註:文中の□( )■は、註の番号が入っている部分を示します。文末に註があります。
一、はじめに
優れた小説というものは、主題が何であれ、国家と個人の関係についての深い洞察を伴っているものである。徴兵忌避者・浜田庄吉を描いた丸谷才一の『笹まくら』もその例外ではない。丸谷は「ぼくらはみな時代のなかで、自由でありたいと願っていた。しかし自由を獲得しようとすれば、たとえば逃げることで、さらに大きな不自由を引き受けねばならない」はずだと考え、そのような発想から、英雄でもあり卑怯者でもある存在としての忌避者の「叛逆と自由と遁走」について描いたのだという□( )■。
国家が自己の正義を主張するため、やむをえずとる非常手段が戦争であるとすれば、そのために国家は、兵士として国民を徴集し続けなければならない。しかし、カントがいうように「人を殺したり人に殺されたりする」ために一個の人間が国家に雇われることは、個人の人格における人間性の権利とおよそ調和しない側面ももつ□( )■。ここに、国家と個人の間の緊張関係の最たる事例として、徴兵忌避□( )■という問題がクローデアップされる理由がある。
二、非戦と反戦
言葉の厳密な定義から入りたいわけではない。非戦と反戦という言葉がある種の語感によって区別されて使われている現状と理由を、まずは考えておきたいのである。たとえば、日露戦争開戦前の状況を説明する教科書的な記述を想起してみよう。すなわち、「日本国内の一部では、キリスト教徒の内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水・堺利彦らが、非戦論・反戦論をとなえ、国内世論も当初は戦争を好まなかったが、対露同志会などの運動で、しだいに開戦論にかたむいていった」、と。
言葉の並んでいる順序から考えると、キリスト教徒などがその人道主義的立場から戦争を否認する場合非戦といい、社会主義者がその階級闘争的立場から戦争に反対する場合反戦という区別が含意されているもののようである。たとえば、徳富蘆花の一九〇六(明治三九)年一二月一〇日、旧制一高の弁論部集会での演説「勝利の悲哀」のなかの、「爾の武力を恃まずして爾の神を恃め」□( )■という発想などからする戦争反対の思想は、一般的には非戦論と呼ばれる。いっぽう、トルストイの「日露戦争論」を読んで、幸徳秋水が一九〇四(明治三七)年書いた反論「トルストイ翁の非戦論を評す」□( )■のように、戦争勃発の要因を資本主義制度に求め、資本制社会を転覆し社会主義制度に変えることによって戦争を絶滅しようとの議論は、一般的には反戦論と呼ばれる。
しかし本稿では、非戦も反戦も含めて反戦思想という言葉をひろい意味で使うこととする。人道的宗教的理由から戦争を否定する思想も、体制変革までをも含めたヴィジョンに立って戦争に反対する思想もともに反戦思想に包含したい。その理由は、戦争に異議を唱えるという点、またその異議の唱え方の有効性という点で、非戦と反戦の間に価値の上下をつけたくないからである。
そもそも、非戦を積極的に反戦と区別する論点は、内村鑑三がかつての同士であった社会主義者たちの思想、すなわち「外側から過激な手段」によって達成する反戦思想と、自己の非戦思想を区別するために必要とした垣根だった。内村以外の論者自身、非戦と反戦を区別しないで用いており、実際、さきの幸徳秋水の論説でも、トルストイの議論も非戦論、自らの社会主義者の議論も同様に非戦論と称している。
三、良心的兵役拒否と徴兵忌避
これとほぼ同じ関係にあるのが、良心的兵役拒否と徴兵忌避という言葉のもつ語感の差だろう。まず、「良心的」と形容される事態は具体的には何なのか。良心的兵役拒否の原語は、conscientious
