以下の文章は、2000年12月23日、コラム欄に掲載した、「鳩山代表、論憲と改憲の違いは ?」を一部修正したものです。民主党、鳩山代表の発言部分を削除すると主旨が伝わらなくなりますので、削除してありません。肩書きなどは当時のものです。


「改憲」を前提に「論憲」しようという、鳩山代表。

かつては、私は「改憲」ではなく、あくまで「論憲」の立場だ、といっていた鳩山代表。最近は、ひんぱんに、「世界的には、自衛隊は軍隊だ。この矛盾を正さなくてはならない」、などと改憲発言を繰り返している。党内では、一部、「鳩山氏の発言は、党で正式に決定されたものではない、参院選を控え、改憲イメージは、まずい」、という批判も出ているが、本人は、今後とも憲法改定を積極的に提案していくという。

その批判に対して、鳩山氏は「議員個人の言論の自由は保障されるべきだ」と反論しているが、やはり、正式に党議決定されるべきだろう。なぜならば、党の「代表」としての鳩山氏には、公の場で、「個人としての発言」は慎むべき、あるいは、許されないと考えるからである。個人的発言ではなく、「代表」の発言になるからだ。「数々の問題発言」を繰り返し、批判された首相が、公の場で、「議員個人としての発言」が許されないのと同じだ。総理の発言、党の代表の発言とはそういうものだ。「私的なおしゃべり」という訳にはいかない。

憲法をどう捉えるかは、社民党、共産党でも論議する。つまり、「論憲」はする。しかし、その出発点がまるで違う。社民党、共産党は、「憲法を守っていこう」というものだが、鳩山氏の場合は、明らかに、憲法九条の改定を前提にした「論憲」をしようというものだ。

思想、信条の自由があるから憲法を論じても構わない(論憲)というよりは、どうしたら改定できるか論じよう、改定に向け論議を起こし、改憲ムードを盛り上げようと国民に呼びかけているのと同じだ。鳩山氏は改憲を主張するなら、「個人の言論の自由だ」といって批判をかわすのではなく、正式に党議決定し、民主党の公約として、選挙で「改憲」を主張し有権者の判断を受けるべきだろう。

それは、マスコミの報道の仕方にも問題があるが、国民の中には民主党を、「民主主義の政党」、「憲法を尊重する政党」と錯覚、誤解している人が多いからだ。新進党の崩壊後、民主党に合流した人達は、ほどんど改憲論者であろう。その人達が、新たな政界再編をにらんで自由党議員との勉強会を発足させるという。彼らは、一体、どんな社会をめざしているのだろうと考えると怖いものがある。


明らかに、自衛隊は憲法違反だ。

確かに自衛隊は音楽隊でもなければ消防団でもない。明らかに、「軍隊」だ。軍隊であるか、軍隊と認めるか、軍隊と認めないかは、自衛隊の「軍隊としての性格」を何ら変えるものではない。軍隊だからこそ、憲法上許されないと考えなくてはならない。「自衛隊が軍隊で何が悪い!」というのは開き直りだ。


改憲論者も、内心では、「自衛隊は違憲」と思っているが、意地でもそれを認めたくないだけだ。

鳩山氏の「自衛隊は、軍隊で、憲法と矛盾している、それを正そう」という主張は、裏返せば、鳩山氏も内心、「自衛隊は憲法違反である」と認めていることを意味する。鳩山氏に限らず、現在、「自衛隊は合憲、しかし、九条を変えよう」と主張している人達の多くは、内心、「自衛隊は憲法に違反している」と考えている。

自らそれを認めてしまうと、国民に対して説得力がなくなるので、「合憲だが、憲法を変えて明記しよう」といっているに過ぎない。しかし、これもおかしな論理だ。憲法のどの条文を見ても、「この条文は、合憲です」などと書いてある条文はない。つまり、憲法の条文に「違反しているもの」は、「違憲」ということだ。なんら複雑な話ではない。

「陸軍、海軍、空軍、その他の戦力は、保持しない」と規定しているのだから、自衛隊が「自衛力」であろうと、軍隊であろうと、軍隊と認めるか、認めないかに関わらず、憲法に違反していることは間違いない。自衛隊が違憲な存在なら、それをどうするかを出発点にしなくてはならない。「違憲な存在そのもの」が、問題なのだから、条文をどうするかにはならない。成立させた法律が、憲法違反の疑いがあるから法律を修正しようというのとは意味が違う。条文の問題ではない。

