集団的自衛権は、確かに1945年にできた国連憲章に盛り込まれている。つまり、国連加盟国への武力攻撃が発生した場合、「安全保障理事会が必要な処置をとるまでの間、個別的、集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と規定する。しかし、これは国際法上、国家は集団的自衛権を有するといっているに過ぎず、各国は軍事力を増強せよ、それぞれ軍事同盟を結んで武力行動をとるべしという意味ではない。


政府は、この集団的自衛権について以下のように解釈してきた。

「わが国でも国際法上、集団的自衛権を有していることは当然だが、憲法九条で許容する自衛権の行使は、わが国を防衛する必要最小限の範囲にとどめるべきだと考えられており、他国に加えられた武力攻撃を阻止する集団的自衛権を行使することは憲法上許されない」 1981年(昭和56年、政府答弁書)。

つまり、憲法九条は戦力の保持を否定し(もちろん自衛隊は憲法違反)、その海外派兵は許されていないことから見て当然であろう。小泉氏の提唱する解釈の変更は、更なる、なし崩し的改憲、そして、自衛隊の海外派兵に道を開こうとしているものといってもいいだろう。


なぜ今、集団的自衛権が叫ばれるのか?

それは、中国を敵国とみなしている米国の要請に基づくものといっていいだろう。つまり、米国の世界戦略、対中戦略の一環、それに日本も軍事的に参加せよ、といっていると考えてもいいだろう。例えば、台湾をめぐり、米中間で軍事衝突があった場合、日本の基地使用や後方支援だけでは心もとない。

現在、周辺事態法があるが、そこで規定されているのは「後方支援」だ。それでは心もとない。つまり、前方支援、後方支援の区別なく、日本は米軍と共同で軍事行動をとれるようにしろといっていることを意味する。極端にいえば、日本も、アメリカと一緒に戦争ができる国になれといっているようなものだ。小泉氏の提唱する「解釈の変更」は、それに呼応しようとするものだ。

一部に、その方が抑止力にもなっていいではないかという意見があるが、決してそのようなことはない。米国が始める戦争に、日本が協力することで、日米一体。当然、日本も敵国とみなされ、日本全土が戦争に巻き込まれる可能性もあろう。

米国が、自分達こそは善と考えるのは勝手、そして、どこの国を敵国と仮想するかも勝手。しかし、米国は決して善ではない。ベトナム戦争をみればわかることだ。それに軍事基地として参加したのは、この日本だ。日本も米軍と一緒にベトナム戦争を遂行し、ベトナム人民を苦しめた。


「自衛隊がやるんだからかまわない」。みんなで、その考えやめませんか。

今、集団的自衛権、国際貢献、人的支援など色々いわれている。要するに、日本人は自分の血も流せという意味だ。それを扇動する議員、政党もあれば、賛成する国民もいる。なぜ賛成するのか。自分はやらないからだ。「どうせ自衛隊がやるんだから俺はかまわない」というだけのことだ。つまり、自分はやらないことを前提にしている。

そして、自衛隊はどうか。実際に武力衝突があれば、自衛隊をやめる人もかなりいるであろう。そして入隊する人もいないであろう。つまり、自衛隊も武力衝突がないことを前提にしている。そのようなことを前提に、自衛隊の容認、人的国際貢献? 集団的自衛権の行使が無責任に論じられている。

自衛隊員の親、家族、関係者、防衛のために血を流してほしい、国際貢献?のために血を流してほしいと思っている人は一人もいないでしょう。自分ではやりもしない、やる気など、さらさらない人たちが、さも自衛隊の総指揮官にでもなったつもりになって、「多少の犠牲はやむを得ない」、「防衛はどうあるべきか」などと「防衛論議」をしている、「真剣に防衛を考えている」つもりになっているだけのことです。

小泉氏のいう、靖国神社への公式参拝の強行、集団的自衛権の行使。これらがタブーへの挑戦?、聖域なき改革?。何をか、いわんやである。
                                                           2001.6.5 (火)
                              

                          自衛隊の発足から今日まで