objectorであり、本来はクエーカー教徒など、絶対に人を殺さないということを良心に基づく信条として保持している宗派に属する者が、戦争への参加を拒否する事態だけに用いられてきた。しかし、この言葉を世に知らしめた著作『良心的兵役拒否の思想』□( )■の著者阿部知二によれば、良心的とは戦争を前にして身をかばったり「いたずらに生命を惜しむ卑怯な態度をとることはゆるされず、時としては戦闘員にまさるほど勇敢でなければならぬ、ということが原則的に、あるいは潜在的に約束されている」□( )■、ある種殉教的な精神が内在されている参戦拒否の形態だと定義されるという。
それに対して、徴兵忌避といった場合、どうしても消極的退嬰的な語感がつきまとう。それはどうしてなのだろうか。やはり、太平洋戦争中になされた忌避の喚起するイメージが大きいのだろう。一九四〇(昭和一五)年の数字をとれば、もうこの頃には二〇歳の徴兵適齢に達した男子一〇人に七人強の割合で徴集されるようになっていた□( )■。そのような時期にあっての忌避の仕方は、かつて日清戦争前に一般的であった戸籍の抜け道[後述]を使っての合法的な忌避というような、あっけらかんとしたものでは当然なかったはずである。
強固な意志で減量し、肉体を持続的に衰弱させる方法で召集解除になった者に、文芸評論家の小田切秀雄がいる。自己の体験を語る小田切の語り方は無防備なほど率直である□( )■。
「ギリギリやせて四十キロほどになり衰弱してものうげなからだになった私は、徴兵検査場で”第二乙種合格”という判定になったとき、とにかく勝ったと思った[中略、召集されて入営するが]十日ほどの猛烈な訓練で、痔が急にわるくなったので、いやがられるのに耐えて病気申し立てをつづけていたら、うまいぐあいに牛込の陸軍病院に送られ、手術を受けた。二週間でよくなるのでまずいと思い、なんとか病院にいて、部隊が戦地に行ってしまうまで戻らぬ算段をつけようと思い、薄氷を踏む危険な二つの方法をとることに賭けた。」
この引用部分を読んで英雄的な行為だと感じる人もいるだろうし、またいっぽうでは卑怯だと感じる人もいると思われる。もっと意地悪く読めば、小田切が故意に病気を悪化させている間に戦地に行った部隊はどうなったのかという問いも胸に浮かんでこよう。とにかく徴兵忌避という言葉には、このようなわりきれない感情がついてまわる。
しかし本稿では、反戦思想の具象化したものを良心的兵役拒否とし、「いたずらに生命を惜しむ」気持ちで遁走や詐病をなす行為を徴兵忌避というようには、区別してはとらえないこととする。さきに、非戦と反戦をともに反戦思想に包含したように、クエーカー教徒などの狭い意味での良心的兵役拒否から詐病による忌避まで、すべて徴兵忌避という言葉で包含したい。意味をひろくとるのは、これまで比較的研究のなされてきた非戦・良心的兵役拒否という思想の組み合わせだけでは、日本における平和思想や反戦思想の流れを十分につかむことができないと考えるからである。
四、本稿の視角
この点につき、鶴見俊輔のいうところが参考になる□( )■。田中正造、木下尚江、石川三四郎、北村透谷、内村鑑三、柏木義円といった人々の思想の系譜と別に、日本人にとって非戦思想というものは昔からあったのではないかと鶴見は問いかける。つまりこれまで非戦を論じる時は、先述したような少数の先覚者の名前を列挙し、それ以外については、良心的兵役拒否の伝統が欧米にはあったのだが日本にはそれが欠如していた、との嘆きのトーンですましてきた。
鶴見はそういった欠如理論から日本の兵役拒否の伝統をみていくのをやめ、たとえば「昔からあった伝統の中に、国家や政府を疑う権利を持つ」という発想が日本固有の文化のなかにあったことを思い出したり、また「ウソをついてでも避けようという」苦闘□( )■を、兵役拒否をする際の最も強い態度の一つとして捉えなおすことにこそ意味があると述べている。当面ここで鶴見から学びたいのは、伝統のなかから生ずる思想の萌芽を注意深くとりあげていく姿勢である。これを第一の視角としたい。幕末から明治初年にかけての人々の、兵役についての意識の変遷を述べる部分でそれが生かされるであろう。