元々、自民党の「改憲運動」の始まりは、「自衛隊は違憲だから、憲法を変えて合憲にしよう」というものだったが、今では、「自衛隊が、軍隊かどうかは小学生でもわかることだ、軍隊で悪い、堂々と軍隊をもてるように憲法を変えよう」という水準にまで内容が変わり、エスカレートしている。少しずつ別な方向に向かっている。


憲法前文の精神に反する「改憲」は許されない。

また、九条改定で問題とされなくてはならないのは前文との関係だ。前文の精神に反する一切の法律、改憲は許されないことを宣言している。自衛隊そのものが許されないのは当然だが、やはり、九条の改定は許されないと素直に解釈すべきであろう。

アメリカが日本を武装解除し、占領を続ける為に設けた、押し付けられた憲法、条文だと主張する人もいるが、決してそんなことはない。「自衛の為」という口実で、悲惨な戦争に突入して行った反省から、改憲に対しても、それだけ厳しくしたと考えるべきであろう。そこには、今後、どんな理由をつけようと二度と戦争をしないという、固い決意があると考えるべきだろう。

どのようにでも改憲できる、改憲すればなんでもできるというのはとんでもない発想だ。憲法なんてなくてもいいといっているようなものだ。改憲を扇動する議員、政党は、静かに、何度でも憲法を読み返すべきだろう。


民主党と自民党に違いはあるのか?

鳩山氏も、今でこそ、「民主党」などといっているが、元は自民党。民主党の中身を見れば、菅直人氏は社民連、そして、20人ほどは、社会党解散前いち早く社会党を脱出した旧社会党議員、そして、6月の総選挙で当選した新人、これらを除けば、ほとんど元自民党、あるいは、新進党時代、小沢氏とともに、「我々は新保守主義者」と胸を張っていた人達。いつから、彼らが、「民主主義者」になられたのでしょうか。

強行採決する時の、「数こそは民主主義」、という時だけだが、自民党でさえ、「民主主義」という言葉を使う。民主党のいう、「民主主義」もその程度のものなのだろうか。

最近の鳩山氏の改憲発言は、多くの有権者の期待を裏切るものであろう。自民党が徴兵開始年齢を18歳からにしようといっているのに対して、徴兵制に反対するのではなく、「いや、18歳は早すぎる、20歳からにしよう」といっているのと同じだ。それでも、主張が2年ほど違うから、「非自民」といっても、間違いではないが、、

そのうち、自民党が徴兵制を提案しないなら、民主党が提案してやるなどと言い出すのではないかと心配する。そんなことが政党間の「対立軸」になってほしくないものだ。


民主党支持の多くは、「ムード」によるものだろう。

その民主党、世論調査を見ても支持率は10%ほどしかない。さらに、固定した支持者は、その10%の中の2割ほどと何とも寂しい支持だ。

自民党の政治を変えようと思って、民主党に投票する気持ちは理解できなくもないが、おぼれている人(有権者)に対して、船上(民主党)から、本当は穴のあいた浮き袋を投げられ、それでも有権者はそれにしがみつくしかなく、やっとの思いで船に近づいたら、今度は、船上(民主党)から棒でたたかれる事がないようにしたいものだ。

現在の民主党支持は、ほとんどマスコミによるムードだろう。社民党、共産党がだらしないというのもあるが、それだけ、有権者の選択肢が狭くなっているということだろう。まさに、別な意味での「二大政党制」の実現だ。止むを得ない選択で、仕方なく民主党に投票したのに、「我々の改憲の主張は有権者に受け入れられた」と解釈されては困る。それでなくとも、今の選挙は公約があるのか、ないのかわからない、単なるイメージ選挙だ。

「自民党に代わる政治」?とは、「自民党に代わって九条を変えてやる」では困ってしまう。無党派層が民主党に期待するものは、そのようなことではないだろう。自由党、民主党があまりにエキサイティングに改憲を叫んでくれるので、本家、自民党はすっかり影が薄くなってしまった。困った風潮だ。


