得してきた。つまり、日本人みんなが悪いのではない、反日感情を持つべきではないという指導だ。過去のことより、未来の友好関係を築いて行こうという考え方からだ。
このような配慮は韓国でも同じだ。それにもかかわらず、最近の教科書問題にも見られるように、「過去の戦争にいつまでもこだわるべきでない、日本は何も悪くない、侵略される方も悪い、日本は自国のことをもっと強く主張すべきだ」などという、おかしなナショナリズム、復古主義が台頭している。そこには、「反省」などみじんもない。
このような主張は、前述したアジア諸国政府の自国民に対する努力を無視、台無しにするものでしかない。だから教科書問題でも中国、韓国は事実の記載、誤りの修正を求めているのである。日本の教科書に対する「干渉」ではありません。過去、日本に侵略、植民地化された事実がなかったなら、何ら意見を述べることはないでしょう。
憲法は国際平和主義、国際協調主義を訴えている。これは戦争をしないということだけでなく、国際社会との関係で、自分の主張で、引くべき所は引いて、関係を調整しなさいという意味だ。自分こそは正しいといった考えの延長線上にあったのが、戦争だ。この国際協調主義も戦争の反省からきたものだ。
日本は、経済協力はしても、決して戦争責任を果たしてきたとはいえない。つまり日本の努力が関係諸国に評価されず、「まだ足りない」といわれ続けてことが日本国民の反韓国、反中国感情につながっている。なぜ、「まだ足りない」のか。戦争に対して、今だに国としての公式な謝罪、補償がないからである。それが関係諸国民との感情的なトラブルにつながっている。その原因は、日本の政治家の安易な発想によってつくられている。靖国参拝は中国、韓国などアジア諸国からの反発だけではなく、欧米諸国からも決して評価されないだろう。
2001.7.15
(日)
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