さて第二の視角としては、総力戦の特質を分析することによって、たとえば「日本が戦争をする資格のない国」であることを淡々と説明するような合理的な説得の形式をもった反戦思想が、第一次世界大戦を契機に生まれてくることに注目する。合理的な説得の形式というのは、日本近代史の中で常に阻害されてきた形式のようにみえる。しかし、たとえば一九四四(昭和一九)年一月という時点で、大政翼賛会の国民運動局戦時生活部長が「二月の常会徹底事項説明資料」□( )■として次のような資料を配布し、常会の場で世話役たちにこのような説明をさせていたと知れば、随分印象も変わるのではないだろうか。
「◎戦争は莫大な消耗戦 大東亜戦争はその戦線実に一萬五千キロに及び(日露戦争は二千三百キロ)世界戦史にかつて見ぬ程の広い戦域で闘はれてゐます。一体近代戦ではどの位の兵器が必要かと申しますと、ある外国の学者の推計では、一千キロの戦線で一ケ年継続して敵を攻撃するには、先ず機銃が二十萬挺、歩兵砲一萬六千門[中略]また飛行機は、偵察機一萬六千機、観測機三萬機、戦闘機三萬六千機、爆撃機六萬五千機が無くてはならぬとされています[後略]。」
「◎外米の輸入をやめれば かりに外米を千二百萬石輸入するとすれば、これに要する船は五千トンの船で約四百隻ですから、この輸入をやめて、その代りにアルミニュームの原料であるボーキサイトを運べば、飛行機約八萬台の原料が運ばれることになります。」
実に目障りなまでに数字を列挙して、国民の食糧への渇望や不満を、戦意発揚に転化させようとしている。実際の常会の場でどのような説明がなされたのか定かではない。だが、このような説得・説明の方法が有効であると国家が考えていたことだけはわかる。これを逆に考えれば、第一次世界大戦後の平和思想も、日本の場合、ロジカルなもの、少なくとも合理の衣を表面にはまとったものが流行ったのではないかと想像させる。事実、水野広徳や吉野作造などの論説は、平和や非戦の展望を語るよりは合理的につめていって、戦争は経済的見地からも社会的見地からも犠牲のうえからも不合理だとの結論、また平和思想は長期的に激烈に戦われた総力戦の後に必然的にやってくるものだとの結論を、それぞれ無理なく導いている。このような特徴をもった反戦思想に光をあてることを第二の視角とする。
五、はじまりの段階
一八七三(明治六)年一月一〇日の最初の徴兵令にともなう混乱が、米価騰貴ともあいまって、福井、三重、岡山、鳥取などで起きたこの年半ばの新政反対一揆(血税一揆)となったことはよく知られている。前年一一月二八日に発布された徴兵告諭のなかの「血税」という字句が誤解されたことも本当だったがそれだけではない。一揆に打ってでた民衆意識について牧原憲夫は、これまでの封建の世であれば兵士にとられもせず、君主も仁政を心がけてくれていたのに、明治政府のやることはなんたることだという、民衆の後ろ向きの怒り=「客分意識」から説明している□( )■。
民衆の当惑と怒りは、今日の観点からは途方もなくみえる噂も生じさせる。山梨県の例をとれば「徴兵の事あるに方り訛言あり。其喩達に曰、処女を選み兵隊に組入られ、或は女の膏をとり外国に遣はさるゝ等昨今頻に流言し、是が為俄に婚姻を結び或は他方に身を隠す等間々狼狽の所業有之趣」□( )■といった事態が広がっていた。県権令藤村紫朗は、人民保護のための政府が膏を絞るというような苛酷なことをするはずがないではないかと説明にこれ努めている。現在でもそれほど一般的ではない、女性と兵士の二つを直結させた流言となっているところに、命をかけて国を衛るという発想が当時の民衆にとっていかに唐突なものだったかがおしはかられよう。
