(年齢は、2000年現在の表記です


※ 戦争の地獄                                       秋田県  女性 71歳

 私は、1945年(昭和20年)の敗戦間近に、赤十字の看護婦の卵で、秋田市の海軍病院にいました。17歳でした。
 戦場で手足を失った人、墜落、炎上する飛行機から脱出して全身にやけどをした兵隊さん、切断した下肢の傷
 に当てたガーゼにウジ虫がうごめいている人。食料はじめ何もかも欠乏し、その上に度々の空襲。高熱にあえぐ
 患者に氷もあげられず、お母さんと叫びながら死んでいく童顔の兵士。戦争は地獄です。満州開拓団でも敗戦に
 よる混乱と引き上げは残留孤児を生み、足手まといになる我が子を殺したり、絶望のあまり自殺したりする人な
 ど、そうした修羅場を体験しました。 
                  

※ 「回天」の島                                        埼玉県  男性 65歳

 山口県徳山港からフェリーに乗り大津島に行って来ました。戦局悪化の回生手段として、戦争末期の1944年、
 人間魚雷「回天」の基地となったところです。回天は、潜水艦を母艦とし、大量の爆薬を搭載した魚雷を、隊員自
 らが操縦して、敵艦に体当たりする、文字どうり死の兵器でした。若くして逝った搭乗員、整備員ら145人と、回天
 作戦に参加し、未帰還の潜水艦の乗組員、810人の霊に祈りを捧げました。隣接する記念館にはさまざまなもの
 が展示されていました。まだ少年の面影を残すたくさんの遺影の前では、戦争のむごさ、理不尽さに怒りと涙が
 わいてきました。彼らが両親に宛てた手紙の一行一行に立ちすくみました。


※ 初年兵の体験                                      山梨県  男性 76歳

 私は大正末期、茨城、鹿島灘で米軍の上陸に備えた工兵隊にいた。二十歳の初年兵であった。陣地構築作業
 におわれ、古年兵の陰湿なリンチに泣いた。「便所が長い」と言っては、襟首を持って引きづり出され、「飯の食
 べ方が遅い」で往復ビンタだった。菊の紋章入りの銃につまずいて倒したとき、「不忠者、天使様を足げにしおっ
 て」と、皮スリッパで叩きのめされ、もん絶した。「貴様らは一銭五厘の消耗品」とののしられ、「生殺与奪の権」は
 上官にあった。リンチは常軌を逸し、軍隊は人間を鬼に変えていた。初年兵は、人間の尊厳を抹殺されていた。
 終戦近く、敵艦載機が頻繁に来襲、戦友が散った。食糧も欠乏。わずかな残飯を奪い合い手づかみで食った。
 戦車に対抗する壕を掘った。抜刀した小隊長が「閣下のおんため、死ぬまで掘れ」とわめく。生き地獄だった。
 あれから50余年。忘れることも許すこともできない恐怖と屈辱に塗られた重い記憶は、今もなお鮮明。二度と、
 あってはならない。
                           

※ 特攻に散った若者と日の丸                               静岡県  男性 64歳

 鹿児島県知覧町の特攻平和会館を訪ねた。出撃を前に、子犬とたわむれている17歳の少年の写真に残る幼い
 笑顔、完勝と書かれた日の丸のはちまきが、どうしても目から消えない。特攻隊は爆弾を積んだ飛行機もろとも
 肉弾となり、一機一艦の突撃を敢行した戦争史上、例のない作戦部隊。展示されたデータによると、この特攻で
 散った若い隊員は1036柱。物資不足のため燃料が片道だけのものとか、訓練期間が短かったため、体当たり前
 に撃ち落とされて海に沈んだ特攻隊が大半だったという。館内に展示されている遺書や日記には、母国や天皇
 に命を捧げると記されたものが多い。その中で、親に先立つことをわびる手紙もあって、胸が痛んだ。また、展示
 されている日の丸が異様な感じで私に迫ってきた。日の丸はこの旗の持つ過去を消せない。君が代は明治憲法
 下のみかどの治世の歌で、象徴天皇からは遠い。特攻隊員は形の上では志願であるが、応募を勧めたのが学
 校の教員だった例も少なくない。教育という名で、前途ある若者に死を強要した愚挙を、深い悲しみを持って胸に
 納め、教育の力の大きさと恐ろしさに戦慄を感じながら、会館を後にした。