明らかに自衛隊は軍隊であり、国の最高法規、すべての法の中での基本法としての憲法に違反する。

なぜ、憲法改定は慎重でなくてはならないか。

憲法は最高法規であると同時に、すべての法律の根源、基本だ。法律、条例などは、すべて、「憲法」によって法的効力が与えられている。当然、憲法の条文、精神に反するものは法律としての効力を否定される。それを基本にして、相互に関連を持ちながら社会全体が動き、国民は生活している。

木で例えれば、根は憲法、幹は主要な法律。それから、条例などの小枝が分かれ、全体として木(社会)が成り立ち動いている。憲法の条文を変えようというのは、根だけを変えるのではなく、幹、枝、つまり、社会全体を変えることを意味する。一条文の改定は一条文の変更だけで終わらない。

例えば、霞ヶ関の官僚が発する省令で考えてみる。省庁は、その業界全体をどうするのか、どうあるべきかなどを検討した上で、省令を発し業界全体を動かす。(そこに、既得利益を守る為、あるいは、新たな利益を得る為、接待、贈与、天下りなどの癒着、汚職が生まれるのだが。また、名前も知らない官僚が立候補して業界丸抱えの選挙で当選できる、投票する有権者、そういう政治風土も困ったものだが)

「法律」としての効力があるのかどうかも疑問な省令、行政指導でさえ業界全体を動かす力、影響力を持つ。ましてや、憲法の改定。改憲を叫ぶなら、個々の条文云々ではなく、どのような社会を創ろうとしているのかが、先に示されなくてはならない。


どのような社会を創ろうとしているのか、ということで、自由党の主張を考えてみる。

自由党は九条の改定だけでなく、天皇の「象徴」の変更、基本的人権については、「国、地方公共団体と個人の関係を見直す」としている。「象徴」の変更。「元首」か、「国家主席」か、具体的呼称は明らかにしていないが、まさか、今より、下の呼び方を提案する訳はないだろう。

そして、「国、地方公共団体と個人の関係を見直す」とは、基本的人権より国が優先する社会の実現だ。現在でも基本的人権の制約はあります。「公共の福祉」という制約であり、決して無制限な「私権」、その行使が認められている訳でない。判例を見れば誰でもわかることだ。

自由党の主張は、この意味のあいまいな、「公共」という言葉に、いいいろいろな意味合いを持たせて、基本的人権を制約しようとするものでしかない。

この三点だけ見ても、自由党がめざしている社会が想像できよう。そこに、国際貢献、国際社会という言葉をおりまぜて改憲を主張してるだけだ。自由党だけでなく、改憲を主張する人達に共通するのは、「個人」より、「全体」が優先する社会の実現だ。決して、現在の民主主義をさらに発展させようというものではない。


天皇は「象徴」とは、どのような意味か。


憲法第一条で「天皇は、日本国、日本国民の象徴である」と規定する。多くの国民は、「天皇は象徴であるから、国民各位は、うやまい、尊重すべし」と言う意味に理解している。それは違う。

この第一条は、さわらぬ神にたたりなしとして、憲法制定当時から解釈をあやふやにし、はっきりいわないで避けてきた部分で、その為に、誤解している人が多いが、天皇は象徴であるから国民はあがめ、うやまいなさいという意味ではない。象徴であるか、ないかではなく、「主権」がどこにあるかを明示した条文です。天皇に対する尊重規定ではありません。

戦前は天皇主権、戦後は主権在民、国民主権。この主権のありかの大きな違い、主権は、天皇、あなたではなく国民にあるんですよ、あなたは、もう昔のように主権者ではありませんよ、単なる飾り、象徴でしかありませんよという意味での「象徴」だ。

天皇が大切だから第一条にあるのではなく、最も大事な、「主権のありか」を明示する為に、第一条に置いたと考えるべきだろう。この第一条は国民に対して発せられたものではなく、国民から天皇に対して宣告した条文と解釈すべきだろう。


九条を改定しても、生活はこのまま ?