実際、徴兵令導入後の一、二年は明治政府にとって危険な年だった。佐賀の乱の鎮定にあたっては徴兵による兵隊では間に合わず、士族召集兵によって鎮台兵の不足を満たざるをえなかったし、日清間に戦争の緊張も走った台湾出兵の年の一八七四(明治七)年には、民衆はいっそう徴集されることを怖がり忌避熱も強まった□( )■。よって、苦労して徴兵制の軍隊を作るのではなく「士族を兵隊に!」活用すべきだとの議論□( )■は、かなり説得力をもっていた。忌避熱が、徴兵忌避思想まで拡大しなかったのは、一つには当時の民権家たちが民衆の忌避熱に冷淡であり、民衆の意向を運動としてくみあげる精神をもっていなかったことがあげられる。民権家にとって兵役は、国民の義務であると同時に「国家ト憂楽ヲ共ニスル気象」の最も明快な発現であると考えられていたからである□( )■。
この時点での徴兵忌避は反戦思想とは無縁なところにあり、前時代からの伝統的観念、つまり社会の構成員が職能によって国家社会の役に立つべきだとの四民(士農工商)観からくる、当然の反発として現れたものといえるだろう。年貢と百姓役を納めていればすんだ百姓が、どうして国家の安寧を維持するための軍役=武士の役まで負担しなければならないのか、このような考えから、煩悶もなく徴兵令の免役条項を利用した忌避がさかんにおこなわれた。
六、日清・日露戦争による変化
しかし、国家の安寧維持=国防に対する民衆の冷淡な感情は、帝国主義列強の脅威という現実の前にしだいに変化を遂げざるをえなくなってくる。福沢諭吉は「文明論之概略」のなかですでに「独立を保つの法は文明の外に求む可らず。今の日本国人を文明に進るは此国の独立を保たんがためのみ。故に、国の独立は目的なり」と述べていた。そして、政党や有識者の対外認識も「民族の独立の確保は、清・韓国に対する我が国の覇権的地位の確保と同義である」との観点に立ったものだった。よって日清戦争は、韓国の独立を擁護するための義戦、我が国の独立を守るための自衛戦争、「開化と保守の戦争」だということで自然に受けとめられていった□( )■。
反戦論が本格的に論じられ始めるのは、日清戦争の後日露戦争の前からである。幸徳秋水は、国民がいかに痛苦を忘れやすいものかについて乾いたトーンで演説している□( )■。
「日本人は日清戦争に苦しい経験をしたことをモウ忘れて終つた様だが、アノ戦争はどういうものであつたかといふに、朝鮮の独立を扶け、支那の暴を懲らすといふのが目的で、所謂仁義の戦争で、世の人の嘆美した所であつた。然し矢張り理屈の上からいへば斯る立派な戦争であつたにも拘はらず幾多の兵士は其犠牲に供せられ若い労働者の子、百姓の子は殺された。前途有望な身を以て国家の為めに其楽しい生涯を棄てゝしまつた。[中略]日本の国家は重大なる損害を蒙つたのである。」
日清戦争の損害ということでいえば、軍人軍属の戦死戦病死者の合計は一万三四八八人□( )■に達し、臨時軍事費も二億円を超えた。さてこの演説の後の一九〇三(明治三六)年一〇月、よく知られるように、開戦論の立場をとった『万朝報』社から、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦が「朝報退社に際し涙香兄に贈りし覚書」をしたためて退社する事件に発展する。
このような立場から秋水は、社会主義者の立場からの反戦論がどのようなものか思索を深めていった。さきに触れたように、トルストイの「日露戦争論」に対する反論として書かれた「トルストイ翁の非戦論を評す」は、人々が宗教心を喪失したために戦争は起こると述べたトルストイ□( )■に対して失望をあらわにして、「列国経済的競争の劇甚」なるがために戦争は起きる、戦争を根絶するためには資本家制度を顛覆して社会主義制度に変えるしかないとの展望を示している□( )■。ただ、ここで注目すべきことは、秋水がトルストイの述べたような「民衆は兵役を拒否し租税を払うなかれ」との立場を認めていないことである。「吾人は兵役の罪悪を認め、租税の苦痛を感ずるも、而も是れ吾人国民が組織せる制度の不良なるが為めに来る者也」といい、だからこそ、国家組織社会制度の改革によらなければならないと考えていた。