※ 「君が代」の影は大き過ぎる                               茨城県  男性 73歳

 どこの国の国歌にも光と影があるという意見もあるが、「君が代」の影は、あまりに大きすぎる。終戦直前、私は
 初年兵として、「天皇陛下のために死ね。死ぬ時は天皇陛下万歳と言って死ね」と、毎日のように死ぬための訓
 練を受けていました。ある日、銃の手入れが悪いと、上官に皮のスリッパで意識がなくなるほど殴られました。
 「恐れ多くも、天皇陛下から賜った兵器に対して不忠である」と。「天皇陛下」という言葉を聞いた時、殴り倒されて
 も即座に起き上がり、不動の姿勢を取らねばなりません。それが、当時は当たり前でした。口中が血まみれにな
 って、奥歯がポロリと欠け落ちたことを、今でも覚えています。天皇陛下という言葉を聞くたびに、あの時のことを
 思い出し、暗い気持ちになります。今は象徴天皇とは言え、その「君」のために「千代に八千代に」と歌うことはで
 きません。定着した、と政治家は言っていますが、若い人達は意味もわからず歌っているだけ。
                             

※ 7歳の胸に恐怖心                                     神奈川県  男性 63歳 

 太平洋戦争も3年目の1944年(昭和19年)夏、現在の長野県飯山市。母親の実家から、国民学校に通う一年生
 だった。強い日ざしの中で朝礼が行われた。教師が会場にやってきて、教育勅語を読み始めた。生徒はもとより
 教職員も全員、直立不動の姿勢で頭をたれています。私は、すぐ前の女の子の頭を後ろから軽くつついていまし
 た。その子も疎開している身で親近感があり、よく一緒に遊ぶ中でした。しかし、女の子は振り向きません。いま
 一度つつこうとした、その時です。私は後頭部をものすごい力で殴られました。倒れかかると、軍服姿の屈強な男
 に胸をつかまれ、職員室 に引きずられていきました。「ここに立っていろっ」校長先生の机の前に立たせると、
 男はどこかへ行ってしまいました。軍服姿の男は併設された青年学校に配属された軍属だったようだ。子供には
 殴られた訳もわからず、何より昼食抜きがこたえた。「もう決してしてはいけないよ。天皇陛下のお言葉なんだ
 ぞ。日の丸も、君が代も、奉安殿も、みんな天皇陛下なんだ」7歳の私に天皇陛下のなんたるかはわかりません。
 ただ恐怖心だけは強烈に刻みつけられました。その後、学校行事では決して動かず行儀よく過ごした。だが、戦
 後、君が代斉唱に加わったことはない。日の丸、君が代と言えば、無条件に天皇そのものです。


※ 「日の丸」と兄                                         東京都  男性 74歳 

 昭和19年(1944年)4月、駅前広場の桜は満開だった。その桜の下で日の丸をたすき掛けにした兄が大勢の若い
 女性に囲まれ、微笑んでいる。セピア色に変色したその写真は、兄の出征当時、これが永遠の別れになるとは
 知らず、私が写したものだ。兄は商事会社から軍需工場に転じ、徴用されて生産に従事する女子挺身隊員の指
 導役になっていた。写真の女性達は、兄の出征を見送りに来た隊員達だ。兄は満州(今の中国東北部)に配属さ
 れ、週に一度届く手紙には病弱な中学生だった私への気配りがにじんていた。その音信が途絶えてまもなく、ソ
 連軍満州侵攻の報。そして終戦。待っても待っても帰らず、十年後に戦時死亡宣告がされ、兄の名前を書いた紙
 片が入った白木の箱が届いた。あらゆる手だてをつくしたが、どこでどういう最期を遂げたのか、今もってわから
 ない。そして、あの挺身隊の彼女たちも、軍需工場が爆撃され、大勢が死んだと聞いた。私の心の中の戦後はま
 だ終わらない。


※ 最敬礼を忘れ、連行された私                                東京都  男性 89歳

 戦前、東京の市電(今の都電)が、停留所でもないのに必ず、車掌さんがひもを引いてチーンと鐘を鳴らし、臨時
 停車したのが、宮城の前でした。「ただ今、宮城前」と車掌さんが告げると、乗客たちは皆、皇居の方へ向きを変
 え、脱帽し、最敬礼をしたものです。その時、私は19歳。母の用事で新橋近くまで行った帰りでした。一人ぼんや
 りと運転席の後ろに立っていると、いきなり肩をつかまれ、電車から引きずり下ろされました。その男は私服の特
 高刑事。丸の内の警察署の二階で、こづき回されました。「不敬罪」だというのです。部屋の隅の日の丸の旗の
 前に立たされること二時間以上。母が呼ばれ、大学の教師も呼ばれ、私の思想上のことを問われました。思え
 ば、いやな暗い時代でした。君が代の歌が流れ、日の丸の旗が風になびくなんて、まっぴらです。