現在の改憲論は経済状態の悪化も要因だが、国民の間にたまった、政治、社会へのフラストレーションを利用して、ただ、「憲法を変えれば何とかなる」といっているに過ぎず、きわめて無責任なものだ。現在の経済状態と憲法九条には何の関係もない。責任のある議員、政党の主張する事ではない。無責任な「扇動」だ。

「憲法の原点にかえろう」という主張こそが、大きな声で叫ばれなくてはならない。現在の憲法のどこが悪いのでしょうか。不足部分があれば法律で補い、いくらでも憲法の精神を盛り込んだ政治、社会を創ることができるはずです。なぜか、それをやろうともしない。要するに、現行憲法が「気にくわない」だけのことだ。

国民の中にも、九条を変えても、現在の生活はこのままで、「自衛隊は合憲」になるだけ、とイメージしている人がいるかも知れないが、決してそんなことはない。前述のように、いろいろなものがからみあって社会は動く。社会の隅々まで影響を与えるだろう。

九条を改定するというのなら、軍隊、国防を、国民生活の中でどう位置付けるのか、軍隊、軍事というものを、子供達にどう教えるのか、国家と個人の関係、基本的人権、また、「合憲」とされた自衛隊の機密をめぐる「知る権利」、「報道の自由」はどうなるのか、いろいろなものがからみあう。一条文の変更では終わらない。変えてみなければわからない、駄目だったらまた変えればいい、ということにはならない。


「合憲」とされたら、どうなるのか

当然だが、合憲とされた存在への強制は、「違法」でも「非常識」でもなくなる。すべてが合法、社会の常識になるということだ。校庭では自衛隊の模擬演習が行なわれ、子供達が日の丸をふって応援する。それが終わると、「国民を守っていてくれる軍人さん達に感謝」して、子供達によるお遊戯会だ。その前に、全員、日の丸を仰ぎながらの君が代斉唱だ。

今でこそ、そんな非常識なと非難する声も上がるだろうが、もう、「合憲」。「憲法が認めているじゃないか」、これで終わりだ。「防衛」が、「教育」に優先する。教育だけでなく、基本的人権も「防衛、国防」の下位に来るだろう。批判、反対する人には、「あの人達は日本人じゃないのかしら」、と「変わり者」呼ばわりだ。しかも、その時にはごく少数になっている。


日本は非核三原則を「自称」している。「持たず、作らず、持ち込まず」という意味らしい。本当にそうでしょうか。アメリカ軍が、日本に寄港する途中、核兵器を、太平洋上に投棄して寄港しているのでしょうか。核兵器の持込みを了解する「密約」を、アメリカ政府と大平元首相、中曽根元首相が交わしていたことが、アメリカの公文書の開示で明らかになっても何の問題にもならない。それが日本の現実だ。

ベトナム戦争で、米軍によって空中から毒薬を散布され、それが原因で、「奇形」といわれる子供達がたくさん生まれました。子供達、その両親は、何も悪いことはしていません。最近、数件、日本の病院で手術をすると、「日本の医療はすばらしい」、「日本は良心的な国」のごとくアナウンサーは言う。その米軍機、毎日、どこから飛び立っていたんですか。どこで給油したんですか。日本です。決して、「日本医療の美談」で済まされることではありません。

そして、今も、人口10万人の港町に、米軍空母が到着すると、その周辺の市町村から、倍の20万人が押しかけ、空母の前でベトナム戦争当時に生まれた位の夫婦が、子供を真中に、米軍兵と一緒に指でVサインを作って、「ピース」と微笑みながら写真に収まっている。米軍が、過去、何をしてきたでしょうか? 岸壁で、寄港反対のデモ行進をしてるのは200人ほどだ。彼らは、もう、りっぱな、「変わり者」だ。


知らぬ間に、「異常」が「正常」になっていく

強制はしないということで、「尊重規定」を盛り込まず、「日章旗は国旗、君が代は国歌」と定めただけの国旗、国歌法で考えてみる。今、どうなっていますか ? 日の丸掲揚時に起立しない教師、君が代の伴奏を拒否する教師に対して、どんどん処分が行なわれ、それが、「通常」になっているではありませんか。

国旗、国歌法は、「憲法」ではなく、憲法より下位の「法律」の一つに過ぎない。一つの法案で、このような状態になっている。憲法を変えるというのは、前述したように、今は想像もできない、さまざまな事が起こると考えるべきだろう。社会全体が変わります。あとは、どんどん加速されるだけです。誰も止められません。

かつての日本。あの社会は、一夜にして、あのようになったのではありません。少しずつ変わって、気がついたら、誰も、どうする事もできなくなっていた、そう考えるべきだろう。「いつか来た道」を、再度、歩むことのないようにしたいものです。
                                                         2000.12.25 (月)

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