日清戦争の悲惨さを訴え、日露戦争に反対した秋水の議論は、官憲の弾圧は勿論のこと、思想界のレベルでもさまざまな挑戦を受けざるをえなかった。吉野作造は「征露の目的」という論文で「吾人は露国の領土拡張それ自身には反対すべき理由なく、只其領土拡張の政策は常に必ず尤も非文明的なる外国貿易の排斥を伴ふが故に、猛然として自衛の権利を対抗せざるべからざる也」□( )■と述べている。ロシアは文明の敵であるから、ロシアが負けて日本が勝てばロシア国内における自由民権の勢力を増すことになるので、自分はロシア人民の安福のために切に露国の敗北を祈るとまで論じ、戦争の必然を、文明=通商自由という観点から支持したのである。
さて、この頃の徴兵忌避はどのような方法でなされていたのだろうか。徴兵令の免役条項自体の抜け穴は、一八八九(明治二二)年一月二二日の改正で法文上はなくなっている。不具廃疾以外の免役は認められなくなったのである。その変種として登場したのが六週間現役兵制だった□( )■。この制度が、活用するつもりになれば徴兵忌避の一側面をもつことを最初に論じたのは、菊池邦作の『徴兵忌避の研究』□( )■だった。一七歳から二六歳以下、官立府県立師範学校の卒業生で、官公立の小学校の教職にある者は、官費で六週間の入営訓練を受ければ、その後は実質上召集されることはない、との制度である。日露戦争前の頃の通常の兵役義務としては、陸軍の場合、現役三年予備役四年四カ月後備役五年合計一二年四カ月であったことを考えれば、六週間の短さがよくわかる。たしかに小学校教員を志望する者にとっては、理由として無視できない動因の一つであったろう。この制度は、一九一八(大正七)年三月三〇日の改正で、六週間を一年に延長した一個年現役兵制となった。
七、総力戦の後で
さて、第一次世界大戦は日本に実質的な損害をもたらさなかったとはいえ、日本にとってその一〇年ほど前に戦われた日露戦争は、戦費総額一八億二六二九万円(うち内国債六億七二〇〇万円、外債八億円)の損害をもたらしていた。その額の大きさは、たとえば一九〇三(明治三三)年の一般会計歳出が約二億五千万円だったことでおしはかられるだろう。日清日露間の軍拡がいかに巨大なものだったかは、日清戦争前の一〇年間の国家予算(一般会計)に占める軍事費の割合が平均約二七%で、日露戦争前の一〇年間のそれが三九%だったことでも知られる□( )■。
このような二つの戦争を一〇年おきにやってきた国であったから、第一次世界大戦の「すさまじさ」は、この極東の地にも特別な実感をもって伝わったと思われる。「すさまじさ」を数で表現するとおよそ次のようになる。一九一七年のイープルにおける第三回めの戦闘においては、準備砲撃に一八日間を要し、その間の砲弾数は四二八万三千発、その総重量は一〇万七千トンにのぼった。これによって連合軍は一一五平方キロの土地を奪い返すことができたが、そのためには一平方キロあたりの死傷者八二二二人の犠牲が払われた□( )■。
この時期、反戦思想を積極的に展開していたのは、水野広徳、吉野作造の二人である。水野の立論を、『無産階級と国防問題』と題された一九二九(昭和四)年の著作によってみていこう。水野は、現代における国家の安全は何かと問う。領土的な安全がめったな理由で脅かされることがもはやないならば、国家の不安材料としては経済的不安があるのみであり、外国との通商関係の維持が国家の生命ということになるだろう。そしてそれは、他国に対して「国際的非理不法」をおこなわなければ、保障されるものである。現代の戦争は持久的経済戦となるが、物資の貧弱、技術の低劣、主要輸出品目が生活必需品でない点で日本は致命的な弱点を負っているので、武力戦には勝てても持久的経済戦には勝てない、ということは日本には戦争をする資格がない、と畳み掛ける□( )■。