※ 死体の山と日の丸                                       東京都  男性 70歳

 昭和14年当時、中国山東省に住んでいた。夏の日、弟らと三人で町外れの有刺鉄線の囲いの中に入ってみた。
 周囲10メートルもありそうな大きな穴に巨大な黒い固まりが見えた。死体の山だった。黒く見えたのはハエの群で
 あることもわかった。頭を上げると、近くに日の丸が翻っていた。60年以上たって私の記憶に残るのはまばゆい
 空を背景にした日の丸が恐ろしいまでに美しかったことだ。それ以降、私は目に見える美しいものを率直に信じ
 る気持ちにはなれなくなった。今年現地を旅行し、そこが刑場だったと知った。


※ 祖国に捨てられて                                      神奈川県  男性 65歳

 国は、かつて「日の丸」「君が代」を、国民精神高揚の具として先の戦争を遂行し、多大な被害をもたらした。私
 は、1966年、フィリピンのレイテ島へ遺骨収集に行った。飢餓の果て、息絶えた8万余の英霊の遺骨が散在して
 いた。祖国に捨てられた姿は悲しすぎ、用意していった日の丸を掲げることも、君が代を歌うこともできなかった。
 多くの若者は当時、皇国日本の象徴であった日の丸、君が代の体制の中で、アジア全域の戦場へ送られた。そ
 して、無謀な戦闘に、食糧、必需品の補給もないまま朽ち果てた。また、輸送船もろとも、米潜水艦のえじきとな
 り、海の藻くずと消えた。老若男女を問わず、戦場と化した沖縄、旧満州での棄民、広島、長崎の被爆、そして東
 京大空襲などで多数が死傷した。国民は等しく、言語に絶する苦難の思い出と、肉親を失った悲しみの遺恨を抱
 き、今日に至っている。


※ 戦争が終わって                                        長野県  女性 73歳 

 先日同窓会がありました。敗戦の6月、学徒動員先の四日市の軍需工場でB29の大空襲を受け、工場も寮も丸焼
 けになり、命からがら逃げ帰った仲間なので、集まれば必ずその話になります。当時は、新聞も読めない、ラジオを
 も読めないという社会から隔絶された工場の敷地内での寮生活だったので、戦況は敗戦寸前だったというのに、
 「今に神風が吹いて日本は勝つんだ」と信じていたのです。流れ作業の飛行機工場なのに、 大事な部品がなくて
 仕事が流れず飛行機が完成しない上、食べるものにも事欠き、連日連夜、空襲を受け、どこから見ても勝てる状況
 ではありませんでした。にもかかわらず、「日本は神の国だから負けるわけがない」と信じ込まされていたのですか
 ら、恐ろしいことでした。8月15日の天皇の玉音放送以後、社会は180度転換しました。今まで敵性語ということで
 禁止されていた英語が巷に溢れ出しても、全然わからず、情けないことでした。そんなハンパで、国際社会に通用
 しない教育しか受けなかった世代だけれど、新しい日本国憲法が施行されたときは、どんなにうれしかったことでし
 ょう。「もう戦争は絶対にしないんだ」「天皇のために死ななくていいんだ」と。


※ 神道と沖縄の歴史に思いを                                  大阪府  男性 65歳 

 私は沖縄の出身だが、沖縄はもともと琉球王国としての長い歴史を持ち、天皇とは無縁の島であった。それが明
 治政府による琉球処分で、日本の国に組み込まれてから、異質な琉球を日本化するために、すさまじい「公民
 化」教育が始まった。沖縄の古い拝所である御嶽(うたき)に鳥居を立てて神社とし、神道精神を広めようとした。
 ひめゆり学徒たちは教育を通じて「皇国の少女」となり、天皇を神とあがめ、天皇のために死ぬことは名誉として
 教え込まれた。「ひめゆり平和記念資料館」には、せっかくアメリカ兵に助けられながら、「皇国の少女だ、打つな
 ら打て」と立ち向かい、みけんを打たれて即死した少女の遺影が飾られている。皇民化教育の行き着いた結末で
 あった。
                                                         2000.11.3(金)