「斯くの如く戦争が機械化し、工業化し、経済力化したる現代に於ては、軍需原料の大部分を外国に仰ぐが如き他力本願の国防は、恰も外国の傭兵に依つて国を守ると同様、戦争国家としては致命的弱点を有せるものである。極端に評すれば斯くの如き国は独力戦争を為すの資格を欠けるもので、平時に如何に盛んに海陸の軍備を張るとも、畢竟是れ砂上の楼閣にすぎないのである。」
日本が経済的に致命的弱点を負っていることを素直に受け入れれば、英米に対する軍備は無意味となるし、非理不法をこちらがおこなわなければ通商関係の安全は確保されるではないか、という論法であった。
いっぽう吉野作造は、非戦・反戦というよりも、第一次大戦の戦争の性格そのものに内在する原因から、国家間の協同した状態、すなわち平和がくるという発想で論じていた□( )■。
「帝国主義的文明の波状たる今度の戦争は軍事行動を共にすると云う其の事自身に於て大いに共働の精神を発揮し、之が戦前に於ける世界人類の良心の煩悶に適応して此処 に戦の結果としては、どうしても国際主義が現はれざるを得ざる事になつた。」
長期的に多数の国が連合して戦うことは、たとえば戦争目的を単一の抽象化されたものに変えるような結果をもたらす。そこで得られた連合の精神は、いったん平和になれば、平和に向けた国際主義の精神として発揮されるはずだ、という論である。
さらに、戦争が総力戦の様相を呈すれは呈するほど、国家が国民に強いる犠牲も大きくなるので、国家は国民の自発的協力を喚起するために、国民の政治参加をさまざまなかたちで認めざををえなくなる。戦争か平和かということで、国民の意思が反映されやすくなるような政治形態は、平和をより招来しやすくなるという発想も生まれる□( )■。
「戦争も軍人と金持の力に之れ拠るの間は先づ楽なものだ。やがては金力と武力とでは間に合はなくなる。是に於て所謂国民総動員と云ふ現象が文字通りに仮借する所なく推し上つて来る。斯うなると戦争は最早や軍人の仕事でもなければ金持の仕事でもない。否少くとも此等の人の仕事たるよりは多くの意味に於て一般国民の仕事である。[中略]是に於て当局者は先に軍人と金持とに頭を下げた如く、今度はまた労働者の前に膝を屈しなければならない。」
水野広徳の発想−「非理不法」をこちらからおこなわない、そうすれば国家の安全=経済的安全は保障される−と、吉野作造の発想−総力戦それ自体が、外には国際主義を、内には国民の政治参加の増大をもたらさざるをえない−とは、ともに明るい展望を同時代人に与える反戦思想であったといえるだろう。
吉野の議論で同時に注目すべきなのは、日本社会に根強い、徴兵忌避を容認する気風を排除すべきだとの論文もさかんに書いていることである。欧州諸国の例をひきながら、西洋では兵役は国民の義務という意識的観念がもともと強いうえに、国家の方でも精神上物質上できるだけの便宜を兵役修了者(フランスでは兵役の義務を終えたものでなければ国会議員の被選挙権がないなど)に与えて、兵士となるべき個々の人々の感情を尊重していることを紹介し、日本の軍部も、国民が兵士になったばかりに失業したり、生業や学業に支障をきたすような制度や仕組みを積極的に改善すべきだ、「須らく実業社会と協定」しなければならないと提言していた□( )■。
吉野が憤懣やるかたない口調で論じているのは、日本の兵役制度で、貴族富豪の子息の事実上の兵役拒否を黙認している点であった(三二歳まで海外にある者は服役を命じない条項があった)。国民の先達たるべき上流階級の態度を放任しておくのは「不埒千万」であると吉野は怒る。吉野の義憤に陸軍が反応したわけではないだろうが、一九一八(大正七)年三月三〇日の改正で、外国に在るものの滞留中の猶予は、二〇歳前から外国に在るものに限ることとし、合法的に忌避するための外国行に歯止めをかけた。また、この改正では、中等学校(現在からいえば旧制)またはそれ以上の学校に在籍する学生の猶予制(それまでは満二八歳まで徴兵検査自体も猶予)を全廃した。従来は検査自体を猶予していたが、とにかく満二〇歳の適齢に達したものは全員検査を受け、合格者に対しては、卒業まではその学校のレベルに応じた年限だけ入営を延期する措置である徴集猶予に変えた□( )■のである。
このように陸軍当局が、徴兵令(一九二七年から兵役法)改正によって、外国留学の者、在学中の者に対する規制をしだいに強めていったために、徴兵忌避者およびその疑いのある者の数は、一九一二(大正元)年で四〇四七名を数えていたが、一九三二(昭和七)年には四五九名に激減している□( )■。忌避の場面が、逃亡か徴兵検査上での詐病に限られていく□( )■時代が到来したということである。個人の英雄的な奮闘以外のところで、国家と個人の間の緊張を、説得力ある言葉でもってひろく支えるに足る反戦思想は、水野や吉野の後には見いだすことができない。
註
□( )■山村基毅『戦争拒否一一人の日本人』(晶文社、一九八七年)一三七頁。
□( )■カント著、宇都宮芳明訳『永遠平和のために』(岩波書店、文庫、一九八五年)一六〜一七頁。
□( )■徴兵忌避とは、一八七三(明治六)年に初めて制定された徴兵令において定められた、受検・抽籖の上で満二〇歳の壮丁が果たすべき三カ年間の常備兵役義務を、不当な理由によって免れる行為を意味している。各時代の徴集率の変遷などについて、参照、吉田裕「日本の軍隊」、『岩波講座 日本通史』第一七巻(岩波書店、一九九四年)。また、菊池邦作『徴兵忌避の研究』(立風書房、一九七七年)は、徴兵忌避に関する実に貴重な統計、事例、資料を数多く載せている。
□( )■徳富健次郎『謀叛論』(岩波書店、文庫、一九七六年)三七頁。
□( )■幸徳秋水「トルストイ翁の非戦論を評す」、「週刊平民新聞」一九〇四年八月一四日号、林茂・西田長寿編『平民新聞論説集』(岩波書店、文庫、一九六一年)三二〜三六頁所収。
□( )■阿部知二『良心的兵役拒否の思想』(岩波書店、新書、一九六九年)。
□( )■同前書九頁。
□( )■加藤陽子『徴兵制と近代日本』(吉川弘文館、一九九六年)二二三頁。
□( )■「特別企画 日本人の兵役拒否と抵抗の体験」、『潮』一九七二年九月号一五四頁。
□( )■「兵役拒否と日本人」、「特別企画 日本人の兵役拒否と抵抗の体験」一一四頁所収。
□( )■同前論文一二五頁。
□( )■「二月の常会徹底事項説明資料」、「大政翼賛会ニ於ケル通牒綴 総務課」(3A/13-9/242、国立公文書館所蔵)所収。
□( )■牧原憲夫『客分と国民のあいだ−近代民衆の政治意識』(吉川弘文館、一九九八年)。
□( )■『山梨県史 資料編14 近現代1政治行政1』(一九九六年、山梨県)一六〇頁。一八七三年三月一一日の喩達。適宜句読点を付した。
□( )■この頃の徴兵令の免役条項は次のようなものだった。@身長五尺一寸未満者、不具廃疾者、A官吏、医科学生、陸海軍生徒、官公立学校生徒、外国留学者、B「一家ノ主人タル者」、嗣子、承祖の孫、独子独孫、養子、C「徒」以上の罪科者、などであった。また代人料二七〇円を上納した者は、常備・後備免役になった。また、徴兵忌避者への罰則規定がどのような変遷をたどったのか、ここであらましを述べておきたい。一八七九(明治一二)年の改正徴兵令では、忌避への処罰は常律で裁かれると規定(第七章第六六条)し、さらに徴集を忌避する者・届出を怠った者については「翌年廻ノ者ニ先タチ入営セシムヘシ」(同第六七条)とあり、懲罰的な徴集が初めてみられるようになる。一八八三(明治一六)年の改正において、これ以降の基本方針が確定したとみられる。懲罰的な徴集(第六章第四一条)、必要な届出を出さない者や一定の時間に参集しない者についての罰金(三円以上三〇円以下、同第四三条)、詐偽によって徴兵を忌避した者については、重禁錮と罰金(一月以上一年以下の重禁錮と三円以上三〇円以下の罰金、同第四四条)という三重のおさえによって、忌避をなくす手立てとしていた。
太平洋戦争前の基本的な兵役法であった、一九二七(昭和二)年制定の兵役法では、逃亡や詐偽の行為による忌避は三年以下の懲役(第六章第七四条)、入営期日に遅れ一〇日を過ぎた場合は六月以下の禁錮[戦時では五日を過ぎた時に一年以下の禁錮] (同七五条)、徴兵検査を受けなかった者は一〇〇円以下の罰金(同七六条)と規定されている。参照、前掲『徴兵制と近代日本』一〇二〜一〇三頁。
□( )■牧原憲夫『明治七年の大論争』(日本経済評論社、一九九〇年)。
□( )■同前書六一頁。
□( )■岡義武「日清戦争と当時における対外意識」、『岡義武著作集』第六巻(岩波書店、一九九三年)一六六頁。
□( )■幸徳秋水「非開戦論」、『幸徳秋水全集』第四巻(日本図書センター、一九八二年)四一五頁、一九〇三年六月一八日の社会主義協会演説会における演説筆記。
□( )■大江志乃夫『東アジア史としての日清戦争』(立風書房、一九九八年)五一二頁。
□( )■トルストイの反戦論の深い理解については、バーリン著、河合秀和訳『ハリネズミと狐 『戦争と平和』の歴史哲学』(岩波書店、文庫、一九九七年)。
□( )■前掲「トルストイ翁の非戦論を評す」。
□( )■『吉野作造選集』第五巻(岩波書店、一九九五年)八頁。『新人』一九〇四年三月号に掲載されたもの。
□( )■前掲『徴兵制と近代日本』四六*四八頁。
□( )■前掲『徴兵忌避の研究』。
□( )■戦争の惨禍については、山田朗『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館、一九九七年)、大江志乃夫『日露戦争と日本軍隊』(立風書房、一九八七年)、岡義武『岡義 武著作集』第二巻(岩波書店、一九九二年)、三谷太一郎『近代日本の戦争と政治』 (岩波書店、一九九七年)を参照。
□( )■ロジェ・カイヨワ、秋枝茂夫訳『戦争論』(法政大学出版局、一九七四年)一九〇頁。
□( )■水野広徳『無産階級と国防問題』(クララ社、一九二九年)六三頁。
□( )■吉野作造「戦争の基督教に及ぼせる影響」、『吉野作造選集』第一巻(岩波書店、一九九五年)一七四頁。『新人』一九一九年七月号に掲載されたもの。
□( )■吉野作造「国家生活の一新」、同前書二〇六頁。『中央公論』一九二〇年一月号に掲載されたもの。
□( )■吉野作造「国家中心主義個人中心主義」、同前書一五一〜一五四頁。『中央公論』一九一六年九月号に掲載されたもの。
□( )■前掲『徴兵制と近代日本』一六三〜一六五頁。
□( )■陸軍省『明治四十一年以降 徴兵検査諸統計図表』(一九三四年四月)。
□( )■陸軍省が毎年まとめていた『徴兵事務摘要』という文書では、「徴兵シ得ザル人員」の事由別の一覧を載せているが、そのなかで常に一位か二位の多数を占めていたのは、「外国在留」を理由とする者であった。一九二二(大正一一)年の統計では、三万六八五六名を占めている。そのなかには、本文で触れたような、貴族や富裕者の子弟による外国留学もあったが、海外移民によるものも多かった。忌避と移民の微妙な関係については、本稿で全くふれることができなかった。以下を参照されたい。木村健二「徴兵忌避と軍資金献納」、移民研究会編『戦争と日本人移民』(東洋書林、一九九七年)所収、粂井輝子『外国人をめぐる社会史 近代アメリカと日本人移民』(雄山閣、一九九五年)。